パンチの独り言

(2005年4月11日〜4月17日)
(不誠実、過程、良識、過剰教育、理解、新発見、操作)



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4月17日(日)−操作

 ガソリンの価格が急騰している。いつだったか、ほんの二日ほどの間にリッターあたりの価格が7円ほど上がっていた。7%の違いは非常に大きく、消費者物価に直接響くものだから、いろんなところに影響を及ぼすと心配されている。実際にはその原料となる原油の国際価格が急騰しているためであり、あらゆる化学製品の高騰に繋がりそうな雰囲気だ。
 工業製品のほとんどに原油の影響は及ぶ。直接の原料ということだけでなく、生産のための燃料などのエネルギー源としても利用されるからだ。当然のことながら先進国の経済に影響が出てくるはずで、それぞれの国の経済担当大臣が憂慮を示していると伝えられた。昨年あたりからこの急激な変化が起き始め、何度かの頂点を経ながら、高騰を続けている。始めのうちは、色々な解説が入り、高騰の原因を分析する動きがあったが、最近はそういう声もあまり聞こえなくなった。確かに要因を示そうと思えば、材料はどこにでもころがっている。同時に反対方向の変化の原因を探すことも可能で、結局はどんな時も両方向に動く要因があると言えるのだろう。そんな中でこれという候補を見つけ出し、それを使って解説することは分析を行う人間の役割であり、さらにその後の方向性を示すことも必要となる。しかし、そこには常に両方向の要因が存在するわけで、別の見方をすれば結果を見てから原因を探しているだけであり、必ずしも正しい要因を示しているとは限らないわけだ。原油についても供給の問題や消費の問題を取り沙汰していたが、それを含めてもこれほどの高騰を説明できるとは思えないし、ましてや先行きに対する心配からのものとするのにも無理がでている。実際には一種の操作が入れられていると考えたほうが簡単なのだが、それを言ってしまうとそういう相場の公正性が失われることになるから、言い出しにくいのだろう。あるいは、うっかりそういった発言をしたら、まずいことが起きるのかもしれない。いずれにしても、何が何やらわからぬままに価格はつり上げられ、末端消費者にとっては何とも理解不能な値上げのラッシュとなる。燃費から考えれば、10キロ走るごとに7円の値上げとなるから、一万キロ走ると7千円余計にかかることになる。これを大したことないと見るか、打撃と見るかは人によるし、頻度や距離にもよるだろう。何だかわからないままに、月に2千円ほど出費が増えたとして、さて家計全体への影響はいかほどだろうか。ただ、これはガソリン代についてのみ考えた結果であり、他のものにまで波及するとしたら、かなりの出費増加に繋がりそうだ。需要と供給のバランスによって価格が決まると思っていた人々にとっては、まったく理解不能な値動きであり、それが家計に響くとなれば不満がつのる。そういう不満や先行きへの不安が更に次の問題を産みだすとしたら、こういう問題を自由経済と呼んで放置するととんでもないことになるような気がするのだが。

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4月16日(土)−新発見

 クラシック音楽を好きという人は多いのだろうか、少ないのだろうか。中学の音楽の時間を思いだすと、とても多いようには思えないが、話をしてみるとファンという人は多い。この違いは何かといえば、おそらく好きなものを好きなように聴くのはいいが、これを聴けと命令されるのはかなわないということなのだろう。それとは無関係に興味なしという人もいるけれども。
 好きな人は好きな作曲家や好きな演奏家がいて、それに傾倒している場合が多いようだ。だからこそ、嫌いなものを押しつけられたらかなわないとなるのだろう。人それぞれとは言え、いろんな話題に事欠かないのも歴史のなせる業だろうか。有名な話だから敢えて取り上げるまでもないことだが、シューベルトの未完成交響曲は何故未完成なのかということでさえ、いろんな意見があり専門家の中でも議論の的となるらしい。魅力的な曲なのだが、それが未完成だからこそ価値を高めているという意見が出るほどで、かえっていい加減なものがついていなかったからいいとされることもある。多くの歌曲を残した彼は多作と言われ、未完成の曲も非常に沢山あることが知られている。だから未完成なものは有名なこれだけではなく、そこら中にあるということなのだ。多作な作曲家の曲には、交響曲などの番号だけでなく、全体の制作順にあてられた番号がついている。シューベルトはドイッチェ番号と呼ばれるDで始まるものを持っており、未完成交響曲はD.759となっている。未完成なのに番号かと思われるが、演奏されているわけだから、まあそんなものなのだろう。こういう形式を使っているので有名なのはモーツアルトだろう。彼の場合は、Kで始まる番号で、ケッヘルと読むのだそうだ。どちらの作曲家も多作だったが、実はどちらも短命だった。そんなことは共通も何もないだろうと思うが、まあ話のついでといったところだろうか。とにかく、そのモーツアルトが幼少のころ、といっても既に作曲はかなりしていたようだが、その時期に書いたのではないかといわれる交響曲の楽譜が発見されたという話がある。つい先日、どこかでその演奏会があり、聴衆の反応は取材の意図からかも知れないが、両極端のものがあった。つまり、彼のスタイルとは少し違っているけれどもその片鱗を感じるというものと、全然違ったスタイルでおそらく違う作者によるものではというものだった。最終的には専門家が判断するとのことだが、さてどういう判断が下るのか、更には何をどう判断材料とするのか興味を持つ人たちがいるようだ。8歳の頃に書いたなどという話まで出てくると、スタイルも何も他の曲と違っているのが当り前ではないかと思えてくるし、それとは別に小学生が交響曲かと呆れるばかりだ。確かに天才は違うから、感心するしかないのだが。本物か贋物か、いろんな興味が持たれているようだが、さて曲の真贋についてはどう判断するのだろう。少し前に盗作に関する裁判があったけれども、そんなものをどう判断するのか不思議に思ったものだ。とにかく専門家がやるということで何でも片付けられてしまうが、ちょっと興味のあるところだ。

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4月15日(金)−理解

 複数の組織が互いに協力しなければならないとき、どんなことが肝心になってくるのだろう。同じ企業の中で互いに競争関係にある部署が協力体制の確立を求められたり、別の企業がそういう関係になったり、こういう話は企業に限ったことではないから、かなりいろんな場合が考えられると思う。うまくいくかどうかについても千差万別なのだろうか。
 こういう話が出てきたときに必ず出される言葉の一つに相互理解がある。協力するためには互いの立場を理解し、ある程度の歩み寄りが必要とされるから、というのがそんな言葉が多用される理由なのだろう。しかし、言葉だけでの話に比べて、現場での理解ははるかに困難なものであり、遠い道程のように思える。実際に何をするのかが決まっていたとしても、それとは違う部分での互いの理解がなければ、全体を進めることは難しく、結局不十分なままでの見切り発車により暗礁に乗り上げる結果となってしまう場合も多いだろう。後になってみれば、互いの理解が十分ではなかったとわかるのだろうが、進行中にはそんなことを考えるよりも結果を出さねばならないという使命の方がはるかに大きなものとなるから、余裕をもって臨むことができない。たとえそういう気持ちが出てきたとしても、それを本当の理解に結びつけるためにはあと幾つかの段階を踏む必要があるのだろう。そんな中で大切になってくるのは、順序として難しいのだが、理解の前の信頼とでもいうのだろうか。多くの上手くいかなかった例では、疑心暗鬼がかなりの重要性を占めている。理解する前に起きるのは信頼ではなく、疑いであるということに反対する人はあまりいないと思うが、とにかくまずは疑ってかかれとでもいった感じとなる。場合によって、無意識な陽動作戦が展開され、それによって傷口が大きくなることも多い。疑っている人々にとっては、それを助長するような展開は強力な後押しとなる。しかし、実際には大したことでもないのに、大きく取り上げることで大袈裟な対応をしているわけで、もう少し冷静に取り組んでおけばどうということもないものが多い。それに気づかず、ただ被害者意識が複雑に絡んで展開することになるから、まとめることは不可能になるようだ。少し落ち着いて考えればいいわけだから、そういう具合にするとして、でも自分がそうするとしても相手がそうしなければという疑いも頭をもたげてくる。いやはやきりのない話だが、現実にそういうことは起きているし、大きな問題となる場合も多い。冷静に対応し、互いに忌憚ない意見を言いあい、そこからよりよい結論を導きだすというのは、頭ではわかっていても中々実行できないことのようだ。組織にせよ、国にせよ、はたまた個人にせよ、そういった感覚をもって話し合いの機会を持ちさえすれば、何とか解決の糸口くらいは見つけられそうである。きっかけ自体はそれほど難しいことではないはずだが。

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4月14日(木)−過剰教育

 読み、書き、算盤、寺子屋で学ばされたものであり、その後伝統的に学校で習うものと決められてきたように思う。これらを身に付けておけば役に立つという意味合いで、皆を集めて教えるという形で発生してきたものなのだろう。役に立つというのは、結局それがなければ生きられないという意味ではないから、始めのうちはそういう機会を得られる人は少なかった。
 明治に入ってもその傾向が大きく変わったとは思えない。変わったのはおそらく地域の格差が少し縮まったということくらいだろう。教育を受けられるかどうかは余裕のあるなしや家庭の考え方によっており、そういう基盤の上では機会均等ということは実現しなかったわけだ。それを大きく変えたのは義務教育という制度の導入だろう。それによって全ての国民に教育の機会が与えられ、読み、書き、算盤のできる人々を量産することとなった。当然のことながら、これによって文盲率は一気に低下し、簡単な暗算ならすらすらできるのが当り前となった。ただ、寺子屋時代と違い、学校で教わることは多岐に渡るようになり、基本知識として身に付けておくべきと考えられたものが次々に採り入れられたようだ。その後の展開は、義務教育のみで教育を受けることをやめてしまう人々が減少し始め、更に上の学校に進むことにより役に立つ知識を増やすとともに、人生設計において他の人々よりも有利になると考える人が増えてくることとなる。そうなれば教わる項目も急増し、その量も激増することとなる。必要だから仕方がないという考えの下、総合的な配慮なしに増え続けた量に対して、歯止めがかけられ低下傾向が出てきたのは、受験戦争が最も激しかった時代だろうか。一方、それによってできた余裕をどう使うかを考えたとき、それまでにあった教科には含まれないことを教えようという動きが起こり、生活そのものに密接に関係したものが導入されたようだ。そうなってくると人生やら生きるためやら、必要不可欠な事柄をも導入する必要が論じられ、人間形成の初期に授けられるはずの事柄についても、学校という組織が関与するようになった。読み、書き、算盤ならぬ、生きるための知恵を家庭に代わって学校がという考えが出てきたわけだ。その理由の一つには家庭での教育が不十分であり、学校での教育に対応できない子供が増加したという現象がある。必要だから導入したというわけだが、その結果、それまでにない負担がある部分に集中することになったのではないだろうか。それが原因で別の歪みが起こり、更に複雑な様相を呈してきたのが、最近の状況なのではないかと思える。家庭と学校の役割分担を明確にすることが重要かどうかはわからないが、互いに干渉しあう状況は良いとはいえず、どうも目標を見失っているように見えるのは誤解なのだろうか。そんな中で、更に生活必需知識を供給しようとする動きがあるようで、手を変え品を替え様々な項目が増やされている。現場で重視されているのがニーズだから、要求があればどんどん導入するのだろう。しかし、これが更なる混乱を招くことに気づいていないのではないだろうか。元教師が書いた本の中で、ある識者が学校の本来の任務について述べた意見を糾弾している部分があったが、現場にいた人間がこんな考えを持つことが大きな誤りであることに気づくべきだと思う。基本が何かを見失った中で、化粧で誤魔化そうとしているに過ぎないからだ。

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4月13日(水)−良識

 情報の担い手として、新聞、ラジオ、テレビなどは発達してきた。時代の変遷とともに伝え方が変化するだけでなく、情報の選び方、言葉の選び方など様々なものが変化している。変化は対応を基本としているから世相を反映したもののはずだが、実際には行き過ぎになることも多く、批判の的となることもある。中には自己反省から出たものもあるようだ。
 戦時中の情報伝達はいろんな形での規制がかかっていたからというだけでなく、関与する人々の国を思う気持ちが反映されたものとして、今は大いに反省すべきと言われるものになっていたようだ。実際に渦中にあった場合どんな対応ができたのか、想像することが難しいから逆の意味で批判をするのは簡単である。情報伝達に携わる人々もそういう立ち方で自らの属する組織が昔犯した間違いを強く批判しているようだ。しかし、今現在もそれとは違った形での間違いは頻繁に起こされているように思える。昔との違いは、それを監視する組織が設立され、受け手からの苦情を始めとする声を聞こうとする姿勢ができていることで、それによってある程度の歯止めがかかるものと思われている。実際どの程度の効力があるのかわからないが、はっきり言ってしまえば無いよりはましなはずである。ただ、そうしなければならないほど一方的な情報伝達における行き過ぎは日常化しているのではないだろうか。先日、戦争中の防空壕で子供たちが死亡する事件が起きた。親も先生も知らないところで起きた事件と伝える向きもあったが、一部の大人たちは自分たちも子供の頃そういう場所で遊んでいたことを話していたから、そこで遊ぶこと自体は特別珍しいことでもなかったようだ。しかし、遊び方の間違いから事故が起きてしまい、尊い命が失われることになった。間違いと言っても、酸素の足りない状況で何かを燃やせば不完全燃焼となり一酸化炭素という呼吸機能を阻害するものを作り出すということで、中学生であれば誰でも知識として持っているはずのことである。しかし、それがどんな状況で起きるのかについては学校で教えることでもないから、知識と実践の隙間の大きさがそんなことに繋がったということなのだろう。義務教育下にある子供たちについては特に学校の関わりが強いと言われるからだろうか、学校での周知についての話題が主体を占めていたようだ。次々に流される情報は、意外だったとか、知らなかったとか、そんなものが多かったのだが、その中で強く違和感を感じたものがあった。親を集めての集会の後の取材から、その一人が語ったこととして伝えられたのは、学校の指導が足りないという主張だった。ここ数十年の間、教育における学校の役割は年を追うごとに重要となるばかりか、その範囲も大きく広げられてきた。給食での先割れスプーンの使用中止はそのいい例だと思うが、社会生活を送るうえで必要な知識や知恵を授ける場所から、生きていくうえで必要なもの全てを伝達する場へ転換させられてきたといえるのかもしれない。これは主に家庭教育の崩壊や荒廃によるものと考えられ、一部の親達の責任転嫁や義務放棄の結果とも言える。今回の発言はその線に沿ったものと考えるといかにもと思えるのだが、しかし、非常識であることは確かである。そんな反省がなされたのか、一度きり流れた情報を二度と耳にすることはなかった。ここでは非常識な親の批判をするだけでは不十分で、そんな非常識に気づかぬほど無神経になっている情報伝達者も同程度かそれ以上に批判されるべきだろう。良識の代表者が自らその責任を放棄してしまったのだから。

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4月12日(火)−過程

 結果良ければ全て良し、よく聞く言葉である。どんなことが起きても、とにかく最終結果が良ければ、それまでの過程での失敗やら間違いやらは問われない、という意味も含まれているだろう。この言い回しは寛容さを表す部分があるように見えるが、実際にはとても冷たい表現である。結果が出なければどうにもならない結果至上主義とも受け取れるからだ。
 良い結果を手に入れるための努力が報われなかったとき、周囲の対応は正反対の様相を呈する。一つは結果が出なかったことに対する批判が相次ぐことで、到達することが必須条件となっている。一方、結果を出すための努力を評価しようとする動きもあり、こちらは過程とか道筋を重視する考え方に基づく。これらは両極端のように扱われるが、実際には相手によることであり、誰を対象にしても同じ考え方で臨むとは限らない。努力しているように見えて的外れなことばかりを漫然と繰り返す人間には、その評価を高める要素はほとんど無いが、偶然が重なって不幸な結果を招いた場合には、批判に終始するようなことは避ける。そんな状況の違いによる考え方の違いがあるとはいえ、やはり根本のところで結果を大事にする人と過程を大事にする人の違いがありそうだ。先日、光を使ったインスタレーションを得意とする芸術家の講演会を聴いたとき、それに似た話が取り上げられていた。インスタレーションを日本語にしようと思ったが、設備とか装置とか、そんな意味しかなく、芸術作品をうまく表現する言葉が見つからなかった。それはさておき、彼女が強調したのは、芸術家を養成する機関での教授法についてである。芸術については、それを作る人々に彼らなりの論理があることは認められているが、全体を包括する理論は無いと言われている。だからこれと決まった教授法があるわけではなく、教える側が何を重視するかによって方法自体が大きく異なることがあるようだ。芸術作品が全てであると言われる芸術家にとって、結果が全てであるわけだから教育の現場でも同じことと扱う人がいる。生徒が制作した作品の独自性を評価し、他には無いものを持つ人間の評価を高くする傾向はこういう人々が持つ。それに対して、その作品を製作した意図やそこに至るまでの過程を重視する人々は、作品の独自性よりも考え方の独自性を評価の対象とする。独自の考え方に基づけば独自の作品が産みだされるはずと思うところもあるが、実際には歴史上に多くの芸術家が次々に生まれてきたわけだから、誰もやっていないことというのはよほどのことしか残っていないようだ。にもかかわらず、作品の独自性ばかりを追い求めるのは何の脈絡もない試みを繰り返すことを推奨することになり、一発屋を輩出することはできても、質の高い作品を作り続ける才能を伸ばすことができないというのが、その人の主張だったと思う。この話は芸術というある特殊な世界にのみ通用するものと思えるかも知れないが、使う言葉を少し変えれば一般社会に十分通用する考えなのだと思う。過程は考え方と読み替えることができ、物事に対する考え方を磨くことは様々な分野で必要不可欠となっている。その部分を研鑽しておけば、始めのうちは大した結果が出なくても早晩より良いものが出せるようになる。考え方は基礎の基礎であるはずだが、点数至上主義の受験社会では余計なものだったり、邪魔者扱いを受けている。それが肝心なものを失わせる結果となってしまっては、指示待ち人間ばかりを育てることになることに気づくべきだろう。

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4月11日(月)−不誠実

 誰でも相手に自分と違うところを見つけるとおやと思うだろう。程度の差こそあれ、千差万別、違っているのが当り前とわかっているつもりでも、何となく気になるものである。しかし、その差が大きくなってくると、気になるだけでは済まなくなることも多い。上司なら何とかして欲しいと思い、同僚であれば軽口とともに伝え、部下なら忠告となるだろうか。
 組織の中ではこんな形で違いを認識し、それを何らかの形で是正に向けようとする。しかし、違っているのは二人の間であって、どちらが正しいという問題にはならない。お互いに相手の方がおかしいと思っていれば、いつまで経っても批判しあうばかりで何も変わらないことになるだろう。上下関係のないところの方がこの傾向が激しく、互いに譲らないことも起きるだろうから、場合によってはこじれた関係になってしまう。それに比べたら、上下関係ならば、必ずしもそうでないこともあるとはいえ、上の主張が正しいことになり、まあ形としてはまとまることになる。考え方の違いなどあるのが当り前なのだから、そこでどちらが正しいかを論じてばかりいるより、さっさと適正な結論を導くことに精を出したほうが良いに決まっている。しかし、そうは行かないのは意地のようなものがあるからだろう。こんなところから想像すると、親子関係や教育現場などのように、明らかな関係が結ばれているところでは、こんこんな拗れは生じてこないはずである。以前はまったくその通りであり、親の言うことが正しい、先生の言うことが正しいという論理が通っていた。しかし、いつの頃からか盤石であったはずの立場が揺らぎ始め、ついには立場が逆転しているのではないかと思えるほどのところも出てきたようだ。それが全ての原因かどうかは別にして、最近の教育現場、家庭で大きな問題として取り上げられているのは、障害を持つ子供の取り扱いである。身体的な障害の場合、既にいろんな場合が検討され、十分とは言えないかも知れないが、そのための施設も整えられている。しかし、最近話題になる障害は見た目で明らかなものでなく、どこかおかしいがよくわからないといった類いのものである。多動症とか学習障害とか、はたまた自閉症などといったものは、表面的に明らかなものもあるが、少し突っ込んでみないとわからないものが多い。これは親にとっても教師にとっても同じことであり、職業にしているから容易になるとは限らないようだ。その理由として、診断法が確立されているように見える割に、対応策が整備されていないことや、診断法自体も絶対的なものにならないことが挙げられるだろう。いずれにせよ、元々は他の子供と違うようだというところから始まったことだから、それに対するためには違いを認めたうえで、どんな対応をすべきかというところが重要となる。教師にせよ、親にせよ、勝手に動き回る子供や同じ発言を繰り返す子供を相手にして、誠実に対応すればするほど泥沼化する感覚に嫌気がさすことが多いと聞く。相手に対する期待があればあるほど、この差は広がるばかりだから、葛藤を繰り返した末に、諦めや怒りに変わってしまうのだろう。子供の個性を大切にする時代と言われた頃から、どうもこういう問題が生じてきたような気がするけれども確かとは言えない。しかし、大切とか誠実とか、そんな言葉を強調すればするほど底なし沼に嵌り込んでいるようにも見えるのだ。無視せよと言うわけではなく、どこかに線を引く必要があるはずなのだが、それを二つの言葉が妨げているようにも見える。その辺りの状況を再考することにこそ、解決の手だてがありそうに見えるのだが、どうだろうか。

(since 2002/4/3)