パンチの独り言

(2005年6月13日〜6月19日)
(目眩し、油揚、壊乱、虚偽、主張、躱し、天恵)



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6月19日(日)−天恵

 欲しいものを欲しい時に、人間の欲望はとどまるところを知らない。自分の思い通りになるとわかったら、いつの間にかそれが当たり前のこととなる。そんな流れを見ていた人には事情を理解することもできるが、見たことも無い人たちには当たり前が当然なのである。欲しい時に欲しいものが手に入らない方が何かおかしいことになり、それができないのは誰かの所為となる。
 人間が人間を相手にして、こんなことを言うのは別に今の時代に始まったことではない。上に立つ者が下にいる者に対して命令を下し、思い通りにさせることは太古の昔からあっただろう。人権が重視され、立場の違いの利用を戒める風潮が出て来た現代と違い、昔は想像を遥かに超える程の無理が通っていたに違いない。それでも、本来手に入らない季節にある果物を手に入れることは高嶺の花どころか、無理難題の一番手のようなもので、よほどの運でもない限り不可能だと思われていた。それがこの頃ではそこら中に一年中同じものが並び、好きなものを一年中いつでもどこでも食べられるようになっている。昔どんなに地位が高くとも、どんなに金持ちであっても、手に入れることのできなかった物を、今では庶民でも手軽に手に入れることができる。自然をも操作する技術を手に入れたと言えば聞こえがいいが、どうもそれほどのものでもないらしい。単に、畑の一部を区切り、そこに部屋のようなものを設けて、その中の温度を自在に調節する。技術と言える程のものではなさそうだが、こんな単純なことで不可能と思われたことが可能になった。ただ、そんな時代になってしまうと、野菜にしろ果物にしろ、はて旬の季節はいつだったのかさっぱりわからなくなる。世界は一つということで、北半球と南半球の四季が逆であることを利用したものもあるようだ。実る時期についての調節ばかりか、熟れたものを貯蔵する技術の発達から、時期も何も不明なものが増えてしまった。そんな中でも、時々、フッと現れる果物があり、その時はホッとする。これは他の地域では作られていないものだったり、温度の調整や完熟果実の保存が難しいものだったりする。今の時期店頭に現れる果物の中で、ちょっと眼につくのは枇杷ではないだろうか。柘榴、通草などと並んで、食べにくいものの代表だが、最近は肉厚の品種が出て来て人気を集めている。20年以上前に庭に捨てた種から出た芽が育ち、今では大木になってしまった枇杷の木には店頭に出る程のものではないが、たわわに実がなった。ちょっと採ってみただけでバケツに何杯にもなったのに驚くとともに、その瑞々しさに驚いた。何の手入れもしていない木に、こんな自然の恵みがあるなんて、という純粋な驚きだ。

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6月18日(土)−躱し

 久しぶりのまともな週末だが、こんな季節では中々楽しめないと言った方が良いのかもしれない。それでも降っていないだけまだましと言うべきか、湿度も気温も高くて鬱陶しいとはいえ、豪雨に襲われているところに比べたらということになる。そろそろ雨の季節も本格化し始めているようで、集中豪雨も気になるところだ。
 季節毎、気持ちの良いときと悪いときがあるけれども、やはりその時なりの天候を望んでおいた方が後々の為にはいいようだ。何しろ、梅雨入り宣言がなされた途端に前線の南下が始まり、カラカラ天気が続いて雨乞いを始めたところもあるようで、米作りには欠かせない水が足らなくなってしまってはどうにもならない。その一方で、月の半ばにして観測史上最大の月降雨量を記録している地方では、地盤のゆるみなどの二次災害を心配する声も聞かれる。とにかく例年通り、平均的な天候であれば、ほとんど心配する必要もないが、ちょっとずれてしまうといろんな不具合が生じる。足らなければ大いに問題になるだけでなく、過ぎたるは及ばざるが如しの通りの状況になるわけだ。ある地方では既に真夏日が何度も記録されており、このままでは昨年以上の猛暑になるのではと心配する向きもある。そうなれば、来年の春は、と次の心配をせねばならず、やっと癒された粘膜の具合が悪くなりそうな気もしてくる程だ。そんなことばかり書いていても、心配ばかりが大きくなるだけで何も面白くない。もう少し明るい話題は無いものかと探しまわるのだが、このところの忙しさからそんなものを見つける余裕も無くなってしまったようだ。一つの仕事に集中できているうちは良かったのだが、このところのパターンは多種多様なものが一度に降ってくる感じで、一つ一つ違った対応を余儀なくされるから、忙しさの上に気遣いまで加わる。全く困ったものと思うが、実際にはどうにもならないと言った方が良さそうだ。縁起でもない話だが、また過労死、過労自殺の資料が発表されたようで、リストラの影響が大きいということのようだ。正社員とパートあるいは派遣社員との業務や責任の違いから、それぞれにかかる圧力が異なり、結果として歪みが大きくなるという図式らしい。確かにそんなこともあるのだろうが、さてだからといって究極の選択に至るのは何故か、そこのところは理解し難い。いくら多忙でも、どこかに捌け口があるはずと思うのは、究極に至っていないからなのだろうか。お酒の広告にあったように、任せても責任はと連呼する上司がいたらかなわない。でも、それを巧く躱す方法を身につけておかないと、悲劇を招くことになるのだから、やはり自分のことは自分でなんとかするしか無いのだろう。

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6月17日(金)−主張

 言いたいことをはっきり言うために、という謳い文句のついた本が売られていたりする。何か言いたいことがあっても遠慮してしまい、何も言えなくなるという人が多いからだろうか。それとも、言いたいことを言っているのに、相手にうまく伝えられない人が多いからだろうか。いずれにしても、思っていることがあり、それを言いたいのであれば、そうすべきというのだろう。
 主義主張を明確にしなければ、相手に理解されることはあり得ないと思う人が増えているようだ。確かに、他の人々が何を考えているのかわからないと不安になるし、相手が自分のことをどう考えているのか心配する向きもあるだろう。それをはっきりと伝えられるのであれば、その不安や心配は解消されるはずと思う人がいても不思議はない。しかし、どこまで伝えたらそれが解消されるのかと問い返すと、おそらく満足な答えは戻ってこないのではないだろうか。相手のことをどう思っているか、どう思って欲しいかを子細にわたり伝えることはいかにも大切なことに思えるが、度を過ごすと余計なことばかりとなってかえって仇となる。ちょうどいいところで留められるのであればそれに越したことはないが、さてそれはどこにあるのか、ひょっとするとはじめに書いた本にはそんなことまで書いてあるのかもしれない。ただ、ちょっと考えればわかるように、こんな話は場合ごと、相手ごとにまったく違う事情が複雑に絡むから、これという答えなぞそう簡単に見つかるはずもない。教科書通りにやったら失敗したと反省したとしても、その失敗は取り返せるものでもないし、場合によったらそういう人たちは同じことを何度も繰り返すのかもしれない。相手の様子を窺いながら、少しずつこちらの目的を達成していくのはかなり微妙な遣り取りを必要とするところで、ちょっと本をかじったくらいでは実行できないからだ。それにしても、相手構わず自分の立場を主張する人々が増えていると感じるのは自分だけだろうか。それとも、そういうことに限って面白おかしく取り上げる一部の人たちの情報に、こちらが踊らされているだけなのだろうか。何か事件があるたびに、声高に主張する人の意見のみが大きく取り上げられ、それがまるで関係者の統一の見解のように伝えられるのはおかしなことだが、一方でこういうのを見て十把一からげに考えるのが得意の国民は何を思うかを考えると恐ろしくなる。かと思えば、片方が沈黙を守ると明言した途端に、堰を切ったように持論を展開する人を見ていると、彼にとっての最重要課題は情報操作であり、それによって自らの立場を有利にしようとする意図がありありとうかがえる。それにしても、国技と呼ばれたものに携わる人々が組織とは無関係に他人からは私利私欲にしか見えないことに首を突っ込むのはどうしたものか。組織の改革を目指すという言葉さえ思惑ばかりのものに見えてしまうような行為には、離れた人々を呼び戻す力はなさそうである。主義主張は大いに結構だが、自分の目でなく、他人の目で見て、それがどう映るのかを意識することなしでは、単なるエゴにしか見えないことを認識すべきだろう。沈黙を尊ぶ伝統があった国で、さてこういう行為が絶賛される時代が来るかどうかはわからないが、いずれにしても舞台に立ち演技をするくらいの気構えが必要なことは確かだろう。

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6月16日(木)−虚偽

 ほぼ毎日のように、新聞紙上に虚偽という言葉が踊っている。辞書によれば、虚偽とは「真実でないことを、誤ってまたは故意に、真実だとすること」とある。市場で話題とされているものの大部分は、故意によるものという扱いだが、それにしても何故これほどまでにと思える。そこまですることを求められる環境とは何か、それぞれの事件からは見えてこない。
 申請書に偽りがあったということから活動を自粛せざるを得なくなった大学院から、大々的な報道で注目されたディーゼルエンジン絡みの装置のデータ捏造で訴えられた企業まで、それぞれに事情があったということになるのだろうが、それでは済まされない事態になっていることは明らかだ。特に、企業ぐるみの事件が起こるたびに、刑罰を重くすべきという意見が出てくることには、同意する声が多く上がる。しかし、そういうやり方が必ずしも良い結果を産むわけではないことは、海の向こうの最近の重大事件を見ればわかるはずだ。刑を重くすれば犯罪を抑止できるという単純な考え方は、犯罪が露見する割合に依存しているから、見つからなければいいといった風潮が蔓延っている社会では刑の軽重はさほど大きな要因にはならず、おそらく犯罪摘発の効率の増減の方が大きなものになるだろう。見つからなければ何も起きず、見過ごされるのであれば、何をやっても構わないとなるわけだ。そんな中で罰金を増やしても、適用例が少ないままなら、多くの犯罪は表に出ないままとなる。まったくどうにもならない社会だ、といってしまうとこの先何もなくなるから、何かしら働きかけをする必要があるのかもしれない。嘘をついてでも儲けに走ることが商売の鉄則のように言う人もいれば、逆に真っ正直に商売をすれば結果は自ずと出てくると言う人もいる。どちらもある意味真実を述べているのだろうが、問題は前者の場合、その嘘がばれたときにどんなことが起きるかというところにあるのではないか。世間の信頼を失うことに対して、何とも思わない人々であれば、ばれること自体に何の問題もないが、そうでない人たちにとってはかなり大きな問題となるはずだ。そう考えてみると、最近の社会動向はこういう人々に対してかなり寛容になっていると思われる。社会が寛容になっているというより、本人が厚顔になっているというべきなのかも知れないが、とにかく虚偽自体によって信頼が失墜したという話は少なくなったような気がする。それよりも、仕方がなかったとか、あの事情ではとか、関わった本人さえ被害者だったかのごとくの流れがあり、どうにもならないところに来ているような気さえする。虚偽によって手に入れたものを手放さないために、更にそこに嘘の上塗りをすることも横行しているし、このまま行くとどんな社会になるのか想像できないほどだ。嘘をつけないやつは要領が悪いと言われた時代も確かにあったが、それがうまくいかないようになって、さてどうしたら良いのか、まあ世の中のせいにでもしておけば、といったところなのだろうか。そろそろ何かの歯止めをかけないと、止まらなくなってしまいそうで恐ろしくなるのだが。

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6月15日(水)−壊乱

 季節が巡るから良いと思うのは、そういう変化の無いところに暮らしたことのある人ならあるのではないか。改めてこの国が好きになったという人もいるくらいだ。しかし、そんな中でどうもこの季節だけは嫌われているようだ。湿度、気温ともに高いときは不快になるから、何か憂鬱なことでもあろうものなら増長されてしまいそうな気がしてくる。
 今まさにそんな気分にあり、周囲との関わりで様々な問題が生じている。こちらの落ち度もあるのかも知れないが、総じて理不尽な対応によるものであり、まったくもってそんなことにとりあわなければならない状況に嫌気がさしてくる。人それぞれの資質によるものと思うけれども、それだけでないのではと思えることが度々ある。ある世代に限ってどうにも理解しがたい行動に出る人がいるように思えるからだ。その世代にとって世の中は理不尽の塊だったのかもしれない。上の世代から継がれてきた遣り方は自分たちの年代には適用されにくいもので、人の数にしろ、世の中の考え方にしろ、好むと好まざるとに関わらず大きく変化していった。そんな流れに巧く乗れる人は少なく、結局振り落とされてしまったり、不満ばかりが残ってしまう結果となったのだろう。それでも今の時代にきちんとした立場に居座ることができている人は、巧く立ち回った人であり、多くの人々を振り落としてきた結果なのではないか。にもかかわらず、自分たちの好きなようにできなかったと嘆き、今でも権力を振りかざそうとする姿は醜悪に見えてしまう。極端な言い方をすれば、壊し屋であった世代はそろそろ舞台を降りたか、降り始めたところなのだが、どうもこの期に及んでもと思われるほどの動きを見せている人々がいるようだ。どこも同じこと、なのかも知れないが、このところの様々な低迷要因の一つに取り上げられてもよさそうな気もする。そんなこんなで混乱状態に陥らされ、惑わされている向きも多いのではないかと思うが、この時期、あと少しの我慢といったところなのかもしれない。しかし、放置すれば更に悪化することは目に見えているから、何かと反論せねばならず、これが憂鬱の種となる。後先考えぬ人々の乱行に対して、対応することほど無益なものはなく、時間も労力も無駄になることは明白だが、止めなければ悪くなるだけとなるのは真っ平御免というわけだ。同世代の人々の話を聞くかぎり、どこでもそんな様子が露になっており、面倒ばかりが増えているという。改革を旗印に動き回る人々には、変化させることしか目に入らず、どちらに向っているかを示す羅針盤に目が届かないようだ。今のままは必ずしも良いわけではないが、変われば良いというわけでもない。また、賛成にしろ、反対にしろ、その問題の本質を考えることなく議論するのであれば、何の意味もないことだということを認識すべきだろう。

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6月14日(火)−油揚

 何か新しいことを思いついたとき、人はどんな行動に出るのだろう。ある偉い学者さんたちは教え子たちが結婚するときある物を贈ったという。枕元を照らす電灯とメモ帳なのだそうだ。隣に寝る配偶者に配慮しつつ、思いつきを書き留めておけということなのだ。それほど思いつきは不確かなもので、ちょっとしたことで忘れてしまうというのだろう。
 時、所を構わず湧いてくる思いつきに苦労した人々も多かったのだろうが、一方でその思いつきが何かの形になりそうなとき、他の人の先を行く必要が出てきた。科学の歴史を紐解くとニュートンの時代でもそんな争いがあったようだから、大々的な工業化が起こる前に既に問題となっていたのだろう。誰が先に思いついたか、最終的な姿でなくてもきっかけを出したのは誰なのか、そんな一種些細に思えるようなことで互いの信頼関係が損なわれることも少なくなかったに違いない。そういう問題を系統的に処理するための制度が特許であり、これによって発明者の権利が守られるようになったと言われる。何か新しいものを発明したら特許として登録して、自分の権利を自分で守るというのが基本姿勢であり、それだけを見ればおかしなところはないような気がする。しかし、実際には誰が一番はじめなのかを決める方法に違いがあり、世界的には二つの勢力に分かれているのが現状である。これらは、先発明主義と先願主義と呼ばれる二つの考え方で、先に発明した人に権利があるという前者と、先に特許として願い出た人に権利があるという後者の間で、微妙な違いが生じている。画期的な発明であれば、他に誰も思いつくこともなく、その人だけのものとなるだろうから、そこに問題が生じることはないだろう。しかし、科学技術が著しく進んだ現代においては、商売になりそうな技術には数えきれないほどの人々が関わり、そこに激烈な競争が起こる。その中では一分一秒を争う戦いが行われ、それに勝てば巨万の富が、負ければ溜め息のみが残ることになる。となれば、発明が先か、出願が先か、という選択は大きな違いを産みだすことになる。出願はそれを担当する機関へのものだから、そこで判断すれば済むことなのに対して、発明は異なる機関で行われたものだろうから、どちらが先かを判断するための手段が複雑化してくる。世界で特許を扱う三極と呼ばれるものがあり、米国、欧州、日本がそれにあたるが、米国は先発明主義、その他は先願主義を採っており、それぞれに主義主張があるようだ。先発明主義では誰が先かを決めるための手続きが必要となり、簡単に想像がつくように裁判がその場となる。当然、巨万の富かゼロかの究極の選択であるから、裁判にもかなりの費用がかかる。訴訟主義の国だから当り前のことと思われてきたが、このところ別の考え方が台頭し始めたようだ。あまりに嵩む訴訟費用をどうにかせねばならないという動きがあり、他の極と同様に先願主義に転向しようとしていると言われる。この国のように特許はこういう資格者、訴訟はこういう資格者という形で分業があるわけでなく、どちらも同一人物がこなせる制度だから、そこまた問題を複雑化しているのかもしれない。いずれにしても、発明は発明であり、それがなければ技術の進歩はあり得ない。そこにある程度の権利を与え、対価を手に入れられるような制度を保っていくためには、それ以外のことにかかる費用を考慮することは重要なのだろう。発明とは無関係な人々が、本人たちよりも遥かに多額の報酬を手に入れることは大きな疑問となるからだ。

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6月13日(月)−目眩し

 休日の朝、遠くから郭公の声が聞こえてくる。たぶんひと月ほど前からだろうか、時々鳴いているのを聞くが、姿を見たことはない。図鑑でしかお目にかかったことが無いから、おそらくすぐにはそれとわからないのかもしれぬ。いずれにしても、こういう鳥が里に降りてきたといったところで、季節の変わり目というわけなのだろう。
 当日は突然の暑さがやって来たこともあり、人間だけでなく他の生き物たちも慌てていたようだ。慌てたからといって何ができるというわけでもないのだろうが、少しでも涼を求めて彷徨い歩くのもその一つだろう。鳥の場合、当り前のことだが、歩くのではなく飛び回るのだが、噴水池の周りに数羽見かけた。嘴太鴉の目の前で、気持ち良さそうに噴水を浴びていたのは青みがかった姿の尾長である。長い尾を突き上げるようにして水を浴び、羽毛を逆立てるようにしている姿はいかにも涼しげであった。この鳥も一年中見かけるわけでもないから、どこかを渡り歩いているのだろう。それに比べると烏の方は一年中うろうろしている。黒い姿を不吉と思って嫌う向きもあるし、逆に凛々しく見えて好む人もいる。それにしても近くで見るとかなり大きいし、時に人を襲うこともあるというから、そんなことを想像してしまうと一層不気味に見えてくる。いつの頃からか里山よりも街中に出没することが増え、おそらく里山をねぐらにしつつ、街中で食べ物を漁るという生活を始めたのだろうと思う。原因ははっきりしており、豊かな食べ物に溢れる環境がそこにあるからである。雑食性の生き物にとっては人間が住む町は格好のえさ場となり、塵芥の日にはあちこちにその姿が見られる。烏もその一つだろうが、動物性であろうが、植物性だろうが、何でも食べているらしく、ゴミ袋を突き破って食い散らかす姿を喜んで見る人はいないだろう。他にも猫がうろつき、時には犬までも出没しているようだが、さすがにそれは少ないようだ。結局鳥による被害が一番大きいようで、各地の塵芥収集所では緑色の網をかけているところが多い。場所によっては目の更に小さなものを使っているところもあり、駆け引きと呼んでは失礼なのかもしれないが、そんな遣り取りがあるように見える。鳥は概して目の良いものが多く、遠くからでも見分けがつくと言われる。鷹の目は代表格として扱われており、そんな表現が使われることも多くある。いずれにしても、目眩しさえ準備してあればどうにかなるというのが統一的な見解であり、更に網のように手間をかけさせれば万全といったところだろうか。目眩しという意味で興味深いのは塵芥の分別の観点から導入された透明なゴミ袋が、実はこの点で役立たないということである。中味が見えないように紙を入れて、などと言われてしまうと、一体全体透明である必要はどこにあるのだろうかと思える。人間の信頼が先か、鳥を騙すことが先か、自分たちを信じられないことが先に立っているということなのだろう。

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