パンチの独り言

(2005年6月6日〜6月12日)
(成功の元、公平、還元、季候、絆、会話、余計)



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6月12日(日)−余計

 このところ、休みがとれないことが続いている。次々に持ち込まれる仕事を片付けているうちに時間が無くなり、週末さえも休めなくなっている。こんなことを書くと、過労死とか、疲労で倒れるとか、そんなことを想像する人がいるかも知れないが、そこまで深刻な状態ではない。ただ、自分のペースが守れないほどになっていることだけは事実のようだ。
 仕事はあるところに集まるものだと以前書いたが、何故そうなるのかは良くわからない。しかし、よくよく見てみると、そこに原因のようなものがあるのに気がつく。集中する理由はわからなくても、仕事が増えている理由がわかれば、まあ何となくわかったような気がしてくるのだ。仕事が増える原因としてまず除外されるのは、自分が増やしているということだ。自分が増やしているのではなく、どこかの誰かが増やしていると考えると、何となく見えてくるものがある。たとえば、何か新しいことを始めようとするとどの社会でも提案することが要求される。確かに、金の遣り繰りや人の遣り繰りを工夫すれば提案などしなくても水面下で始めることもできるが、実際には難しいことが多い。そこで提案して始めようとすると、まず文書でそれを提出することが求められる。昔ならば上司に口伝えで提案し、それを実行に移すということもあったようだが、今はそんな雰囲気はない。何しろ文書という形が求められ、そのためにかなりの労力がつぎ込まれているわけだ。この辺りにはもう一つの問題があり、以前ならばある程度の予算が確保されていて、その範囲内であれば自由裁量であったから、ある程度自由に新しいことを始めることもできたのだが、最近はそういった予算が無くなっていることだ。そこには信頼関係があったからだろうが、その後こういった形式では身勝手なことを繰り返す人が増え、他人の金といった感覚が強まり、どうにもならなくなったのだろう。そんなことで、何でもかんでも提案させればどうにかなるだろうという考えが一般的となり、今のやり方が広まったのではないだろうか。確かにこうすれば責任をもって取り組むものだけが始められることになり、そこには無駄が減るはずという読みが出てくる。その通りかも知れないが、一方で始めるための労力に大いなる無駄が生じてしまった。何にでも競争を採り入れれば良いという考えは、実際にはその渦中にいたことの無い人によるものであり、その方式の導入による新たな仕事に対する思慮に欠けたものに思える。効率ということを考えた場合、どちらがより優れているのか簡単に論じることはできないが、その考えを抱いたことさえないと思えるのだ。とにかく、文書、文書ですべてをこなし、書いてありさえすればいいといった風潮が出てくると、こんなやり方の矛盾点が露になる。そんな時、無駄を承知で真面目に取り組む人たちにはただ溜め息だけが残ることに、気がつくのはいつのことだろうか。

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6月11日(土)−会話

 人と話をしていて、気分が良くなるときと悪くなるときがある。何故だろうかと思うこともあるが、多くの場合、その理由は明らかだ。話をするときには、やはりそこに流れがあるかどうかが重要で、こちらの話の腰を折られたり、次々にあらぬ方へと進められたりすると、辟易としてくる。それとは別に、話のリズムが関係ありそうだが、こちらは表現しにくい。
 いずれにしても、話をするときに楽しくなかったのでは後味も良くないし、精神衛生上も良くないだろう。気になるのは、相手がどんな気分なのかを察することもなく、ただ我が道を行くというタイプがいることで、大抵の場合は逃げてしまうのだが、どうにもならないこともたまにある。そうなってしまうと、まずは諦めが先に立ち、次には話を流す、と言っても、どこか別のところへ垂れ流す方の流すのことなのだが、そっちへ向うことになる。当り前だが、時間だけが過ぎていき、そこには何も残らないし、残らせたくないわけだ。気分の問題がこれほど大きく影響するのかと思えるが、しかしそんなもののようだ。年寄りの話はおそらくこういったものの典型で、聞く人の気分を害する人とそうでない人と、どこがどう違うのか、全く逆方向の反応を引き出すようだ。小説家でもあり、住職でもある瀬戸内寂聴が自分の寺で開いていた説法を、先日終わらせたという話を聞いたが、彼女の話はきついことを言っているはずなのだが、聞く人たちはそれとは気づいていない。でも、心のどこかにそれが残っていて、結果として後日何らかの影響を与えているのではないだろうか。聞いているときに気分を良くさせ、その上ちゃんと効果を上げるというのだから凄いものである。実際に会ったこともないし、じっくりと話を聞いたこともないから、どんな雰囲気なのかはわからないが、直接会った人に聞いてもそんな印象が残っているから、やはり滲み出てくるものがあるのだろう。それに比べると嫌われる人々は、自慢話や愚痴ばかりが並び、気分が悪くなるばかりの場合が多いのではないだろうか。あいの手を入れつつ、いかにその場から逃げるかを考えるのは何とも虚しいことである。それに比べたら、気楽さがあるだけでなく、何かしら心に残る話の方が歓迎されるのは当り前だろう。上下関係がある中では、そんなことが更にはっきりと現れるわけで、それを避けようと努力している人も多い。最近はその傾向がより強くなり、相手がどうであれ、上役とは一切話をしたくないという人が増えているようだ。相手の話が自分にとって意味があるかどうかの判断ができないためか、すべてお断りという安易な方式を採用しているのだろうか。そんな人に限って自分が逆の立場になると、などと想像してしまうが、それは穿った見方だろうか。とにかく、話をするのはある程度の愉しみが無くてはならないと思うし、そこにお互いに意味が出てくるようになれば更に良いだろう。それはその時の意味とは限らず、後々に影響するものであればいいわけだ。そんなことが始めからはっきりしていることはあり得ず、そんなことばかりを追い求めるわけにも行かない。となれば、最後に残るのはやはり会話の愉しみとなる。世の中それだけとは行かないものなのだが。

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6月10日(金)−絆

 ニホンザルの母子の画像を見たことのある人は多いだろう。手のひらに乗りそうなほど小さな赤ん坊が必死にしがみついている姿を見て、健気と思うこともあるだろうが、その一方で意外に思えるほど長い期間、母親の周りから離れない小猿を見て、不思議に思って人もいるのではないか。乳離れという言葉からすれば、ちょっと不安に思えるのだろう。
 そんな思いで映像を見ている人には、動物それぞれが生まれながらにもっている能力がその行動を支えていることが意識できないのかもしれない。本能と呼ばれる能力は誰かに教えられることもなく身に付いているもので、特に世代間の伝承の無い生き物の行動はほとんどすべてがそれだと言われる。数世代に渡る家族として暮らしているサルにとっては、世代間で伝えられることも多くあるが、一方でそうでなくただ本能的に行われている行動も多い。子供たちが親の手元を離れないのもおそらくそういったものの一つの現れなのだろうが、そこに別の考え方を導入してきた人間は彼らとは違う解釈をしてしまうようだ。子離れ、親離れとは、そういう行動が本能的に行われていればおそらく出てくるはずの無い言葉だが、現代社会ではごく当り前のように使われている。人間の親子関係に本能がどの程度影響しているのかわからないが、それより大きく影響しているものとして人々のその関係に対する考え方があるのではないだろうか。乳幼児の死亡原因の話題が出ていたが、最も多かったのは不慮の事故なのだそうだ。ベランダからの転落、誤飲などの事故による死亡が、病気による死亡よりも多いというのはちょっとした驚きで、おそらくそんな思いからだろうか、原因についての詳しい調査が大掛かりに始められたと伝えていた。その話を聞いたときにすぐに気がついたのは、これらの事故の多くは親の目の前で起きたのではないということである。親がちょっと目を離した隙に、という言い回しはかなり使い古されたものだが、おそらくそんなことがぴたりと当てはまるのではないか。そこまで来たときにふと思ったのは、はたして子供たちのそれらの行動は何かしらの思慮によるものなのかという疑問だ。たぶん、周囲のものに興味を持つとか、珍しいものを手に取るとか、更にはそれを口に入れてみるとか、そんな行動はごく自然に子供たちの中に出てくるものであり、何かしらの考えをもって行われているのではないだろう。もしそうだとしたら、それらはまさに本能的な行動であり、人類誕生以来、あるいはその進化の前段階でも、行われてきたものなのではなかろうか。更に考えを進めると、そこにはそれらの行動による不慮の事故を防ぐ何かしらの方策が、親の方にも本能として存在していると言えるのではないか。人間だけは特別で、と考えたがる人は非常に多いと思うが、ある年齢までは本能的行動が大半を占め、その後個々に違いのある変化が生じるというのは確かだろう。もしそうなら、それを防ぐ手だては環境の整備やものの考え方ではなく、親が本来持つべき何かに見つかるに違いない。徹底した調査の必要性を否定するつもりはないが、その前に親のすべきことを自分たちの都合からではなく、本能的、根源的なところで考えることも大切だと思う。

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6月9日(木)−季候

 ラジオから流れてくる地方の便りの中に、揚羽蝶の羽化や赤い花の開花の話題があった。季節が移り変わりつつあることを実感させるもので、いよいよ夏が近づきつつあることがわかる。しかし、そんな便りを聴いて別の感情を抱く人々がいるのではないだろうか。夏の前にやってくるあのじめじめとした憂鬱な季節のことが気になる人々である。
 今年の梅雨は一体全体どんな様相を呈するのか、既に台風の接近で例年通りの梅雨入りはなく、典型的な形にはなりそうにないようだが、ではどんな風になるのかと聞いてもこれという答えはなさそうだ。梅雨も梅雨で気になるところだが、その後にやって来る夏も昨年のようなことになると大変なわけで、気になるといえば気になる。そんなことばかり気にするのはひょっとすると別の要因があるかもしれず、特にこういう季節の変わり目には人それぞれに不安とか不安定とかそんな感覚を持つことが多いのではないだろうか。おそらく気温の上下が激しく、体調が安定しないことから始まるのだろうが、何ともないはずのものが気になったり、少しのことで精神的に不安定になることがある。ストレスによるものと言われるが、そこには精神的なものだけでなく、肉体的なストレスに起因するものもあるのだろう。そう考えると人は皆大なり小なりそんなブレを生じて、一時的に精神的な圧迫を感じることがあるように思える。鬱などというと大袈裟になるが、実際に意欲が減退したり、表現しがたい不安に襲われたりする人も多い。程度の問題だから、ほとんどの人は他に集中すべきことが出てきた時点でそんな思いから開放されるのだろうが、人によってはそのまま暗い淵に迷い混むことがあるようだ。その程度がある線を越えてしまえば、それはれっきとした鬱となり、一度迷い混んだら抜け出しにくいものとなる。そうなる過程でどんな行動をとるのかが人によって違い、それが全く正反対の結果を産みだしているような気がするが、はたしてどうだろうか。迷い混んでしまった人々のうち、運良く舞い戻ってきた人たちの話を聞くかぎり、迷路の中にいる間の心理状態は何とも表現しがたく、あとから考えてもわからない部分が多いようだ。ただ、どんな症状だったのかについてはそれぞれに的確に表現しているから、そういう事態になると危ないということだけはわかる。ただし、そうならないようにするにはという方策については、彼らの話はほとんど参考にならないと思う。ああしなければと考えることはあとになってできることだが、それは実際に有効だった話ではなく、有効かも知れない話に過ぎないからだ。本来はそこまで重症に陥らないまま、何となく自覚症状もはっきりしない人たちの行動様式が参考になるはずだが、それはほとんど表に出てこないものである。また、おそらくそんなものを表沙汰にしなくても、その程度の揺れは皆それぞれに経験していることだろうから、実際にはそれを回避する手段はそれぞれに持ち合わせているように思える。もしそうなら、あまり強く心配することなく、揺れの中でも自分にできる範囲で処理することが良い結果を産みそうである。そのためには、気にしないことも必要だし、気にさせないことも必要だろう。

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6月8日(水)−還元

 国全体の経済状況が良いように見えないから景気回復という言葉は使いたくないが、一企業としては収益が上がっているから業績回復という言葉を使うのだろうか。決算発表が集中した時期、そんな文字がいろんなところで飛び交っていた。気分的には安心していなくとも数字的にはそれなりのものが見えるというのでは、どうも前者が優位にあるようだ。
 株を中心とした資本主義では当然のことながら海の向こうが本場である。投資対象としての株式は収益という点で幾つかの面を持ち、株価の上昇や配当がその代表となる。本場では企業の業績が好調な場合、株主にその利益を還元することが当然という考え方があり、一株当たりの利益に対して配当を決めるといったやり方があるようだ。それに対してこちら側は、基本的には同じ制度を採り入れたものの根本のところで企業と株主の関係に違いが生じたようで、利益還元の考え方に相違が見られる。そんな中でグローバル化という名のどこかの国の習慣の踏襲が次々に行われ、株主の声が大きくなり、還元に対する企業の考え方も少しずつ変化しているようだ。更にその変化を加速させたのは、企業買収の手法にまで従来とは違うものが入ってきたことで、自分たちの立場を守るための一手段として、配当という形の利益還元を導入する動きが急になっているように見える。投資家の側から言えばある面では歓迎すべきものなのだろうが、これまでの習慣との違いがはっきりしている場合、どうも上手く理解できない面もあるのではないだろうか。特に長期の保有者を増やそうとした場合、収益に波が生じて不安定な企業としてはその辺りの選択に難しさが漂っているような気もしてくる。まあ、いずれにしても投資家にとっては利益が上がりさえすればいいわけだから、来期のことはどうでも今期のことさえ上手くやってくれればと思いたくなるのだろう。ところでこの国では相場に手を出していない人でも、こんな状況を目にしたことがあるのではないだろうか。町内会とか自治会とか地元の組織に属していると何かしらの会費を徴収される。その金の使い道はそれぞれにあるのだろうが、たとえば集合住宅の場合修繕費などの積立金が大きな割合を占めることがある。特に賃貸では移動することが前提になっているから、転居する場合にどう扱うのか微妙になるだろう。修繕は時間単位で必要となるわけだから住んでいた期間に見合う積み立てをすべきと考えれば、そのまま残していくべきなのだろうが、修繕自体が稀にしか起きないとなるとさてどうしたものかと思えてくる。民間の住宅の場合は家主がその辺りすべてを負担することになるが、そうでないところもあって中々難しいようだ。その上、不要とも思える積み立てがあれば、更なる積み増しに対して異論も出てくるだろう。一見全く違った様相に思える企業の利益還元と地元の積み立てだが、どう残すかといった点で共通の部分がありそうに思える。利益についても設備投資にどう回すかなどいろんな問題があるわけだから、すぐに還元とすることにも無理が出てくるだろう。心配性であればあるほど決断がつきにくく、結果として貯めるばかりになってしまえば批判の対象となる。何とも難しい仕掛けだが厳密ささえ追い求めなければ意外に簡単に片付くのかもしれない。

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6月7日(火)−公平

 不公平感という言葉がある。公平でないという気持ちという意味なのだろうが、さてどんなことかきちんと説明しようとするとちょいと難しい気がする。なぜなら、公平という状態自体が曖昧模糊としたものであり、平等とともにこれという解釈が無いように見えるからだ。皆が同じ状態に、とすると簡単に説明できそうに見えるが、同じこと自体はっきりしていない。
 その辺りはどうであれ、世の中不公平感に満ち溢れているように見える。あの人だけが特別扱いにされているとか、貧富の差があるのはおかしいとか、そんなことを書き並べればきりがない。これらはすべて感覚から来ているものだろうから、人それぞれに受け取り方が違い、同じ状況でも見る方向が変われば正反対の解釈が出てくる。その上、そこには前置きがあり、そんな状態が現れるために当事者が努力をしているとしたら、全く違った解釈だってできることになる。となると同じことを当然の報酬であるとする人と特別扱いとする人が出てきて、話は収束する方向には向かなくなる。なるほど報酬を受けているならまだましなほうで、実際にいろんな特別扱いを受けても、それが仕事の量を増やすばかりで何も見返りが無いこともある。そんな場合、周囲の人々が持つ不公平感よりも当事者自身が持つそういった感覚の方が強くなるのではないだろうか。何故自分ばかりに仕事が持ち込まれるのか、こういった疑問を抱き始める頃には既にかなりの量の仕事をこなさねばならない事態に陥っていることが多く、何となくブツブツ言いたくなる時期のようだ。実際には無能な人には誰も仕事を持ち込まないわけで、それだけ能力が評価されていることは確かなのだが、それにしてもあまりの格差に愕然とすることが重なるとどうにも我慢できなくなる。しかし、そういった人たちに限って、他の人々に仕事を回して自分が楽をすることにはかなりの抵抗があるから、どうしても自分の中で処理することになってしまう。それでも何とか回っていれば大事にはならないが、そのうち処理能力を超える量が流入するようになり、どうにも首が回らなくなることになる。そんな頃には不公平感も頂点に達しており、どこか別のところに仕事を回すなり、断る努力をするなりしないとどうにも動きがとれなくなるだろう。断れないから流れ込んでくるという訳だから、逆の見方をすれば気軽に断れば何とかなるはずなのだ。それが何ともならないのは、どうも組織全体の問題から来ているのかもしれない。他に回ることが明らかな場合、さて自分が断れば誰に回りそうか想像がつく。その先も同じような状況に追い込まれていることが明白な場合、断ることに躊躇してしまうことになるだろう。この図式はどこにでもありそうだが、これといった解決方法はなさそうである。無能な人を何とかすべきという話は昔からあるが、これ自体がうまくいった試しはない。首を切ったとしても結果は同じで、単純に心理的な効果が少しあるかどうかだけだ。そんなこんなの状況で、結局のところやれることをやり続けるしかなく、ただ擦り切れてどうにもならないことにだけはならないようにする。不公平感を実感して不満を漏らすより、そんなことを考えておいたほうがいくらか気分的に楽なのではなかろうか。

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6月6日(月)−成功の元

 失敗は成功の元、ということで、成功を導くために失敗について学ぼうという話が起こり、失敗学会なるものができたという話があった。同じ失敗を繰り返さないようにと言われるから、他人の失敗も参考にすべきということなのだろう。ただ、どうもこのやり方、今の流れに合致したものなのか、少々不安になるのだが、どうだろうか。
 何度となく取り上げているが、失敗に対する認識がバブル以降大きく変化したのではないかと思う。成長期にはちょっとした失敗もその後挽回すれば何とかなると思われたが、安定期になると挽回の機会が少なくなり、なるべくミスの無いようにと心掛ける人が増えてきたのではないか。たしかに、一人ひとりのことを考えれば、いろんな失敗を繰り返すことでそれぞれに対する対処法が身に付くからミス自体は悪いこととは言えないだろう。しかし、組織全体にとってそれが悪影響を及ぼすとなれば、放置するわけにも行かず連帯責任を問われる場合もある。だからなるべくミスを少なくせよと現場の人間に伝えられ、それが浸透した結果、指示に従う人間ばかりが増えてきた。自らの判断で犯したミスは自分の責任になるが、他人の指示に端を発するものはそうならないからなのだろう。不況が連呼されることで全体に守りの姿勢が広まり、その時期が長く続いた結果、現在の失敗を避ける傾向が確立されたのではないだろうか。これは何も職場に限らず、教育現場でもその傾向が強まり、妥当な線をいかに省力的に達成するかが重要視されているのも、そのあたりの現れのように思える。それにしても、失敗をしないための努力が何もしないことに繋がるとか、いかに失敗を隠すかに力を入れるかとか、そんな方向に事が進み始めると心配したくなるものである。結局、自らの力で何かを切り開く努力は、失敗の反復によって台なしにされ、更には組織内の評価もそれとともに下げられるというのでは、悪循環そのものになる。失敗は成功の元という言葉がそろそろ忘れられているのではないかと思えるほど、他人の失敗に厳しい一方で、自分の失敗を隠蔽する人が増えているのは歪みが増している証拠だろうか。誰がやっても上手くいく事をやりたくないと思った人は昔は沢山いたようだが、今はその逆の傾向が目立ち始めているような気がする。間違いの無いものをやることが出世の足掛かりになると思えば、たしかにそうしたくなるのだろうが、果してそれがどんな将来を作り出すというのだろう。安定期に入ったことがこんな傾向を産んでいるわけだから、実際にはこの国に限った傾向ではなく、先を進んでいる国には多かれ少なかれあるものなのだろう。だからと言って、皆が失敗を恐れている中で、自分もその勢いに流されていればいいというのでは、どうにも動きがとれなくなりそうに思う。自分自身の自分に対する意識を変えることも重要なのだろうが、もう一つもっと重要なことは他人の評価に対する意識を変えることなのではないだろうか。周囲の人に厳しいことは重要だが、それがあまりに極端になれば、結局はいい結果を産みださないことに繋がるからだ。こうなってくると、他人の失敗の話を聞くより、成功の話を聞いていたほうが良さそうに思えてくる。たとえ、そこには成功者独自の理由があったとしても。

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