パンチの独り言

(2005年2月21日〜2月27日)
(喫煙、日光、自給、告発、逆向き、伝達、言語)



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2月27日(日)−言語

 国際社会で生き抜くためにとか、国際感覚を身に付けるためにとか、どうもこの国の人々は国際という言葉に弱いようだ。井の中の蛙の喩えを出されなくても、誰だって自分の生きてきた社会しか知らないものであり、見たことのないものを知ることは難しい。しかし、井の中さえ知らないまま、外の世界を知ってどうするのか。
 学校で外国のことを習わされたことに対して、不満を抱いた人は多いのではないだろうか。こんな行ったこともない国の、行く当てもない国のことを知ることが何の役に立つのだろうかと。将来のためと言われても、そんなこと子供にとって実感のあるものになるはずもないところへ、周囲から常に勉強に対して何とかの役にと言われ続けていると、ついそんなことを考えてしまう。近視眼的に物事を見るのも仕方のないところだから、将来、いつか、などと言われてもどうにもならないものだ。しかし、制度を考える人々にとっては起こるか起こらないかわからないものの方が大切なようで、将来必要になるはずだからと教える科目に入れられる。その典型が低学年での英語の導入なのではと思えるが、まさに井の中のような図式がそこに見え隠れしている。国際化のために必要という主張が通り、そんなことが行われようとすると、途端に反対意見が出てくる。基礎ができていないのに、更に上乗せしようとするのは危険だという意見が多かった。第二言語としての英語という意味のESL(English as a Second Language)の教育法の話を聞くかぎり、第一言語の確立の上にあるものに見えるが、こういう動きはそれとは違うところにありそうだからだろう。自分たちの言葉、この国では国語と呼ぶが、それをきちんと使えるようにするための方策は脇において、もう一つの方へというのでは何とも心もとないように見える。ただ、うまくいく人たちからすれば、まさにその機会を与えられることが大切なわけで成果が上がらないわけではないと思う。一部の人たちのために多くの人が損害を被るという観点を入れれば、うまくいく例だけを見るのもおかしなことだが。国語を第二言語とする人たちにとっての一番の障害は助詞の使い分けなのだそうだ。これは実際には第一言語とする人にも言えることで、意外なほどいい加減なままに過ごしてきて、ある時点で困ってしまった経験を持つ人は多い。たとえば「兎の耳は長い」という表現でも、人によっては「兎は耳が長い」と言うし、「兎の耳が長い」と言うこともあるかもしれない。どうも最後のものはしっくり来ないような感じがする。しかし、これが、そのあとに「理由」がつくとどうなるだろう。「兎の耳は長い理由」、「兎は耳が長い理由」、「兎の耳が長い理由」、さてどれがいいのか。普段からこんなことを考えるなどということはないだろうが、いざというときにとなることもあるかもしれない。でも、こんなことも考えないまま、文章の主語は述語はと英語と格闘するのであれば、どこか変な気がしてくる。てにをはの大切さを意識するのはそんなに頻繁にあることではないけれど、出鱈目なものを読んでみるとちょっと意識したくなるものだ。とにかく、実際には同じ中枢を使っているのだから、第一言語の確立がやはり大切なんだと思う。

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2月26日(土)−伝達

 自分の思いを相手に伝えることは難しい、とよく言われる。話すにしろ、書くにしろ、そこには言葉という媒体があり、それを介して思いを伝達する。これだけなら通じないことなどないはずだが、現実にはそうならないことの方が多い。誤解によって苦しんだ経験のある人々にとって、何故通じないのか理解できないのが一番辛いのかもしれない。
 通じない理由の一つは、言葉のもつ意味が一つとは限らないことだ。誰にでも同じ意味で通じる言葉は少なく、実際にはその場に応じて微妙に変化することの方が多い。そうなると話し手と聞き手、書き手と読み手、それぞれの置かれた立場や状況によって意味が変わってしまい、その違いが大きくなると誤解にまで至る。そういう可能性が始めから予想できていれば何とか準備もできるのだろうが、予期せぬことが起きるとどうにもならない。更に誤解が元でこちらに対する気持ちが変化すると、以前は通じていたことまで意思の疎通が図れなくなる。こうなると話はこじれるばかりで、勢いがついてしまったものは戻せなくなる。そんな経験を持つ人は少なくないと思うし、そのままよりを戻せなくなったこともあるのではないだろうか。言葉の使い方で注意しなければならないのは、こういう誤解の可能性であり、特にきちんと伝えねばならないことについては、その可能性を排除しなければならない。そんな役を仰せつかって、ある日突然それを考えねばならないことになったら大変である。ずっと前から、仕事とは無関係にそんなことを気に掛けておいたほうが良さそうだ。たぶん、そういうことの始まりは親子の会話辺りから始まるのではないだろうか。幼稚園であったこと、学校であったこと、外であったこと等々、家に戻って母親に話した経験を持つ人は多いと思うが、どんなやり取りをしたのかまで覚えている人はあまりいないだろう。悪い経験は記憶に留まりやすいようで、母親が聞き流していたとか、忙しくて怒られたとか、そんなことが残るのが精々なのではないだろうか。自分が聞く側に回ってみると、気がつくところもあり、そこでの訓練が子供の将来に何らかの影響を与えるのではないかと思えてくる。親子間での意思の疎通が言葉を介した伝達の始まりなのではないかと思えるからだ。さて、そう思いながら見てみると、おしゃべりな子供もそうでない子供も何とか自分の経験を親に伝えようと努力している。気長に聞いてやる必要もあるだろうし、わかりにくいところは問い掛けてやる必要もある。そんなやり取りを経ることで、子供たちは何とか自分の思いを相手に伝える術を身に付けていくのではないだろうか。親子の断絶は思春期を過ぎたころから問題視されるようになるが、それよりずっと前のこんな頃のちょっとした出来事が子供の将来を決めていることになるのかもしれない。教育を学校教育だけと決めつけている人々には何の意味ももたないことだろうが、家庭教育の始まりでの躾けと会話はこんなことから人の将来を決めるほど重要なものとなるような気がする。ただ、どうやればいいという完璧な方法があるわけではないから、どうしても手を出しにくく、自信を持って臨めない。そんなことからつい蔑ろにしてしまい勝ちだが、それは大きな間違いのように見える。完璧がないのは、対象が千差万別であるからであり、自分自身が他の誰とも一致しないように、子供たちもそれぞれに違っているのが当たり前なのだ。そんなところに自信たっぷりに臨める手法など存在しないのが当然なのである。ただ、親にはどう聞こえたか、そんなことを返すだけで、子供には経験になるのである。責任は重いのかも知れないが、それは必ずしも大変な作業とは限らないものである。他愛のない会話を楽しむためには、大変などという思いは邪魔なだけだろう。

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2月25日(金)−逆向き

 送別会があって、ローカル線に乗って出かけた。雪が降りそうな雲行きに少し心配しながらのお出かけだが、通勤通学の乗客に混じり、久し振りの列車の旅を楽しんだ。地方都市では交通機関の整備がなされていないところも多く、ここでも駅から会場まで徒歩で30分ほどかけて向かった。結局行きは降られなかったが、二次会が明ける頃にはチラチラ降っていた。
 飲みに出かけるわけだから、車を使うわけにも行かないし、帰りが遅くなるといってタクシーで戻るのはあまりにも経費がかかる。泊まりがけで行けばよいという助言もあったが、結局そのまま帰ることにした。交通網の発達の具合はこういうところで大きく響き、ちょっとした会に出かけるときもそんなことが気になってしまう。まあ、当然の出費と覚悟すればそれで済むのかも知れないが、貧乏人にとってはそんな覚悟があるはずもなく、ブツブツ呟きながら考えることになってしまう。そんなことはさておき、会は滞りなく進み、案の定、二次会、三次会とハシゴすることになってしまった。やっとのことで抜け出し、タクシーで市内を走っていたら、高架橋の下りに警察の事故処理車が止まっており、わずかな雪にも関わらず事故があったことを知らせていた。横をすり抜けた雰囲気からすると、正面衝突に見える。すぐ脇には中央分離帯があったから、おそらく対向車が車線を間違えて進入したために起きた事故だったのだろう。すれ違うときの相対速度は自分の車の速度の約二倍になるわけだから、そう簡単によけられるはずもない。高速道路でのそういう類いの事故の報道があるたびに、自分がそんな現場に居合わせたらどうなるかと考えてしまう。おそらく運だけに左右されるのではないだろうか。高速道路での進路の間違いの多くはサービスエリアなどの休憩所からの出方を間違えたために起きているようだ。多くの場合高齢者によるようだから、方向感覚の問題と標識の見落としが原因と思われる。最近は、逆走を防ぐための標識が増やされ、かえってややこしくしているところもあるようだが、まあ仕方ない。それに比べると一般道の場合は少し事情が違う。こういう逆走は、中央分離帯のある道路に限られており、交差する道路から右左折して進入してきた車が間違えて、という場合が多いようだ。特に細い道から分離帯のある広い道に出たときに間違いが起きるらしく、そういう間違いを起こさせないための工夫が必要なのかもしれない。注意喚起の方法があるのかどうかよくわからないが、うっかり間違えたではすまないから何とかしたほうがいいのだろう。話は変わるが、この国とあと一つ欧州の国だけが、車線の右左を他の国と異にしている。だから他の国で運転してきたすぐ後は、車線の間違いが増えるのだそうだ。それも、右左折の際に間違いが起きやすいと聞く。結局、曲がるときには意識がまた別のところにいってしまうためかも知れないが、この辺りの原因を探れば何か対策が見えてくるかもしれない。心理は簡単に解けるものではないかもしれないが。

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2月24日(木)−告発

 人間が集団で暮らすとき、互いに信頼するかどうかは大きな要素となる。どんな信頼の仕方があるのかこれといった形はないと思うが、たとえば信仰に根ざす信頼もあるだろうし、血縁関係からのものもあるだろう。一方で、それぞれの背景が大きく異なる集団でも、運命共同体のような存在となるとそれはまたそれで信頼が築かれるのかもしれない。
 企業はまさにその典型のような存在であり、それぞれの共通する利益に向かって構成員達は邁進する。順調に進むのであれば何も問題は起こらないのだろうが、商売を成り立たせるためには一筋縄で行かないこともあり、結局見る方向によっては不正と思えることも行われるだろう。その時、構成員一人ひとりはある意味の決断を迫られる。組織を守るために不正を見過ごすか、あるいは社会の一員として不正を指摘するか、どちらかになるのだと思う。前者は、結局そのまま突き進むわけだから、そこから起きる変化はないが、後者の方はいろんな形がありうる。企業内で指摘を繰り返し、組織自体が自ら正しい方向に向かうことに尽力するのが一つだろうし、もう一つは最近特に多くなっているが、内部告発という手段を使って、社会に訴えかけ、外力によって自分たちの姿を変えようとするものである。基本となるのは自浄努力のはずだが、どうも組織の力はそれを受け容れないことが多いようだ。結局、内部での努力は水の泡と化し、当事者たちはそのまま冷遇されるかあるいは自ら飛び出すかということになる。後から考えれば、もう少し持っていきようがあったのではとする向きもあるが、手遅れである。直接的な働きかけを選択し、騒動を大きくするだけになって、結局猛反発の中試みは頓挫してしまう。企業人に聞くかぎり、如何に上の方の人間に進言するかが重要な問題であり、それを巧くできない人々が増えているという。そんな中で、仕方なくとられる選択が内部告発ということだったのだろう。結果、不正は白日の下に晒され、企業は改善を迫られる。不正を正すという意味では、これで十分なのだろうが、実際には悲惨な後日談が語られることが多い。仕方ない選択としての内部告発と言われた時代はそれほどでもなかったが、最近は最初の選択としての告発が多くなり、組織の構成員すべてにとって青天の霹靂といった感じになっているようだ。組織のことを第一に考えるのであれば、内部からの告発ではなく、内部からの改善が優先されるべきという指摘もあり、告発者を勇気ある人と讚えるのは間違いという場合もあるとされる。せっかくの努力が水の泡になってはという思いから、一番効果的な方法を選択したのだという意見もあろうが、効果の程と結果の良し悪しは必ずしも一致しないだろう。告発後の扱いに対しても、いろんな意見があるだろうが、選択の正当性の吟味やら、その後の本人の行動によるところも大きく、一概に勇者扱いにするのもおかしい。だからと言って、冷遇すればいいというわけではなく、そこにはいろんな選択肢があるのだと思う。ただし、組織にとっての利益を優先させることは、社会的な責任においても、不正とならないかぎり許されることだろう。いろんな考え方があるのだろうが、内部告発だけを正義とすることの無いようにしたいものだ。

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2月23日(水)−自給

 生きるために必要なものと問われて、金と答える人が多いようだ。愛とか、夢とか、そんなことを答えようものなら、極楽蜻蛉のように扱われ、世間知らずと罵られそうな時代である。地獄の沙汰も金次第という言葉もあるが、まさにそのものといった気持ちを持つ人が増えているように思う。金の無い者の性なのか、はたまたその通りなのか、どうなのだろう。
 生きるために必要なものをどうやって手に入れるのかは、時代が変わるとともに変化してきたのだろう。ただし、貨幣制度が導入された後は、どんなものを相手にするにせよ、金さえあれば何とかなるということになった。その前は、と言えば、物々交換が基本であり、お互いにお互いの持ち物を値踏みし、それで交換比率を定めて、商談成立となっていた。この場合、市場価格などといった統一的な基準はなく、互いの都合で勝手に決めるという形式がとられていたのだろう。これはこれで合理的な方法であり、関係する人間の間で取り決めたことなのだから、妥当な決め方だったと言える。しかし、そういった交換が頻繁に行われ、関係する人間が多くなってくると、巧く調整することが中々難しくなる。そこで、市場価格のような基準を決め、そのために基準に見合う価値のものを一つ決めておくことで、全体を調整する方法が導入されたのだろう。そうなってくると、物を持つことも大切だが、それよりも金を持つことの方が大切に思えてくる。物の売買で金を稼ぐのが基本になっていた時代はどうということもなかったろうが、そうでない形で金を工面する人々が出てくると何となく雰囲気が変わってきた。金がない、金がないと毎日のように言っている人々にとって、金が有り余るほど有る人の姿は輝いて見えただろうし、そういう人が天下を牛耳ると行ったことも起こっていたのだろう。しかし、物が無い時代がやって来ると、状況は一変する。戦後のどさくさの頃には、闇市で法外な商売が成立していたばかりか、当時、物を手に入れるために物々交換を行った人も多かったと聞く。貨幣価値が不安定で、金の信用性が失われたためもあるが、一方で、物が足りない時代で、物を持つことの方が価値が高いから、ということもあったのだろう。貨幣制度が導入されるとそこから自給自足の基本が失われてしまう。自分に必要なものをすべて自分で作るのは難しくても、そこに物と物との交換があるだけならば、自給自足と言えるわけだが、金が間に入ってくるとそうも行かなくなる。この国でいつの時代も取り沙汰されるものに食糧自給の問題があるが、これはまさにそういう話なのではないだろうか。金持ちになった国にとって、食糧を自分たちで生産することは必要不可欠とは言えなくなる。金さえ積めば何でも手に入るのがそういう制度下の鉄則だからだ。しかし、このことについては不安を訴える人がたくさんいる。輸入に頼る制度では、何か起きた時にどうにもならなくなるというわけだ。何も起きないと思い込んでいる人にはまったく効果が上がらない警告だが、継続的に出されている。そんな中で、自給率の計算方法の見直しが検討されていると聞く。熱量基準から、価格基準にというものだが、どちらもかなりの難点を抱えている。生きるために必要なのは熱量だけでなく、栄養素であるべきだし、そこに価格が入り込むのはさらに不可思議である。いずれにしても、何故自給が必要なのかが理解されないかぎり、食生活の変更は起きないし、自給率の変化は引き起こせない。数字だけで遊ぶのは統計による分析を行う人々が陥りやすいことなのだが、ここでもそんな遊びが横行しそうだ。

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2月22日(火)−日光

 春遠からじとは、誰が詠んだものなのか思い出せないが、冬も終わりに近づいているというのに、まだまだ寒い朝を迎えている。通学の生徒の列を見ると、交換留学生とおぼしき金髪の女生徒がスカートの下にジャージのズボンをはいていて、はてこんなところを真似するのかと不思議に思った。何より合理性が大切というのかも知れないが。
 そんな寒い朝でも、段々日の光が強くなっているのを感じることがある。朝日が差し込んでくると、椅子の上に置いていたシャツに当たる。着替えの時、袖を通してみたら、ほんのり暖かさが伝わってくる。何とも言えない気持ちになるが、まさに春近しといった雰囲気なのである。お天道さまの有り難さを感じるときでもあるが、太陽の光のエネルギーの大きさを実感するときである。地球がこれだけの生き物を抱えて、ちゃんとやっていけるのは、地球そのものの環境によるところも大きいが、結局光というエネルギーを供給する太陽との関係が非常に大きく影響している。こんな偶然が訪れたからこそ、生命の誕生があったのだと主張する学者もいるし、その後の展開もこの環境だからこそのものだと言われている。果たして宇宙の中でこんなところが幾つあるのかわからないが、サイエンス・フィクションで取り上げられるような、様々な生物が棲む多数の星の存在があるようには思えてこない。面白いと思うのは、宇宙を観察している人々にとって、別の星から同じように自分たちが観察されているという感覚があるかどうか、そんなことなのだが、さて、誰に聞いていいものやら、そんなことを考えていたら学問などやっていけないと言われそうな気もする。とにかく、太陽の恵みをいただいて、この星の上の生き物たちは暮らしている。地底や海底などの日の光が当たらぬところに棲む生き物たちも、まわり回ってきた栄養素を頼りにしているものが多く、太陽と無関係なのはたぶん、海底火山のまわりで暮らす噴出する硫黄などを栄養にしている生き物だけなのではないだろうか。そんな生き物たちは星の隅っこに追いやられ、日の当たる場所には派手な生き物たちが闊歩している。こんなに色彩豊かな星は他にはないのではと思ったりもするが、見たことがないわけだから勝手な判断としか言い様がない。とにかく、冬の寒さが和らぎ、春の訪れが近づいてくると、当り前のことなのだろうが、お日さまの有り難みを強く感じるようになる。雪国では気温があまり上がらなくても、雪が融け始めることでそんな気がしてくるだろうし、そうでないところでも、日に当たっているだけでそんな気がしてくる。もうすぐそこまでやって来ている春、果たしてすんなりとくるのか、はたまた冬への逆戻りがあるのか、あんまり楽しみにはできないことだが。

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2月21日(月)−喫煙

 小学校での殺傷事件が伝えられているとき、ふと気になったことがある。何故そんな事件をとか、何が動機なのかとか、どうして関係のない人をとか、事件そのものに関することではなく、ある意味些細なことである。警察官が駆けつけたとき、犯人は職員室で煙草を吸っていた、と報じられていた。どういうわけか、これが気になったのである。
 未成年ということもあり、当然のことながら名前が報じられることはない。しかし、年齢だけははっきりと伝えられていた。事件の大きさからすれば、喫煙などはどうでもいいことであり、ただその情景をそのままに伝えただけなのかも知れないが、法律に違反していることだけは確かなのだ。犯罪の大きさで様々なことを判断するのが当り前のこととなっているようだが、実際には法律に反する行為は一様に罰という形で処分される。刑の重さが犯罪の重さによって変化するだけで、罪を犯していることには変わりがない。しかし、殺人は重大であり、未成年の喫煙は瑣末なことという感覚を持っている人が多いだろう。捜査が進行するに従って、動機もはっきりしなくなり、混迷の度合が大きくなるばかりだが、そこに至るまでの経過は些細なことから大きなことまで、すべてわかってくるわけもない。本人にさえわからない心理の変化もあるだろうし、周囲から見たらどうということもないことが理由になっているかもしれない。そうやって進めていく過程で、喫煙のきっかけは何の意味ももたないものとなるのだろうか。自分自身の経験に基づけば、大したことはないだろうと思うのは、現在喫煙中のごく普通の人々の常だろうと思う。また、喫煙していたが今は吸っていないという人も同じような心境なのではないだろうか。ただ、周囲が吸っていたからとか、格好良さそうに見えたからとか、大したことのない理由で始め、誰からも意見されずにそのまま時が流れた、ということが多いからだが、実際にはそういう放置されていること自体が大きく影響する境遇の子供もいるだろう。自立心に任せるとか、自己責任だからとか、訳のわからぬことを宣う親どもに、どれほどの思いがあるのか聞いてみたくなるのも、こんなときである。未成年者に禁じられている行為の多くは、体に悪いとか心の成長に悪いとか、そんなことを理由にしたものが多いが、それなら何故成年には問題ないのか、という素朴な疑問に答えようとする人はほとんどいない。禁じられていることを隠れて行うことが大人になるための一過程であるという人もいるが、どんなものだろう。そんなことが気になっていたら、高卒の、と言ってもまだ卒業していないはずだが、新人が喫煙で謹慎処分になったと報じられていた。新聞には、プロとして云々という本人の弁が載っていたようだが、これなどふざけているとしか思えない。未成年者の喫煙の禁止は、この国に住む人間に課せられた規則であり、その人の立場によって変わるものではない。人間として恥ずかしい行為をしたと言わないことが、どんな意味をもつのか、考えてみて欲しいものだ。自分が注目される立場の人間だから、こんな理不尽な処分を受けるのだと思うのは明らかにおかしな話だし、それを読んだ同年齢の人々が自分たちの立場はそれほどじゃないからいいんだと考えるのも身勝手な判断だろう。飲酒は、ギャンブルは、と話が続いていって、終わりのないものになりそうだが、とにかく些細なことだからと片付けてはいけないものなのではないか。

(since 2002/4/3)