パンチの独り言

(2005年5月23日〜5月29日)
(知欲、支援、消去、遮断、談合、代行、へ理屈)



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5月29日(日)−へ理屈

 理屈をこねるとかへ理屈とか言うと何とも悪い印象を受ける。しかし一方では理屈に合わないというように、いい意味に使われることもある。本来理屈は物事の筋道という意味だったのだろうが、どこからか過剰な行為が目立ちだし、悪い意味が加わったのだろう。筋道は一つしかないのに、こじつけは幾つでもあるということがきっかけなのかもしれない。
 こじつけは結局のところ自分に都合のいい解釈から来ているから、他人の同意を得られないものが多い。そうなればそんな道理は通らないと言われ、へ理屈だの理屈っぽいだのと揶揄される。ただそんな中にもよく考えてみたらへ理屈の方が正しく見えてきたということもあり、多数派が必ずしも正しいとは限らないこともある。これらの間の区別は明確でなく、どうしてもその時の流れ方で決まっていることが多く、物事の筋道とは行かないようだ。ひと月ほど前、いつものように高速バスを利用しようとネット情報を検索していたら、いつの間にか路線廃止になっていた。そのふた月ほど前に利用したときには何の予告もなく、更には路線変更などもあったくらいで平常通りの雰囲気だったから不思議に思ったものだ。ただ廃止になる原因は明白だ。何度利用しても、毎回数人、多くても5人ほどの乗客しかおらず、おそらく空で運行したことも度々だったのだろう。そんな状態で収益が上がるはずもなく、利用する側にとっては便利なものだったが、人を集めるまでには繋がらなかったようだ。運転手も同じ考えを持っていて、経営者の考えがわからないという人もいた。そんな中で突然の廃止だから、利用していた少数の人々にとってはいい迷惑である。他の路線を利用するためには遠くのセンターに出向く必要があり、そんなことをするくらいなら鉄道を利用したほうがましとなる。しかし、運行中には期限なしの回数券を販売しており、それを利用していた人もいただろうから払い戻しの手間を強いられることになった。勝手で突然の廃止という印象があるにも関わらず、そこに来て更に酷い対応と思えたのは、払い戻しの規則適用についてである。通常、客の都合で払い戻しを受ける場合は回数券の利点を放棄するから、使用した回数券分の正規料金を引いた残りを払い戻す。これは理屈に合致するように見えるが、今回のように運行側の都合で利用できない事態を生じた場合はどうだろうか。面白いことに彼らの理屈は同じ規則の適用が当り前なのだという。この場合は利点の放棄ではなく、利点の剥奪であり、権利は継続しているはずなのに、通常の払い戻しと同じ扱いになるというのだ。対応した男性職員はその理屈の正当さを主張し、はては違う理屈の理由をも求めてきた。何をどう考えるかによってこういう話は全く違う方向に向かう。利用者保護とかそんな理屈から払い戻しに対応する会社や自治体がいる一方で、すべてにおいて自らの理屈のみを主張し頑として譲らない企業もある。この会社は長距離の夜行高速バスも運行しているが、おかしな運行状況であることを指摘する声もある。通常、始点終点それぞれを本拠とするバス会社の共同運行がこういった仕組みを支えているが、幾つかの路線は単独で運行されている。その結果、事故や故障が起きたときの対応は目を覆うものがあり、利用者にとっては誠意の感じられないことが起こるという。客商売には何が必要なのか、わかっていないのかも知れないが、そういう不備を見過ごす社会にも問題があるのかもしれない。

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5月28日(土)−代行

 タクシーの運転手は景気の動向に敏感なのだそうだ。だからというわけでもないが、利用するときには必ずそのことを尋ねてみる。返事は相変わらず低調であるが、理由の一つは高額の利用者が激減したことだろう。何故減ったのか、尋ねるまでもなく自腹を切るのが嫌であることはわかる。組織の金でも自腹とは違うわけだが、そちらが傾いてからは無理なわけだ。
 都会ならば公共交通機関を利用するのが当り前であり、タクシーの利用者も終電が出てしまったとか、そんな理由を持つ人が多いだろう。しかし、一度地方に出ると普段から自家用車での移動が頻繁となるから、飲酒が絡む場合二つの方法を選ぶ人が多いようだ。たとえ不便でも当日は公共交通機関を利用し、帰りはできる限りそれを、もし遅くなったらタクシーをといった体制をとる人と、もう一つはいつもと変わらぬ行動をし、帰りは代行と呼ばれるものを利用する人がいる。代行とは人を運ぶタクシーではなく、車も一緒に運んでくれるものだが、その仕掛けがすぐには理解できない。夜遅くに代行の車と一緒に走っている車を見ていると、必ず二人で乗っている。一人はその車の持ち主であり、運転しているのは代行運転者である。その後から会社の車が追いかけるわけで、客を乗せた営業とは少し違った形態をとっていることがわかる。これはつまり、客を乗せる車の運転免許の問題に絡むわけで、このやり方なら特別な免許を必要としないのだろう。なるほど法の網をくぐるためにはいろんなことを考えねばならないのだなと思う。先日利用しているところを見る機会があったが、ここにもまたなるほどと思えるところがあった。店に代行がやって来ると客から鍵を受け取る。そのまままずは客の車を取りに出かけ、店に戻ってくるわけだ。そこで再び声を掛け、客とともに出かけていく。この場合でも、客と一緒に車を取りに行こうとすると、どうしても客を乗せる行為を行う必要があるので、それを避けるための方策なのだろうと思える。そうやって準備周到、客の車を前にして行進が始まるわけだ。なるほど巧い手があったものだと思うが、自分が利用しない理由の一つはその辺りにもありそうだ。相手に鍵を渡して、すべてを委ねるというのは何とも不用意な感じだし、その際に何かが起こる場合もありそうだからだ。その上、自宅まで車を届けさせるわけだから、鍵、車、家の三つを同時に知らせることになる。これはいくら何でも不用心なのではないだろうか。しかし、現実には利用者は毎年増えており、特に飲酒運転の罰金が上がったことによる影響は大きかったようだ。酒気帯びにせよ、飲酒にせよ、運転すればかなりの罰則と罰金が科せられる。さすがにある程度の額を超えると、その反応も真剣になり、ここ一番で躊躇することも多くなるようだ。代行は都会ではほとんど見かけないやり方だが、これから先どうなるのかはわからない。ちょっとしたきっかけでいろんなことが起こりうるのだ。まず車での移動を優先するという考え方は存在しないようだが、それにしても少しの距離でも車で移動しようとする。そんな感覚が出てくれば、都会といえどもよく似たシステムの導入が必要になるかもしれない。もしそんな日が来たら、是非様子を見て欲しいものだ。

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5月27日(金)−談合

 悪いこと、法に背くことをしたら罰せられ、償わねばならない、と言われるが、本人にそういう意識がない場合どうなるのか。知らなかったと言う悪人も多いが、事件を起こした人間であれば知らなかったでは済まされないことになっている。しかし、それが何代にも渡って日常的に行われてきたことだとすると、その責任を問えるのかちょっと考えてしまう。
 法律上は発覚したときにその悪事に関わっていた人々が罰せられ、それ以前に同じことをした人がいたとしても罰せられないことがある。特に組織的な犯罪の場合はそんな感じがするが、組織に属するものとして仕方なかったという面があるのだろうか。もしそうなら、何故今現在属している人々に違った対応をとるのだろう。このところ大掛かりな談合話で企業の体質に疑問を持つ声が大きくなっている。事故やら事件やら、そんなことがあるたびに大騒ぎをするが、こんなことが何度も繰り返されるところを見ると騒ぐことの効果は上がっていないということがわかる。上辺だけを捉えて批判しても、結局本質的な問題を掘り出すことをしないから無理なことはわかっているが、もしそうなら鬼の首をとったかの如くの騒ぎをやめて欲しいと思う。やるなら徹底的にやるべきで、できないならあっさりと忘れたほうが良いのではないだろうか。今回の出来事についても、誰がどう責任をとるのかさっぱり見えてこない割に、捜査の手はどんどん入り込んでいる。その一方で、最終責任者とおぼしき人々の発言だけが取り上げられ、誠実さを表現しようとする気持ちだけが伝わり、何とも虚しい気持ちだけが残る。経営者達の集まりの中心人物でもある彼らにとって、こういう時にどんな対応をするのかは非常に重要な事柄なのだろうが、どうもこれといった秘策もないようだ。その上、談合を根絶するのは不可能と現実的なことを主張する声が流れてしまうわけだから、こういうものを禁止すること自体、どんな意味があるのかと思えてしまう。主流派に属していれば利益を得ることができるのに対し、傍流にいたら蚊帳の外に置かれる。そんなことが明白な中で出てくる意見を聞いているかぎり、彼らがどちらに分類される組織に属していたのかは明らかだ。関係者の誰に責任があるのか、最終的に結論が出てくるかどうかもわからないが、何十年も続いた慣習を今更悪事と言われてもと思う人もいるのではないだろうか。さすがに面と向かってそこまで言ってしまうと問題になるのだろうが、おそらく参加していた人々にとってはこれまで巧く進めてきたことに対して疑問をはさむことなど想像すらしなかったのだろう。では、彼らを監督する立場にある人々は、という流れを作ると最終責任者に行き着くはずなのだが、これとて何代にも渡る話となるわけでここという点を突くことはできそうもない。元々談合自体の問題点をきちんと指摘した意見は少なく、特に島国での根回し社会に慣れた人間達にそれ以外の手法は馴染みにくいのかもしれない。今後の展開と言ってもおそらく従来通りの手順を踏んで、一部の人間の責任を明らかにするといった感じになるのだろうが、もしもそうなら何も変わらないことになる。それが社会の仕組みなのだとでも言いたげな合理主義者の顔を思い出すたび、変わらないことが実は良いのだと思わされるが、さてどうなのだろう。

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5月26日(木)−遮断

 普段はいい加減と言っては誤解を招きそうだが、何か話題にすることに不明な点があったとしても大して調べないことが多い。ここで紹介していることの多くは自分の感じたことであり、ひょっとすると間違った解釈があるかも知れないが、一人の人間の意見として受け取って欲しい。社説や意見広告については責任の所在が明確だから、そうはいかないと思うが。
 ということで、新聞に載せる記事については仕事上の関係もあるからあまりにいい加減なことを書くわけにもいかない。ふた月に一度の割合で回ってくることについて大変だと思う人もいるだろうが、ここで書いているのと同じ程度のものと思えば大したことはないという見方もできるだろう。ただ、思いつきを書いているのと違って、内容すべてが思いつきというわけにもいかないから、念のために調べることも出てくる。次回に向けて話題を決めたところで、自分が経験したことについてはある程度記憶に頼ることで何とかなるのだが、その後の経緯については全く知らないことなので、何とかしなければならないと思った。そこで知人に連絡して、その辺りの情報を集め、それでは不十分となったので担当する組織に連絡をとった。以前もこの話を取り上げたことがあるのだが、地元の教育委員会の企画で子供たちに野外観察をやらせようとする行事が当時開催されていた。ただ、その後同郷の人間に聞いても知らないと言われたから、おそらく立ち消えになっていたと思っていた。ところが今回主催者に連絡をとって見ると、ほとんど同じ形式のものを途切れることなく継続していたという。それはそれで喜ばしいことなのだが、それでは何故多くの人々がその行事のことを知らないのだろうか。理由の一つとして担当者が上げていたのは、連絡を中継する各学校の取り組み方によるのではないかということである。つまり、野外観察は理科の範疇だから理科を担当する先生の熱心さによっては、生徒や保護者に対する連絡への熱の入れようが違ってくるわけだ。これにはおそらく管理する立場にある先生達の影響もおそらくあるだろう。いずれにしても、自治体全体として力を入れてきた行事に対して、地域によって参加の機会のあるなしが決まってしまうのは何とも無茶苦茶な話である。そういうものによって多大な影響を受けた人々がいる一方で、その機会さえ与えられなかった人々がいるのは、企画する立場からしたら何とも歯がゆい気持ちがあるのではないだろうか。当時は申し込みがある時間ある場所で行われていたから、現場での混乱が絶えなかった。そのせいもあって、今では学校を通して申し込み、抽選で選別するとのことだ。そうなればなおのこと、それぞれの学校の取り組み姿勢が大きく影響しそうである。元々先生達が手弁当で集まって始まった行事だけに、一方で同じ組織に属する人間によって逆の作用が起こされていることには憤りを感じる。既に40年以上続いていることにも驚きを感じるが、一方でそんな格差が存在していることにも驚かされるのだ。

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5月25日(水)−消去

 何かあるとすぐに止まってしまうパソコン、せっかく書いた原稿がお釈迦になってしまったことが何度もある。その度に、泣く泣くリセットボタンを押し、はじめからやり直しとなるのだが、同じ文章が書けた試しはない。人それぞれだろうが、同じような内容を目指していても、完璧な構成ができているわけではないから毎度違ったものが出来上がる。
 パソコンがフリーズする原因はおそらく色々とあるのだろう。しかし、使用者にとってそれはすべて黒い箱の中味であり、単に理不尽な中止命令が下るに過ぎない。単純な機構だったころに比べ、最近は機能も多彩となり、複雑怪奇なハードやソフトが溢れている。それに伴って突然の停止は改善されるどころか、段々に酷くなり、やれバックアップだの、やれ頻繁に保存せよだのと使用者の向上が求められているようだ。そんな機械をなだめすかしながら使っていると、よく似たものが周囲に増えていることに気がつく。複雑化の一途を辿る機械もさることながら、温かい血が流れている人間にまでそんな徴候が現れているような気がするのだ。伴侶にもリセットボタンを、と望む若者がいるという話に驚いたのは10年ほど前のことだが、目の前で起こることにそんな仕掛けを望む人が増えているのではないだろうか。成功した人の話を聴いていると、成功をひけらかす人の場合、とんとん拍子に階段を上っていったような印象を持つが、同じ境遇の人でも教訓的な表現を好む人は失敗の連続とそれから学んだことに触れる場合が多い。どちらが事実か一概には言えないわけだが、話を聴いて参考になるのは失敗の可能性を含んだ後者のものになるだろう。確かに間違いを犯さずに一本道を歩めるのならそれに越したことはないのだが、現実はそんなに単純に展開しない。だから紆余曲折の末の成功を手中に収めた人の方が圧倒的な多数派であり、自分もそれを目指すのならばそれなりの覚悟がいるということなのだ。しかし、世の中の流れはそういう期待には沿わないようで、一本道の歩み方を教えてくれる教則本を望む人が増え続け、失敗や間違いはすべて消去しようと試みる。忘却の彼方に押しやることは当然のごとくそこから学ぶ過程をも無くすことであり、経験という大切な財産を貯め込む機会をも失う。なかったことにするとか、見なかったことにするとか、そんな言葉を吐く人々を見ていると、何故それを受け入れる勇気がないのかと不思議に思うが、本人たちには他人との競走の中で失敗は汚点にしか見えないのだろう。非常に安定した社会では、いかに効率的に生き延びるかが重要であり、失敗や間違いといった負の要素は徹底的に排除する必要があるのだろう。ただ、面白いと思うのは彼らの中に失敗しないようにする心掛けが存在しないことで、起こるべくして起きたことに何の疑問もはさまず消去を繰り返す。こんな風潮が蔓延り始めたのは、確かに将来の展望がある範囲で見通せる世の中になり、敢えて変化を起こす必要もなくなったからで、単純に若い世代の責任と言えない部分もある。そんな方向に向かわせた世代の責任を追及することも必要なのかも知れないが、本人たちやここしばらくの社会情勢を考えるとそんな総括など役に立たないことは明白である。まずは、人々がこれから必要なことを見つめ、動き始めることが大切で、それによる一時の停滞は越えねばならないものと見るべきだろう。

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5月24日(火)−支援

 心に余裕があるとき、人は周囲をじっくりと見渡し、様々なことを考える。締切が迫っていたり、やるべきことが山積みになっていたりすると、そんな余裕は持てず、脇目もふらず突き進むしかない。世間では余裕のないときには悪いことが起こり、あれば良くなる話があるが、果してどうだろう。脇見ばかりで肝心なことを見逃しては、良くなるわけもないのだが。
 余裕は心だけでなく、懐にも関係する。精神的な余裕だけでなく、金銭的な余裕が出てくると、それまでなら諦めていたことにまで手を伸ばし、多様性が増すに違いない。これは個人的な問題だけでなく、社会全体に対しても通用することで、高度成長期には見過ごされていたことが今では大きな問題として取り上げられているのは、まさにそのことを表しているのだろう。中でも社会的弱者の問題は日に日に大きく取り上げられ、最近では逆に大袈裟すぎることを戒める声さえ出るようになった。だからと言って弱者が強者に変わったわけでもなく、いつまで経っても弱者は弱者のままである。それにもかかわらず救済制度に反対の声が上がるのは、元々弱者差別を問題とし、彼らの社会的地位や立場を改善するために作られた制度が、実際には別の差別を産みだしているからだろう。成長が約束されていた時期には余裕を失うこともなかったが、どこか停滞感が漂いはじめ、逆に衰退やら縮小やらといった言葉が使われるようになると、ゆとりがなくなり、気になることが増えてきたようだ。これが繰り返されることで、本来の主旨からは外れてしまうような批判までが浴びせられるようになり、弱者救済制度が頓挫することも起こり始めた。確かに手を差し伸べる必要があるからこそ、そういった制度が設けられるのであるが、実際にはどこまでの援助を必要とするのか、妥当なのかといった思慮がないまま始めることが多く、現実を直視したときにやっと問題点が浮かび上がることが多い。そんなことから過ぎたるは及ばざるが如しでもないだろうが、批判の声が上がってくるのだろう。弱者救済と言っても様々な場合があり、一概に論じることは不可能である。ただ、どう見ても至れり尽くせりとなってしまうと、それ自体に疑問を持つ人が増えるし、恩恵に浴す人々からも別の声が聞こえ始めることもある。足りない部分を当事者に聞いて、それを制度に反映させることがよく行われるが、これとても検討なしにするのはおかしいだろう。確かに何が必要かを論じることは大切だが、だからと言って要望をすべてかなえることが絶対とは言えない。本来、足らない部分を補うはずの制度が、それ以上のことをしてしまっては制度自体に疑問を抱かれるからだ。当事者からもいろんな声が聞こえるはずで、それぞれに思惑が含まれているだろう。これは援助する側にも、される側にもあることで、それを含めた上でいろんなことを検討、実施しなければ、良い制度が生まれるはずもないのだ。ただ足らないものを埋め合わせるだけでなく、それまでの成功例の検討など、何をすれば上手くいくのかを知ることは重要である。現状では不足分の補いばかりに目を奪われているようだが、これを続けるかぎり、弱者は弱者のまま、強者は強者のまま、その図式が維持されることになる。そう考えると、今の制度は立場が変わらないように意図されているのかもしれない。

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5月23日(月)−知欲

 教育の荒廃が叫ばれて久しい。以前なら知らないことが恥だったのに、今は知らないことが当然となり、更には知ろうとしないことが問題視されるようになった。意外な気もするが、知っていることならわかるが、知らないことはわからないという何とも不思議な状況が起きているという。知らないことを知ることが、などと始めると堂々巡りになりそうだ。
 学校が荒れたからというわけでもないだろうが、何しろいろんな意味で学校の意義が取り沙汰された。何のためという言い回しが流行し、それに従って学校は何のために存在するのかが議論された。その際に最も重視されたのは当然のことながら教育の二文字だが、この範囲を定めるところでどうも無茶な動きがあったように感じる。たとえば教育とは人生全般に渡るものであり、それらすべてを担当するのが学校という考え方は、学校教育の効率が低下する過程で次々に採り入れられていたように思う。その結果として、過剰な負担を背負い込むことになり、其処彼処に矛盾が山積することとなった。堅実に推し進めていたときには守備範囲が明確であるばかりか、確実なところを目指す動きがあったのに、悪い方向に行き始めた途端に危機感が募り、無理な展開を模索することになる。この図式は何もこういう話題に限ったことではなく、おそらくすべてのことに通じるところがあるのではないだろうか。ゆとりが議論されたのも、結局はついてこれない生徒を問題視して、彼らを救うことが使命であるかの如く語る人々の論法が採用されたわけで、現状を見るかぎり計画通りに事が運んだとは思えない。ただこれは目指したところと到達したところの違いによるものであり、結果論に過ぎないわけだから、計画に欠陥があったとは言い切れないだろう。しかしとにかく現状としては、自ら知ろうとする子供たちの数は激減し、これだけやればいいといった風潮が大勢を占めるようになってきた。これは安定志向の極端な現れの一つであり、教育制度の問題ではないのかも知れないが、課題達成を目指すやり方が主流となったことによると言えなくもない。知らないことをわかるように教える技術が議論されればされるほど、わからないことを知ろうと努力するという、教える側の技術とは正反対の位置にあるものが蔑ろにされた。実際には正反対なのではなく、互いに車の両輪を成すものであり、どちらが欠けても何かしらの不具合を生じるはずなのに、まるで対局にあるもののように扱われてしまった。何となくその辺りに問題があるように思うが、これとて対策が浮かぶわけではない。ただ、わからないから教えてやるというやり方がすべてであるという教育論には明らかな矛盾があり、少なくとも知ろうとする心を養うことに繋がらないことが多いようだ。知らなくても良いとか、知ろうとしないとか、そんな話が巷に溢れているのを聞くたびに、どこで進むべき方向を失ってしまったのか考えてしまう。ただし、これからを考えるにはそんなことはどうでもよく、それぞれの守備範囲を明確にすることから始めるべきだろう。教育の現場は、学校だけにあるわけではないのだから。

(since 2002/4/3)