毎日毎日、何かしら書こうとすると話題を見つけることが肝心となる。新聞、ラジオ、テレビは言うに及ばず、道端に落ちているものにも目が向く。ただ漫然とやり過ごせばさほど気にも留まらないことでも、ちょっと気にすれば何かそこに見つかることもある。さすがに毎日この調子でやるのは難しいが、とにかく何でも気にしてみれば何とかなるものだ。
話題収集に苦労しても、一方で話題先取りになることもあり、それはそれで楽しいこととなる。何度かそんなことがあったが、新聞で言うスクープのようなものではなく、ただ単に気になることがたまたまそういう事件として取り上げられただけなのだ。それとは違い、同じような事件が重なって起きることがあり、その最中に何かを書くとよく似た展開が繰り広げられることもある。これはこれで、なるほどこちらの読みが当たっていたのかと、ちょっとした満足感に浸れる。ただ、全般的に見れば、同じことを見ても違う見方があるとか、違った解釈があるということを伝えたいわけで、そこには予想とか予言とかそんな大層な思いはない。当たることもあれば、外れることもある、それだけのことなのだからあまり力を入れても仕様のないことだ。そんな流れを感じていた中で、先日触れた捏造の話は社会の歪みの現れの一つとして気になっていた部分である。それが更に悪質化したものとして、別の事件が取り上げられ、今度は個人の問題だけでなく、組織の問題として考えなければならない事態になっている。世間知らずの人々の集まりと評されたこともある組織には従来から独善的な考えが蔓延っていた。自分たちがすべての中心であり、判断するのも実行に移すのも自分である。外部機関による評価が叫ばれ始め、実施する組織が急増したが、それとて仲間内の褒めあいと噂されている。所詮、一般的な知識での判断ができる代物ではないから、当然専門家による判断が不可欠なのだが、それにしても客観的な目を持つはずの人々が馴れ合いを演じるのは異様なことである。そんな土壌がある中で、次々に評価や提案を重視する声が大きくなり、何をするにしてもまず第一に声をあげることが要求されるようになった。そうなれば、当然提案そのものの評価だけでなく、それを実施する人々の力量を測る必要が出てくる。そんな雰囲気の中で起きた事件が何年も経過してから暴露されることになったのは、外部調査によるものとは考えにくく、何かしら組織内部からの訴えがあったことを想像させる。細かいことはこれから徐々に明らかになるだろうが、記録捏造を行った人物だけでなく、それを見過ごした組織の責任も問われることとなる。内部からの告発にはいろんなきっかけがあると思うが、今回の事件はおそらく様々な働きかけのあと、埒が明かないことから起きたもののように思える。嘘をついた人間を糾弾しても、その人物が立場を利用して無視したり、相手を排除するようなことが簡単にできる組織であったなら、何も改善されないからだ。独善を許す環境とはまさにそのものであり、こういう問題が起こるたびに改善を求められ、運営の硬直化を招くことが多くなる。確かに悪いことを指摘することもなく、自ら改善する力を失った組織に対してはそれだけ厳しい処置が必要だろうが、同様の仕組みを持つ他の組織にまでそれを当てはめるのはどうかと思う。自浄作用を持たない人々には猛省を促さねばならないが、他山の石と思える人々には無理強いする必要はないはずだから。
普段通っている道がいつもと何となく違う、ということに気づくことがあるだろうか。電車の中から見える風景がどことなく違うことに気がついたことはあるだろうか。何となくとかどことなくとか、どちらにしてもこれといった確信があるわけではなく、ほんのちょっとした違和感から来るものである。そう思ってもう一度しっかり眺めてみると、なるほどとなるわけだが。
こんな他愛もない話でもどうも人によって反応が違うようだ。同意する人がいる一方で、そんなことにどうして気づくのかと首を傾げる人がいる。こういう人々と話してみると、周囲の変化に無頓着な人がいることに驚かされる。場合によっては明白と思えることまで、以前と変わっていないと主張する人がいて、そういう人々は一体何を見ているのかと不思議になる。どちらかと言えば変化に敏感なだけに、そういった無頓着な人々の見方や心の動きなど、想像することもできないが、それにしても何故これほどまでに大きく違うのだろうか。こういったとき話題となるのが観察力という能力の一種であり、集中するかどうかに関わらず周囲で起きていることに気づくかどうかが一つの指標となる。成人したあとでは、そんな事柄が対象となるが、子供の頃には虫や草やその他諸々の事象が対象となり、何でもかんでも興味を持つことが多い。それが長じて人間観察を趣味とするような人になったり、逆にその当時にすべての好奇心が燃焼してしまい、ほとんどのことに興味を持てなくなる人もいる。どこら辺に違いがあるのかさっぱりわからないが、とにかく興味の持ち方、観察の仕方、結論の出し方など、いろんなものに人それぞれの様相の違いが現れる。そこに違いがあっても、今の時代にはあまり大きく影響されることはないが、少し違った環境に入ってみるとこういう部分の違いが生き延びることに関係するのに気がつく。周囲の変化があっても大した違いが現れない環境ではどうでも良いことだが、それが大きな違いを産みだすところでは死活問題となるからだ。それでも豊かな環境の中にいれば大した違いにもならずにすむだろうが、そうならないことも多く、一旦おかしな方向に向かい始めると、今の世の中はとんでもないところまで飛ばされる感じがあるから、油断してはならないのだろう。観察する力はそういう意味で、生き延びるための知恵を手に入れるために必要な能力の一つであり、それを持つことで大きな被害を小さくしたり、相手を選ぶために役立ったりする。それは明らかなのだと思うが、それほど明確に意識されているわけでもないらしい。どこに違いがあるのかわからないが、もう少し観察力自体に目を向ける必要があるのではないだろうか。他人から学ぶために重要な技術の一つなのだから。
この頃は以前と比べて科学への関心が薄いと言われる。常識と思われることについての設問を答えられない人が増えたのもその現れの一つかも知れないが、テレビゲームのようにワクワクドキドキする対象ではなくなったのが原因の一つだろうか。単に知識として覚えなさいと言われたら誰も興味を持たないし、苦痛しか感じないだろう。
一般的な関心が薄れているのに対し、一部の関心はかなり高まっているという。一般とここで言う一部との違いは何か、それは単純に金儲けに繋がるかどうかだ。投資の対象として新規産業を考えるとき、そこには基礎から応用までの科学に対する情報の収集が必要となる。これはワクワクドキドキなどといった感情の類いのものでなく、収益性などといった数字に表れるものを尺度として用いるわけだから、全く違った感覚が必要とされる。当然、未だ発展途上にあることについてもアンテナを張っておくことが重要であり、場合によっては製品化など収益性を測る指標となることが予測できない時点での判断も大切なものとなる。金が絡むだけに情報収集やそのレベルの判断には真剣に取り組むのだろうが、だからと言ってそれらが正しい方向に向かうとは限らない。何しろ情報には正しいものと間違ったものがあり、それを見誤れば損失は免れない。しかし、表面上それらに違いは見えず、白黒の判断は難しいのが現状だ。となれば、情報源の信頼性や相談する相手の信頼性が非常に重要となる。科学一般に通用する話ではないが、特に基礎科学においては研究がその中心となるから、それらの内容を吟味することが一つの判断となる。いくら多くの情報源を有していても、全ての分野にわたって細かな情報を集めることは不可能に近いから、多くの場合共通の情報源を頼りにすることが多いようだ。研究の場合、その源となるのは論文発表と言われる。専門誌に研究論文を掲載するためにはピアレヴューと呼ばれる制度があり、類似分野の専門家同士の判断を規準として採用の合否を決定する。これにより専門分野内でのお墨付きがいただけるわけで、分野外の人々にとってはそれが格好の判断材料となる。専門誌によってその水準が違うので、それも参考にしながら全体の判断を下すわけだ。ところがこの辺りの事情に最近変化が見られるという話がある。専門家自身の判断に信頼が置けないという意見や、そういう判断に必要となる時間が無駄という意見など制度が抱える問題点が指摘され、そういう規準なしで掲載し、判断は読者に任せた方がいいという意見があるそうだ。その効果のほどはわからないが、これは情報化社会の抱える問題そのものを表している。つまり、受け取り手の判断が重要であるということだ。一方で、話題を集める形で掲載を発表した論文のデータ改竄の疑いから、論文取り下げがなされるという報道があるように、研究費などを掻き集めるためにあらゆる手だてを講じようとする人々が出てくるようだと、更にガセネタが増えるわけで、それら全てを投資家集団が判断できるはずもない。何度も言うが金が絡んだ途端にいろんなことに不具合が生じるのは、何も科学に限ったことではない。様々な方面で金に目が眩む人々が活躍すればするほど、こういう傾向は激しさを増してくるのではないだろうか。純粋であるべきなどという戯言を敢えて言うつもりもないが、人は思惑に振り回されるときろくでもない本性が表に出るということをどこか心の隅に留めておくべきなのではないだろうか。
再び周辺の話題になるけれども、仕事をしているふりが目立つような気がしないだろうか。疑いの目を持って見れば、銀行や役所の窓口の奥にいる人々も何となく書類に目を通しているようでその実は、などと勘ぐってしまう。多くの会社で机にパソコンが置かれるようになってから、滞在時間が長くなったという話も聞くから、これもまたなのかもしれない。
ふりかどうかはわからないが、確かに自分の席にいる時間が長くなったようだ。一部の会社ではそれを問題視して、パソコンの使用を控えさせるところもあると聞く。といっても、書類の作成に必要だから全く駄目とは行かず、結局メールやネットの使用を禁止することで効果を上げているのだそうだ。社外の人々との情報交換という見地からすれば、全く非能率的な話でそんな身勝手なと言われそうだが、実際にはそれほど大きな問題を生じていないそうだ。メールの個人アドレスはないが、会社としてのもの、あるいは担当課としてのものは設置しているそうで、全体管理という形で対応することで何とかしているようだ。それにしても、何故こんなことまでしなければならない状態になっているのだろう。仕事をしているふりは昔からよくあったことだろうし、そういう人は将来そのしっぺ返しがくるのだからと大目に見るというより無視されていたはずなのだが、最近はその数が多すぎてこのままでは会社の存亡が、という心配まで出てくる。ただこういう傾向は職業に就いてから急に始まったものではないようで、子供の頃から学生時代までそんな演技を続けてきた人が多いのではないだろうか。それが結局全体への悪い影響を及ぼすと自覚することで、より真剣に勉強や仕事に取り組むようになれば問題は起きないのだが、現状を見るかぎりそのきっかけはあまり落ちていないように思える。親からうるさく言われるからせめて部屋に閉じこもってふりをしなければ、となることは昔から当り前だったと思うが、よく考えてみると豊かな時代になり閉じこもる場所ができたことが演技をしやすくしているのかもしれない。そうならば現状を打破することは難しいとなるわけだが、実際にはそんなことなどあるはずもないと思う。つまり演技を許すかどうかは周囲の人間の問題であり、自分たちで将来責任を負うのだからと小さな子供にまで自己責任の意識をなどというのは全く間違った考えなのだ。何に対して、どう責任をとるのかを教えずに、責任の話をするのは無理なことで、初めの時点でそういった意識を持たせることの重要性を認識すべきだろう。三つ子の魂百までというわけでもないだろうが、あの頃のちょっとした油断とかさぼりがこんなことを産んでしまったとしたら、全く困ったことである。そうなると今更遅いのかもしれないけれど、やはり自分の周囲だけでもそういった演技をさせない努力を惜しまないようにするべきなのだろう。
身の回りを見渡してみると、どこかに噂好きの人がいるのではないだろうか。あっちでこそこそ、こっちでこそこそ、その情報通ぶりに感心することがある。ただ、こちらも情報を集めてみると、場所によって違う話をしていることがわかり、単なる噂好きとは違うことがわかる。つまり、本人の思惑によって情報操作しているわけなのだ。
こういう人々の話を聞くたびに考えさせられていたのではたまらないから、こちらも情報を集めそれを未然に防ごうとするが、百戦錬磨の業師はその裏をかくように手を替え品を替え、迫ってくる。単なる情報操作だけではなく、心理を弄ぶような手口が多いから、相手のペースに巻き込まれないような心構えが大切なのだろう。特定の相手の場合は、そのやり口をある程度理解すれば対処のしようもある。しかし、不特定を相手にするとそれは難しくなる。新聞などの報道機関に対して多くの人々は信頼を置いているが、実際にその価値が薄れているところが増えていることを憂慮する動きもある。冷静に情報を伝えることが使命であるはずなのに、一個人の感情に流されているような報道を見ると、個人的見解を欲していない人々には何とも異様に映るのではないかと思える。全ての感情を無くせという意味ではなく、一時の感情を抑えた形で様々な方面からの見解を伝えることに心掛けて欲しいのである。ところが最近の報道は全てが同じ方向にかなりの勢いで流れる傾向があり、一度勢いがついてしまうとそれを止める力が働かなくなる。極端な意見や見解を戒める仕組みが働かなくなっているとしか思えないが、当事者たちは誤解した使命を持って突き進んでいるように見えてしまうのだ。国内の状況の方がよく見えるからそちらにばかり目が奪われてしまうが、実際にはどの国でも同じ状況にあると言える。たとえば、先日問題となったある教典の扱いに関する報道は、その後過激な運動を誘発し、その鎮圧の過程で死者が出てしまった。この際に幾つかの報道ではそれぞれの政府の対応を批判していたと思うが、その後の展開は予想外のものとなった。本来なら批判された政府の対応について更に議論が進められたのだろうが、それをあっという間に停止させた事件が起きた。はじめの報道を不確かな情報に基づくものとして、その雑誌の発行元が否定してしまったのだ。この場合にもいろんな可能性が考えられ、圧力に屈したと思う人もいれば、素直になんといういい加減な報道だと呆れる人もいるだろう。いずれにしても、こういう展開を見るたびに思うことは、情報を流す人々がその結果として起きた事件についてどんな責任を負うのだろうか、ということである。大騒ぎが起き、どうにも収拾がつかなくなったとしても、きっかけを与えたものが誤報であるかどうかは問題視されないのだろうか。責任をどう扱うかについては個人の問題という考えもあるだろうが、批判する側に立つときには強固な協力体制を敷き、逆に矢面に立たされたときには同じような体制で無視するのでは、かなり無責任な連中と思えてくる。要は、一部の情報源に頼った不確かな報道を基にして全ての動きが同じ方向に向かうことが問題なのであり、疑いも含めた多方面からの検証を試みなくなってきた風潮に問題の根源があるのではないだろうか。元々、そういった歯止めの仕組みを備えていた組織が別の思惑に躍らされたり、自ら動くことによって、何の安全装置もついていない組織に様変わりしたと見た方がいいのかもしれない。そうなれば、情報を受けとる側が疑いを持ちつつ眺めるしか、安定を保つ方法はないのではないだろうか。何とも難しい世の中になってきたものだ。
山間にある美術館に出かけたときのこと、そこから別の施設に向かうのにバスを利用した。反対へ向かうのと違い乗客は他にはおらず、乗務規定に反して運転手としばしの会話を楽しんだ。周辺の状況や話題を知るには最適の方法だが、それ以外にも話が移ることもある。その時も以前やっていた空港への高速バスの話に何とはなしに移っていた。
地方都市に住んでいるといろんな面に不便を感じるようだ。それを解消するために地元の企業や自治体はいろんな働きかけをする。都会に住む人には想像できないことも多く、そんなことからその土地独特の制度が生まれるのだろう。それはともかく、高速バスは従来の鉄道利用では乗り換えの不便があるので、大荷物を抱えることの多い飛行機による旅行には便利ということで利用されているようだ。運転する立場になると、乗客の要望というか一種無謀な要求にどう応えるのかが問題になることがある。タクシーのように行き先変更を希望する人がいると思えば、とても間に合いそうにもない計画で乗り込んでくる人もいる。飛行機は鉄道と違って運行便数が少ないから、一つ間違えば旅行を中止するしかない事態にもなる。利用する人々にはその覚悟が必要で、当然ながら時間的な余裕を最優先しなければならない。にもかかわらず、事情があるにせよ遅れを作ってしまう人がいると思えば、計画からして無謀な人もおり、そういう人々を乗せて走るバスは課題山積という状況に追い込まれるのだそうだ。多くの場合、多少の遅れはお互い様といった形で会社同士の関係から解決されるようだが、どうにもならない場合も起こる。その時は乗客に我慢してもらわねばならないとのことだが、きっかけを作ったのが客の方であれば、我慢も何もないはずなのにと思ったりする。そこはさすがに客商売、そういう方向には持っていかないのが肝心なのだろう。この国では公共交通機関は多くの場合時間厳守を最重要としており、それが利用者に対する信頼に繋がっている。この点は諸外国でも評判を呼んでおり、国民性を表すだけでなく、そのための管理体制などに興味が集まっているようだ。それが当り前になっているから、利用者にも当然時間厳守が要求される。ただし、運行とは異なり、その時間までにそこにいるという要求となる。にもかかわらず、交通機関への信頼はぎりぎりの計画の立案を可能とするから、忙しくてどうにもならない多くの人々がそんなことを考えてしまう。予定通りの乗り換えと予定通りの到着時間、そんなことを当り前とする人々にとって、自分が原因とならない遅延にはいろんな形で不満が募る。運行会社に対する訴えにまで至る人もいるだろうが、そこまでいかずともかなりの文句を並べている人はいる。そんなものだと思っていたら、先日の事故のあと、えらく寛容な意見ばかりが取り上げられるので首を傾げてしまった。数分の遅れは構わないとか、そんなことで死にたくないとか、後者の意見は当然のことだが、前者の方はどうだろうか。交通機関の乗り換えに十分すぎるほどの余裕を持たせている人がどれほどいるのかわからないが、こういう事故のあとの意見ほど信用できないものはないと思っている。ある番組である人が述べていた意見の方がこちらにとっては納得できるもので、なんだかんだと色々あるだろうが、正確な運行というものを今後も守れるような体制を維持して欲しいというものだった。一時の感情で揺れる人々には想像できないことだろうが、こんなときでも優先順位を考えることは大切ということだろう。
世の中、便利になるのならその方が良いと思っている人は多いだろう。必要だと思われるところに、いろんな道具が作り出され、それを使うことで誰でも簡単にという話はよく聞く。一つ便利になれば次もあるはずと思うのは無理もないことで、そういうことの繰り返しで今の便利さが実現しているのだ。ただ、最近の動きはこれまでとは違い、便利だけでは駄目のようだが。
便利になることによって失われるものはないのか、といった問題がいつごろからかよく取り上げられるようになってきた。昔だったらこんな苦労をしてやったことが何の造作もなくできてしまうから、本人たちの気持ちに緩みが生じてしまうといったことが、若者の様変わりとともに訴えられるようになった。こんな便利なものができたと以前の不便さを知る人たちは感嘆の声を上げるが、そこにある便利なものしか知らない世代にとってはあくまでも当り前のものでしかない。同じものを見ても感じ方がこれほど極端に違ってくると、それを問題視する人が出てくるのはごく自然なことだろう。そのあたりでもう一つ指摘されているのは、便利さを享受するだけの世代にはその周辺に潜んでいるだろう大切な感覚が失われているのではないかということである。見えないものは見えないわけだから、説明をしてやる必要があるはずなのだが、上の世代にとってはごく当り前のことに過ぎないから、説明の仕様がないという場合もある。それこそが世代の断絶であり、時間が流れている以上永遠に埋まらない間隙と見る人々もいる。こういう話を抽象的に持ち出しても結局実りの無い話に終始してしまうのだが、疑問に感じている人々はかなり強くそれを感じているようなのだ。ある程度の高さを持つ建物に入っているならば、どこの職場でもエレベータを設置しているだろう。階段を使えば時間もかかるし、体力も必要となる。それらを軽減したという点でこの装置は評価されているのだが、使う側の感覚はと言えば少々難ありといった感じなのではないだろうか。別の職場を訪ねていくとその前に張り紙を見つけることがある。三階程度なら階段を使いましょうといった標語が書かれているものだが、それだけ安易に利用する人がいるということなのだろう。高層の建物となれば、こういった安易な利用が様々な問題を生じるから、その辺りのことがこの標語を産みだしたと言えるのかもしれない。一方、荷物の積み下ろしにも使われるものには扉を開け放しにする釦があり、作業を円滑に進めるための工夫がしてある。ただ、これを便利だとして、普段の乗り降りに使うとどんなことになるのか、考えたことのない人々が沢山いるようだ。この仕掛けが有効な間、そのエレベータはそこに留まったままとなり、他の人々の使用の妨げとなる。他人の迷惑を考えるより、そういうことは仕方ないと寛容にでる人が増えたせいなのかも知れないが、どうも見方によっては身勝手と思える行動をする人が増えたようだ。人に迷惑をかけないという言葉が親から子に伝えられていた時代から、迷惑をかけないことはあり得ないのだからという解釈が伝えられる時代になると、この辺りの受け取り方にも大きな変化が生じてくるのだろう。その結果、説明不能な事柄が山積し、ただ呆然と見過ごすしかないことになる。心の問題にまで便利さが採り入れられるようになってくると、かなり心配すべきだと思うがどうだろうか。