ある自動車製造会社の調子が悪くなったとき、会社経営の手法を根本から見直すべきという動きが出てきて、結局それが上手く運んだことになっている。職を失った人、仕事を失った会社、そんなものが沢山あったはずだが、会社自体の持ち直しが第一だったのだから、大改造は成功したといえるのだろう。ただ、ここに来て翳りが見え始めているのは気になるところだが。
製造業にとって従業員の数は大きな問題なのだろう。人員の合理化を導入することによって、かなりの経費削減が行われるところを見るだけで、人件費が占める割合の大きさがよくわかる。実際には直接的に目に触れる人件費だけでなく、組み立てに使われる部品それぞれに含まれる人件費を考えに入れると、更なる合理化が期待できそうだが、その導入は回復不能な破壊を伴うことがあるので、さすがに手を付けないところが多いのではないだろうか。自動車製造に携われば当然知っているはずなのだろうが、普通の車に使われる部品の数は一体どのくらいあるのだろうか。万単位はありそうだが、さてどのくらいの桁なのか想像がつかない。それらそれぞれに製造する工場があり、下請けとして組立工場を支えているが、合理化を模索するときに切り捨てられたところや単価の値下げなどの負担を強いられたところが多かったようだ。それによって本社は回復したのだろうが、結局下請けの多くはその時の重荷が残ったまま、未だに苦しんでいるところが多いと聞く。そんな中で、本体に翳りが見えるとなるとさらに苦しい立場に追い込まれそうで、何とも悲惨な感じさえしてくる。そういう中で、先日の新聞にある部品製造会社の増産の話が載っていた。部品を作るといっても、単なる下請けというわけでなく、エンジンの心臓部とも言えるものを作っているから、上の話とはかなり違った事情にあるのだろう。それにしても、この時期に増産とはさらに車の売り上げが伸びるとでもいうのだろうか。部品の名前は、タイミングチェーンという。これだけでわかる人は車に詳しい人かあるいは一台の車をかなり長距離使ってきた人だろう。別の呼び名はタイミングベルトだが、本来は自転車のチェーンと同じような形をしているらしいので、前者の方が正しいのかもしれない。実物を見たことはないが、エンジンの弁を正しい時期に正しく動かすために必要な部品であり、これが破損するとまったく動かなくなるのだそうだ。一分間に何千回転もするエンジンの弁の動きを制御するわけだから、その動作は激しく、当然摩耗するものなのだそうで、通常十万キロ走行ごとに新品と交換する必要があると言われる。交換しないと、いつ何時止まってしまうかもしれないわけだから、車検などの際に必ず忠告されるようだ。その部品の増産が意味するところは、今走っている車の数が増すということだろう。新車に必要であるだけでなく、消耗品として中古車にも使われるわけだから、保有年数が増しても必要となる。その点が他の部品とは違う点で、消費者が新車に走ろうが中古車を買おうが使用量は変化しない。結局、車の台数分必要といった感じなのだろう。それにしても、この時期に増産ということは、さらに車が増えるということなのだろうか。渋滞に巻き込まれるたびに嫌な思いをしていると、これ以上悪化するのは御免という気がしてくるのだが。
暦の上でも春のはずが、どうもそうも行かないようだ。雪が舞うくらいなら珍しくもないが、積もるとなるとあまり例がないらしい。特に温暖化という話と相俟って、暖かくなっているという気分で見ると、さらに異常な雰囲気が漂う。欧米もそんな具合のようだから、やはり地球全体におかしなことが起きていると考えるべきなのだろう。だから特別に、もないのだが。
気温が上がらずとも暦の進み方の方が生き物たちには大切なようで、近くの天神様の梅の木が見事な花を咲かせている。紅梅、白梅ともに小さな木ばかりだが、可憐な花を咲かせて、春の訪れを告げているようだ。その中で、恒例の市が開かれていて、冬の間の閑散とした雰囲気とは異なり、やはり春なんだと感じさせるほどの人出で賑わっている。他にも近くの路地で同じ日に市が開かれているし、商店街にも露店というか骨董品やら古着を並べた店が並んでいる。通り抜けるときに嫌な思いをするのは、大通りが路上駐車で溢れるからで、元々大して広くない道に両方向の路駐の車があれば、行き交う車はすれ違うのがやっとという状態だからだ。路地は路地で狭すぎるから駐車することができないし、買い物に精を出す人々にとっては手に入れた商品をさっさと車に積み込みたいのだろうか、近くに駐車するのが一番なのだろう。それにしても、そんなこととは無関係な人々にとっては何とも迷惑なやり方である。でも、ひと月前には見られなかったほど人出を眺めていると、春を実感するとともに、この地域の活性もこの日ばかりは高いと言えるのかも知れないと思う。並べられているものはいつもと大差ないはずだし、たぶん訪れている人々も大して変わらない顔触れなんだと思う。しかし、ほんのたまにしか訪れない人にとっては寒い冬にわざわざやって来るよりも、天神の梅の花が咲いている時期にやって来るほうが良いのだろう。お目当ての品が見つかるかどうかはわからないが、まずは色々と見て回るのが楽しいのかもしれない。積もった雪が目に入ってきても、やはりそこは春である。風の冷たさも我慢できる程度と勝手に思い込んで、店から店へと歩いている様子だ。先日テレビで放映された地域活性化の方策についての番組では、いろんな手だてが提案されていたが、その中で最上位に推薦されていたのは地元の伝統産業との関わりを強調したものだった。成長期には工場誘致が活性化の最有力だったが、最近では雇用促進の効果も薄れ、そこに昔からあるものを活用しようとする動きが注目されるようになってきた。じり貧を脱するための特効薬になるかどうかはわからないが、少なくとも他に頼るより自分たちの手でという意気込みが伝わるだけ意味深いものなのかもしれない。すぐに出る効果より、じっくり芽生えるものの方が長続きするかもしれず、月に一度の市もそんな中で人を集める効果が見直されていると言えるのだろう。せっかく集まっても何も落としていかないのでは地元にとっては益がないように見えるが、まずはその場所を知ってもらうために必要なことと見るべきなのかもしれない。
人間にとって大切なことは何か、と聞かれたらどんな答えをするのだろう。まさかと思うが、金と言い出す人もいるだろうか。富という言い方に変えるかも知れないが、そんなことを思う人がいるのかもしれない。形のあるもの、残るものといった感覚なのかも知れないが、反対に愛といった無形のものを出す人もいるだろう。では、毎日のことではと聞かれたらどうだろう。
毎日こなしていることで、自分にとって大切なこと、などと改めて聞かれても答えに窮する人が多いのかも知れない。でも、簡単なことでも大切なことは多いのではないだろうか。たとえば、寝ることを毎日しないと体調を崩すことは誰でも知っていると思う。寝られないことによって、肉体の調子だけでなく、精神状態まで不安定になる人は多い。また、食べることはどうだろうか。食欲は人間の持つ欲のうちでもかなり基本的なものといわれているが、ただ腹を一杯にすることだけがそれを満たす方法でないこともわかっているのではないだろうか。効率ばかりが強調される世の中では熱量とか栄養素というものですべてを語ろうとする人がでているようだが、それなら何の味もついてないもので良いと言えるのだろうか。さすがに無味の食事を楽しもうとする人はいないだろうが、何が含まれるかということだけに着目している人にとっては、味なんてどうでも良いということになりかねない。実際、簡単な食事だけをとっている人々が沢山暮らしている国では、何とも味気ない生活を送っているとしか思えない雰囲気がある。若いうちは味なんてどうでも良いもの、と主張する人々がいるが、どうなのだろうかと思えてしまう。毎日毎日ハンバーガーでと言われたらどんな気持ちがするだろうか。嬉しいと言う人がいたとしても、どれくらい長続きするのかと心配になる。それに近い人々を何度か見かけたことがあるが、その後のことはわからない。まだ続けているかもしれないし、さすがに諦めたかもしれない。睡眠には食のような変化は期待できない。どちらかと言うと、十分か不十分かといった感覚の方が強いだろう。ただ、経験的には時間によるものというより、質によるところが大きいというべきだ。短い時間でも深い眠りならば、肉体的な調子も精神的な調子も良くなると言われる。たとえ長い睡眠をとったとしても、何らかの作用で眠りが浅く、しっかり寝ていなかったとなれば、目覚めが悪いだけでなく、その日一日の調子が上がらないことも多い。どうすれば眠りを深くできるのかという疑問が出てくるが、これについての答えはなさそうな気がする。ちょっとしたことだが、たとえば真暗闇で寝るようにしたほうが良いとか、静かな中で寝たほうが良いとか、そんなことを言う人もいるようだ。しかし、昼寝を少しとるのが良いという話があるところを見ると、明るさや騒音が問題になるとも思えない。やはり、人それぞれの体調やら体質やらによるところの方が大きいのだろう。また、薬の助けを借りるのが一番という話もあるが、これとて効果を上げられる人とそうでない人がいて、場合によっては逆効果ということもあるようだ。自然に十分な睡眠がとれるような環境というか生活習慣を身に付けることが一番大切なようで、そのためには何が必要なのか少し考えてみることが重要なのだろう。簡単に見つけられる人もいれば、大変な苦労をする人もいる。どこに違いがあるのか、今流行りの考え方からすれば、何とか障害という話に繋がるわけだが、それだけでは解決にはならないこともわかっておく必要がある。
春一番が吹き荒れたとはいえ、やっぱりまだ冷たい風が吹いている。しかし、一度暖かい風が入ってくると、木々もその様子を変え始めているようで、花の蕾が膨らんでいるものも多い。そろそろ歓迎されない蕾の方も膨らんできたようで、昨年暮れから騒がれている花粉の飛散が始まったようだ。既に症状が出ている人もいれば、いつ起きるのかと戦々恐々の向きもある。
脅され続けたせいか、今のところ大したことないかもしれないと少しホッとしている人も多いだろう。そういう声が聞こえてくると、早速声が大きくなり、警戒を呼びかけている。さて、どんなものかと思ったりするが、始まるまでは実感がないから何とも言えないわけだ。症状が出始めた人にとっては、どんなものなのだろうか、ちょっと聞いてみたい気もするが、自分には何が起きるのか、そこから想像することはできそうにもない。花粉症で毎度のことながら不思議になるのは、症状が出るための必要条件が必ずしも飛散量とは限らないと言われている点である。花粉が多くても大した症状が出ないという地域もあれば、少ないのに症状がひどくなるというところもある。別の地域に出かけてみるとこれがはっきりとわかることがあり、特に人口密集地域でその違いがはっきりとわかる。毎年そんなことが起きていて、今回もやはりそういう傾向があったから、やっぱりとしか言い様がないのだが、一方でその副作用的な要因への対策がずいぶん浸透しているはずなのにと思えるところもある。空中を漂う微粒子は何も花粉に限ったものではなく、特に人口密集地で問題となっていたのは、一部の車種のエンジンから吐きだされる排気ガスに含まれる微粒子であった。そのための対策が講じられて、かなりの効果を上げているといわれているが、実際にそれが実感できるほどにはなっていないようだ。今年に限っては花粉の量が非常に多いとされているから、比較できない部分もあるが、どうなのだろう。もう少し長い目で見ないととわかっていても、つい即効性の効果を期待してしまう。いずれにしても、そういう季節が訪れているわけで、一度症状が出始めてしまえば、これがいつまで続くのかが一番の問題だろう。辛い症状を抱えている人間にとっては、それを抑える対策を講じるのはもちろんのことだが、それがいつまで続くのかもかなり大きな問題である。脅されれば脅されるほど、それが大きくなり、心配が膨らんでくる。寒さが続いてくれるのは実際にはその点からすれば歓迎すべきことなのだが、それは終わりを告げるものではないだけに、パッと散って、パッと終わってとまるで桜の花のようなことを期待したくもなるわけだ。思ったほどの症状が出てこないのも気になるところだが、それよりも重要なことはやはりいつまで続くのかといったことのような気がする。
外国人にとって働きにくい環境という話が何かの訴訟の判決の後に流れていた。それとは別に現在から将来に渡っての労働力不足を懸念して、外国人の入国を容易にしようとする動きがある。かと思えば、大学などの学校に通う留学生の不法就労の問題が深刻化しており、学校の対処が問われているという。すべて、外国との格差から起きる問題なのだろう。
その中でも最近特に力が入れられているように見えるのは、労働力不足への対策についてのものだ。様々な職場で労働者が不足し、それを補うために外国人の雇用を促進しようというものだが、その一方で失業率は横ばいとなっていて、職の不足が問題化したままである。この傾向はかなり長い期間続いていて、労働力不足と職不足が同時に存在するという何とも不思議な図式になっている。十把一絡げにしたからこうなるわけで、実際には人が不足している職場と職が不足している職場がまったく違っているために、こんなことが起きている。もう少し詳しくいえば、会社単位でも、その中の職種によって人が余っているところと足りないところがあるわけだ。リストラされるよりはましということで、別の部署に移ることを渋々受け容れる人もいれば、そんなことをするよりは転職を考えたほうが良いと決断して、去っていく人もいる。去った人が書類上は失業者になり、その人の希望にかなう職が見つからなければ、失業の状態が続くわけだ。また、新卒の人々も自分たちの希望した職が見つからねば、そのまま職探しを続けるわけで、これもまた失業者と分類される。そんな訳で失業率の高い状態が続くのだろう。一方で、そういう人々から嫌われた職種はといえば、誰も就こうとする人がいないから人不足の状態が続く。どうしても必要とされるからこそ、募集が続けられるわけだが、きついとか賃金が安いとか様々な条件がおりあわず、結局のところ失業しているほうがましという判断がなされるのだろう。こんな組み合わせが継続すれば、上で書いたようなことは現実に起こる。そして、その対策のための方策が外からの労働力の導入となるわけだ。確かに、賃金格差が十分にある国の間ではこんなことが起きる。海の向こうでは陸続きになった国からの不法侵入者が絶えず、取締に躍起になっているが、一方で彼らの労働力を歓迎する人々がいて、結局中途半端なことしかできないようだ。その状態のまま、制度を変えて彼らを受け入れるようにしたらという考え方もあるようだが、中々難しいらしい。そういう状況を見ているからか、こちらではその先をとって、制度を決めることで労働力を確保しようとしているのだろう。まあ、それも一つの策なのだろうが、それにしても労働力不足どころか、職種に限らず労働に加わらない人々の増加が問題となっている国で、こんなことが行われていいのかと思ったりもする。働き手が見つからないといっているそばで、働きたくないという人々がうろうろしている。この状況はどこかが歪んでいるように思えてしまう。あっちこっちと対策ばかりで忙しいのかも知れないが、もう少し全体を見渡した話が出てきてもいいのではないだろうか。
豊かな時代に生活していることで起きる弊害の一つに、肥満の問題があるだろう。海の向こうでは、生活習慣の様々な問題を取り上げ、それにうまく対処できなければ管理者として失格と言われているようだ。飽食の時代を迎え、この国でも以前には見られなかった体型の人々を見かけるようになった。あちらの問題と思っていたのが、ついにこっちにやって来たわけだ。
太り過ぎる人々の抱える問題の一つに過食がある。消費するより多くのものを取り入れれば溜まるのも無理はなく、お金の流れなら歓迎する向きもあるだろうが、脂肪とか肉とかいった話になってしまっては困ることも多いだろう。なるべく食べる量を減らす努力をするのだけれども、すぐには効果は現れず、結局挫折してしまうことも多い。減らすことによって空腹を招き、それに耐えられなくなって挫折という図式があるのだろう。それに対して熱量の低いものを多く食べることで、空腹感を引き起こさずに何とかしようとする話もあり、最近はこちらの方が主流になっているようだ。蒟蒻はその代表のようで、いろんなところで利用されているし、そういう素材でなくても、ある程度制御された食事を一定の期間摂取することで体重の減少を図ろうとする商品が巷に溢れている。これらはすべて摂取量を制限することによるものだが、一方で消費量を引き上げようとする努力もあるようだ。そちらを見ていて面白いと思うのは、努力の割に量が増えないことである。走ればどのくらいの熱量の消費、歩けば、泳げば、動けば、といった具合に、それぞれの運動で単位量に対して熱量の消費量を示した表が出されているようだが、その数値の低さには驚かされる。これは食べ物から摂取できる熱量との比較から来ているもので、数値そのものが低いとか高いとかすぐにわかるものではない。たとえばご飯一杯を食べるとして、その熱量を運動で消費しようとしたらどれほど動かねばならないか、それを知るとびっくりしてしまう。具体的な数値はここでは出せないけれども、その比較は運動による体重制限の難しさを表しているように思える。それにしても、毎日それほど運動していないのに、ある一定の熱量の摂取が必要となっているのだろうか。それを考えずに話を進めていることに無理があるのではないだろうか。実際には、冬で気温が10℃にも満たないときでも、体温は36℃程度はある。体重と同じ重さの水の温度を26℃上げようとしたら、一体どれほどの熱量が必要となるか考えてみると、大量の熱量の摂取の意味がわかってきそうだ。一グラムの水の温度を一℃上げるのに一カロリーだったろうか、そうだとして計算してみてもかなりの量である。それも一日中そういう状態を保たねばならないのだから、大変なものだ。着衣なしの状態でもないし、室温は気温ほど低くないから、こういう話がそのまま通じるわけでもないが、こんな具合に考えると熱量の必要性が理解できそうである。一方で、それに比べて一時的な運動など大したことではないというのがわかるだろう。となれば、運動だけで何とかしようとしたら、長距離選手のように毎日何十キロも走らねばならないことがやっと理解できるし、それより食べる量を減らす努力の方が実を結びやすいこともわかる。でも、たとえば温泉旅館で出される豪華で大量の食事に抵抗するのは難しいようだ。欲というのはそんなものと思えばそれまでなんだけれど。
社会に生きる者として、その流れに乗り遅れるのは耐えられないことなのだろうか。流行という一言がすべてを決めるようなところもあって、うまく波に乗れないものにとっては辛いと思える。それでもヨタヨタと先頭を行く人のずっと後をついていき、何とか話題やら雰囲気やらを理解して、乗り遅れないようにしている人が沢山いるように感じられる。
流行の先端なんて、誰にでもいられる場所ではない。結局のところ、それまでに無かったものとか、誰もやらなかったものというわけだから、既存のものから見れば異端に違いないわけだから。後をついていくと思っていたら、いつの間にか先頭にいたという人がいるかどうかわからないが、まさにどちらが先端にあるのかはっきりしないところに流行の難しさがあるようだ。最近は仕掛け人の存在が特に注目されるようになってしまったから、流行そのものを作り出す人よりもその周囲で方向を定める人の方が重要であるように思われているが、どちらが欠けてもうまくいかなくなりそうな感じである。どんなに古いものにも新しいものが少しずつかも知れないが入ってくるもので、じっくり見比べてみると以前とは違うと気がつくものも多い。それが皆の中に入るようになれば流行となるわけだが、そうならずに単に初めてという称号が与えられるだけのものも多い。このところ、報道関係を賑わせている放送関係企業の株の売買の話も、以前であればあんなに注目されることもなかっただろう。当事者の持つ話題性と、その手法の特異性などから注目が集まってしまい、さらには同業者達の危機感かどうか、そんな感覚が加わって毎日報道されている。特に注目されているのは、該当する企業の株の保有割合がどうなるかということで、有り体に言えば乗っ取りがうまくいくかどうかである。業務提携とか、そんなきれい事を並べる向きもあるが、そのために必要不可欠な手段とは思えないし、ここまでの経過を見ても何とも不思議な感じがする。何をどうしたいのか、本当のところは言えないのが企業経営の基本なのだろうが、以前のように裏で暗躍するのが当り前だった時代と違い、最近は何しろすべてが表面化してしまう。その上、それ自体を利用してうまく立ち回ろうとする人々が暗躍どころかわざと明るいところで活躍するから、何とも訳がわからなくなる。古い体質と言われようが、法的不備がどうこうと言われようが、とにかくそこには何らかの目的があるわけで、それを成就するために努力しているのだろう。大いに報道の威力を活用すればいいのだろうが、その度に引き合いに出される株主云々の件には辟易としてくる人もいるのではないだろうか。どちらみち、自分たちの利益を第一と考えているに決まっているわけで、そんなところで関係のないものを引っ張り出されては困ってしまう。いずれにしてもどこかで決められるものだろうから、それまでゆっくり待つしかない。見守るというほどのことも無いのかも、と考える向きも多いのではないかと思うが、さて、どんな結末を迎えるのやら。