パンチの独り言

(2005年4月25日〜5月1日)
(起業、デマ、身内、嫌臭、株主、神話、制服)



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5月1日(日)−制服

 時代の移り変わりとともに、服装も変化するとよく言われる。その一方で、変化は循環の如く、何年か経つと昔の流行が復活するとも言われる。気にすればそう見えるし、実際には似て非なるものとも見える。それにしても学生の制服はどんどん変化し、昔の面影なぞ、どこにもないように見える。事情がいささか違っているのだろうか。
 何十年も前のことになるが、当時の学生服と言えば、男は詰め襟、女はセーラー服と決まっていた。何故そうなったのか、それはそれで興味のあるところだが、男の方は戦前から続いてきた風習のようだし、女の方はさていつ頃から始まったのだろうか。自分たちの時代でも詰め襟の評判はよくなかった。理由はいろいろとあるだろうが、最近話題になる「ダサい」という話はなかった気がする。何しろ、そんな言葉は聞いたこともなかったのだから。実用的な面からの苦情が多くあり、中でも話題になっていたのはその名の通り詰め襟のことである。首が太めの生徒たちにとってあれは拷問のようなものらしく、本来の姿とは似ても似つかぬ着こなしをしていた。つまり襟のホックを留めず、さらには一番上のボタンも開けたままという何ともだらしない姿をさらしていたのだ。そういう生徒向けのサイズがあったのかわからないが、とにかくそういう対処で誤摩化していた。もう一つ苦情の的となっていたのは、襟のカラーのことである。あれがひび割れると皮膚や髪の毛を挟んで困るのである。こちらは服の管理の問題だと思うのだが、襟の部分を折り曲げることで起こることで、詰め襟自体の問題とは違うような気がした。とにかく、そんな具合で評判の悪い詰め襟はその後徐々に姿を消し、ブレザーという新しい制服の形が確立されていった。これで詰め襟の不自由から解放されると考えるのはどうも甘いらしく、その代わりのものとして用意されていたのがネクタイだった。最近の生徒を見ているとだらしなさの程度は昔と変わらず、シャツのボタンを留めず、ネクタイもだらしなくぶら下がっている姿をよく見かける。ただ縛っただけとしか思えない者までいて、こんな姿を外にさらすのは家族の恥なのではなどとまで思いたくなる。必要性に迫られるところもあるらしく、ネクタイの縛られた形のものが用意されていて、それを襟にとめるだけという学校もあると聞くが、何とも不思議な気がしてくる。とにかく楽になればいいという訳なのだろうが、それが何を産み出すのか考えもしないのではなかろうか。こんなところにもこの頃の合理的な考え方なるものが蔓延っているのかと呆れるばかりだが、そんなことを思いもしない人が多いらしい。さて、このままどこに向かうのか、こちとらとしては見守る気なんぞ一つもないのだが。

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4月30日(土)−神話

 安全かどうかはこの国では一番大切なことかもしれない。安全第一を掲げた工事現場、世界一の安全を誇った国、そんな感じがするのだが、どうも過去のことになり始めているようだ。合理的という馴染みのない考え方が様々なところに導入され始め、以前とは違った状況になっているにもかかわらず、庶民はそれを感じ取れない。そんなところから神話が出来たのだろうか。
 このところいろんな事故が相次ぎ、犠牲者が出ている。それも大量の死者が出た事故に限らず、欧州や国内のバスでの事故、船での事故など、こういうことは重なって起きると言われているが、それにしてもいっぺんに飛び込んでくる。国内のことに関してのみ神話が通用するはずだが、実際に問題を論じるためには外国での事故は参考になることが多い。特に気になったのは、高速船の事故に関する報道だ。原因も何もわかっていない状態だから、事故そのものを論じることは時期尚早だろう。しかし、犠牲者の状況から安全意識の問題を論じることは出来そうだ。乗客の詳しい内訳は忘れてしまったが、玄界灘を渡る高速船であちらの国とこちらの国の人々が大部分を占め、その他外国からの観光客も混じっていたと聞く。ところが報じられた怪我人の大部分はこちらの国の人々である。数から言えばわずかなものだから、これを引き合いに出して意識の問題を論じるのは乱暴なのかもしれないが、他に犠牲者がいないとしたらどこかに問題があるとしても一概に無茶とも言えないかもしれない。実は、怪我をしなかった人が話していたことが印象に残っていて、ベルトを締めなかった人がという話だった。船でもシートベルトが付いているのかと驚いたが、確かに高速であればあるほど安全のための設備は必要だろう。すべての怪我人がという訳でもなかろうが、ベルトの着用については思い当たるところが多い。バスの事故でも死者の一部は車外に投げ出されていたという話だ。飛行機に乗っていても、ベルト着用の表示が出なければしなくてもいいと思う人が多いらしく、最近は注意を促す放送が流されている。エアポケットに入り急激な下降がおこったときに、天井に向かって飛んでしまう事故があるからだ。乗務員は乗務にあたっているからそういう事故もやむを得ないが、乗客は防ぐ方法を持っているはずである。にもかかわらずこんな事故が多発するのは、意識の低さを表しているとしか思えない。何度注意しても無くならないのは、すべてを他人事にしてしまう感覚と神話にすがる他力本願によるものではないのだろうか。だからこそ安全を誓いにして、その努力をすることが企業や関係者に求められている。そんなことはあり得ないという合理的な考えを持つ国では、自分の身を護るのは自分という意識が徹底されているからかこんなことは起こりにくい。どこに問題があるのか、確かに責任という意味では管理する側にあるのだが、それだけで片付けてしまっては同じことの繰り返しである。速度超過を強要したかのような話で終始するのではなく、そこにある個々人の問題を自分のこととして論じることが必要なのだと思う。たとえそれが死者に鞭打つことになるにしても、だ。

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4月29日(金)−株主

 会社は誰のものか、という問いが飛び交っている。例の騒ぎの後、特にこのことを重視する動きがあり、改めて考えさせられる。ただ、積極的に発言している人々は一部に限られているようで、彼らの意見が社会全体のものとも思えない気がする。騒ぎの余韻が残っている中では、企業と株主の関係のみに話題が集中するからだろう。
 株式会社であれば株によって資金を調達している訳だから、株主一人一人が会社の持ち主と言えるのかもしれない。その辺りを拠り所にして議論が進められているが、実際には売買の動向を眺めているだけでも、持ち主といった感覚は馴染まないように思える。デイトレードに限らず、最近の株の売買は短期が中心となり、ある人物がその企業の株主である時間はかなり短くなっている。配当が絡む時期でも、その権利を得るために買う人々がおり、得てしまったら再び売ってしまうことになる。こういう形で果たして持ち主といった感覚があるのかどうか疑わしく思える訳で、結局配当などの権利についての主張のために所有権を引き合いに出しているに過ぎないのではないだろうか。持ち主であれば、持っていることに対する責任が生じる訳で、例えば自動車は運転者の責任だけでなく、所有者の責任が問われる場合がある。同じように考えれば、株主もその企業の構成員と同様に何らかの責任を果たす必要が出てくる場合があってもいいはずだ。しかし、実際にはそうなっていない。これは株の購入によって生じる権利はある限られた範囲でのものであり、責任に関しても同じことが言えるからだ。そう考えればどんな権利が与えられているのか明確になるはずで、そこに会社そのものの所有者かどうかの議論を入れる必要もない。そう考えてくるとこのところの議論はなんだか変な勢いがついてしまった結果として、ある部分だけが強調されているように思える。何か大切なことに心が奪われてしまい、冷静に判断することができなくなっているのではないだろうか。確かに権利を主張することは大切であり、あるファンドの関係者はことあるたびにそのことを強調する。それはそれで構造的には当たり前のことなのだろうが、どこかに矛盾が感じられるのも事実である。特に、今回のやり取りのように、ただ一時的な投資とそれによる利益の追求が前面に出てしまうと、どうにもやりきれない気持ちばかりが前に出る人も多いだろう。仕組みとして理解できても、その動かし方に疑問があると納得しにくいものである。関係者は最善の策を講じたのかもしれないが、株主に対してという言葉が出されるたびに、首を傾げる人もいたのではないだろうか。最善の策が株主全体ではなく、一部の大株主にだけ向けられたものだとしたら、そこには大きな矛盾が生じるからだ。今回の顛末では結論はまだ出ていないと言うべきで、これからもまだ二転三転あり得ると見る人もいるだろう。そんな中で、大部分の株主はただ振り回されるのではないだろうか。企業の経営にある形で参加していると見なせば、いろんなことがわかりやすくなると思うのだが、今の傾向はそれ以上のものを望んでいるように見える。金が絡むことだけに冷静にという言葉も効力を失っており、これからもいろいろとありそうだ。しかし、基本的な概念くらいは押えておいた方がいいと思う。

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4月28日(木)−嫌臭

 嗜好品に関してとやかく言われたくないと思う人も多いだろう。自分のために品を選び、それを楽しむことを邪魔されたくないということだ。しかし、それが周囲の人々に何らかの影響を与えるものだとしたら、話が違ってくる。香りや音などという勝手に飛び込んでくるものは、防ぐほうの問題より出すほうの問題とするのが本筋のような感じがするからだ。
 嗜好品の中でも最近槍玉に上げられているのは煙草ではないだろうか。ほとんど税金と言われるほど国や自治体の財政に寄与するものだが、一方で健康を害するという理由での制限が厳しくなっている。歩き煙草を禁止する地域はかなり増えているし、飛行機は既に長距離のものを含めて全面禁止となった。肩身の狭い思いをしているのではと心配する向きもあるだろうが、愛煙家達は諦めにも似た心境なのではないかと思う。この手の運動でははるか先を行っている海の向こうの国では、建物の外で煙を燻らせている姿をよく見かけるし、場合によっては自宅以外では吸わないという人もいるようだ。もう一つの海を挟んだところでは、それほどの制限はなく比較的寛容な社会が形成されているが、それらの国から渡ってきた人々は自分に対しても他人に対しても厳しい制限を設けることに抵抗はないようだ。どういう理由で吸うのかは人それぞれなのだろうが、必要としていることは確かなようだ。禁煙のための薬も市販されており、今ではテレビの広告も煙草のものよりこちらの方が頻繁になっているのではないかと思えるが、社会的な要求はかなりのものなのではないか。しかし、一度始めたことを止めるのは簡単ではなく、決意の割には中途で断念する人も多いと聞く。これだけ忌み嫌われているにも関わらず続けるのは何故か、経験のない者にはわからないということなのだろう。しかし、こういう状態になっても気になることは沢山ある。たとえば禁煙車や飛行機に乗るとき、隣にやって来る人の体からはつい先ほどまで煙に包まれていたことがはっきりとわかるほどの臭いが発せられる。本人にとってみれば、これから数時間続く地獄の責め苦に備えて準備してきたということなのだろうが、その臭いさえ嫌だと思う人々にとってはこれは迷惑千万ということになる。これでも我慢しているのだと主張されるのだろうが、何とかならないものかと思うことしきりだ。最近はホーム上での喫煙も禁止されているからあまり見かけなくなったが、以前は新幹線の禁煙車両への行列の中で喫煙する非常識がまかり通っていた。これから我慢するのだからという自己中心的な考えは周囲に対する配慮に欠けており、更に言えば自らが被害者であるかのごとく振る舞う。しかし、そういう人々は喫煙車両に乗ればいいわけで、なんと勝手な考えかと呆れてわざと聞こえるように文句を言ったこともしばしばである。飛行機は違った環境だからそういう選択肢はないが、それにしてもと思うことはある。ぎりぎりの時間まで喫煙スペースで煙を貯め込み、そのまま機内に飛び込んでこられてはこっちがたまらない。最近喫煙場所に空気清浄機を設置するところが多くなったとはいえ、まだまだ臭いに対する対策までは行き届いていないようだ。愛煙家達にはわからぬことなのだろうが、嗅覚が鈍るまで狭い座席で待ち続けるのは別の意味での地獄の責め苦なのである。あっちも我慢、こっちも我慢では、ギスギスした社会ができてくるだけなのかもしれない。

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4月27日(水)−身内

 正当な評価を求めることは強く要求されるが、自ら正当な評価を下すことは難しいと感じるというのが、この国の人々の特徴なのではないだろうか。以前は求めるほうも諦めにも似た感情が入り交じって、何となくそのままにということが多かったが、いつの間にか要求だけは強くなった。その傾向が出れば出るほど、評価する側の対応の遅れが目立つように感じられる。
 どちらの立場にあるかによって態度を大きく変えることは人として当然のことかもしれない。中立とか公正とか、そんな言葉がよく使われるが、実行することはかなり難しいようだ。大きな理由の一つはものの考え方にあるように思える。つまり、いろんな立場からものを眺め、それについて考えてみるという習慣を持っていれば、完璧な客観性は難しいとしても独り善がりの判断はしにくくなる。これだけと言われたら、そんなに簡単なことではないという反論が返ってきそうだが、実際に多くの場合はそういう視点や意識の欠如が原因となっている。逆に身近な出来事や身近な存在に対しては、感情が大きく影響し、好きとか嫌いとか、はたまた自分にとって有利かどうかとか、そんなことで評価が異なってくるわけだから始末に終えない。他人のそういうところは目立つもので、身内に甘いという意見がよく出る。しかし、そういう意見を出した側について眺めてみるとよく似たことをやっているわけだから、他人のふりを見てという話がまさに当てはまることになる。事件が起こるたびに関係者なりの分析が出され、その偏り方が議論の対象となる。それはそれで重要なことであり、事件の原因という点では偏向した分析では間違った方向に導かれることになりかねない。常に中立的な人々が立ち会って分析に当たるのであればいいのだろうが、専門家であればあるほど無関係というわけにも行かないだろう。また、そういう時だけでも中立を保つという当り前の態度でさえとれない人が多いから、話は難しくなる。結局のところ、非専門の人々ばかりが批判的な見方を披露し、専門家達はそれに比べると抑えた意見を述べることが多くなる。どちらが正しいのか、その場で判断することは難しいが、やはりいい加減な見解ばかりが表に出るような事態は避けたいものだ。こういうとき身内かどうかばかりに話題が集中するが、現実にはその区別を持ち込むこと自体が間違いを産むわけだから、そこにもっと注意すべきだろう。区別のある中で判断が鈍ってしまうというのであれば、区別のない状況を作る努力をすべきだし、究極的にはどんな状況でも正当な判断、評価を下せるような準備をすべきとなる。簡単なことでないのはよくわかるが、こんなことが起こるたびにこの手の話を持ち出す割に、結局はそれっきりとなることにもっと注意を払うべきだろう。一時的な盛り上がりがニュースを取り上げる側にとっては重要なのだろうが、本質的な変化を起こせない批判では責任を果たしているとは言えないのではないだろうか。

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4月26日(火)−デマ

 何か事件が起こるたびに憶測が飛び交う。大震災のあとの憶測により、根も葉もない噂が飛び交い、結局大きな事件に繋がった話もある。憶測は一種の情報であり、それがありそうにもないことならば誰も相手にしないのだが、どこかに可能性を見出せるようなものの場合、ついそれに乗せられてしまうことがある。日頃の考えとの合致が鍵となるようだ。
 情報はどんな社会にも流れているが、その量はそれぞれでかなり違う。ずっと昔から人と人の間で情報交換は行われており、そこに憶測から噂が作られ、デマと呼ばれるものが流されるようになる。噂は一方的に膨らむものと相場が決まっているらしく、次々にらしいものが付け加えられ、極端な方向に発展していくことが多い。表現も、らしいから、だそうだとなり、ついには断定的なものとなる。見ていないからこそ強く表現できるという何とも矛盾した話があり、自分の目で見たものならばここまでしか言えないという話が、想像を超えるほどの域に達するわけだ。こういう流れに関わる人々の心の中でどんな動きが起きているのかよくわからないが、とにかく真剣に噂の改変に関係する人がいる。真剣と言っても捏造に力を入れるという意味ではなく、ただ単にそのことが気になり更なる分析を独自にしようとするという意味だ。そこには騙してやろうとか、人を乗せてやろうとか、そんな気持ちが働いておらず、ただその話が心配になっているだけだから、ことは複雑になる。わざとやったり、恣意的だったり、作為的であったり、そういう類いのことがあれば、彼らの責任は結果次第ではかなり大きなものになるのだが、実際にそういう意思が働いていない場合、責任云々は問えなくなる。たとえどうにもならないほど大きな影響を及ぼしたとしても、作為が無ければどうにもならないわけだ。では、そういう事件の責任は誰がどう取るべきなのか。結局のところ、噂の流れに関与した人々全てに責任があると言うしかないだろう。他人から言われたことを別の人々に流しただけといえばその通りなのだが、実際にはそこで判断の入り込む余地はあるだろうし、自分なりに調べたり、検討したりすることも可能なわけだ。それをやらずして、ただ無思慮に噂を広げることはよろしくないということである。流した本人が悪く、それを受け取って信じた人間は悪くないという話もあるが、もし受け取った人間がまた他の人々にそれを流したとしたら、この話は加害者と被害者が玉突きのように変わっていくだけになる。情報の吟味の大切さはあまり議論されず、それも情報に関与する期間に限ったもののように扱われている。しかし、情報化社会などというように社会全体に情報が急激な勢いで流れてしまう時代には、構成員全てに吟味の意識が必要となるのではないだろうか。その意義を認識させ、手法を伝授することは手間のかかることだが、今のままだと衆愚社会が形成されてしまうような気がしてくる。

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4月25日(月)−起業

 株式会社の設立経費が大幅に引き下げられてからどのくらい経過したのだろうか。この機に乗じてということか、多くの俄起業家が登場し、マスコミを賑わしている。ただ、この仕組みにはちゃんと制限があって、たしかある期間を過ぎたら以前同様の縛りが要求されるとのことだ。つまりは、その期間内にそれなりの成果が無ければそれでおしまいというわけだ。
 起業化とか、ベンチャーとか、言葉自体の響きはとても良いように思える。組織に属することを忌み嫌い、独自の路線を歩みたいと願っている人々にとっては更に魅力的な響きがあるのだろう。それにしてもよくもまあこんなにと思うほどの数の会社が設立されているようだ。それぞれに特徴を持っているとはいえ、実際に収益を上げられるほどかどうかは独自性とは別のところで決まるようだ。まったく新しいものだから成功するとは限らず、新しすぎて受け入れられなかったという話はよく聞くし、提案自体は良くても収益性が低いために長続きしないものも多い。人の欲求に沿った形のものでも、商売として成り立つかどうかは別の問題のようだ。それでも情報化社会という流行に乗って、様々な会社が情報という実体の無いものを売り捌いている。実体が無いからこそ、成功したときの爆発力はかなりのものなのだが、それが裏目に出ることもあり、必ずうまくいくと限らないところが商売の難しさだろうか。そういう新規の事業を興す人々がいる一方、旧来の事業を改変して新たな市場を開拓しようとする人々もいる。起業家という意味ではまったく新しいものを作るわけではないから、少し外れた感じがするかも知れないが、従来のやり方では思いつかなかった方面への発展という意味で新しさを売り込めば十分ベンチャーと呼ぶに相応しいものになるのだろう。旧来とか、従来という言葉は、どちらかと言えば起業にとって捨て去るべきものだったり、否定すべきものだったりするようだ。まずは以前のやり方を完全否定することによって、まったく新しい考えを引き出すというやり方もあるが、それが最適という主張には賛成しかねる。旧式でもそれまで培ってきた手法には必ず良いところがあり、それを活用することを始めから拒否していたのでは選択の幅が狭まるからだ。しかし、どうもこういうやり方はぬるま湯的で改革には結びつかないと思われるらしい。逆転の発想やら、破壊による改革などといった考え方を基本とすれば、いかにもいい加減に見えるからだろう。しかし、成功例の多くは従来方式を熟知したうえで行われたものだし、単なる思いつきだけを並べていたのではきりがないこともよくわかる。若い考えを導入するためには教育が必要と言うことで、育成プログラムを提案する組織も多いようだが、即効的な効果を望む声からだろうか、あまりにも極端な方法に走ることが多すぎるように見受けられる。一時的には効果があっても長期には続かないのであれば、結局関係する人々にとっての恩恵はほとんど無く、破壊による再生不能な抜け殻を残すのみとなってしまう。それはそれで良い勉強などと言う人がいたとしたら、関係者は文句の一つや二つ言いたくなるのではないか。まあ、そういうことがわかったうえで両手を挙げて歓迎したと言われてしまえば、反論の勢いもなくなるのだろうが。

(since 2002/4/3)