パンチの独り言

(2005年3月21日〜3月27日)
(工事、正当化、買収、評価、移動、通信、厳守)



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3月27日(日)−厳守

 時間に厳格な国とそうでない国がある。片方から見れば、もう一方は何ともならないやりにくいところと映るわけだが、さて、どちらが良いのかということは人それぞれに違うのだろう。郷に入れば郷に従えと言われても、そう簡単なわけではなく、自分なりのペースを守ってしまうようだ。
 人と人との関係では、別の形での信頼があれば、時間に対する考え方については何とか受容できる場合がある。時間に厳格な人といい加減な人が何かをする場合にも、いい加減な人についての感覚はどうもそれ以外の要素によるところが大きいようだ。同じように遅れても、何となく許されてしまう人がいる一方、それによって失うものが大きい人もいる。どこに違いがあるのかわからないが、何かが違うのだろう。何とはわからないことが多いから、これさえちゃんとしておけばということはできないものだが、人と人との関係とはそんなものなのかもしれない。しかし、これが人と何か別のものとの関係になるとどうだろうか。時間厳守と言われてすぐに思いつくのは公共交通機関だと思うが、道路を走るバスなどは様々な要員が入り交じって影響を受けるから、ある程度仕方ないと思われるところがある。しかし、鉄道や飛行機などの場合はそうでもないだろう。きちんと計画されており、ちゃんと準備されてさえいれば、何も悪いことは起こるはずもなく、ということは時間通りの運行が約束されるはずとなる。ある国の鉄道運行が時間通りに進められているのを褒める旅行者がいるということは、つまり彼らの国ではそうなっていないという意味だろう。実際、鉄道にしても航空にしても人的な問題で正確な運行どころか運行そのものが危うくなる国は多い。ストという方法によって、多くの便が欠航となり利用者達はただ受け入れるしかなくなる。権利は当然のことなのだろうが、利用者の利害はどう扱われるのだろうか。いつも不思議に思うところだ。人為的な問題だけでなく、様々な要因が遅延に繋がるようで、こういった国々では予定通りの運行の方が不思議がられるようだ。だからこそ、ダイヤ通りの運行を誇りとしている高速列車は尊敬される存在となる。一方で、それが実現する仕掛けを学ぼうとする動きはほとんど無く、そこには諦めしかないように見える。これはおそらく国民性の問題によるものであり、仕組みを少しくらい変更しても、それを動かす人々の心の中にその準備ができていなければどうにもならないだろう。たまたま乗り合わせた人々に運がなかっただけということに過ぎないのかもしれないが、他の国を旅するうえで必要な準備の一つであることは理解しておかねばならないだろう。

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3月26日(土)−通信

 急速に発達する技術に対して、先頭に立ってそれを利用している国が必ずしも最先端を進んでいるとは限らないとはどうしたことだろう。たとえば、電話は長い間固定されているのが当たり前で、それは電話線を使っているからだった。電話線さえあれば使えるが、無ければ使えないことが分かれ目だったわけだ。
 長い時間をかけて整備した電話線を使える国では電話の普及率が高く、そうでないところでは低くなるというのが当たり前だったわけだが、このところそういう傾向が崩れている。携帯電話は元々電話が普及している国に現れた新兵器で、電波さえ届けばどこからでも自由に通話することができるという便利さと機械の軽量化などによって普及が進み、一部の国を除いて固定電話の普及率を上回るようになっている。それよりも大きな変革は電話線の設置が進んでいなかった国々での携帯電話の普及に起こり、経済的な余裕ができてくるにつれて爆発的に普及しているそうだ。機械の開発にかかる経費はかなりのものだったはずだが、それについては先進国に任せ、揃えられたものを使うだけというわけだから、国全体として必要となる経費や手間は大したことがない。こんな環境下で利用者が増え始めれば、通信の便利さからその数はある時点から爆発的に増えることになる。大きな国土をもつ国ほどその傾向は強く、それが如実に現れているのが中国だろう。それに対して同じように大きな国土をもっていても、電話線が既に普及している米国では携帯電話は思ったほど普及していない。必要を感じないからと言われればそれまでだが、まさにそういう状況にあるのだろう。これとまったく同じことがインターネットについても起きているようだ。ネットワークが機能するためには既設の電話線を利用する方法が最も手っ取り早いから、最先端を走る国のほとんどはそういう手法を使った。長距離の通信に関してだけでなく、建物の中の通信についても同じように通信線を設置し、それを利用したわけだ。そこに現れたのが電波による通信を局地的に行う仕掛けで、これが出てきた当初は大した影響もなかったが、ノート型パソコンに通信機能が整備されるにつれて、様々な場所でこの方式を導入するところが増えてきたようだ。駅、ホテルなどの人が集るところにこの送受信機を設置すれば、それと通信可能な機能を持つパソコンでは何も特別なことをしなくても、ネット接続が可能となる。まったく便利な仕掛けだが、通信不能者には何の恩恵もない。新たな設備投資を利用者に強いるやり方は経済活動の常道のようだ。

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3月25日(金)−移動

 長時間の移動は辛いものである。出発点と終着点が決まっているのは当たり前のことだが、だからこそ、一度始めてしまえば途中で止めることはできない。飽きたからといって、どこかでひと休みといかないことも多い。それが旅の醍醐味と言える人もいるだろうが、ただ辛いだけの人が多いのではないだろうか。
 車や鉄道などの地上を移動する手段であれば、途中のひと休み、つまり途中下車も可能だが、海上や空中を移動する手段となればそうもいかない。海のど真ん中で飛び込むわけにはいかないし、ましてや空中となるとどうにもならない。だからといって心の方が諦めてくれるわけではなく、ぶつぶつ文句を重ねながら時間の過ぎるのを待つことになる。これがまた楽なことではないのだ。そういう理由もあるのだろうか、頻繁に旅をする人々の中には旅行自体をなるべく楽しいものにしようとする人がいる。飛行機は長時間乗ったことのある人ならわかるだろうが、騒音がすごいから長時間寝ることも難しく、動き回るのにも無理がある。そうなればただ座って過ごす時間が長くなるわけで、それ自体を楽しくというか、楽にする工夫が必要となる。たとえば空気を入れて膨らます枕を持参するとか、スリッパを持ち込むとか、その他の様々な道具を持ち込むことで快適さを追求する方法もあるが、その一方で座席自体の快適化を目論む人々がいる。座席が広がればいいわけだが、そんなに簡単なことではない。通常、倍近くの値になるから、旅費にそれほどの金をつぎ込むことのできない人には無理なわけだ。では、どうするのか。飛行機会社のマイル制度というのを知っている人ならば、別の方法をとるだろう。つまり、同じ値段で違う結果を得ようとするものだ。頻繁に旅行する人ならば、それだけマイルの貯蓄も十分にあるわけだから、その一部を利用して、エコノミーからビジネスへの転換を図るというわけだ。大したことではないし、飛行会社からすれば想定した方法だから、それだけ歓迎されるものらしい。結構無駄にしている人が多いようだが、楽しい旅行にするためにもそんなことを考えてみたらどうだろう。それにしても、丸一日かけての移動にはいつもながら参ってしまう。

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3月24日(木)−評価

 学期末になるたびに渡される通知表を楽しみにしていた子供はどのくらいいたのだろうか。楽しみとは思わなかったし、それを手に褒められたことも叱られたこともなかったから、大した存在でなかったのかもしれない。でも、そこにある数字には特別の意味が込められていて、他の子供たちとの差を表しているのだということくらいは意識していたようだ。
 これは5段階評価が普通に実施されていた時代のことで、その後低学年には達成度を3段階に表したものが導入され、順位付けの意味を薄くしようとする意図がでていたようだ。最近聞こえてきた話では、5段階の相対評価も見直すべきという声が大きくなり、ついに絶対評価の導入となったらしい。絶対評価とは何かと首を傾げる人もいるだろうが、結局教師の設定した基準に達するかどうかで評価するということらしい。つまり、設定した基準が低ければ皆高い評価を受け、逆になることもあるわけだ。基準は授業の進み具合などに影響されるだろうから、どの組でも、どの学校でも、どの地方でも同じという具合には行かない。相対評価も別の形とはいえ同じ事情を持っていて、それぞれの集団を構成する子供たちの出来によって同じレベルの子供が違う成績をいただくことになる。ただ、相対評価は母集団の出来を計る手だてがあれば、ある程度全体の中での順位を予想できるが、絶対評価は基準の決め方が曖昧だったり、基準同士の比較が難しいこともあって、全体の中の評価を見極めるのが困難となる。競争の無い教室が重要となれば絶対評価は必須のものとなるが、一方で何らかの全体評価を必要とする段には無用なものとなる。企業などの社会ではこれとはまったく逆向きの動きが起きており、それまで年功序列で一様に片付けられていた昇任や昇給という問題が、何らかの評価に基づく指標で処理されるようになりつつある。企業に対する貢献を計るためには絶対評価よりも相対評価が重要とする見方もあり、同じ業務に携わる人々の中での競争を基本として点数制を導入する向きもあるようだ。ところが、最近読んだ記事ではこの制度が抱える問題が指摘され、その見直しの検討が行われ始めているという。評価すること自体は給与の査定とは無関係に以前から行われており、それに問題があるとも思えないが、その結果が直接給与に反映され、更にはそれが志気に影響するというところまでくると、正しい評価がなされているかどうかに疑問が出てくる場合があるようだ。元々、他人の評価が苦手な国民とよく言われたものだが、それに加えて最近では、他人に厳しく、自分に優しくといった風潮があるとまで指摘されるから、その中で全体を見渡した正当な評価を下すのは難しいとなるのではないだろうか。何にでも競争を採り入れることで志気を高めるというのが本来の目的だったはずが、競争に基づく評価に疑問を抱く人が増え、かえって志気が落ちる現象が目立つようになると、競争原理の適用が仇になったと言われても仕方ない。何にでも競争を導入した結果、勝ち組負け組などという言葉が流行り、ある指標だけで人を計ることが横行する。いろんな要素が複雑に絡み合うはずの人間性を、単純化してしまうことで間違った評価を下すわけだ。今更見直すと言っても、簡単なことではないだろうが、さてどういう手だてを講じるのやら。

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3月23日(水)−買収

 買収とか乗っ取りとか、何だか物騒な話題が飛び交っている。それも、敵とか味方とか、そんなことを含めてのものだから、わからないなりに成り行きを見守ることとなる。海の向こうでは当り前のことだったのに、こちらでは青天の霹靂となること自体、世界標準とはと考えたくなるものだが、とにかく攻める側の基準が常に適用されるようだ。
 この話題が出てくる少し前のことだったと思うが、この国の株式市場の状況を説明する話が流れてきた。まさに乗っ取りに関するもので、それぞれの企業がそれだけの価値を有するかという問題を論じていた。不況という言葉が連呼されて、いろんなものの価値が下がってきてもなお、企業の価値はあるレベルを保っている。それはある意味当り前のことで、じり貧になれば縮小を余儀なくされ、ついには破綻するしかないわけだ。そんな憂き目に遭わされた、というよりも自ら遭いにいったというべきか、そんな企業の例を見るかぎり、下り坂を進み始めたら止まるのが容易でないことがよくわかる。そういう淘汰の過程を経て、今生き延びている企業はある程度将来的な展望も開けているはずなのだが、どうも気分はそうでもないらしい。とにかく左前とまでいかずとも、不調を訴える企業が多くあり、それらの買収は一つの選択肢となっているのかもしれない。一方で、企業自体を商品と見做す方法もあり、企業価値とその値段との比較によって、買収を決めることもあるのだという。海の向こうではこういったことが日常的に行われており、その波に乗ろうとする経営者も少なくない。ベンチャーと呼ばれる企業の中には、目玉商品をぶら下げて、獲物を狙う投資家たちや大企業の注意を惹き、頃合いを見計らってうっぱらおうとしている経営者もいるようだ。巧くいけば投資した金額の何倍もの利益をあげることができるわけで、商品販売や開発に精を出すより手っ取り早く儲けを掴める。これとは別に価値と値段のバランスを考えてみてというのが、買収や乗っ取りのきっかけとなる場合があるようだ。値段とは買うために必要な経費だから株式の総額、時価総額であり、価値とは資産の価値をすべて足しあわせたものとなる。二つの要素の大小関係が、得な買い物か損な買い物かを決めることになるというのだが、どうも今一つ理解しにくいところがある。資産価値といっても、それはそのまま鵜呑みにできるものかどうか、その辺りが怪しいように思えるのだ。企業を解体して、資産を処分したときに、果たして額面通りの結果が出るのだろうか。そんなことに首を傾げていたら、次には別の話が出てきた。価値は実際にあげている利益など、企業活動によって回っている金から算出すべきという話だ。こちらの方が理解しやすいと思いながら解説を聴いていたが、これまた変な係数を掛け合わせるとのことで、相変わらず経済学の杜撰さが表出していると思う。いずれにしても、資産にしろ株式にしろ本来変動するものだから、時価でしか論じることができず、結果として裏目に出ることもあるだろう。そんな流れに乗っている学問だからこそ、杜撰さを指摘されようが、その時々の便利さを主張することで成り立っているのかもしれない。

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3月22日(火)−正当化

 節目、節目で区切りをつけようとするのは、思い出そうとする動きとともに、忘れないためにという意図もあるのだろう。ラジオ放送80年を記念する番組が目白押しで、テレビが登場した後に物心がついた世代には想像もつかないほど身近な存在だったことが次第にわかってくる。放送そのものの考え方にも大きな変化が現れており、新鮮な気持ちで接している。
 ラジオ放送が始まったのは大正の終わりで、丁度昭和の歴史と同じ歩みを辿ってきた。その中で一番大きな出来事は何だったのか、いろんな意見があるだろうが、節目という意味では敗戦を知らせる玉音放送ということになるだろう。これもまた丁度という言葉が当てはまり、60年経過している。こちらも記念番組が既に始まっており、特に大きな被害をもたらした東京大空襲に関するものがここ数週間続いていたようだ。見たことも聴いたこともない内容に驚くばかりで、既に再放送まで始まっており、その一部は二度目となった。被害の大きさとか悲惨な出来事をなるべく詳しく伝えることで、戦争に対する考え方を訴えようとしており、節目にさしかかって初めて伝えられることも多いようだ。記憶を記録に変えなければという最後の言葉が強く心の中に残った。忘れることの大切さはいろんな場面で経験するものだが、一方で忘れてはいけないもの、それも語り伝えねばならないものがあることも事実である。戦争前後の悲惨な状況については、人それぞれに思いがあるのだろうが、最近の社会の風潮を見ると危うさばかりが目立つようになり、そろそろ伝えるべきは伝えたほうがいいように思えてくる。同じ番組の中で爆撃に参加した米兵の現在の思いを伝えるところがあったけれども、こちらにしても色々と考えさせられるところがあった。平和が長く続き、反戦の考え方が強くなった今、戦時の行為の正当化を疑問視する声が大きくなっている。平和なときに考えれば尋常ではない行為でも、その最中においては最善の方法だったと主張する人がいても、それに対する批判の声は消えない。互いの利益のためにという主張でさえ、仮定の話に過ぎないわけだから、批判の矢をかわすのは難しいようだ。確かに平時にこういうことを論じれば、そんな結論が出てくるのが当り前だろう。しかし、過去の出来事を現在の状況から考えるのにはかなりの無理が伴う。正当かどうかをその特定の行為に対して当てはめるのではなく、今後起きうる出来事に対して考えていくことが重要なのではないだろうか。どんな事件でもそうだが、起きたことに対して分析を行い、原因を探ろうとする動きがいつもある。その結果が事件を起こした人間や周囲の人間に対する批判だけになるのであれば、その分析は大した意味を持たないことになる。どんな原因があり、どんな状況があったのかは、これから後に起きるだろうことに対する備えとして知っておく必要があるわけで、過去を批判するためにあるわけではないだろう。正当かどうかは絶対的な指標に基づいて判断されるものとはいえず、やはり様々な要因を加味したうえで判断されるものである。これは忌まわしい過去を忘れ去るためのものではなく、明るい未来を迎えるために大切な考え方なのだと思う。

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3月21日(月)−工事

 お彼岸となれば、賑わうのは墓地と花屋と和菓子屋くらいだろうか。店の前の道路には違法駐車の列が連なり、霊園への道は他県ナンバーの車で埋まっている。半年に一度のこととて、周辺住民も諦めているのだろうが、どうにかならないものだろうか。日雇いの警備員が出て整理する姿も見かけるが、結局違法駐車の範囲が広がるだけのことだ。
 そんな具合なのだが、一方で、毎年起きることだからと言って、常に諦めの対象になるとは限らない。この月は年度末にあたり、年度予算で仕切られているものについては、けりをつけねばならないこととなる。公の予算で常に多額のものが計上されていたのは土木関係のもので、特に道路の整備については毎年かなりの額が組み込まれている。計画がしっかりしていればそんなことは起きないはずだが、杜撰なためか毎年年度末を迎えると必ずと言っていいほど道路の掘り返しが行われた。何のためかわからないものや、毎年同じところを掘り返すことが繰り返された結果、攻撃の的となってしまったようだ。年度末の道路工事を一律に規制する動きが出てからは見るからに杜撰な工事は減ったように思える。しかし、現実には見えないところで予算執行のためのものが行われているだろうから、誤魔化し方が上手くなったというだけのことかもしれない。一方、年度末の工事は一時減ったように見えたのだが、このところ様々な理由をつけて行われるようになっているようだ。高速道路に関しては、長々と工事を行うより、短い期間に一気に済ませるという方式が採り入れられて、ずいぶん雰囲気が変わった。それだけでなく、連休などの利用者が増える時期には緊急のものを除いて行わないようにしているらしく、渋滞の誘発への加担はなくなっているようだ。ところが、一般の道路に関してはそんな配慮はほとんどなく、何が何でもといった体で休みだろうが、渋滞が起きようが、継続的に工事をしている。たまの休みのお出かけが台なしにされると怒りをぶつけたくなるのではないかと思うが、たぶん何を言っても始まらないのがお役所仕事だろう。年度末の工事を断行するばかりか、連休中の規制によって、更なる渋滞を引き起こすことに何の問題も感じないのかと不思議になる。理由さえあればとか、緊急だからとか、言い訳はいくらでも並べられるのだろうが、一方でそれを回避する方策がないわけではない。掘り返しの意味はまったくわからず、ただ漫然と工事が継続する。休日の方が苦情が少ないと見たのか、抜け道を知らない運転手達に長蛇の列での我慢を強いる。なんともはやと思うが、言っても仕方ないという諦めの方が先に立っているからどうにもならない。考え方の問題といってしまえばそれまでだが、郊外の道路の工事を深夜にすることの是非は論じるべきだろうし、年度を四半期に分けて均等に分配することも検討すべきだろう。考えるべきことは沢山あるはずなのだが、それをする気持ちがないようだ。年度末工事の是非が問われたときに、その意味が問われていたが、もう一つ各所で工事が集中的に行われることによる悪影響も問われたはずだ。理由さえあればという風潮のせいか、後者に対する配慮は消え失せつつあるように見える。

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