パンチの独り言

(2005年3月28日〜4月3日)
(詐欺、妨害、時差、悪書、引継、隣席、訃報)



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4月3日(日)−訃報

 この国の人々はつくづくいろんなことに興味があるのだと思う。新聞の内容も地域だけでなく国全体の話題が中心になっているし、それどころか海外の話題にまでかなりの紙面を割いている。一度も海外に出たことのない人がどのくらいいるのかわからないが、数字の上ではかなりのものなのではないか。にもかかわらず、こういう状況なのである。
 個人にとって最も重要な情報は自分自身に関するものである。身の回りに起きること、起きそうなことを知らせてくれる情報がもたらされることが大切なわけだ。そういう意味では地域の情報が最重要なはずで、この観点に立って編集されているのが海の向こうの新聞だろう。いくら国土が広いとはいえ全国紙が存在しないというのは驚きで、隣の国どころか、隣の州、はては隣町に起きたことさえ、同じ町で起きた小さな事件に負けてしまう。存在しないというのは大袈裟で、今は一つ二つそういう類いのものが発行されているが、それでも地方紙の数に比べたら取るに足らないものに思える。そんな国でもこの事件は大きく取り上げられているようだが、大統領が哀悼の意を述べる演説をしているときに流れた故人の名前は、ジョン・ポール・セカンドである。はて、どこか違うような気がするがと思いつつ、こちらのニュースを見ていたら同じ名前が流れた。なるほどそういう繋がりなのかと思いつつ、それにしても英国王室の話やこの手の話の時だけ、あの国の人々は注目するのかと改めて思った。宗教の絡む話だから当り前のことなのだろうが、それにしてもと思う。逆に見れば、それだけ故人の存在が近しいものと言えるのかもしれない。彼があの地位に就いたとき、ポーランド出身の、という枕詞のようなものがくっついていたのをよく覚えている。いくら宗教に疎い人間でも、その繋がりに違和感を覚えたわけで、その後もそういう見地に立った報道が続いていた。とは言え、時が流れるとともにそんなことは瑣末なことと扱われるようになり、彼自身の方針というか考えがかの宗教の将来の方向を定めるものとなることが大きく扱われるようになった。技術の進歩が倫理や宗教の場にも影響を及ぼし、尊厳と技術が相容れないところにまで達してきたとき、それに対する見解を出す必要が生じた。進歩的と言われていても、護るべきものは護るという考えに基づくのだろうか、それまでとは違うとはいえ、どこかに明確な線が引かれているように感じられた。彼の祖国で問題が起きたときも、直接的な関与は避けていたようだが、陰ながらといった雰囲気は流れていたようだ。そんなところから来るのかも知れないが、それまでは遥か彼方にある存在だったものを近く感じられるところに持ってきたところに彼の功績があるのかもしれない。だからこそ、今、人々は悲しみに包まれているのだろう。そんなニュースが休日の朝から流されるところに、この国の不思議さがあるのかもしれない。

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4月2日(土)−隣席

 人の出会いとは不思議なものである。偶然でしかないはずなのに、そこに何らかの必然性さえ感じてしまうこともしばしばあり、特別なものの存在を意識させられる。とはいえ、そんなことを考えていたとしても大した結果は出てこず、とにかく偶然でも何でもいいから良い出会いを大切にしていきたいと思うことにしているのだが。
 朝早く出かける用事があり、電車の時間ぎりぎりに走って駅に入ったから、切符を買う暇もなかった。全車指定の特急では座る場所は決められており、その時間の特急は途中の駅でほとんど満席となる。それまでは適当なところに座っておけばいいと、ある号車の最後尾席に座っていたら恰幅のいい老人が席の番号を見ながら近寄ってきた。網棚にある小さな札の番号が見えないらしく、こちらから指定席の番号を尋ねたら、隣の席だった。その時は別の席に移りしばらく乗っていたが、一段と混んできて孫を連れた老婦人が隣にやって来たころにはほぼ満席となっていた。通路を挟んで座っている彼らに席を譲り、再び件の老人の横に座ったら、その前から盛んに咳込んでいたのを気遣ってくれて喉飴を差し出された。有り難くいただき、それを機会に少し話を始めたところから出会いが本格化することとなる。都会に審査に出かけると語るその人は70代に見えたが、何かしら健康的な問題での審査かと思われた。不躾な問いなのだが、何の審査かと尋ね、それが絵の審査と聞いてちょっと驚いたのは正直な気持ちだ。誰しも先入観は持っており、絵描きとはこんな感じと思うところがあるが、ちょっと見たところではそんな雰囲気はほとんどない。気難しい印象もなく、言葉も滑らかに出てくる、どちらかといえば取っ付きやすいタイプだろう。抽象画の展覧会の出品作品の審査に出かけるというその老人は、教師をしながら制作活動に打ち込んでいたそうで、半世紀を超える画歴を持つとのことだった。絵の話やら、美術館の話やら、はては彼の絵が掛かっている病院の話と話題が尽きず、ついに指定券を持った人がやってきて、席を譲らねばならなくなっても、後の隙間に立って話し込んでいた。こちらの正体についてもかなり誤解されていたが、名刺を渡し、次の展覧会の招待をいただけるということであちらの乗換駅に着くところで別れた。あとで調べてみてわかったことだが、抽象画といっても丸やら四角やらが並んだ形式のものではなく、実在しない人物達の並んだ画風で、その点こちらの想像は大きくはずれていた。夢の世界のようなものを描いていると話していたのはこのことかと、実際の絵を見てやっと理解したわけだ。後日、彼から郵便が届き、中には画業50周年を記念する画文集が入っていた。印象に残ったのかと嬉しい気がして、早速返事を書くことになる。さて、こちらから返すものは何にするのだろうか。それにしても、こういう出会いは良いものだと思う。

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4月1日(金)−引継

 年度が代わったからといって何かが起きるわけでもないだろうが、人の入れ替わりなどがあり落ち着かない場合もある。最近は一斉に入れ替えをすることに無理を感じるところも多く、人事異動の時期をずらす場合もあるようだ。少しでも効率よくという考えなのだろうが、思惑通りに進まないことも多い。結局代替わりによる悪影響が出るのだろう。
 同じ人が同じ仕事をずっと続けたほうが効率が良いに決まっているような気がするが、実社会ではそうなっていない。組織内の地位を変えねばならないし、それに伴って仕事の内容が変わることも多いからだ。常に同じ仕事を続けていれば、本人にとっても精神的に楽なはずで、それも効率の向上に繋がるに違いない。だからといっていつまでも同じ地位に留まることを望む人は少ないだろうから、このやり方は望まれないだろう。ということで、いくらかの効率の低下には目をつむり、それによる弊害を各人がある程度受け容れることによって、何とか仕事に支障が出ない程度の状況を産みだしている。全体としてみればかなり無駄なことのように思えるが、流れを考える以上どうにもならないことなのだろう。上に立つ人間になるためには、下にいる人々の仕事の内容を把握する必要があり、それを知るためにはいろんな経験をしておくことが不可欠であるというのも、このシステムが成り立つ理由の一つだろうが、それに従事しなければできないものかどうか、よくわからない。とにかくきちんと回ってくれればいいと思えば、どうでも良いことなのかも知れないが、引き継ぎが起きるたびに混乱が誘発され、更にその被害を被ることになれば小言や不満の一つも言いたくなるだろう。では、どうすればその被害を最小限に留めることができるのか。引き継ぎによる混乱は状況把握が的確にできていないことによるものが多いから、それを助けるための手段を講じるのが一番手っ取り早いと思われる。つまり伝達事項を明確にしておくことが最重要課題となるわけだ。最近はあらゆるところで仕様書とかマニュアルとか呼ばれる代物が出回るようになっているから、こんなことも大した抵抗もなく受け容れられそうだが、これはあくまでも読み手の立場に立ったもののようだ。つまり出来上がったものを読んで、その指示に従うことに慣れているものの、自分で指示を作り出すことに対して障壁を感じる人が多いということである。受け手としては何とかなるが、送り手としては何ともならないというのでは、結局このやり方は役に立たないことになる。もう少しの間様子を見なければならないのだろうが、送ることと受け取ることに同等な能力を発揮できるような人の数を増やすことが大切になるだろう。もしかすると、そんなことを色々と試みているうちに、伝達事項などどうでもいいような仕掛けを考える人が出てくるかもしれない。そうなれば周りの人間も助かるのだが、はたしてどんなものだろうか。

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3月31日(木)−悪書

 電車やバスでの移動が長くなると、その時間の過ごし方が問題となる。一緒に動く人がいればそれなりの潰し方もあろうが、そうでないと自分で何とかしなければならない。となりに話し好きな人でも来れば暇潰しになるだろうが、場合によっては迷惑にもなる。ということで、手っ取り早いのは読書をすることくらいとなるのだろうか。
 移動の際に持ち歩くとなると重い本は邪魔なだけだから、どうしても中味じゃなく重さの軽い本を選ぶこととなる。文庫や新書がリストに並ぶのはそういう理由で、分厚い本を旅行の時に持ち歩く欧米人とはえらく違うものだなあと思う。それでも活字であることには変わりなく、楽しめるものなら旅も楽しくなる。そうでないとどうなるかについてはあまり考えたくないが、いずれにしても時間が潰せるだけでよしとするしかないのだろう。あまりにつまらないと結局睡魔に襲われることとなり、眠りから覚めてもあとは飛ばし読みとなることもある。面白いかどうかがどこで区別できるのか、自分でもよくわからないが、どうも睡魔に襲われるかどうかは大きな要素の一つとなるようだ。一方つまらないというより腹立たしい内容のものもたまにあって、こちらについては寝る気にもなれず、更には気持ちが落ち着かず散々な目に遭わされてしまう。そんなものはさっさと止めにしておけばいいと思うかも知れないが、せっかく読み始めたのだからという思いで同じように飛ばし読みに入ることが多い。先日読んだものの中にもそんなのがあって、どうしてこれほど無理解な態度で自らの意見のみを読者に押しつけようとするのか、さっぱり理解できなかった。本人は自分の立場を長年にわたり攻撃された恨みからか何なのか、それに対する反論に終始しており、そこには解決の糸口も見出せない状況があった。自分の立場を理解しているのは当事者として当り前という思いというか自負というか、そんなものが其処彼処に溢れていて、それがまた読み手に不快感を誘発していたのだと思う。こちらから見れば、単純に一番わかっていない人物が原稿の向こう側にいるだけであり、そういう人間がしたり顔で他人の意見の批判をするなぞちゃんちゃらおかしいといった雰囲気さえ漂っていた。自分たちが見出した元凶をまるで宝物のように扱い、鬼の首を取ったかのごとくの論理を展開するのは、本人の軽薄さをさらけ出す結果にしかならない。変化に対応できなかった人々がその原因を他に見出し、それがわかったからには次こそ対応できると豪語するというのは、まったく間違った方向に進んでいるように見えるのだ。これはこの本にあった内容にだけ当てはまるものではなく、その他の分野でも過去に生じた出来事に対する新たな対策といった議論が出てくるものであれば、ほとんどすべてに当てはまるのではないだろうか。政治、経済、教育、科学、あらゆることに当てはまりそうである。しかし、現実には同じことが繰り返されるわけでもなく、絵に描いた餅にしか過ぎない対策では実際に起きたことを解決する手段とはならない。それにも増して、ここで論じられていた元凶はまったく的外れなものでしかないように見えたから、状況は更に悪いと言わざるを得ない。そんな人々が有識者として、更にプロとして、表舞台に立つわけだから、そちらの方が恐ろしいのだ。やはり舞台の向こう側ではなく、手前側に座る人々が自分たちなりの感覚を磨いておかないと、こんな馬鹿げた考えに乗らされてしまうことになる。

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3月30日(水)−時差

 時間の流れが自分の思い通りになったら、さて何をするのだろうか。なるはずの無いことだから、そんなことは考えたこともないだろう。でも一方で、もしそんなことが起きたらと考えたくなった人はいるのではないだろうか。地球上のある場所から別のところへ動いたとき時差が生じて、それに対処できないときなどがそうだろうか。
 時差の解消については様々な意見があり、人それぞれに解決策を考えているようだ。医学的な分析からは強い光を浴びることが大切と言われ、睡眠を制御するためにも利用されているという話だ。詳しい仕掛けはわからないが、とにかく日周期に体を合わせるためには、太陽光という昼と夜の区別をはっきりとさせるものが必要だということだろう。それも大切だが、まずは現地の時間に合わせた生活を無理やりにでも始めることが大切と言う人もいる。まさにそれぞれに自分たちなりに考えた方法なのだろうが、いつも上手くいくとは限らない。どうしても無理が祟ることがあるし、どんなに調整しようとしても無駄なことも多い。いっそのこと、さっさと諦めてしまえばいいと思うのも無理の無いところで、それこそ短期間の滞在ならば現地の時間などまったく無視して数日を過ごす人もいる。無理して変更しても、どうせすぐに元に戻さねばならないのなら、ということなのだろうと思う。それでもいい環境にあるのならば、そうした方が気楽だし、無駄な労力を使わなくて済むのかもしれない。ただ多くの場合、それが不可能だろうし、集団で動いている人たちの場合は特に一人だけが流れに逆らうわけにもいかないだろう。ある医者は睡眠導入剤を利用してまずは寝ることから始めるとのことだが、そこでも薬の利用がいい結果を産むとは限らないから何とも言えない。もう一つ、時差の問題で面白いと思うのは、たとえば8時間ほどの時差について、早くなるのと遅くなるのとどちらが対処しやすいのかという問題があることだ。つまり、東へ動くのと西へ動くのとどちらが対応し易いのかということである。これが不思議と人によって言うことが違うのだ。ある人々は東へ向かうほうが楽と主張し、別の人々は逆を主張する。実際には旅行の目的によるところも大きく、現地で仕事をするかどうかが最も大きな要因となるという人もいるくらいだ。どうも、人それぞれという表現には、単にどちら向きかということだけでなく、それがどんな状況にあるかということが含まれているように思える。同じ人々でどうなのかということが一番肝心なことのはずだが、体調までが要因に入るようだと、これまた複雑化してしまうわけだ。まあ、上手く合わせられなかったときにどう対応するのかを考えておけば、ちょっと調子が狂ったとしても何とかできるのだろう。何事も準備が大切というのは単に薬などの準備ということだけでなく、心という大きな要素における準備のことをさしているともいえる。それにしても、時差を伴う旅行の後は、何とも言えない脱力感に襲われるので、いつでも嫌な気がするものだ。

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3月29日(火)−妨害

 旅行に出るたびに気になることの一つは、子供の扱いである。騒ぎ回る子供を注意もせずに寝続ける親や泣きわめく子供に手を拱ねいている親に対して、どうにかしてよと思う気持ちが起きることも多い。前者に注意したときにはこちらのせいにされたこともあるが、後者には何とかして欲しいと願う視線を送るのがせいぜいだ。
 子供が泣きわめくとき幾つか理由があるのだと思うが、なだめられない親達にはそれがさっぱり理解できないのかもしれない。病気によるものかどうかは大変重要な問題だから、ただ叱りつけても仕方のないことで、まずは原因を探る必要があるだろう。そうはいっても多くの場合は眠いのが理由のようで、寝たいのに寝られない子供の愚図り方にはある特徴があるように思える。しかし、それがわかっていてもどうにもできないという親もいるようで、列車やバスの中、それに飛行機の中で騒ぎ続けられるとまったくどうにかして欲しいという思いが募る。寝てしまえばこっちのもので、喧騒のあとの静けさに安堵を覚えることが多い。しかし、そんなのもつかの間、再び静寂が打ち破られることになるからかなわない。今回もまったくそのままの状況だったが、想像するに親の配慮のなさが原因なのではないかと思えた。眠い子供たちにとって飛行機の中は喧しく落ち着かない空間に違いない。寝つきの悪い子供にはそれだけでも影響は大きく、中々眠りに入れないから泣きわめくのだろう。しかし、一旦きちんとした眠りに入れば、そんな雑音や振動などどうでもいいことなのだ。寝た者勝ちといったところだが、せっかくそこまでこぎ着けたにも関わらず、再び眠りを妨げられることとなる。そうする親たちの気持ちも理解できなくもないが、せっかく出てきた食事を子供にもということらしい。食事と眠りとどちらが大切かと言われたら即座に眠りと答える人ならともかく、そうでないと思っている人が沢山いるようだ。そんな理由で起こしてしまえば、寝つきの悪い子がどういう反応を示すか明らかだと思うのだが、そうでもないらしい。周囲の迷惑顔をよそに、親は子供が何故愚図るのかと不思議がる。そういう流れを見るかぎり、子供の幸せが見えてこないように思うのはちょっと行き過ぎだろうか。親は子のためと起こしたわけであり、子供が愚図るのはそれからして変なことという理解しかない。そんな状況が小さな頃から始まり、子供のためという基本原則を自分勝手な解釈で設定しているわけだから、その子の将来は暗いもののように思えてしまう。子供のためという自己満足が、すべてに勝るものとなっているわけだから、それに打ち勝つ方法はないだろう。このところの子育ての歪みを垣間見るにつけ、そんなところに問題があるように思えるのだが、ちょっと外れた考えなのだろうか。

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3月28日(月)−詐欺

 有名な観光地は人で溢れかえるものと相場が決まっている。やって来る人もそれなりの覚悟をしているから、少々のことではへこたれない。そんな人々の中に覚悟のできていない人がいればどうなるか、まあはっきりしているだろう。どの列にも並べず、ただ遠巻きにして眺めるのが関の山である。その場で無理をしても疲れるだけだから、それでいいのだが。
 列に並ぶのが好きな国民はどの辺りに多いのか、という話が時々聞こえてきて、共産圏に多いとか、観光に出かけることの多いところがそうだとか言われる。好きかどうかは聞いたことがないが、何かを手に入れようとすれば背に腹は代えられず、結局我慢して長蛇の列に参加するしかない。それにしてもよく待てるものだと思うが、一生に一度の機会という場合もあるだろうから、事情も知らずに何を言っても仕方なさそうだ。他にも観光地でよく見かけるものがあり、多くの人々がたった一度の訪問となることが影響する場合も多い。二度も三度もやってくることがあるのなら、再訪を狙って扱いに力が入るのだろうが、一度きりとなれば扱いがぞんざいになることが多い。観光客相手の商売はそんなものだと言ってしまえばその通りで、贋物あり、粗悪品あり、などと商品についての誤魔化しがよく見られる。一方、価格に関する誤魔化しも多く、一回だけなんだからそれでもいいといった態度がありありと伺える。元々値段が決まっていないものも多く、並んでいる土産物屋を回るだけで、一割二割の違いは当り前となる。一方、本来価格が決められているものでもかなりの違いが現れることもあり、見つけたら見つけたで首を傾げてしまう。観光地といっても国際的な客を相手にするところでは、住民にかかる税金を免除する制度があり、観光客はそれを狙って買い物に勤しむ。最近は多くの商品にかかる税金が小さくなり、酒なども思ったほど安くならないことも多いが、煙草は税金の塊だからずいぶん違うようだ。また、免税店での定番となっているブランド物の革製品や化粧品についても、同じような環境にあるようだが、価格や取り扱いとなるとどうも怪しげな雰囲気となっているようだ。以前、違う商品を入れられたことがあったが、これとてあちらにとって損になることなどほとんどなく客のうちの二割か三割に気がつかない人がいれば、それで儲けになるわけなのだ。もう一つ設定価格についても怪しいところがあり、特別割引などと言われたらまずは疑うべきなのかもしれない。実際、ある額以上の購入があれば割引率を上げるなどといった場合、実はそこに付けられた価格が割高になっている場合もある。これも観光客を相手にした悪賢い商売の仕方なのだろうが、空港の免税店で愕然としている人を見かけることもある。既に購入したものをどうにかできるわけでもなく、割引制度で得をしたと思っていた気持ちはどこかに吹っ飛んでしまい、旅行の気分も台なしにされるわけだ。商売ではそんなことは当り前、と言われればその通りなのだろうが、まったくえぐいことをやるものだと思う。

(since 2002/4/3)