パンチの独り言

(2005年5月9日〜5月15日)
(衝撃、打算、見解、売買、心配、対策、更生)



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5月15日(日)−更生

 人間は本来同じような能力を持つという考えがある。人それぞれの違いは生来持ち合わせた能力の違いではなく、生まれた後に身に付いたものの違いによるものというのが基本のようだ。だから、たとえ違いがあったとしても何かしらの働きかけをすることでそれを同じになるようにすることができると信じる人々がいる。知能的にも精神的にも肉体的にも、なのだそうだ。
 こんな書き方をするとそんなはずはないと断言する人ばかりかもしれない。しかし程度の差こそあれ、現在行われている教育の多くはこんな考えに基づくものだ。人は皆同じ能力、素質を持つはずだから、その範囲内については個人差なく能力を発揮できるはずとなる。小難しい表現でわかりにくくさせているだろうが、これだけは覚えようとか、これだけはできるとか、そんな表現を聞いたことがあればどんな状況かわかるだろう。ただ、学習能力では項目ごとにそんなことがあるが、運動能力についてはそんなものがないように見える。つまり50メートルを9秒で走れるようになろう、などとは誰も言わない訳だ。実は、運動と知能については表現に大きな差がある訳で、当然最低限という設定も大きく違う。しかし、これだけは覚えようという設定も実際には運動で言えばどの程度のものなのか、そんな見方で置かれたものではないだろう。要は勝手に置いた設定にあわせる為に能力差がないことを強調しているだけなのではないだろうか。最近こんなことがよく取沙汰されているのだが、表現が違う為に個別の話で終わっているように見える。たとえば、凶悪な犯罪を起こした人間でもきちんと話を聞かせれば改心するはずという考えがある。執行猶予とか情状酌量とかは、刑の執行をせずに更生を図るとか刑を軽くすることにより復帰を早めるといった根本的な考えによるものだろう。実際に効果を上げていることが多く、それ自体に反対する人は少ない。しかし、猶予とはただその間時間が経過するのを待つ訳ではなく、更生を図る為に保護観察が行われるのだから、それ自体がうまく効果を上げないと制度そのものが成り立たなくなる。最近の問題はここにあって、再犯率が高くなったとか、本来大人しくしているはずの期間にまたおかしなことをしでかしたとか、特にある犯罪分類について強調されることが多くなった。人の持つ能力や素質は同じだから、ちゃんと罪の意識をさせ、その影響を理解させれば、衝動による犯罪も抑えられるようになるはずというのだが、そうでない場合がたびたび取り上げられている。保護観察中の措置については実情にあわないものもあるようで、衝動が優先する精神状態を形成してしまった人々への対応など不十分なところも多い。その上、制度自体の効果を危ぶむ声まで出てくるようでは問題は深刻と言わざるを得ないだろう。少なくとも、ここ数年の状況を見る限り、全ての犯罪者を同じ尺度で図ることの難しさを認識する必要がありそうだ。その分別を行った上で、それぞれに適した処方箋を産み出す必要がある訳で、実はこんな状況が教育現場でも取り上げられる時期に来ているのではないかと思う。単について来れない人々を障害を持つものと分別するだけで終わらせるのではなく、それぞれの能力にあわせた手法を考えるということなのだが。

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5月14日(土)−対策

 博覧会がずいぶん人を集めているそうだ。立候補の時点から様々な問題が指摘され、主旨の変更などもあり、前途多難と思われたが、実際に蓋を開けてみたら予想外の人気となった。その要因はどこにあったのか、すぐに答えられる人はあまり多くないのかもしれない。というより、そんな答えを考えるよりも現状の問題を解決する方が先だろう。
 開催前から既にいくつかの問題は指摘されていた。例えば食事の問題はかなり深刻と思われたが、案の定いろんな手当てが講じられ、なんとか納まる所に納まった感じのようだ。これはもう一つの問題にも関係していて、持ち込む荷物が増えることがいろんな問題を産み出すことが心配されていたことによる。テロの危険を考えたときに、人が集まる場所にはそれと共に危険も集まると言われていたから、持ち込む荷物を最小限に抑えさせることは、安全を図る意味で重要な手だての一つと考えられたのだ。ただ、何となく何でもかんでもといった感じがあったことは否めず、それが商売と直結していたことから反論が大きくなったのだと思う。独占という事自体が嫌われている世の中で、こういう形で意識的でないにしろ、独占が成立してしまうと文句が出てくる。会場外に比べたら明らかに高額と思われる商品でも、他に方法がないとなれば購入せざるを得ず、嫌な思いを持ってしまうだろう。そうなれば反論の一つも言いたくなるようで、入場料が高いだけでなく、会場内でも物価高を押し付けられるのはかなわないという声も多かったらしい。会場外で購入した物と家から持ってきた物との区別についての話もあったが、結局はいい加減なチェックで終わっているのではないだろうか。もう一つの問題は交通手段のことで、こちらも開催前からかなり心配されていた。いつ頃か、ずいぶん大きなトラブルが報じられたが、その後は何も伝えられない。実際にうまく稼働しているかどうかわからないが、いずれにしても、主催者側は対応に苦慮していることと思う。それでも、この程度の気温であれば大した問題も起きないだろうが、真夏になったときにどんなことが起きるのか、ちょっと想像したくない感じがする。現在のまま予想以上の入場者数が続くと、気温の影響は更に大きく出るだろうから、それまでに何か妙案を考えておく必要があるだろう。食事の面でも、交通の面でも、気温が影響することは確実だから、そのあたりどうなるのか気になるところだ。同じようなことが遊園地でも起きているはずだが、あちらは何度も繰り返し起きることを相手にするのに対し、こちらは一度きりの対応である。やるべきことは大して変わりがないとはいえ、やはり当事者の気持ちにはかなりの違いがあるのではないだろうか。経済の低迷が指摘されてから久しく、こういう形の明るいニュースはいろんな面で嬉しいものだろう。だからこそ、いろんな対策を講じて、万全の体制で山場を迎えて欲しいものである。

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5月13日(金)−心配

 近隣諸国の状況が伝えられるたびに、この国の人々が平和ぼけしていることが問題視され、何らかの対応を訴える声が出てくる。確かに、それぞれの国との関係を良好に保つために、行動を起こすことは大切なのだろうが、一方で対応に苦慮して右往左往することが良いとは思われない。その意味では問題意識を持つことを重視するのが良いのかもしれない。
 何を考えるにしても、心配の種はある。何も心配せずに暮らすことができたらと望む人は多いが、実際にはそんなことはあり得ないし、心配しない人はいろんな形で事件に巻き込まれることが多いのではないだろうか。周囲に対して注意を払っていれば、心配になることは必ずあり、それについて考えるようにしていれば、実際に問題が起きた時に比較的すんなりと対応できるに違いない。ただ、一方で最近の社会問題を見ていると違った型の人々が増えていることに気がつく。いわゆる心配性と呼ばれる性質だが、以前と比べてその傾向が激しくなっていることと、歯止めのきかない人が増えているような気がする。心配はいろんなことを観察し、それらについて考えることが予測に繋がり、それらに対して起こるものだと思うが、それが連続してしまうことがあるようだ。連鎖と呼ばれる現象の一つだが、悪く考えることによって更に悪い状況を予測し、そこから更に負の方向へという繰り返しが起きる。実際には想定に過ぎないことだから、途中で自分から歯止めをかけないといつまでも繰り返され、止めどなく続いてしまう。現実社会では、そういうことはなく、一つ一つの段階において何らかの結論が出されるから、最悪の場合が必ずしも当てはまらないことがわかるが、そういう検証がなされない想像の世界では、極端な方向への暴走が繰り返される場合がある。考えることの大切さを強調するあまり、こういう極端な動きに対して制動をかけることの重要性を示していないのだろうか。きちんとした速度で走るためには、制動をかけすぎてもいけないが、加速しすぎてもいけない。これらの間で巧く均衡がとれていないととんでもない結果を産みだすことになるわけだ。しかし、考えるという加速要素の欠如が問題視されたことから、どんな形にせよそれを進めることが大切と受け取られ、強調されてきた。その結果、良いことは当然なのだろうが、ついでに悪い方向への考えも歓迎されたのではないだろうか。どちらを選ぶかは本人の感覚の問題だろうから、人を見ただけで判断することは難しい。しかし、一度そういう試みをさせれば、どちらに動きやすい人間かは意外なほど簡単にわかる。だから、その結果を見極めたうえでそれぞれに適した心配の仕方が身に付くようにすればいいはずなのだが、どうもそうなっていないようだ。過度な心配を繰り返す人がいる一方で、能天気な人々がいる。まあそれが社会の姿と言えばその通りだから、反論のしようもないが、極端なのはやはり良くないだろう。元に戻って、周辺諸国の問題にしても、慌てて対応したり、心配のし過ぎで悩んだりするよりは、一つ一つの事柄に関して冷静に判断し、時に問題点を指摘するようにしておけば、平和な形で物事を進めることができるのではないだろうか。

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5月12日(木)−売買

 求人の欄に経験不問という文字が目立つ。特に新しく興された業界であれば経験などあるはずもなく、少しでもやる気のある人をという意図があるのだろう。それに対して、学歴不問という言葉はちょっと違った意味で使われるのではないだろうか。本人のやる気という意味は確かにあるが、一方で学歴偏重を嘆く気持ちが表に出ているような感じだ。
 実際にはかなりの割合の人々が大学へ進学する時代になったので、学歴を不問にするというよりも、どんな大学を卒業したかを問わないという意味で使われることが多くなったが、それを謳っている企業の中味を見てみると結果としては何も変わっていないことがわかる。それを第一に考えて採用するわけでもないのに、その後の展開では競争に長けた人々が生き残るわけで、受験という競争社会での勝者の持つ能力はそこでも通用することが多いわけだ。そんな結果ばかりが目立ってしまうから、結局のところ不問にする意味がないという指摘がなされる。実施している側は門戸を広げることを目的としているのだが、それに臨む側はまるでその後の機会にも何かしらの優遇があるような錯覚に陥るのかもしれない。所詮はそれぞれの能力の差なのだろうが、そこに結論を持っていくのは癪に障るということなのだろう。いずれにしても、学歴を意図的に無視しないかぎり様々な影響をもつという意味で、やはり現代は学歴社会と呼ぶべきなのだろう。どんな立場にある人も自分の格を何かの形で示したいと思うようで、議員による学歴詐称はまだ記憶に新しいし、何かにつけて高学歴を見せびらかす人々がいる。こういう考えを持つ人がいれば、そこにつけ込む人々が出てくるのは当り前なのかもしれない。フリーメールに何度も送り付けられた学歴取得の勧誘などはその典型と思う。これはつまりある程度の金額を払えば、学士、修士、博士、何でも揃うという意味である。学んだ履歴という意味が全く無視された行為だが、免状を商品と見做せば、それを売る行為というだけなのかもしれない。現実にはそういう機関を制限することはできないらしく、結局どんな機関が保証、発行したものかを確認することによって、そこに差を設けるしかないようだが、そんなものまで商売になるのかと嘆く声が聞こえてきそうである。しかし、それではちゃんと教育機関として登録され、きちんと教育がなされているはずの大学について考えると、大した差が無いようにも見えるのはどうだろう。学ぶ意欲の無い人間達を相手に四苦八苦している人々からは様々な不満の声が上がっている。そこには別の形で卒業を金で買っている図式があるようにも見えるのだ。そんな状況に陥っているとしたら学歴を重視しても何の意味もないことになる。まさかそこまで考えてあの謳い文句を考えたわけでもあるまいが、求人広告の文句は何か言いたげなものに見えてくるのだ。教育の商品化とは別の場面で使われる言葉だが、こんなところにも商売の種が落ちていると思う人々がいるということなのだろう。

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5月11日(水)−見解

 目の前で起きている出来事は一つしかないはずだ。しかし、それを目撃した人が複数いた場合、いくつもの出来事が同時に起きたことになる。何を馬鹿げたことを書いているのかと思うかも知れないが、同じ出来事を見てもそれぞれに違った見え方があるという意味であり、異次元世界云々にまで話を飛ばそうと思っているわけではない。
 わざわざこんなことを書くと大袈裟に聞こえるのだろうが、誰でもこんなことに日常的に接しているのではないか。ただ、無意識的にいろんな人の見解を合成して、その中から自分が最適と思う答えを導き出しているのだろう。だから最終的には一つの答えしか出されず、結果的に複数の見解が消え失せることになる。こういうことに慣れている人々は統一見解を導き出したあとでも、別の見解の存在を記憶の隅に置き続けて、別の事柄が明らかになったときに再検討する。しかし、不慣れな人たちはそれらの過程を全て記憶から消し去り、次に新たな事実が明らかとなったとしてもその度ごとに新たな統一を図る。結果的に同じことに繋がる場合もあるが、実際には検討する項目の多様性に大きな違いがあるから、まったく違った結論が導かれることも多い。結論しか見ることのできない人々にとっては、過程がどうあれそれが唯一のものだけにそれを信じるしかないわけだから、元々そんなことがありうるという考えを持ちながら接しなければならないだろう。ところが最近の社会の動きを見ていると、その辺りの思慮が欠けた雰囲気に溢れているようだ。大きな事件や大切なことを対象にこういう話を展開すると、どうしても気持ちが入りすぎてしまうから、そういった扱い方をせずに話を進めたほうがいいと思うので、ここではラジオから流れてきたある意味他愛もない話を取り上げてみる。聴視者の投稿で、近くの里山を歩いていて栗鼠を見かけたとする話があった。その山では20年来栗鼠を見かけたことがなかったのに、先日初めて見たという話で里山の自然が残っていることを実感し、再び巡り合いたいと結んでいた。環境破壊とか自然保護とか、そんな言葉が氾濫している時代だから、こんな話題は大歓迎といったところなのかも知れないが、少し気になるところがある。以前見かけたものがまだ生き残っていて、という話ならこういう流れも理解できる。しかし、ここでは20年もの間見たことのない動物がそこに棲みついたという話になっているのである。何故、突然この栗鼠は姿を現したのだろうか。山の奥から里に降りてきたということも考えられるから、そうなれば自然が残るという話にするのは少しまずい気がする。一方、その栗鼠はこの国固有種かどうかわからないから、ひょっとするとどこかから持ち込まれたものかもしれない。そうなれば人間の手による一種の環境破壊に繋がると考えるべきとなる。何気ない投稿についても見方を変えるとほのぼのとした雰囲気が消し飛んでしまうことになる。しかし、そこに起きた、栗鼠を見かけたという事実は、たった一つなのであり、それが否定されているわけではないのだ。にもかかわらず、そこから導き出される結論は正反対のものになる。こんなことでさえ、見る方向が変わるだけで全く違った流れが作り出されるわけだから、もっと様々な人々が関わった重大な出来事では安易に結論を引き出すことは危ないだろう。それを引き出す人々にも注意が必要だが、こういう社会ではそれを受け取る人々がそれなりの構えをすることの方がもっと大切なのではないだろうか。

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5月10日(火)−打算

 シアトル系という言葉は市民権を得たのだろうか。それとも、既に使い古された言葉で、そろそろ忘れ去られようとしているのだろうか。とにかく一時のような雨後の筍の如くの増え方はなくなったとはいえ、全体としてはまだまだ増加傾向にある。ただ、都心の店に限ってはそろそろ飽和状態で、閉店するところも目立ち始めた。ブームも一息といった感じか。
 ある人々によれば、この国に住む人はかなりのコーヒー好きということになっている。カフェラテなるものが登場するずっと以前、まだエスプレッソの流行もなかった頃、巷には喫茶店が溢れており、そこでかなりの時間を過ごす人が沢山いた。一つの目的は静かな雰囲気の中仕事をこなそうとするもので、場所によってはジャズやクラシックといったものをBGMとして流していた。当時のコーヒー一杯の値段は今と比べたらとんでもなく高い感じがするが、そこは場所代といった解釈が成り立つようで、数時間ある空間を占有するための経費と見れば大したことはないと思われていたようだ。その後、バブル期に入ってくると地価の高騰からこの辺りの解釈も難しくなり、長時間の居座りを容認できない店が増えるとともにたたむところも増えたようだ。それでもコーヒーの味を愉しむところの幾つかは生き残り、通のオアシスとして細々ながら続いているようだ。それにしても、この国ほどコーヒーの種類に拘るところはないのではなかろうか。ブルマンと呼ばれるものは全生産量より国内消費量の方が多いと言われるが、この話はその典型だと思う。ブランド好きはバッグなどに限らず、こういうところにも現れているようで、専門店で店主や友人の蘊蓄に耳を傾ける人も多い。それでも全体としては下降傾向にあったわけで、ついこの間まで喫茶店だったところに別の食べ物屋がということも度々あった。そこへ現れたのがシアトル系である。海の向こうでも急激に業績を伸ばし、空港や町の中心部に進出するにつれて、更に評判を呼ぶことになったようだ。それがいつの間にか海を渡ってきて、これまたコーヒー好きの人々だけでなく、苦いだけなら嫌という人々にミルクとの組み合わせが受けたのかもしれない。あとの展開はあっという間の店数の増加と過当競争というお決まりのものだったが、はじめの頃はそれでも都心に限られていたような気がする。競争が激化するにつれ、別の地域への展開が必要とされ、次々に地方都市へ進出していったのだが、この場合の客層はどちらかと言えば都心で経験したことのある人々だったのではないだろうか。一見闇雲に展開しているように見えるのだが、どうもそうでもないことがわかることがある。絶対的な客数をある程度調査しているようで、小さな町についてはたとえ打診があっても見送る場合が多いらしいのだ。結局潜在的なものも含めてどれくらいの客が定常的にやってくるかということがあの手の店にとっては重要なことらしく、そういう意味で立地条件は大きな要素となる。逆に言えば、たとえ過当気味になっていても、人口の多い土地の方が競争したうえでも何とか採算がとれると見做すようなのだ。こんなところにも数の論理が成り立つのかと思えるがどうだろう。そんな流行なぞ追わなくてもよいという考えもあろうが、別の流行り言葉である活性化を考えると、こういうものを必要とするところもある。まあどっちみち人々の趣向に対する感覚は一時的なものが多いから、振り回されるよりもじっとしていた方がいいのかも知れないが。

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5月9日(月)−衝撃

 何か大きな事件、それは事故であったり災害だったりするのだが、そんなものがあるたびに話題になる言葉がある。PTSD、誰しも一度は聞いたことがあるだろう。Post-Traumatic Stress Disorder、心的外傷後ストレス障害と訳されているが、その頭文字をとったものである。心が大きな衝撃を受けたあとで、それが様々な影響を残すということのようだ。
 経験に基づく記憶とは違って、自らの制御ができないほど大きな傷跡を残すものと言われているが、記憶との境目をはっきりと示す指標はないように思える。心の病が注目されるようになったのは、これまたご多分に漏れず輸入によるものらしく、表記から想像がつくように海の向こうからやって来た病名である。舶来品に弱いのはブランド漁りのご婦人達に限ったことではなく、医学でも特に精神医学においてその傾向は著しい。心理学との区別も難しいが人間の病という観点を強調すれば、単なる学問の対象としての心理学よりも臨床的な意味合いの強い精神医学の方が強く関わっていると見做せるだろう。いずれにしても、臨床の立場からしてもこれといった絶対的な指標の存在が明らかでないのに、話題性を追いかけることに躍起になっている人々にとっては格好の標的となり、いろんな形で取り上げるだけでなく、それに罹っていると思わしき人々に対して無謀とも思える働きかけを行う。最近心の病が話題になるたびに思うのは、それを更に重いものにする力を社会がかけていることで、以前なら無視、深い意味では見守りとなるはずだが、をしてやり過ごしていたはずのものが、大きく取り上げられ、適切な対処の必要性を強調する一方で、無思慮な対応が繰り返されている。心の問題は研究が行われている割にはまだまだ不明な点が多く、試行錯誤の段階にあるのに、話題性にばかり目を奪われて、ついつい無茶な扱いがなされる。そうしておいて、ほら見たことかと追い討ちをかけるわけだから、直接の加害者と被害者ではない、本来なら傍観者に過ぎないはずの人々の関与が異常なほど大きくなっているのではないか。傷の大きさによることはわからないでもないが、ちょっとしたことまで大袈裟に扱い、その後に心配する素振りを繰り返すことで、実際には傷のかさぶたを突くような行為をするのはどうかと思う。怖いという感情は大きな事件だけでなく、様々な事柄について起きる可能性があるが、それらの小さなものについては本人がどうにかして解決していくものであろう。ある点を境にしてそういう対応が不可能になるという論理はいかにも分かり易いように思えるが、実際にそうなのかどうかわかっていない点の方が多いのではないだろうか。にもかかわらず、言葉のみが先行し、大騒ぎが繰り返される。そんな様相ばかりが目立っているようで、どうにも落ち着かない感じがしている。確かに、大きな衝撃を受け、それに対して何をしたらいいのかさえわからない状況に陥っている人々にとって、病名をはっきりと告げ、適切と思われる対処をすることは重要である。ただ、程度の問題や対処の仕方など、ちゃんとした形で行うことが前提であるから、それにいい加減な形で手出しや口出しをするのは余計なお世話であろう。衝撃を受けた人々にとって、周りからの働きかけは全て何らかの影響を及ぼすことに注意を払うべきだし、興味本位の取り上げ方では解決を遠ざけるだけに過ぎないことに気づくべきだろう。

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