パンチの独り言

(2005年4月4日〜4月10日)
(駐車、手入れ、終焉、花見、研修、花宴、名木)



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4月10日(日)−名木

 狂ったように咲き誇る花のせいでもあるまいが、どうも桜の話題が続いているようだ。一気に咲き、あっという間に散ってしまうのだからというつもりもないが、もう少し同じ話題を続けてみようと思う。桜といえば染井吉野と決まっているように思う人も多いだろうが、実際には各地それぞれに名物桜があり、人を集めている。
 染井吉野は以前にも取り上げたように江戸時代に人の手によって作り上げられた品種であり、花の色の美しさとその咲きっぷりの見事さから、全国的に植樹されるようになったようだ。しかし、どちらかといえば弱いらしく、寿命も短いと言われる。若い木ほど赤みの強い花を咲かせ、老木はほとんど白に近いかなり薄い桃色の花をつける。街路樹や堤防の木は人の手が入っているから、寿命が来たら植え替えればよく、そんなところの問題は大きくはならない。しかし、里山にある名木と呼ばれる桜の木は数百年という年齢にも関わらず、元気に毎年花を咲かせているものが多い。それでも、様々なところで取り上げられることによって人の立ち入りが頻繁になったせいもあり、最近は色んな手入れをしなければならないようだ。木の周りに人がやってくるだけでも、その数が増えてしまえば土は簡単に踏み固められてしまうし、場合によっては木に触れたり、調子に乗って登ったりする人が出てくれば、老木にとっては迷惑になるだろう。そんなことから有名になればなるほど、人が近寄れなくなり遠い存在となっていく。何とも皮肉な感じもするが、木の命を考えたら仕方のないところだろう。もう何十年も前のことだったと思うが、根尾の薄墨桜の勢いがなくなり、もう駄目だと言われたところに、当時はほとんど知られていなかった樹の医者とも言うべき人が現れ、根に若い木の根をつぐことで勢いを回復させた。そんなことまでして命を永らえるべきかどうかは疑問だが、まあ人の勝手とは言え、何とかしたいという気持ちの現れだったのだろう。そんな名木が各地にあって、人を集めているそうだ。この近くにも枝垂れ桜として有名な大木があり、ご多分に漏れず名前までつけられている。山の麓から頂近くまで桜が植えられていることで有名な所にも近いせいか、かなり多くの人を集めているようで、見事な枝ぶりをライトアップして見せている。だからというわけでもあるまいが、昼間に集まる人の数より、夕方から夜にかけての人出の方が多いようだ。周りは山村といった感じさえするところだが、このときばかりは都会のような大渋滞が起きる。そこまでして見たいと思えるものかどうかは人それぞれだろうが、それにしても人々が桜を好きなことがよくわかる。こういう場所には三脚まで抱えたカメラ小僧ならぬ、カメラおじさん、おばさんがどっと押しかけるのだが、そこだけはデジタルよりもフィルムの方が優勢のようだ。古いシステムにしがみついているからか、はたまたデジタルはまだまだと思えるからか、どちらかといえばフィルムの良さのわかる人がまだ沢山いると思いたい光景だ。

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4月9日(土)−花宴

 前夜の気温の高さが影響したのだろうか。咲き始めたばかりのものも、かなり開いていたものも、どれもが一気に満開を迎えたように見える。定番となっている川の両側の堤に植えられた木々が一杯に薄桃色の花で飾られ、まるで隧道のように見えるところもある。車を走らせていると道の両側に桜並木が続くところがあり、目を奪われそうになる。
 これほどの勢いで開花から満開まで一気に上りつめることはあまりないのではなかろうか。気温の上下が激しくなったがためのことなのだろうが、花を楽しみたい人々にとってはとてもありがたい結果となった。例年になくと思えるところはもう一つあって、普段なら染井吉野に遅れること一週間くらいで満開を迎える枝垂れ桜が既に花をつけ始め、おそらく数日中に濃桃色の花々で飾られるように思える。春という季節は一気にやってくるとよく言われるが、今年の春は特にそんな感じがする。白木蓮の開花から満開までの期間の短さといい、染井吉野の狂ったような満開の様子といい、ここ数日の間に一気に春が過ぎていきそうな雰囲気だ。といっても、不安定な天気が続くことには変わりがなく、一気に初夏のような陽気になったと思ったら、また冷たい雨が戻ってきそうな予報が流されている。季節の変わり目は要注意と言われるが、花粉症を持っている人々にとってはこの時期に風邪をひいたとしてもおそらくわからないのかもしれない。熱が出れば何とか自覚できるだろうが、これほど毎日鼻水と涙に悩まされていると、軽い風邪の症状など隠されてしまいそうだ。桜の花が好きという人はこの国には沢山いる。確かに葉が出る前に鮮やかな色の花をつけるから、その美しさは群を抜いているように見える。しかし、ほんの一時しかそれを楽しむことができず、じっくり楽しみたい人たちにとっては物足りないという印象があるようだ。潔いからいいという見方もあれば、もっと長く愛でたいという見方もある。美しさははかないものという解釈に基づけば、まさにその通りといった感があるが、それを人間に喩えて話を作ってしまうのは実感から来るものなのだろう。それにしても、花の下では宴たけなわ、場所によっては色んな国の人々が集まり、杯ならぬ缶ビールを交わしている。まさに江戸のころから伝わる風物詩の一つというべきものなのだろう。ものの考え方や価値観など、色んなものがどんどん変わっていく中で、美しいものを愛でる心は変わらないということだろうか。また、美しさを見極める心に古今東西の違いなどないということなのだろうか。そんなことをうだうだ書いているより、綺麗なものを眺めながら気持ち良く酒を飲むほうがずっと健康的なのかもしれない。たとえアルコールが花粉症の症状を悪化させることがわかっていても止められないのは、そんなところに理由があるのかもしれない。

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4月8日(金)−研修

 まさに陽気に誘われてという表現がピッタリくるように、桜の花が咲き誇っている。意味が違うけれども、これまた花まつりの日を祝うが如くと思える。しかし、それにしても、飛び散る花粉の量は尋常ではなく、反応している人々にとってはどうにもならない日々が続いている。陽気に誘われても、陰気になってしまう毎日なのではなかろうか。
 新しい年度を迎えると、どこでも新しい人々を迎えることになる。学校は当り前のことだが、会社でもそういうところがほとんどだろう。ずっと昔なら、新入社員たちははじめの数週間は研修と称して、会社で役立つ人間になるための教育を受けていた。業種によっていたとは思うが、これが数ヶ月に及ぶところもあり、少人数の人々が一つところで同じことを繰り返すという意味で、かなり過酷な状況にあったようだ。だからと言うわけでもないだろうが、始まったばかりというのに勝手気ままだった状態からの転換がうまくいかずに、脱落していく若者たちがいた。最近はそんな落伍者は当り前という風潮ができてしまったせいか、そういう話が流れてきても誰も気に留めなくなったが、以前は合宿所から誰が脱走しただの、そんな馬鹿げた話題が飛び交ったものだ。大卒者に対するこういった教育の仕組みはそれぞれの企業が独自に築き上げたものだったはずなのだが、いつの頃かそういう役割を肩代わりする専門家集団が登場し始めた。確かに、餅は餅屋というだけあって、いかにも効果的な教育が施されるように見えるのだが、実際にはそんなに甘いものではなかったのではないだろうか。専門家は教育の手順に関するものであり、総合的なものに対しては通じていたのだろうが、企業それぞれの専門性に応えられるほどの技量を持ち合わせている人はほとんどいない。結果的に、何でもできるが肝心なことができない、みたいな歪んだ能力の持ち主を増やすきっかけになってしまったように思える。その後の展開は、教育云々にかける経費を如何に減らし、省力化効率化を図るかという問題に集中してしまい、ついには研修自体を無くすところもでている。そうなると受け入れ側としては、当然の如くすぐに役に立つ人材を欲しくなるものであり、その辺りから即戦力という言葉がよく聞かれるようになった。しかし、この言葉の意味は企業側と学生側でかなり違った解釈がなされているように見える。企業は、様々なことに対応できる能力を持つことを即戦力と言っている場合が多いのに対し、学生は、資格などの有無を問題にすると解釈しているようなのだ。こうなれば当然の如く、すれ違いが起きる。何が大切なのか根本のところで違っているわけだから、一致した答えを導くことは不可能になるわけだ。結果として起きることは、入社してからの展開で徐々にわかってくるわけだが、時既に遅しということになる。まあ、あれこれそんな紆余曲折の末に、いろんな対応能力がついていけばいいわけだから、気楽に構えておいたほうがいいような気もするが、傾向と対策に明け暮れる人生を送る人々にはそんな声など聞こえないのだろう。あちこち尋ねまわり、いろんな資格を取ってはみたものの、さて、何の役に立つのかさっぱりわからない。そんな姿がチラホラ見かけられる時期なのかもしれない。

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4月7日(木)−花見

 天気予報は当日や翌日くらいのものになれば、かなりの確率で当たるようになってきた。単に計算能力が向上したためだけではなく、おそらく観測点がかなり増えたことも要因の一つになっているのだろう。データは多ければ多いほど良いという考えは当たり前すぎて気にかけないことも多いが、それに勝るものはないという証拠のように思える。
 とはいえ、もう少し先のこととなると些か心もとない気がしてくる。国内の観測点はいろんな事情で増えたとはいえ、国外についてはほとんど変わっていないようだし、長期となればありうる可能性の数もかなり増えるわけだから、それを計算で整理しようとすれば今度こそ計算能力が大きな問題となる。そういう傾向を引き合いに出すまでもなく、次に来る季節についての長期予報は期待ほど当たらないと言われている。当たろうが当たるまいが季節は巡ってくるわけだし、それによって起きることに対して何らかの対応を迫られるのは当然のことだから、予報は予報としてある程度尊重し、それを参考に準備を進めるとして、結局のところ蓋を開けてみなければわからないものだと覚悟をするしかないわけだ。昨年は例年になく桜の開花が早まり、それによって各地の自治体が振り回され通しだったと言われている。そういう予期せぬ出来事に対する対策の一つとしての保険商品まで出回るようになり、何でも商売にするものだと感心するばかりだ。ここで何度も取り上げているが、今年は予報が大きくはずれ、その上天候不順まで加わったものだから、逆に例年になく遅い開花となり、桜の下の入学式が実現しなかったところがほとんどだっただろう。こういう時もまた何かの形で保険が利用されるのかも知れないが、古都と呼ばれる観光地では特に外国人観光客の落胆の声が上がっていると聞く。季節ものではよくある出来事だが、被害者となれば諦めなければならないとわかっていても、そう簡単にはならない。結局、堅い蕾を恨めしそうに眺めながらの帰国となったのだろうが、自然の演出だけに何ともならないわけだ。そんな情報がもたらされているうちに、さすがの蕾も我慢しきれずに膨らみ始め、木々が赤みを帯びるほどになってきた。これは一地方の話題であり、縦長の列島では既に満開を迎えたところもあるし、まだ便りさえ届いていないところもある。季節の巡りはその時期の早い遅いがあるとはいえ、必ずやって来るものであり、そこに間違いはない。夏と冬が逆転するほどの異常気象は起きないわけで、それだけ頼れるものとも言えるわけだ。いろんな形での当て外れはあるとはいえ、そんな確実性があるからこそ、何となく平穏な気持ちで巡りを見守ることができるのだろう。何が起こるかわからないという世の中だが、一方でこういう確実さの存在が人の心の平安を保証してくれるからこそ、何とか無事に過ごすことができるのではないだろうか。先が読めないばかりでは、それこそ何ともならない話になるのだろう。少しくらいのずれは仕方ないものとして見過ごしておいて、歓迎花見の企画に精を出したほうがいいのだろう。

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4月6日(水)−終焉

 テレビやラジオのニュース番組や新聞は起こった事件をありのままに伝えることが役目のように思える。このところ槍玉に上がっている放送協会のニュースはその典型で、何の意見もつけずにそのまま伝えることが最良と思われていた。それに対して、様々な意見をつけることで興味を呼び覚まし、一般人の目を向けさせるやり方が出てきたのは20年ほど前か。
 始めのうちは斬新な切り口とわかりやすい説明によって人気を博していたニュース番組も、キャスターの加齢によるものか段々とアクが強くなるだけでなく、言い過ぎややり過ぎといった過激さだけが目立つようになっていた。野次馬達には喜ばれても、多くの人々の賛同を得られなくなったからか、あるいは潔く身を引くべきと自ら判断したからか、区切りのいいところで降板となったが、ひと時代を築いた功績がかなり評価されている。ただ、この国での新鮮さばかりが強調されるが、実際にはあの手のやり口は海の向こうではごく当り前のものとして、それ以前から始められていた。80年代半ばには、三大ネットワークの夜のニュースはそれぞれに特徴のあるアンカーたちが担当し、全米に向けて最新のニュースを流すとともに、それに対する彼らなりの意見を添えていた。CBS、NBC、ABCという三大ネットはローカル局による番組構成については新聞と同様の形式を採り入れていたが、全米に同時に流れる番組を組み込むことでネットワークとしての役目を果たしていた。その根幹をなすものがニュースであり、それがそれぞれのネットの顔の役割を果たしていたわけだ。当時のアンカーたちは、おそらく40代か50代だったのだろうが、順番にDan Rather、Tom Brokaw、Peter Jenningsで、ニュースで流す内容や意見を自ら決めるという意味で単なるアナウンサー、伝達者とは異なる仕事を担っていた。それから数えて20年経過し、前の二人は既に引退したそうだが、Jenningsは未だ現役である。しかし、彼が肺ガンにかかったことが知られるところとなり、体調次第では引退を余儀なくされそうだとのこと。そのニュースが協会の全国ニュースで流れること自体凄いことだと思うが、彼らが築いてきた一つの時代が終わりを迎えようとしていることに感慨を覚える人々が沢山いるのだろうことは想像に難くない。Ratherは強い国の象徴のような語り口だったのに対し、BrokawとJenningsはどちらかといえば柔らかい語り口だった。だからと言うべきか、911の際にRatherが絶句してしまったことに驚いた人も多かったはずだ。彼は、確か炭疽菌騒ぎの時も被害に遭いかけたのだが、彼らはおそらくいろんなところから脅迫めいた扱いを受けてきたに違いない。しかし、その中を20年以上に渡って活躍し続けたことは大いに評価されるべきだ。訴訟社会の中をうっかりとか、過ぎたとか、そんなこともなく続けたことも、こちらでのその手の出来事と比べると器の大きさの違いを感じさせられる。安定した社会から、様々なところに火種を抱えた不安定な社会に移行して、その中で強い国を保たねばならないとなれば、彼らのような人々の役割は更に大きくなる。一つの時代が終わっても、時の流れは止まることなく続いているのだから。

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4月5日(火)−手入れ

 地元紙への寄稿も既に3回を数えた。依頼原稿という性質か、あるいは編集方針によるものか、ほとんど手直しが加えられないままの掲載となる。ちょっとした手直しが入っても、それは段落の挿入かあるいは漢字の用法についてのもので、文章の変更にまで至ることはない。寄稿者の意向を尊重するためなのかとも思う。
 先日、この話とは別の形で同じ新聞の原稿の依頼が舞い込んだ。こちらは職場との関連で持ち込まれたものだから、正確には新聞社からの依頼ではない。職場の広告といった色合いの濃いもので、当然企画者の意向が大きく反映されたものになる。要求された分量の文章を適当にまとめて送り返したら、企画担当者から大幅に手直しを入れたものが送られてきた。曰く、シリーズものとして企画したのだから、文体などに統一を図ったとのこと。読者のために平易な文体を使用するようにしたという註がついた文章には、元の雰囲気などは存在しておらず、何とも嫌な思いがした。そこで、返事のメールを書き、元の文体の重要性とその意義を説きつつ、しかし編集方針が決められているのなら、そのやり方で発表しても構わないという主旨の意見を返しておいた。その後一切返事がなかったのだが、ある日ある会合でその組織の責任者に会ったら、開口一番その文句についての苦情のような意見を聞かされた。分かりにくい文章を分かり易く変えてやったのだから、感謝されこそすれ、反論される筋合いのものではないといったものだが、こちらの真意が伝わっていない気がしたので、文体の重要性を説いたうえで、どちらを採用するのかは企画者に任せた旨を伝えた。それで納得したかどうかは分からないが、この話を聞いて思ったのは企画担当者の仕事に対する思い入れとその空回り具合である。確かに、良いものを作って組織の広告に役立てようとする気持ちは理解できるし、自分がそのために重要な役割を果たしているという自負があるのもわかる。しかし、だからといって文章のもつ意味を壊すような手直しに意味があるとは思えない。ここでも意識的に使っていないが、一人称の表現は敢えて強調しなければならないときを除いて使用を避けるべきだし、ですます調とである調の使い分けも大きな意味をもつ場合がある。それを平易な文章は常にですます調であるという主張を無思慮に出して、そうすれば読みやすくなるという安易な考え方をもつのでは本当の意味での理解を呼び起こすことはできないだろう。手直しが送られてきたときもかなり頭に来たのだが、先日掲載されたものを見て、その気持ちが戻ってきた。何故と思うが、彼らにとってはそれが責務であり、書き手の真意などに振り回されてはいけないのだろう。結局、一人書き手が黙れば済むこととわかっているからこそ任せたわけで、それで多くの人々が満足できればいいのである。編集に携わる人々の考えはこれとはちょっと違ったものだと認識しているが、こういう類いの人々が他人の文に手を入れることは好ましくないように思う。

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4月4日(月)−駐車

 年度末の道路工事は駐車メーターの撤去のためだったようだ。そうでもないと、あの忙しい時期に大々的に工事をする許可も出にくかったのではないだろうか。周辺の駐車場の整備の具合や違法駐車の数から採算がとれないことがはっきりしたのだろうか。設置した経費などを考えると大いなる無駄という声が聞こえてきそうな雰囲気なのだが。
 メーター式の駐車区域は大都市では必ずと言っていいほど見かけるのだが、上手く稼働しているようには見えない。時間超過の印である点滅灯がついているメーターをよく見かけるし、端から手続きをしないで立ち去る運転手の姿も多い。たかが機械のやること、ちょっとくらいの違反は構わないということなのだろう。確かにこの仕組みだけでは違法駐車を取り締まることはできない。赤色灯が点滅していてもそれでおしまいであり、機械だけでは違反者を特定することはできない。そこで見回りをする人員が必要となるわけだが、多数の機械を見回り続けるだけでもかなりの負担だろうに、その中に違法駐車があれば警告書を貼り付けねばならない。ただし、これ自体は警察による駐車違反の取り締まりと同等の効力を持つものではないようだ。となれば、違反する人の数は中々減らず、当然のことながら駐車料金の収率も向上しない。ついには人件費さえ支払えない状態となり、結局廃止するしかないとなるのだろう。取締を厳しくして、罰金を取り立てればいいという考えもあろうが、その方向でこの制度を成り立たせるのは容易なことではない。根底にモラルの存在を期待しているかぎり、何らかの無理が生じるからである。一方、都会のど真ん中では地上げ屋の活躍の跡だろうか、小さな駐車場が目立つようになってきた。その多くは一つ一つの場所に車止めを出し入れする機械を設置する形式をとり、料金を支払った後に車止めが引っ込むようになっている。ここでも無法者が横行しているらしく、各所の経営者達が悩みに頭を抱えているそうだ。無理矢理車止めを越えて出ていく車や同乗者が車止めを踏みつけて出ていく車、その他様々なやり方があるそうだが、いずれにしても要求された料金を踏み倒しているわけだから、法律に違反していることは明白だ。人による監視では経費がかかり過ぎることから、ビデオカメラによる監視を導入するところが増えていて、その結果から違反者を摘発しているそうだ。手続きを見るかぎり、煩雑極まりないものと思うが、法律上はそういう手順を踏まねばならず、その手間は被害者がかけねばならない。違反者には十万円の罰金と謳った駐車場もあるそうだが、月極駐車場での警告と同様、その額の妥当性はあまりないのではなかろうか。いずれにしても、開き直る違反者の姿が報道されたりすると、この国の人々の心の中に潜む悪に寒けを覚えてしまう。海の向こうでは車止めではなく、鋸の刃のようなものが出てくるところがあり、出入り口に設置されているところも多い。愛車のタイヤを無駄にしてまで数千円の料金を踏み倒そうとする人はいないと思うが、このやり方はこの国には馴染まないのだろう。間違いを犯すのも自分の責任というのが基本となっている国と、間違いは起こすのが人間という寛容な態度で法律上のことまで考える国とでは、その辺りの事情が大きく違うからだろうか。バレなきゃいいという言葉が出てくるかぎり、こういう犯罪は無くなりそうにもない。

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