少しは気にしているからだろうか、このところ落語の話題がよく聞こえてきているように思う。昨年だったか、銀座周辺で落語家が集まった大々的な行事が開かれるという話が流れていたし、人間国宝に選ばれる人も出てきた。歌舞伎や能狂言などと比べたら歴史は短いのかも知れないが、この国独自の文化の一つなのだから、もっと注目されてよいはずだ。
絵画や文学のように、そのものが形として残る文化は伝承という点では災害などで失われることを除けば大した心配もいらないのかもしれない。しかし、人間が伝える文化はそうも行かないのだろう。人間国宝がいくら出ても、その芸はその人だけのものであり、次代にそのまま受け継がれるわけでもない。一度絶えてしまったらもう取り返しがつかないとよく言われるが、落語はまさにその一つに数えられるものだろう。江戸落語は今ちょうど新たな伝統が始まろうとしている時期のようで、正蔵の名前が受け継がれようとしている。銀座でのイベントでもわかるように、一時協会内の内紛が取り沙汰されたように勢いを無くしていたものが少しずつ復活の兆しを見せ始めているようだ。高座に足を運んだこともないから、偉そうなことは言えないがほんのたまにラジオから流れてくる噺に耳を傾ける程度のファンである。上方落語については江戸に比べたらずっと勢いがある感じがするが、それでも注目の的だった噺家が自殺してしまうなどくらい話題もあった。彼独特の芸風はかなり多くの人々の共感を呼び、一時は凄い勢いだった。英語による落語を試みるなど、新境地の開拓にも熱心だったのに、と思う人は多いだろうが、その一方で精神的に苦しんでいたという話が流れてくると、表からだけではわからぬ苦労があるのだろうと思えてくる。その上方落語も戦後には悲惨な状況に追い込まれていたようだ。歴史などよくわからないが、春団治が活躍した時代にはずいぶん人気を集めていたようだ。その話は小説にもなっているくらいだから、まさにそんな状態だったのだろう。勢いを無くしてしまったら途絶えるのもさほど難しいことではなくなる。その中で復活に精を出していたのが、現在人間国宝になっている落語家ともう一人文枝と呼ばれる人物だったと新聞が伝えていた。何故今ごろそんな話題が流れてくるかといえば、文枝の死亡記事が出たからである。時々流れていたテレビの落語での姿を思い出すが、当時は小文枝と呼ばれていたのだと思う。大きな前歯と何とも言えない人懐っこい雰囲気が独特の噺家だった。関西だけで流されていた素人演芸会での審査員の姿も思い出される。噺をしているときと違って厳しい意見をさらりと言ってしまうところからすると、かなり厳しい人なのかもと思っていた。米朝にしても文枝にしても、勢いを無くしたところから盛り返したわけだから、苦労もしたからなのだろうか。東で新しい時代の始まりが華々しく告げられているときに、西では一つの時代の終わりを迎えている。人の世はそんなものだと言ってしまえばそれまでだが、まさに人が伝える伝統の芸にはそんな流れがあるということなのだろう。
いよいよなのか、ついになのか、そろそろスギ花粉の飛散が急増しているようだ。車のガラスについた埃は砂によるものなのかはたまた花粉なのかパッと見ただけではわからないが、どうも例のもののように見える。ほんの数日前の暖かさにつられて飛び始めたものだろうから、まだ頂点を迎えるほどではないが、既に悲惨な状態になりつつある。
それにしても、人間の反応とは不思議なものだ。花粉の飛散量が一日のうちでそれほど変化するはずはないと思っていても、午前中に何ともなかった目や鼻が午後には異常を訴えてくる。はじめのうちは何となく目の回りがごわごわするなあといった程度だが、そのうち痒みが襲ってきて、そこから先はいつもと同じように悪化の一途を辿る。鼻の方はそれよりも少し遅れる感じもするが、鼻水が止まらなくなり、そこから先はまさに悲惨な姿を晒すことになる。一度始まってしまうと中々止めることはできず、応急処置的な対処をするだけでこの時期を過ごすしかない。また、痒みも鼻水も血管の拡張と大いに関係するから、それを促すような行為は控えたほうがいい。ただ、そんなことを言っても酒の席からお呼びがかかれば断るわけにも行かない。一時的にひどくなる症状を周囲の人々に見せることで、次回はよろしくといった伝言を伝えるのがやっとである。それとは別に、同じように飛散しているように見えても、地域によって症状の出方が異なるのも気になるところだ。おそらく大気汚染との関連もあるのだろうが、もう一つ気になるのはスギ花粉の種類によるところがあるのではないかということである。よくよく聞いてみると、スギには50近くの品種があるそうで、それぞれに花粉も異なっているかもしれないとのことだ。だからこそ最近話題になっている花粉をほとんど作らない品種が意外なほど簡単に見つかったのではないだろうか。それとは逆に、アレルギー反応を引き起こしやすい花粉とそうでないものがあってもよさそうである。もしもそうだとしたら、地域による違いは単に大気汚染の問題だけでなく、そこに植えられたスギの品種の違いによるところも大きくなるだろう。こんなことはそう簡単にわかるはずもないが、機会あるごとに飛び回っているとそれぞれの都市で自分自身の反応が違っていることに気づく。そんなところからひょっとしてと思ったわけだが、さて調べる気が起こるかといえばそんなことはない。毎年のように症状が出たら、それに対して効果をもつ薬の服用を始めるという順序を守るだけのことである。耳鼻科やアレルギー内科を訪問する気もないし、どちらみち同じようなものなら市販の薬で誤魔化せばいいと思っている。この時期に特に気になることは、いつまでこれが続くのかということだけで、どうやったら楽になれるかはあまり問題ではない。そこまでやる気がないと言ってしまえばそれまでだが、まさにその通りなのである。症状を悪化させないために晩酌を控え、毎朝の服薬を欠かさないようにする。できることは精々そんなものだと思う。まあ、もっと積極的に取り組む人も世の中に入るのだろうけれど。
こういうところを覗く人の中に、生活が苦しいという人はいないと思うが、景気の動向を気にする人は多いと思う。毎日の生活に困窮するほどに至るのは、その経験がないものにとっては想像の域を超えているからさっぱりわからない。仕事が無いという人でも何とかなるのではと思うのは甘い考えと言われたらその通りだろう。でも何とか支えられているのではとも思うのだが。
景気の動向はいろんな指標で計られる。それぞれに違う動きをすることもあり、分析に携わる人によって、また分析の目的により、異なる指標を用いて違う結論を導く。同じ状況を対象としているのだから結果は同じになるはずと考えるのは大きな間違いで、ちょっとした数字の操作や取捨選択によってまるで反対の結論を導くことも可能となる。現状に関してはそれぞれの人の持つ印象が主体となるが、これとてもまったく違う見方が存在するのだから困ったものである。結局のところ、何が真実などと論じてみても始まらないと言うべきなのかもしれない。しかしそれでは分析屋は仕事を失ってしまうから、何しろその時の雰囲気を読み取ってなるべく多くの人の共感を呼ぶ結果を導くことが大切だろうし、さらにはそれが未来予測に繋がるようなら万万歳だろう。逆に言えば、結果を示してみてそれがどうなるのか自分でもわからないといった感じなのであり、そんなものに一喜一憂するのはどうかと思う。そんなことを言っていても始まらないのは、報道やら政治やらがそういう指標を材料にして、様々なことを語るからであり、それに振り回される投資家も沢山いるのだろう。景気動向の指標としてよく使われるものに設備投資がある。新しい設備を導入するためには当然のことながらそれなりの業績を上げねばならず、さらには先行きの見通しが立っていることが条件となると言われている。だから、景気動向の読みとしてかなり有力な指標となるわけだ。しかし、好不況の波の底や天井という転換点ではこういう指標は役に立たない。上昇するならそのまま、下降するならそのままといった具合に一方向への変化は経営者にとっても読みやすいから、多数の意見として現れてくる。しかし、転換点では、それぞれの企業によって状況がかなり異なり、あっち向きこっち向きとまったく違う方を向く経営者が出てきて、判断が困難となる。いずれにしても、業績についても同じような傾向があるのだから、指標は未来を予測するもののように見えて、実際には現状、あるいは経営者の現在の心境しか表さないものなのかもしれない。企業にとってのもう一つの投資対象として、人材があると思う。新規採用の動向はその時の景気を計るものとなるし、さらには将来に渡っての先行投資的な意味合いもあるから、動向を計る指標として使えるのだろう。このところ悪化の一途を辿っていた内定率もここ数年盛り返してきたようで、学校に通う人々にとっては明るい話題となっているようだ。とは言え、大卒で八割程度の人しか就職できないのは不十分と見る向きもあるが、これはどんなものだろうか。あとの二割はどんな人々なのか、そういう分析なしに論じるのは危ないような気がする。八割の中にもひと月ほどで離職する人もいて、実際にどれほどの人材が働き手として有用なのかは別の話である。いずれにしても、昨年辺りから大企業だけでなく中小も採用に乗りだしたようで、大卒だけでなく高卒の内定率も好転しているようだ。これが本当に景気の好転を表すと実感できるのは、これまた人それぞれに違うようだが。
待ち合わせの時間に必ず遅れてくる人がいる。昔は逢引といえば、女は遅れてくるものであり、男が待つと相場が決まっていたような気がするが、デートと言われるようになってから少しずつ変化しているようだ。それでも、平等などと言われつつ、この図式は変化せずという話も聞く。待つ方、待たせる方、それぞれに事情があるのだろうけれども。
約束の時間を守るかどうかは、国それぞれの習慣によるという話はよく聞く。守るのが当然かどうかさえ、国によっては事情が違うようなので、守ることを当り前と考える人がそんなことは瑣末と考える国に出向くと、いろんな問題が生じるようだ。小さい頃に、英国、独国の約束に関する習慣の話を聞いたことがある。それはつまり、英国紳士は約束の時間に場所に現れるのに対し、独逸人は時間前に現地に着くようにして、そこで時間を潰すという話である。どちらも時間厳守という意味では変わりがないのだが、それに対する心構えが異なるという意味なのだろう。その時、この国ではという話もあったような気がするが、すっかり忘れてしまった。同じように守るのだが、どこか微妙に違っていたような気がする。たぶん、独逸人はその場で時間を潰すようなことをしないのに対して、この国の人々はそこで時間前から待つといったものだったのだと思う。現れる相手に対する配慮が違うという意味だったのだろうか。いずれにしても、そこには時間厳守という習慣が根づいた国の話があった。当時に比べて今はどんな状況だろうか。守らねばならないことには変わりがないのだが、そこに理由があれば許されるといった考え方に少し違いがありそうだ。以前は約束は何事にも優先するものであり、大仰に言えば万難を排してといった雰囲気があった。ところが最近ではちゃんとした理由があれば、遅れるのもやむなしといった感じがあるようだ。約束は以前から決まっているのだから、突然の出来事を除けばそれに向かって準備するのが当り前だったのに対して、仕事が終わらなかったからというものの優先順位が何事にも勝るといったところだろうか。そもそもこういうところに優先順位が入ること自体に疑問を抱く人もいるのではないだろうか。約束は約束であり、それが達成されなければ、そこには約束そのものの存在がないことになるといった考え方をする人々の中には、そんなことを思う人もいるだろう。相手を待たせることへの配慮からすれば当然のことと思われたのは、既に過去の考え方になっているようだ。大学時代、英会話教室の生徒達で先生を招いてパーティを催したときのこと、開始時刻の表示をfrom 7 pmとしていたら、先生は少し遅れて現れた。理由はfromでは、から始まるという意味になり、その後ならばいつ来てもいいといった意味になるからだそうで、もし、時間厳守という意味にしたいなら、at 7 pmとすべきなのだそうだ。なるほどと思いつつ、言葉による違いを認識したものだ。それにしても、この国では、からと言えばやはりその時間に現れるべきだろうから、そこら辺の事情からして違うというべきなのだろう。
騙されたり、間違えたり、世の中には自分に非がないまま、何かしらの被害を受けてもそのまま泣き寝入りしてしまう人がいる。騙されるのは自分が悪いとか、間違えたのは自分だからとか、その時の理由のほとんどはそんなものなのだろうが、他の人から見るととてもそうとは思えないものまで、そんな形で片付けてしまうようだ。忘れたいという気持ちもあるのだろう。
本人が諦めをつけたのだからそれで良いと言えるのだろうが、同じような被害を多数の人が受けているとなるとそうも行かないだろう。オレオレ改め振り込め詐欺はその一つだろうし、何とか商法と言われるものの多くもそうである。また、老人が布団やら健康グッズやらを売りつけられる話もその一つと思える。騙したやつの勝ち、騙されるやつの負け、という結論の導き方はある観点からすれば正しいことなのだが、法治国家としてはそのまま放置するのはおかしな話である。何でもかんでも金が第一であり、それを手に入れるためなら手段は選ばずともよいとする風潮が一時かなりの勢いで広がっていたが、集まるところがあれば当然無くなるところがあるわけで、次郎吉の時代でも貧乏人に施しが与えられたという話だが、それはあくどい商売で稼いだ商人などから奪った金だったのだ。手段を選ばぬということは、結局弱者はあくまでも弱者のままであるというわけで、財産の上でも地位の上でもそんな区分がなされることになる。さすがにこれほどあくどいやり方が横行するようになると行政も動かざるを得ず、様々な方策が提出されているが、根本のところで罪と罰の均衡がとれていないというのでは、何の効力も発揮できないとなってしまうようだ。こういうのはすべてかなり極端なものばかりだが、実際にはそんなものよりも悪意はないが、制度上の問題や扱い方の問題で被害を受ける場合も多い。公の施設の利用や税金の問題、さらには金融機関の問題など、そんな例が増えており、世の中に歪みが溜まっている証かと思えてくる。そんなものでなくても、元々国民たるもの公的機関のやることには全幅の信頼をおいていたわけで、それが裏切られたとき何とも言えない憤りを感じるのではないだろうか。公的なものとは言えないが、以前取り上げた高速道路の通行料金の支払いについての話なども、その一例と言えるだろう。色々と便利な仕組みを導入することにより、利用者に便宜を図ろうとする動きは歓迎すべきだが、実際にはすべての場合を検討しきれずに導入してしまうから、矛盾が起きて問題が噴出する。利用者がすべてそのまま知らない顔をすれば、問題は放置されたままになり、何かの解決が図られることもない。苦情を言う人が現れねば何も変わらないというのは制度上の不備と指摘する人もいるが、実際にははじめから完璧を期すことは難しく、やはり双方の駆け引きのようなものが必要なのではないか。その手の話で最近気づいたのは、ある都市高速を利用したときにゲートを抜けていないのに車内の機械が反応音を出す現象である。課金される場合には金額まで音声で提示されるのに対し、この場合にははじめの反応音だけだったから問題ないと思っていたが、別の情報では実際に重複課金された例があると聞く。これも仕組みの上で検証するようにすれば簡単に防げるはずだが、それはなかったようだ。同じような話が銀行のATMであったというから、同時あるいは非常に短い時間に多数の作業が行われることに対する疑いが想定されていないことがよくわかる。結局、人の能力はそれほどでもないという想定そのものが必要なのかもしれない。
狼が来た、と叫んで村人を騙し、その慌てぶりを楽しんでいた子供が、本当に狼がやって来たときに、同じように叫んでも、誰も助けに来てくれず襲われてしまうという話を、小さい頃に読んだことや聞いたことがある人は多いだろう。題名は忘れてしまったが、子供たちに対する戒めとして使われていた寓話なのだろうか、最近はどうなっているのやら。
これとよく似た話は大人になっても聞こえてくるわけで、子供に対する戒めが大した効果を持たないようだということがわかってくる。危険を察知する能力は障害の多い世の中を生き抜くために重要とされるが、自分自身で察知することのできない人々にとっては、そういう情報を流してくれる人の存在が大きい。しかし、世の中に流れている予知情報の多くはガセネタと呼ばれるものだし、信用できる人物が出したものでも時には外れることがある。そういうものに何度か接していると、何となく村人たちの気持ちが解るような気がしてくる。最初は本心から信じ込んだとしても、それが外れるたびに徐々に疑いが強くなり、最後にはまったく信じられなくなる。まさにそういった流れがあるように見えるわけだ。株価や為替の動向について、将来の動きを予測する人々がいるが、その多くは当たらずとも遠からずといった雰囲気のものを提示している。そうしておけば、信頼度はあまり上がらないけれども、一方で信用を無くしてしまうほどのこともないからだ。しかし、そんなアナリストばかりでは何事も動かないわけで、どこかで大きな賭けにでる必要が出てくることもあるのだろう。はじめの頃にそういう勝負に勝った人々に限って、その後も勝負を続ける羽目に陥り、結局信頼を失うことになる場合も多い。この場合は、はじめに当たりがあるから狼少年とは違ったものだが、信用を徐々に失っていくという図式は似ているように思える。まあ、何度も同じように外すというのはあまりないことに違いないのだが、人によっては毎回同じような分析をし、同じような将来を予測する場合があるから、これはまさに狼の話とそっくりとなる。時代が上手く流れてくれれば、そのうちの何度かは当たりという結果になるのだが、よく考えればいつも同じ話をするということで、狼少年とは違った形で信用を無くすのではないだろうか。このところ乗っ取りやら買収やらといった話題が市場を賑わしており、それに対して司法の判断が仰がれることになったと報じられていた。その報道の中で面白いと思ったのは、こういうところで市場の閉鎖性が強調されるような判断がなされると、海外の投資家が去ってしまうという警告を流している人がいたことである。確かに、そんなことが起きる可能性がないわけでもないが、投資家にとって重要なのは儲かるかどうかだけなのだから、制度がどうであれ自分たちの投資に見合う儲けがもたらされればいいのではないだろうか。こういう話が出てくるたびに、市場離れといった表現を使って警告する人々にとっては、何が論点なのかよくわからないが、もう少し冷静に分析して欲しいと思う人は多いのではないだろうか。そういう声だけを電波に乗せて流す人々の神経も理解できないが、今回の騒動が自分たちの仲間内で起きていることをあまり意識していない言動が多いのも気になることである。狼はどこにもおらず、少年ばかりならいいのかも知れないが、どこかに突然本物の狼が現れたらどうなるのだろう。
世界標準とか、グローバル化とか、世界全体を一つの単位として扱おうとする動きが目立っている。ただし、これは先進国に限った話であり、その範疇に入る国が率先して決めているだけのことで、すべての国がそれに従えるわけでもなく、また従うわけでもない。ただ、自分たちにとってより良いものを作ろうとしているだけという意見もあるくらいだ。
言葉でも統一化はある程度図られており、英語が標準とされることがほとんどである。意思疎通を図るときに、微妙な意味が通じなければ困ることも多いから、共通言語の使用は重要である。しかし、日常的に使用する言語をすべてそれにすべきかどうかは、別の形で論じられるべきことだろう。植民地時代に、英語や仏語の使用を強いられた地域が沢山あったが、その多くは自分たち独自の言語を守り続けてきた。高等教育を受ける場合に共通言語を使用するのは、教材にまで手が及ばないからで、そういう状態におかれていない国はほんの一握りに過ぎない。それでも基本的なところでは自国語を守ろうとする動きが強まっていて、たとえばイヌイットの社会では多くの場合英語による教育が施されているが、彼ら自身の言語を教える時間を設けている。これは見方を変えれば、ある世代にその能力の欠如が顕著となり、世代継承を基本とするからにはその言語の消滅が予期されたからだろう。自分たちの言語を持ち続けるのはかなりの負担増であるが、自分たちの文化を守るためには重要なことである。この辺りの考慮の足りなさが、グローバル化を理由に外国語教育にばかり力を入れている人々の頭の中にあるような気がする。それにしても、言語の問題ばかりか、教育の仕方にまで外からのものを重視しようとする動きが続いているのはいかがなものだろうか。幼児教育に始まり、初等科教育と続き、高等教育に至る流れは、それぞれの国が独自に築き上げてきたもののはずだが、それをいとも簡単に捨て去ろうとする動きが常にあるような気がする。子供たちの知識の低下を危惧する声が聞こえてくるが、その一方でもう一つ大切なことが忘れられているような気もする。この国の教育現場の荒れ方は独自の流れを持っているのだが、その向かっている方向はどうも海の向こうの国に似通っているように見えるのだ。未成年による殺人事件の数はほとんど変化していないとする報告もあるが、少なくとも学校内での事件は目立つようになってきている。これはそれまでひた隠しにされてきたものが表面化しただけとする意見もあるが、果たしてどんなものだろうか。この手の事件は海の向こうでは以前からかなり頻繁に起きており、校内への持ち込み荷物の点検や警備員の配置など、かなり多くの対策がなされているにも関わらず、減る兆しは出てこない。これらの事件の発端がどこにあるのかはそれぞれに違うのかも知れないが、子供たちが起こしたことを考えると家庭と学校での教育の影響がなかったとは言えないだろう。褒める教育とか、伸ばす教育とか、言葉の上ではかなり魅力的に見えるものが出てきたのはあの国なのだが、果たしてそれが成功していると言えるのだろうか。これだけではない何かがあるからということも考えられるが、何しろ何でもあちらが良いとして採り入れることに躍起になるのはどうかと思う。実際には、教育に限らず、すべてのところにそういう手が伸びてきているわけで、盲目的な採り入れの危険性を考えるべきところに来ているのではないだろうか。