パンチの独り言

(2005年5月30日〜6月5日)
(指示、救急、平衡、男女差、覗き、分際、読解)



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6月5日(日)−読解

 独り言を読んでいる人たちは、これを読んでどんなことを思っているのだろう。思いつきを書いていると謳っているものを読んでも、何かそこにあるのではないかとか、何かしら参考になるものがあるのではとか、そんなことを思いつつ読んでいるのだろうか。書いている側から言えば、何か伝わればと思っているが、でもこれと限定したものではないつもりだ。
 文章とは本来書き手が伝えたいことを綴るものと言われている。だからそこに書かれていることから一つのことが読み取られ、それを読み手は理解するのだと。この作業を読解と言うのだが、最近その力の低下が問題となっているのだそうだ。これは世界共通の試験のようなもので下された判断だから、比較という意味ではそれほど外れた結果とは言えないだろう。しかし、こういう力を測る手段として、文章を読ませて、その中にある意味を説明させることがあるのだとしたら、厳密な意味の伝達を目的とした文章とそうでない文章とで違いが出てきそうだし、元々言語体系として送り手が設定する厳密性を重視する場合と解釈を受け手に任せる場合とではかなり大きな違いが生まれても不思議はない。そんな違いがあるかもしれないのに、共通という名の下に試験を行い、結果を議論する。そこには正当な判断が下せるという前提があるようだが、そこからして何となく怪しい気がするのは穿った見方のためだろうか。実際にはそれほど高度なレベルでの話ではなく、もっと基本的なところでの理解が足らないことを問題としているのだろうが、それにしても書いたことや言ったことの意味が伝わらないことは日々感じられるわけで、どうしたら解決できるのか悩ましい問題であることは確かである。環境を整えることが主体となる施政者の立場では精々のことなのだろうが、こういう問題を解決するために活字や文字に触れる場を提供すべきともっていくのは当然の結果のように思える。そのために立法化が必要かどうか、この辺になると怪しさが出てくるけれども、これもまた手続きとしてごく当り前のことの一つなのだろう。しかし、そういう場として図書館を考えることについては何となく解せない気もする。活字や文字を含むものといえば本であり、それが一杯あるところは図書館であるという考えは当然のものだろうが、では現時点で読解力不足の子供たちに対して図書館の不足がどういう影響を与えているのか、そんな議論がどこかにあるのだろうか。本に触れる機会を増やすことが重要であるという考えは、戦後まもなくの何もかもが不足した時代なら理解できるが、何でもかんでも溢れている時代にそんな考えを持ち込み、更にはそれを公的手段に任せようとすることはどこか大きなずれを思わせる。日々の接触が重要ならば、家庭が一番の担い手であるべきだし、そこに間接的な影響を与えようとするための図書館重視だとしたら、何故直接でなく間接を選択するのか理解に苦しむ。元に戻して、読解力の向上に活字との触れ合いが重要であるという考えの安直さに呆れる部分もあり、それらが直結していないことを議論して欲しい気もする。そんなことを言っても行政からの働きかけが及ぶ範囲でないことは明らかだから、今回の議論には馴染まないと言われたらその通りなのだろうが。

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6月4日(土)−分際

 毎年、どこだかの白書がまとまるたびに話題になることがある。そんなものはいくらでもあると言われそうだが、中でも注目されるものの一つが自殺者の数ではないだろうか。今年も、と言われ続けて、果して何年目なのかよくわからないが、また三万人を超えたのだそうだ。数え方によると言われてから久しいが、同じ調子で数えて、同じような数字が出ている。
 人口が一億人を少し超えたくらいの中で三万人の自殺者というのは多いのか少ないのか、本来は死亡者の数に対する割合で論じなければならないのだろうが、原因が別のところにあるからそういった扱いが良いのか疑問が残る。いずれにしても、数としては多いという印象を受けるわけで、だからこそ問題視されるわけだし、何とか対策を講じようとしているようだ。以前との違いは自殺に至るまでの様子が伝えられるようになったことのようで、それによりどんな変貌の末に自死を選ぶのかが明らかになりつつあるという。たしかに自殺を思い止まらせるためには周囲がそういう変化を敏感に読み取る必要があるのだろうが、一方で一度や二度止められたとしても結局という場合も多く、これだけですべてが解決するわけでないことは明らかである。思い止まらせることで別の考え方が生まれ、それによって別の人生が始まる場合もあるが、一方で何の変化もなく、また同じような生活が続き、結果として同じところに行き着く場合もある。こういうケースでは単純に止めるだけでは不十分であり、根本的な原因の除去が必要となるだろう。しかし、今回議論になったのはそこら辺ではなさそうだ。自殺へ向かう心理とでも言うのだろうか、その辺りを分析して、対処法を編み出そうとしたのだろうが、ある程度の抑止力はあるとはいえ、完璧とは思えない部分がある。原因を分析してもあまりに多様で手の出しようがないとなっているのかも知れないが、ほとんど場合にそこに大きな悩みがあることは明らかだろうし、原因そのものが違っていても同じような悩みに帰着するとなれば、その辺のところを分析してもよさそうな気がしてくる。まあ、こんなことを言い出すのは素人の強みとでも言うのだろうが、それはそれとして一つ考えてみてもいいのではないだろうか。自殺してしまった人の生活を暴くような分析は死者を冒涜するものになりかねないから、うっかり手を出すわけにもいかないが、それでもその辺を探っておいたほうがいいように思う。特に金銭絡みの場合、どんな経緯なのかを見極めておくことが必要だろう。これもまた死人にムチすると言われるかも知れないが、身の丈をという意識の存在が関係している場合もありそうだから。

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6月3日(金)−覗き

 検索などを経て、この頁に辿り着いた人にはわからないことだが、サイトのトップページの目次からやって来る人たちは気づいているだろう。目次の上にあるカウンターの存在である。ずっと以前、このサイトを立ち上げた人が管理していたときには大体百前後のアクセスが毎日あった。それが最近は50をやっと超える程度で、たまに70になり、減ると30台になる。
 このサイトがインフォシークの無料ホームページサービスに移行してから、アクセスに関してもちょっとした記録が残るようになっている。一日のページ閲覧数、閲覧容量などが表になっているのだが、このところちょっと様子が変わっているように見える。アクセス数は50前後と大した変化はないのだが、その多くが掲示板などを閲覧していないことがわかるのだ。おそらく伝言板やチャットを見に来ているのだろうと思われるが、どちらもアクセス記録が残らないから確認のしようがない。ただ、掲示板のように閲覧容量が大きいものを見に行けば容量に変化は現れないはずなのだが、このところ量についてはかなり激減している。その辺りから想像するに、このサイトを見に来ている人の数はあまり減っていないが、ちょっとだけどこかをチェックする人が多くなっているようなのだ。これが何を意味するのか良くわからないし、それについて何か考えてみようと思っているわけでもない。単純に現状を説明しているに過ぎないのだが、このところ不思議に思っていたことなので、これを機会に紹介したわけだ。いろんな形でこのサイトに行き着いた人がいるのだろうし、それぞれに考え方も色々だろう。そこのところを分析する気は毛頭ないし、そんな時間もないから、結局のところ、ここで書いておしまいということなのだ。それが何か大きな問題を孕んでいるなら管理する立場としてしっかり考えなければならないが、今のところそんな可能性も浮かんでこない。まあ、当分の間見守っておけばと思うだけなのである。その上、アクセス数に影響する人々の大部分は独り言を覗かないので、ここにそんな話を書いておいても大勢に影響はないだろう。それどころか、このところの独り言のカウンターの進み具合は更に鈍くなっている。たしかに常連さん達のアクセスだけが頼みというわけだから、せいぜい二桁にやっと届くかどうかに留まるのは仕方のないところなのだが、その一方で検索結果から直接やって来たと思われる一見さんは常に存在する。検索にかかるような注目される言葉を使ったときには、特にその数が増すのはそんな事情によるのかもしれない。いずれにしても、勝手なことを書いているだけだから、それがどうしたというわけでもないのだろうが。

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6月2日(木)−男女差

 男女雇用機会均等法が制定されてから20年経過した。実際には現行のものは6年ほど前に施行されたものだから、そちらの方が強く記憶に残っているのかもしれない。職名が変わったのもその頃だったか、男女間の格差や垣根を取り除こうとしたもののようだ。能力差が男女間であるとは思わないが、性差はそこにあるのは確かで、すべての点でとはいかないようだ。
 そんな中、ある職業分野で著しい男女格差があることが指摘され、それを解消するための方策が提言されたと報じられていた。男女共同参画という呼び名からして、格差を是正するということよりも、現状の歪みを少しでも解消するために協力体制を築くべきといった意図がありそうである。職業における男女差はいろんな職種で問題視され、そういった困難を乗り越えて目標を達成した人が増えるにつれ、不可能と見做すのではなく、いろんな仕組みの問題と見做す風潮が現れてきた。たしかに様々な分野でそういう差が存在していたのは事実だし、その一方でその差が性差によるものではないことも確認されつつあった。そんな中で均等法が導入され、問題を解決するための方策が講じられてきた。結果として個人差の存在は否定できないが、それは性差に起因するものではないことが徐々に明らかとなり、そういう先入観を払拭するための運動が盛んとなった。その後の展開は解決がある一方で、別の問題が噴出し、まだまだ複雑な様相を呈しているところもあるようだ。そんな中で出された共同参画は、ずっと昔のように男女による進学率の格差が存在していた中では考えにくかったものが、それがほとんど存在しないようになったためにそれに見合った状況が作り出されるべきという考えから出てきたものなのではないだろうか。つまり、進学した者たちが次に目指すところへ行くときには、その割合に準じた構成率が達成されるはずという論理で、通常の大学卒業から就職するルートと同様に、ある分野についても更なる進学の率からそのまた上への就職率を推測し、それを現状と比較したときに出てくる差が何かしらの歪みによるものと結論づけるわけだ。そんなことから制度上の問題を指摘し、それを是正するために講じられたものが今回の提言のようだ。これまでこういった問題を解決するために、方策を講じて、制度を変更するという手段が使われてきたが。今回の話を聞くとその辺りにそろそろ難しさが見え隠れしているような気がしてくる。環境整備など、いろんな手だてが講じられるようだが、それがそのまま現状では不当な扱いを受けている人々の救いになるかどうかには疑問が残る。ただ単純に制度が整えば何とかなるというものでもないところに、問題の根源がありそうだが、こういう提言はその点には触れないことが多い。不当な扱いと言っても、一概にどう不当かを評価できないところにも問題がありそうだ。こういう問題を取り上げ、支持する人々が根本的な問題を理解しているかどうかが、今後の展開に大きく影響しそうだが、さてどんなものだろうか。ただの数合わせになって欲しくないのは多くの人々の共通認識だろうし、それを危惧する人が多いのも事実だろう。さて、どうなるのやら。

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6月1日(水)−平衡

 五月晴れといえば、すっきりと晴れ渡る青い空という印象がある。旧暦か新暦かそれはさておき、この季節そんな日が続くものと期待していたが、どうもそうでもなかった。全国的な傾向ではないが、ある地域では久し振りの低温が続き、どうにも薄暗い毎日だったようだ。異常気象は何も温暖化に限ったものではないから、こういうこともあるのだろう。
 それにしても、ちょっとした気圧配置によってこんなに天気が変わるものかと改めて考えさせられる。全国的な傾向でないということは、高気圧低気圧の位置関係だけでなく、それに加えて山や海の位置関係が複雑に絡み合った結果なのだろう。こんなちっぽけな国土でもそれほどの変化が現れるわけだから、世界に目を向けると毎日のように報じられる異常気象は異常でもなくちょっとした気紛れ程度のものなのかもしれない。情報社会になればなるほど、こういう話が時間差もなく伝わるようになり、大袈裟に取り上げたい人々にとっては格好の標的となる。それはそれで環境問題と絡めたいという思惑があるわけだから、そちらへ向けての運動には弾みをつけることになり、いい方向に進むのかもしれない。しかし、一方で異常さばかりが取り沙汰され、悪い話ばかりが取り上げられるようになると、さて心の持ちようとして果して良いものなのかどうかわからなくなる。何でも悪いように考えておけば悪いことが起きても心の準備ができるから良いと言う人もいるが、一方で楽観的に考えたほうが心の安定をもたらし全体として均衡のとれたものになるから良いと言う人もいる。どちらも事実だろうが、両極端に見えるものが両立するわけもなく、それは人による話であり、誰でも彼でも当てはまる事実というわけではないだろう。最悪のシナリオを設定しておくべきという話が最近良く聞かれるようになったが、これはつまり最悪と思える事件が起きたという記憶があるからだろう。そういった場合に巧く対処するためには何しろ可能性を考えておくのが一番ということらしく、設定するのはそのためらしい。しかし、それだけを考えていたら逆に追い込まれてしまうわけで、一方では良い話にも接することが必要だろう。この辺りの心の動きは人それぞれに違うようで、人によっては悲観的なものの考え方を基本とすることで悪い方向に向かうことを避けるのに対し、積極的に良い方向ばかりに向かう努力をすることで悪い向きが出ないようにする人もいる。実際に自分の仕事を考えてみたときに、いつもいつも良いことばかりが起きるはずもないわけで、そういう場合に普段からそんなことを当り前と思えるようになっておけば、大した苦労もなくそういう窮地を脱することができるだろうが、何故悪いことばかり起こるのかと悩んでばかりいたら、どんどん深みにはまってしまう。結局のところ、平衡感覚に行き着いてしまうのかも知れないが、どちらの方向に傾くにしろ、過剰な傾きに陥らないことが大切なのだと思う。ごく当り前のことだが、さてちゃんとできているものか。

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5月31日(火)−救急

 消防署がてんてこ舞いだそうだ。火事やら事故やらで大変なのかと思ったら、消防車ではなく救急車の出動が多過ぎるとのこと。過ぎるというのは本当に必要な人にとっては迷惑な言い方になるが、重大なものを除くとあまりに軽微な怪我だったりして、別の輸送手段を利用すべきということらしい。その出動によって、肝心なときに対応できなくなるほどだとか。
 急病やら怪我やら、本人も含め、周囲の人たちも色々と心配になる。その結果として救急車の出動要請となるのだろうが、駆けつけてみると急を要するとは思えないものだったりする。出動自体も手間がかかるものだが、要請に対する対応にも時間や手間がかかっている。対応する端末が十分にあれば良いのだろうが、余分なのは別の見方からして批判を受ける。結局軽微な場合の対応に忙殺されることが重大な場合を排除することに繋がることがあり、関係者からは利用者に対してそういう配慮を願うこともあるようだ。以前ならば、救急車を呼ぶというのは大袈裟で、そんなことをしてはいけないという考えがあり、肝心なときにまで躊躇するという問題があった。これはこれで何のための制度かと首をひねることになるのだが、一方で権利があるのだからと何にでも使ってしまえという考えもおかしなものである。最近の傾向はいろんなものに対して後者の選択がなされているようで、その皺寄せがいろんなところに現れている。一方で自治体の財政悪化が強く叫ばれているから、無駄を省くことが重視され、人の命に関わる部分にまでそういうことが及ぶこともある。この辺りの歪みがいつごろから起きたのかよくわからないが、とにかく現状はどうにもならない矛盾を抱えていると言えるだろう。そんな中で民間の患者輸送が導入され始めているようで、公的なものへの負担が少しでも軽くなるようにという狙いがあるようだ。しかし、実際に利用する側からみてどんな印象があるのだろうか。消防署の救急車は緊急のものであるだけでなく、市民に対する使命を持ったものだから、使うための費用は請求されない。しかし、民間のものを利用すれば、当然経費がかかるわけで、それを利用者が負担することになる。不況が叫ばれている時代にはそんなことも気になるわけで、ただのものを利用したいと思う人が出てくるのではないだろうか。こういった制度は元々海の向こうから流れてきたものだと思うが、あちらでは使ったものに金がかかるのは当り前という考えがあるから問題になるはずもない。一方、こちらはこういう制度が市民に対するサービスとしてあることが当り前という考えがあるから、全く違った方向に思考が働く。結果として民間よりも公のものをとなるのではないだろうか。今後どんな風に展開するのか見守るしかないのだが、ちょっと聞いただけだとそんな心配が出てくる。119と回して説明した途端に、それはあちらにとふられたら、さてどうしたものか。何を当り前と見るかは時代とともに変化するだろうから、こんなことも杞憂に終わるのかも知れないが。

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5月30日(月)−指示

 曖昧な表現が嫌われる時代のようだ。何につけても正確な表現が好まれ、相手に判断を委ねるようなことがあると、発信した側に責任があるとされる。的確な指示を好む世代が大勢を占めるようになってから、ずっとこんな状況が続いているが、どうにも窮屈だと感じる人も出てきた。特に的確さを要求した世代からそんな声が上がっているようにみえる。
 間違いをしない、させないためには一から十まで気を配った指示を与える必要がある。そのために要する時間や心遣いは当然のものとして扱われる割に、どちらかと言えば時間外へ追いやられる傾向があるようだ。それだけ多くの時間を割いて、十分に配慮したつもりでも、それらの指示を受ける人々はそれをも上回るような体制で臨んでくる。そうなれば、更にそれらの対策を講じた形のものを作って、という流れがこのところ目に付くようになっていたが、どうにも無理が生じてきたようだ。時間は有限であるにもかかわらず、相手の姿勢は無限に広がっているように感じられる。そんなことが見えてくると、どうしても要求に応じる勢いが鈍り、どこかに線引きをしたくなるものらしい。同じことを繰り返すだけでよい業種ではこんな悩みはほとんど起きないようだが、ある程度の臨機応変さを要求される業種では例を挙げればきりがないほどとなる。そうなれば、いちいち取り上げるわけにも行かず、ある程度の例からの類推を受け取り手に期待せざるを得ない。しかし、どこまでも正確な指示が他方から期待されているわけだから、そこには大きな矛盾が生まれる。さて、この場合、どんな対処があるのだろうか。一時的にはどこまで続くかわからないことでさえ、必要であるということから推進されていたのだろうが、どうにも限りが無いように見えるにつれ、必要の一言ですべてを受け入れることに対する疑いが生じてきた。たしかに、一つ一つきちんと整理して、正確に相手に伝えさえすれば、間違いのない行動をさせることができる。そこまでは誰しも了解していることなのだが、類似性のある問題を扱う場合に起きることが次の段階の難しさを実感させる場合がある。つまり、対処できるようになった問題とさほどの違いのないものにお手上げ状態になる人々が現れているらしいのだ。こうなると、どこまで懇切丁寧さが要求されているのか、関与している人々にも見えないようになり、徒労に終わる仕事に身が入らなくなる。きりが無いとわかってしまうと、それにとことん突きあう気持ちも薄れるから、いい加減な対応となる。そうなればきちんとしたものしか受け付けない人々は途方に暮れてしまうことになる。さて、この遣り取りはどこまで行けばいいのだろうか、あるいは、どちらに向かえばいいのだろうか。今の状態はそんな岐路に立たされているところだろうか。嫌われた曖昧さと好まれた厳密さ、どちらか片方だけでは成り立たない世界に、どんな方策があると言うのか。単純に考えれば、丁度いい混合状態のものを作るのが一番だが、さてそんなものが存在するのか。存在するとしても、ただ一つの答えがあると言うのだろうか。ここにまで厳密さが入り込んでいる感じで、いかにもこれという答えがあるように説く人もいるが、実際にはそうではなさそうだ。そんなこんなの様子を見るかぎり、やはり曖昧さを嫌うだけでは無理が生じると言わざるを得ないだろう。

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