パンチの独り言

(2005年4月18日〜4月24日)
(自衛、査定、事実、踏襲、共通、愚直、便利)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



4月24日(日)−便利

 飽食の時代なのだろうか、いろんな拘りの店が登場している。都会に限られていたはずなのだが、最近は田舎にまで進出しており、それぞれに拘りを見せているようだ。地元の食材を使った料理とか、最高の食材に拘ったものとかが多いが、一方で世界中から食糧を輸入していることに対する反発があるからかもしれない。
 農家で取れたての野菜を食べたらとても美味しかったという話はよく聞くが、実際にその中にスーパーで買ったものを混ぜておいたらどうなるのかという考えは、穿った見方から来るものなのだろうか。味の違いだけでなく雰囲気の違いもかなり大きく影響するはずなのだろうが、そういう話はあまり紹介されない。結局のところ、食材の良さを主張することが第一なのだろう。取れたての野菜を使った料理が必ず美味なものであり、栄養価も高いという思い込みさえあれば、こういった店は繁盛するはずである。雰囲気に流されてしまう人々からすれば、こういう話は飛びつきやすいものであり、自分で決めるより他人に決めてもらったほうが安心ということの典型なのかもしれない。また、自分の人生は自分で決めるという助言が出された場合、とても困ってしまうわけだが、その時は人に決めてもらうという決め方をすればよいと言えばいいわけで、何しろ言い訳には事欠かない気がする。先日そんな店の一つに出かけてみた。農家料理と称する店は、まさにそれがぴったりの土地にあり、農家を改造したと思われる店では、厨房の裏に三和土にかまどがあり、湯を沸かしているのを見ることができた。雰囲気が大切ということなのだろうが、味の方はといえばまあごく普通といった感じだった。印象に残ったのは、料理を運んできたときにその説明をしてくれたことで、演出としてはわかるのだが、腹を減らした身にはその一瞬が気になってしまった。その時、隣の席にやって来た中年夫婦とその母親の会話を盗み聞きするわけでもなく、何気なく聞いていたら、母親の眼鏡の度が合わなくなったという話になっていた。レンズを替えればいいという助言になっていたが、困るのは裁縫の時らしく、ほつれやかぎ裂きの修繕の時に目がはっきりしないらしい。その時の夫婦の助言は、最近は便利なものがあるからそれを使えばいいということで、布用の接着剤があり、洗濯しても剥がれないという優れ物との話だった。布だから縫うのが当り前と拘る母親に対して、便利なものは使うのが当り前と反論する夫婦、この図式は何となく今の世相を表しているように思えた。便利なものをどんどん採り入れることで、何かを失っていることに気づかぬ世代は、ついに走りきるところまで行ってしまった感がある。そんな中で更に下の世代は失われたものを回復するために奔走しているのだが、そんなことを彼らは気づかぬふりをしている。便利とか効率とか、確かに重要なことなのかも知れないが、それだけで良いとは言えないだろう。心の問題や人間関係などでは、便利も効率も通用しないことが多い。にもかかわらず、それのみを追求することに明け暮れた人々はそこにも何かを求めようとする。まったく困ったものなのだが、この会話にもそんな雰囲気が溢れていた。更に上の世代が放置したから、というのは簡単なのだが、失われたものはそれだけでは戻ってはこない。

* * * * * * * *

4月23日(土)−愚直

 役に立つ、という言葉がいろんな所で使われる。役に立つ道具とか、役に立つ人間とか、そんなところは以前から使われていたけれど、学校で役に立つというのが日常的になってから、どうも様子が変わったような気がしてならない。価値判断というのか、それぞれに価値を決めようとする考え方は受け入れやすいのかも知れないが、度が過ぎるとどうもなのだ。
 世界的な紛争が起きなくなってから、既に60年を経過し、更には冷戦なる図式が消滅してからもずいぶんと時間が経過した。こうなると安定期に入るわけで、良い意味では安心して暮らせるが、悪い意味では上昇という歓迎すべき変化も起きなくなる。安定しているところでは、先行きについても予想範囲内に留まるだろうから、大きな勝負に出るより、小さくまとまったほうが安全という見方が大勢を占めるようになるようだ。だからと言うわけでもないだろうが、最低限の努力で要求を満たしておけばそれ以上のことは端から望めないのだから十分という考え方が世の中に蔓延ることになる。そうなれば、何が最低限かが注目されることになり、役に立つことと立たないことの区別をはっきりさせる必要が出てくるわけだ。いかにも時代に則した考えのように見えるから、多くの人々が飛びつくわけで、国内ではそれを危惧する声も聞かれ、政策的な問題を取り上げる人もいるようだ。しかし、世界に目を向けてみると、先進国と呼ばれる国の多くは同じ問題を抱えているようで、実際には政策が異なるのに結果が似ていることから、おそらく時代の流れによるものと考えたほうが良さそうな気がする。しかし、皆が同じ問題を抱えているから安心とは言えず、これからの変化に備えるために必要なことを少しは流したほうが良いと思う。それが受け手に受け入れられるかどうかはかなり重要な問題であるから、その感性を持つ人々をどう扱うのかを真剣に考えたほうが良さそうだ。これはある意味不器用な人間で、役に立つか立たないかという一般化した基準を使いこなせず、そういう区別なしに闇雲に取り組む姿勢が出ていることになる。いかにも愚鈍な印象を受けるだろうし、全体の進行速度も落ちてしまうだろう。そういう手間を省くために早道を見つけ、最低限を模索している人間にとっては、遠回りをする人間は役立たずと映る場合も多いのではないだろうか。しかし、将来を見据えたとき、そこに違いが現れるときがやって来るわけで、そうなってから応急手当を講じてみても、大した成果が得られないばかりか、結局乗り遅れてしまうことになる。今を楽にとか、今をよくしてとか、そんなことは安定した時代であるからこその考えなのだろうが、それに囚われることなく自分の道を探る意欲のある無しが結局のところものを言いそうな時代ということなのだろう。

* * * * * * * *

4月22日(金)−共通

 様々な国と取引することが当り前になってくると、互いの国の標準を相手に押しつけるわけにも行かないから、共通の標準を設ける必要が出てくる。二つの国の間だと、大まかな枠組みを決めることで何とか調整を図れるが、多数の国の間の話になるとそうも行かない。共通を拾い出すと言っても、それが見つからねば何ともならず、そこで止まってしまうからだ。
 いろんな形の標準があることは誰でも知っていることだろう。しかし、それを決める組織にはどんなものがあるのかとなると、ほとんど知られていないことが多い。各国の国内事情で決められる分もかなりあるから、表に出ることもなく何とか解決されるからなのだろう。一方、もっと全体論として取り扱うべきという意見もかなりあり、その例の一つがグローバルスタンダードと呼ばれるものなのだろう。言葉本来の意味は全体論そのものなのだが、それが生まれた経緯という点では、とても全体を指しているとは思えないものも多い。確かにこちらの国の標準とは明らかに異なっており、特に歴史の流れから重要と思われるものについては、それを破壊とか廃止してしまうのはどうかという意見も出される。そこで両者を共存する形でまとめ挙げようとする動きがあるのではないだろうか。しかし、現実にはグローバルなどというのは的外れな表現であり、こちらから見たら海の向こうの大国が自分たちのやり方を表現するために作り出したものとしか思えない。そうなるとグローバルなどという言葉は何の意味も持たず、当事者の間では単なるキャッチとしての認識が持たれる場合もあるだろうし、もっと実際的なものを表現しようとしているのかもしれない。実際にどんなメリットがあるのか、すぐに対応できるような気配はないが、そこには何らかの道筋がついていそうである。単に言葉の響き方に耳を奪われるのではなく、しっかりとその中味を見極めることが必要なのであり、それができてこそ外国との標準設定にも耐えられることになるのではないか。そういうことをすっかり忘れて、模倣に走るとか、真似に終始しようとする人々があまりに多くなると、状況はかなり厳しくなる。標準は確固たる地位を持つものであり、それを順守しようとする動きはいつも評価の対象となる。しかし、どこかずれているように思えるのは、標準そのものに疑問が抱かれてしまうほどのものがかなり巷に溢れているような気がするからだ。もう少し時間をかけて、多数の国が同時に賛成できるようなシステムができれば、もっと重要な案件もそれなりの解決が図られるのではないだろうか。まあ、そうやって作ったとしても、実際に役立つものになるかどうかはわからないのだが。

* * * * * * * *

4月21日(木)−踏襲

 このところ、ハウツー本の売れ行きがいいらしい。何をするにしても、まずは先人の真似から始めようというやり方は昔からあったはずだが、先人との接触の機会が少なくなり、結局直接伝授されることはほとんど無くなった。その代わりなのだろうか、誰か代表的な人が記したものが世に出され、誰でもそれに接することができるようになった。
 このやり方は以前の直接伝授に比べるとずっと効率が良い。実際にはそれだけでなく、以前なら秘伝と言われたものまで世に曝されるようになったわけで、時代が変わったと言わざるを得ないだろう。伝えなければならないものについての話だとまだ受け入れやすいのだが、最近のハウツーはまさかそんなものまでと思えるものが目立つようになっている気がする。つまり人との接し方やら、生き方、など、おやっと思えるものまでが対象となり、それがまた読者を集めているから驚きである。マニュアル人間と呼ばれる指示通りに動く人々や想定範囲内でのみ機能できる人々が増えてきているから、彼らにとってのハウツーは必須アイテムとなる。ここだけ押さえておけば十分という安心感からか、おぼろげながら知っていることでも確認のために購入する場合もあるらしい。しかし、よく考えてみると何となくおかしな感じもする。これだけ知っておけばという話は、例外に対する備えがまったく無いし、想定範囲内というのも同じ理由で通用しない場合が出てきそうだ。それでも例外は数少ないものであり、それに当たってしまったときには不運だったと諦めるといった風潮があるから、狭い対象にきちんと対応することをよしとすることとなる。ひょっとして起きそうだというくらい稀な出来ごとに対して備えておくのはまったくの無駄であり、それより他にいろんな楽しみがあるはずという解釈が成り立つようだ。だから最低限を確認するためにハウツーを参考にし、それを実践に移すことで無難な生活を送ろうとする。こう書いてしまうとあまりにも極端な例を引き合いに出しているように聞こえそうだが、実際にはそれほど極端とも言えまい。経済的に不安定といわれているが、実際にはそれほど窮地に追い込まれているわけでもなく、普通に振る舞っていさえすれば生活に苦しむことなどまずはなさそうである。そんな中で大切なことは負のイメージを持たれないことであり、そのためには失敗をしないように気をつけるのが一番の方法のようだ。結局それを上手にこなすためには、機会あるごとにやり方を学び、それを実行に移せばよいわけだ。前例に無いことを想定することも必要ないし、ましてや例外ともなるべき事柄は相手にしなくてもよい。そんな調子で安定社会における自分の地位を築いたところで、そろそろ溜まりに溜まった歪みが噴出するようになり、結局安定そのものが怪しくなってしまう。そう考えると、少ない選択肢の中で無難にまとめることが必ずしもいい結果を産むわけでもないことは、何となくわかってくるのではないか。

* * * * * * * *

4月20日(水)−事実

 このところ、マスコミがいろんな国際問題で賑わっているような気がする。元々、他の国のことに異常なほどの興味を抱き、他国の印象を気にする人が多い国だから、こんなことは珍しくもないが、それにしてもちょっと気にし過ぎではないかとも思える。しかし、その話を聴くかぎり、立場の違いでものの見え方があれほど違うのかと思い知らされるばかりだ。
 国際問題に限らず、人が複数集まればそこに見解の相違が生じるのは当り前のことである。目の前で起きていることは一つしかないにも関わらず、それの見え方が変わってくるのはそれぞれの視点が異なることやそれまでの経験に基づく判断が違ってくることによるのだろう。そういう雑多な、場合によっては相容れない状況にあって、ある程度の総意を導き出す作業はかなりの手間がかかるし、それを省きたいと思う人々も多い。そんなことから、なあなあと呼ばれる過程を経て、何となく議論を導く人々が彼らなりの結論に総意をまとめていくことになる。確かに、これをすれば一部の人を除いて省力化ができるし、信頼できる人々がそれに当たれば全体が間違った方向に向かうことも少ないだろう。いろんな意見が思いつきで出されたら、それこそそれらをまとめるだけで大変な苦労を伴うことになってしまう。それに比べれば、始めから議論の向かう先を設定し、そこに向けての議論を築き上げていけば手間の程度はぐんと軽減されるに違いない。しかし、これは結局一部の意見の集約であり、全体のまとめとは呼べない代物になることがあり、破綻を来すことも多くなる。特に、指導者が全体の雰囲気を読みつつ方向設定を行っているうちは大した脱線は起きないが、少しでも利己的であったり、思惑ばかりが先に立つようでは賛同が得られなくなる。そうなってしまうと今度は総意をまとめること自体に困難が伴い、いつまでもまとまらなくなる事態に陥る。見解の相違があることは当り前であり、それぞれの立場により、思惑により、その他様々な要因によって、いろんな違いが生じることを前提として議論を進めれば、無理矢理どこかにまとめることもないだろうし、拙速な動きも少なくなる。ただし、これは手間ばかりがかかるように思えるから、それなりの覚悟をせねば手を出しにくいものだろう。国際問題において、よく取り上げられるのは何が事実なのかという事柄なのだが、これについても上に書いたことがあるとすれば、当然のことながら一つの事実を導き出すことの難しさを認識できるはずである。問題が生じたときに、それに対する付け焼き刃的な手当てばかりに精を出すと、早晩それぞれの問題解決の間での歪みが大きくなり、結局のところ何もまとめられなくなる場合が多い。確かに問題が生じているときにすぐに手当てすることは重要なのだろうが、全体を見渡す観点なしにそれを行えば無責任の積み重ねとなりかねない。きちんと議論することの重要性を論じることも大切だが、その前に互いに受け入れられない部分が必ずあることを、どこか隅っこでもいいから思っておくことが重要なのではないだろうか。起きたことは一つでも、いわゆる事実は一つしかないとは限らないもののようだから。

* * * * * * * *

4月19日(火)−査定

 今の世の中は認められているかどうかが肝心なのだそうだ。誰に、どう、という問題があると思うが、とにかく、誰かに、認められたいという欲求に満ち溢れていると言われる。子供の頃、そういう思いがあったかどうかはっきりとした記憶はない。でも、何らかの形でそれが行われていたような気がする。ただ、今と違うのはそれを意識することがなかったことだ。
 社会の中の存在として認められることが精神的な支えとなるという話を聞く。確かに、誰からも注目されず、誰からも相手にされないとしたら、そこに自分の存在意義を見出すことは難しいだろう。でも、逆の見方をすると、はたして誰にも気づかれずに一生を送ることが可能なのか。これはありそうにもないように思える。にもかかわらず、自分のことに周囲が気づいていないと悩む人が多いのは何故だろうか。全ての人に当てはまるとは思わないが、こういうことを悩んでいる人の多くが他の人のことを認めたがらない、あるいは正しい評価をしたがらない傾向にあることに気づかされることがある。自分は認めて欲しいが、他人を認めることをしないというのは、ちょっと考えるとおかしな話で、そんな身勝手なことはないだろうと思うが、本人たちに言わせれば、彼らは認められる価値のない人間ということになるのだそうだ。そこまで聞くといかに身勝手かがわかるわけだが、当事者の心にそういう認識は生じない。ただ単に、認めてくれない他人がいて、自分を貶めているという認識があるのみのようだ。そこに気づいたとき、認めるとか認めないとかを論じる前に、正しい評価を行うことの重要性を再認識したわけだ。これは自己と他者との間で区別なく、同じ指標で測ることを意味し、その結果を受け入れることで、他人も自分も同等な尺度で評価することになる。そうすれば、認められない自分のことを悩むより、他人を認めるかどうかに悩み、その結果としてお互いに認めあうことができるはずなのだ。評価という手法は本来簡単なものなのだが、そこに心情やら感情やら、そういった類いのものが入ってくることで、簡単に乱れてしまうものだから、扱いにくいと思われている。また、他人の評価はしたいが、自分の評価はされたくないという、矛盾とも思われる感覚を持っている人も多く、そのこと自体を避けようとするところもある。だからなのか、一時期自己評価なるものが流行し、給与や地位についてそれを基準に決めようとした企業が登場した。当時、かなり注目されいろんな所で取り上げられたが、その後どうなったのやらあまり取り上げられなくなった。今でも上手くやっているのかも知れないが、初めて聞いたときの感じは他人の評価が下手な人に自分の評価はどうだろうかということだ。ただ、一部には自己評価によって責任を持たせることに意味があるという捉え方があったから、そこに導入の意義が存在したのかもしれない。いずれにしても、状況が変わったと思えることから想像するのは、責任そのものに対する考え方に差が生じ、制度自体が回らなくなったのかもしれぬということである。とすると、そんな人々が溢れた世の中で、評価し評価されることの難しさは更に高まっていくような気がする。

* * * * * * * *

4月18日(月)−自衛

 ひと月ほど前だろうか、高速道路を走行中のバスから児童が転落し、後続車に轢かれて死亡するという事故が報じられていた。どんな理由で窓を開け、そこから落ちてしまったのか、詳細は明らかにされないままで、誰もが寝ている最中に起きたことのようだから謎のままになりそうだ。本人がしたことだとすると、更に謎は深まるわけだが。
 車から手を出すなとか、顔を出すなとか、小さい頃に注意された人もいるだろう。風を受けて気持ちがよいからという理由で子供たちは喜んでするのだが、事故が起きてしまえば命に関わるものとなる。かなり昔のことだが、サンルーフなるものが流行していたころ、そこから頭を出していた子供が車高ぎりぎりの線路をくぐる通路の上部にぶつかって死亡する事故があった。子供たちに落ち度があるかどうかを問うても仕方なく、結局親の問題という片付け方がなされたように記憶している。ただ、この国では何かを失った人に更なる追求をするのを遠慮する風潮があるから、それ以上何も起きなかったのかもしれない。別の見方をすれば走る凶器となりうる車について、歩くほうだけでなく、乗るほうにもそれなりの注意が必要となる。これらの例はまさにその典型であり、箱の中に大人しくいるかぎりある程度の安全が保証されるのに対して、外に対して何かをすれば凶器の犠牲者になる可能性が出てくる。それを未然に防ぐのは大人たちの責任であるはずだが、楽しんでいるからとか、どうせ言うことを聞かないからとか、子供たちの責任を重視しているかの如くの理由を並べ、ちゃんとした躾をしないことが多くなっているようだ。少なくとも命に関わることくらいはきちんと教え込むべきであるにも関わらず、そんな態度に出てしまうのは親として失格と言わざるを得ない。チャイルドシートなるものが義務づけられたときも、子供が嫌がるからという理由で装着を拒む人々がいた。それなら、車に子供を同乗させなければいいわけで、そちらの問題を考えもせずに、言い訳に終始するような態度は見苦しいと思える。それと似た話と言えるかどうか、ちょっと広げ過ぎな気もするが、最近犬を乗せている車をよく見かける。子供と同じような扱いをしている家族も多いだろうから、犬に対して自分の子供に対する躾と同様な扱いをすべきかとも思えるが、さてその辺りどうなのだろう。というのは、車に乗せられた犬の多くは外の景色に興味があるらしく、車中でうろうろやっているのが見えるからだ。そこまででも、事故が起きたときどうなるのだろうかと他人事ながら心配してしまうが、更に窓が開けられそこから頭を出す犬を見ていると心配を通り越してしまう。自分の勝手なのだろうが、飼い主の考え方も犬が喜ぶからといったところなのではないだろうか。子供と犬を置き換えるだけで、そのまま通じてしまうのが恐ろしいところで、そういう考えの飼い主が子供に対してどんな対応をするのか何となく想像がついてしまう。人間と犬は違うものという人もいるだろうが、家族同様という人たちにしたらどうだろう。いやはや何とも、と思う。

(since 2002/4/3)