パンチの独り言

(2005年6月20日〜6月26日)
(過信、便利、慈雨、盗難、保護、管理、学舎)



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6月26日(日)−学舎

 高齢者社会と呼ばれるようになり、高齢者の占める割合が増えるとともに様々な問題が山積していることが伝えられる。以前から予測できたことのように見えるが、担当する人々にとってはそうではないらしい。どうしてそうなるのか彼らの考えを窺うこともできないからどうにもならないが、それにしても悲劇的な結末の台本を急に渡されてもと困るばかりだ。
 年寄りの割合が増えるのは単純に寿命が伸びたからばかりではない。年寄りの数が増えるだけなら現在のような状況は起きなかったと言う人もいる。それにもまして子供の数が減り続けており、そちらの方が遥かに大きな影響を及ぼしていると考える人の方が多いようだ。悲劇的な結末が明らかになりつつあるときに、その結末に参加する子供を作ることに躊躇するのは仕方のないことという解説もあるようだが、結末がどれほど劇的なものか理解できないまま、表面化して騒ぎの原因となっている言葉だけを捉えて将来を決めるのはどうかと思う。その割に自らの将来についての展望はほとんど無く、単純に享受のみを追い求める心が表に出ているだけなのではなかろうか。そういう心の持ち主にとって格好の材料を与えているとしたら、最近の風潮や報道の姿勢は深慮が足りないということになるのかもしれない。子供の数が減り続けていることは現実にあり、そのための対策のほとんどが空振りに終わっていることから、当分の間減少傾向を止めることはできそうにもない。そうなれば、子供を相手にした商売に関わる業種はかなり苦しい立場に追い込まれそうだ。直接響くことが予想される義務教育世代については大部分が公的な施設が関係するから、学校の数を減らし、学級の数を減らし、生徒の数を減らしということの繰り返しで何とかやっているようだ。すべての子供が受けられるようにという仕組みだから、その数が減れば当然何かしらを減らすしかない。それに比べて、義務教育を終えた子供たちが向うさらに上の学校についてはかなり事情が異なるように見える。高校については公的なものについては合併が相次ぎ、調整が図られているが、私的なものは場合によっては苦しい立場に追い込まれている。それがさらに上の方に影響することが伝えられていて、大学については全入時代に突入と書き立てるものも多い。受験生の数と大学の定員がほぼ拮抗しているからなのだが、実際にはそうならないことが予測されている。そんな状況になっても上を目指す人々は減らず、結局下位の学校の定員割れが現実化すると言われているのだ。既にその現象は起きており、廃校に追い込まれたところもあるが、あまり大きく取り上げられない。先日もそんな大学が紹介されており、ついには再生法の適用となりそうだが、どうなるのだろうか。学校法人は宗教法人ほどではないにしろかなり優遇されてきたようだが、それとて客がいなければどうにもならないことになる。供給源を外国に求めても、別の問題を抱えることになり、問題解決から遠ざかることになる。この現象は一部のものと思っていたら、あっという間に広がり、おそらく公的なところにまで影響が出てくるだろう。大学の存在意義が問われている時代に、さらに追い討ちをかけるような少子化が起き、八方塞がりの状態に追い込まれたとき、自分たちの中から何かを産まないとどうにもならないように思える。さて、その覚悟ができているのかというと、そうでもなさそうなのだけれども。

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6月25日(土)−管理

 個人情報の保護が訴えられていて、様々なところからそれに関する手紙や葉書が送られてくる。郵便の問題もありそうだが、とにかくそんな形で自分の情報が勝手に流されないようにしてもらうようだ。それにしても、それぞれについてどの程度まで情報を握られているのかわからず、不安だけが募る人も多いのではないか。
 クレジットカードの事件もやはり個人情報の流出という意味で、問題となっているものの一つだろうし、情報管理が杜撰だったということで様々な方面に影響が出そうだ。おそらくこれほど多数の場合、一律に処理されるだろうから面倒な手続きが必要になることもほとんど無い。そういう意味で事件に巻き込まれてしまったとはいえ、さらに面倒なことになるのは避けられそうだ。何しろこの国では金銭的な被害を受けた場合、民事訴訟を起こす必要があり、それにかかる手間はかなりのものであることが予測される。裁判に慣れていない人間が誰かを訴えるとなれば、当然そこに専門家の手助けが必要となるからだ。最近のように毎日どこかのチャンネルで弁護士を見かけるようになってくると、さすがに身近に感じる人も増えただろうが、とはいえやはり色んな面で壁が立ちはだかっているような気持ちになるだろう。話を聴く限り、あの中で交わされる会話は特殊な世界の言葉を使っているように思えるし、そういうものを基本として進められる裁判では日常的で、一般社会に通用しそうな考えがうまく当てはまらないような気さえしてくる。そんな気持ちを持ちながら、自分たちの利益を守るためとはいえ、取っつきにくいものに取り組もうとするのは誰にとっても面倒なことに違いない。やってみたらそうでもなかったという人もいるだろうが、今でもそういう評判は立っていないところを見るとやはり面倒という部分や理解しにくいという部分は取り除けていないだろう。そんな別世界の事柄のように思えるものが、突然目の前に現れることがある。裁判沙汰に巻き込まれるのではなく、単純にそれに関わる書類を見かけるということだけなのだが。先日車中で20センチほどの厚みの書類を抱えている人を見かけた。その表には、○○地方裁判所とあり、その下の行には○○○○氏とあり、さらにその下には詐欺と書いてあった。一番下にあった法律事務所の項には何も書き込まれていなかったが、たぶん係争中の案件についての資料だったのだろう。問題は、人の名前がそこにあったことと、それが知り合いと同姓同名だったことだ。おやっと思ったことは事実で、すぐには誰のことだか思い出せなかったが、徐々に思い出してきた。そんなことに関わる人だろうかという思いと、あそこに書かれている氏名は事件を起こした人間のものかという思いが起きてきたが、そんなことを聞くわけにもいかない。離れた座席に座っていたのをチラチラと横目で眺めていたが、そのうち書類はしまわれ、彼は降りていった。さて、そこで気になったことは、これは個人情報保護の観点から問題となる行為なのではないかということだ。法律に携わる人が不特定多数の目の前で個人名の入った書類を広げることはかなり異常に思える。そういう配慮が無いとしたら、何とも恐ろしい気がしてくるのではないか。確かに犯罪を犯した人間であればある程度のことは仕方がないのだろうが、係争中のものだとすれば確定したわけではないはずだ。こんなことが起きるようでは困ったものだと思ったが、さてどうなのだろう。

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6月24日(金)−保護

 外来種に対する規制が厳しくなった。きっかけはブラックバスあたりなのかもしれないが、アライグマやカミツキガメまで目撃されるようになっているようでは、確かに危機的状況と言わざるを得ない。やり方は尋常でないと思えるが、ペットとして輸入された動物の場合、一部の飼い主の非常識はあまりに過ぎるところがあるから仕方がないだろう。
 外からやって来た生き物が生き永らえることができるほど豊かな国と表現したら怒られてしまいそうだが、まさにその通りなのではないかと思う。砂漠地帯や永久凍土といった地域では、外来種が生き残ることはとても難しいはずだ。それに対して、温帯から亜熱帯にかかるくらいの気候の地域では、どんな生き物もそれなりに生き延びることができるのではないか。実際にはその上に人間が吐きだす塵芥が食糧供給にもなるわけだから、一種の天国なのかもしれない。そういう話が流れる一方、この国に本来棲み着いていた動物達に異変が起きているという。熊、猪、猿といった類いの野生動物が人里に現れるようになったからだ。猪や猿ならまず命まで奪われることはないのだろうが、熊となると話は違う。毎年のように山菜採りやきのこ採りに出た人々が襲われている。こういう現象に対して、山が荒らされたからとか、里山が無くなったせいだとか、そんな解釈が出され、団栗をまこうという話も出たが、環境破壊そのものという意見だったかで阻止された。絶滅危惧種や危急種といった話から、保護を訴える声も大きくなり、山に餌をまけばいいという安易な結論に達する人々が出てくるのだろうが、どういうつもりなのか理解できない。保護の対象にするのは人間の勝手なのだろうが、その結果がどうなるのか考えた上での行動かどうか怪しい気がしてくるからだ。というのも、保護が実施されてから数年経過するとそろそろ色々なところに歪みが出てきて、別の規制を望む声が大きくなるからである。人それぞれに思惑があるのだから仕方がないと言ってしまえばそれまでなのだろうが、それにしても保護という考え方にかなりの誤解があるように思える。既にかなり長い期間行われているから保護かどうかの区別もつかなくなっているが、奈良の鹿の管理は保護の一つに違いない。しかし、そこでは生息数を決めて、それに合うような調整を行っている。間引きなども行っているだろうし、そのための調査も綿密に実施されているようだ。それに比べて問題を起こしている保護にはそんな取り組み方は採り入れられていないのではないか。単純に餌を与えたり、狩猟を禁止したり、それだけの取り組みで終わる場合が多い。となると何が起こるのか、ある意味の均衡が崩れるのである。そうなってしまえば被害が甚大になるところも出てきて、逆向きの運動が盛んになる。保護をすることは重要なのだろうが、中途半端にやっておいて、その後は知らないというのではまったくの無責任になってしまう。今まさにそういう状況にあるものが沢山あるのではないだろうか。こういってしまうと言い過ぎかも知れないが、これはまさに過保護であり、その後の無責任な対応はまさに人間社会で行われているものにそっくりに見える。様々な取り組みをしてこそ成り立つ仕組みをちょっとした思いつきだけで一方的に実施しておいて、あとは知らないというのでは、子育てで起こった問題と同じである。今の世の中の趨勢がそうであるということは、こんなところにも現れているのではないだろうか。

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6月23日(木)−盗難

 ちょっと用事があって免許センターなるところへいってきた。どうも都道府県によって名称が異なるようで、何ともややこしい気がする。どうせというと怒られるかもしれないが、とにかく同じ業務をするのだから同じ名称にならないものかと不思議でしょうがない。それぞれに理由はあるのだろうが、こんなところに独自を見せて何とするつもりなのだろう。
 午後の時間が始まるより少し前に着いてしまったこともあり、椅子に座って時間を潰すことにした。講習を受けているとおぼしき人々が入り口で鈴なりになって喫煙する姿にはちょっと驚いたが、室内は禁煙というせいもあり静かなものだった。持参した本を読むことに集中していたが、そのうち人が増えてくる。開始時間が迫ってきたからで、さっさと用事を済ませてしまおうという気配が伝わってくる。こちらも同じ考えで来ているわけだから人のことはいえないわけだが、必要な用事ならまだしも、そうでないことで来ている人たちにはただ迷惑なだけなのだろう。その時も、前に座っている人の隣にやって来た人が突然自分の話をし始めたのには、そんな事情があったからではないだろうか。彼らの座っていた目の前にある窓口は再発行の手続きのためのものである。紛失したり、盗難に遭った人々がそこにやって来て、運転免許の再発行を願い出る。件の人の話によれば、盗難に遭ったのだという。その話を窓口が開くまで、ほんの数分だったのかもしれないが、続けていて、相手の人はまあ大人しく聞いていたというところだろうか。車の中に置いた財布が5分ほど離れた間に盗まれたということだったが、結局は物騒な世の中になったというところだろうか。施錠していたといっても最近のプロはそんなものは簡単に開けてしまうということらしく、結局貴重品を置かないようにするのが一番の防衛策のようである。解錠も巧くやってくれればましだが、下手にやられると修理代が馬鹿にならないという話もある。盗まれたものの金額よりそちらの方が嵩んだとなれば、まさに泣き面に蜂である。人が見ていないところとなれば、ガラスを破るような無茶をされるし、まったくいい迷惑である。ただ、こんな話を聞いていると、どんなに短い時間でも貴重品をそれとわかるように車内に置いておくのが危険なこととよくわかる。物騒な世の中になったことも事実だが、こちらの方もそれに合わせて考え方を変えねばならないということだろう。泥棒との信頼関係はあり得ない話だが、最近話題になっているクレジットカード関係のものも頭から信じるようなことは避けるべきということを示していると思う。手間をかけて調べることが大切なだけでなく、何か不審なものを見つけたら尋ねてみることも大切だ。信用を第一にのし上がってきた会社が、それを失うような失態をしてしまったことに失望する人も多いだろうが、一方で今回の事件は当事者が独自の調査で見つけ出したものという点を評価しておいたほうが良いのかもしれない。それにしても、信頼自体が難しい世の中になってきたようだ。

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6月22日(水)−慈雨

 やっと雨が降ってきた、という地方も多いだろう。どうしても記憶に残りやすいからそう思えてしまうが、梅雨入りした途端に雨が降らなくなるというのはよく起こるのではないか。梅雨前線が停滞して、列島に近づいてきたら宣言をしなければならないという話もあるが、今年のようにさっと近づき、さっと南下してしまう場合が多いような気がする。
 いずれにしても、待ちに待った恵みの雨という人もいるだろう。農作物を相手にする場合、灌漑の発達からある程度の水は確保されているとはいえ、やはり人工的に散水しなくて済むのは有り難い。水田となれば水量は大きな要素の一つだろうから、山間の棚田などは心配する向きもあっただろう。西の方に比べれば、東の方は時々雷雨などもあり、深刻になるほどではなかったのだろうが、それでも空梅雨が長引けば心配になる。南に下がったままの前線がいつの間にか北上して、列島にかかり始めたからだろうか、雨が降り始めた。しかしこれが望まれているほどの雨量をもたらすものかどうか、何の保証もない。たぶん一息つけたというだけのことなのだろう。天気予報のたびに聞かされるからある程度は理解しているつもりだが、前線の動きは太平洋高気圧の勢力に左右されるらしい。強くなれば北上するし、弱ければ南下したままとなる。強弱は大陸から流れてくる高気圧とのバランスで成り立っているわけだから、大陸性高気圧が強力であればちっとやそっとでは北に押し上げられなくなる。なるほどと思いながら聞いているわけだが、太平洋高気圧が暑いのに対して、大陸性の高気圧は冷たいのだろうから、その強弱は気温にも影響しそうに思われる。気圧の高いところから低いところに空気は流れるわけだから、前線が南下すれば北からの冷たい風、北上すれば南からの暖かい風と想像するのは容易なことだ。しかし、このところの空梅雨では単に雨が降らないばかりでなく、真夏を思わせるような天候が続いていた。上に書いたような単純な図式からすると、ちょっと違っているような気がしてくる。こうなってくると素人には歯が立たない代物になり、さて何でだろうかと思っても、取りつく島がなくなる。それはそれとして、雨が降り始めたのだから、それでよしとしようか、と逃げを打つべきだろうが、どうも判然としないのは気持ちが悪い。とにかくそんなに簡単なものではないのだろうと思いつつ、しかし何をどう調べたら良いのかさっぱりわからない。そのうちどこかでお目にかかるかもしれないし、誰かが解説してくれるのかもしれないが、待つしかないのだろうか。まるで、この雨を待っていた人のように、ただ待つだけというのも辛いものであるが。

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6月21日(火)−便利

 機械絡みの話の続きになるだろうか。機械化によって便利な世の中になったことを否定する人はいないだろう。ただ、ここで言うところの便利さが誰にとっても大切なことであり、意味のあることかどうかという問題になると、返事が変わってくるのではないだろうか。何事も素早く片付くということは、やることが増えてくることにも繋がるからだ。
 映画「モダンタイムズ」で、チャップリンが演じる組立工が機械に使われているのを観て、笑い飛ばした人はどのくらいいたのだろうか。喜劇映画の割に、色んな含みがあって彼の作る映画はおそらく今観ても得るところがありそうだ。機械化の最たる情景の一つなのだろうが、最近の状況は少し変わりつつあるようだ。自動車の組み立てでは多くの工程に人間の手が入らなくなり、機械に使われる人間という姿は見られなくなった。一方、組み立て工程において一つ一つを分業して効率化を図るというやり方が見直され、一つの製品を組み立てる全工程を一人の人間が担当する工場も出てきた。効率化と分業化はセットになって考えられていたが、実は一つの工程に精通することより全体を知るほうが効率の向上に繋がるという考え方が出てきたからだ。一つには製品の多様化とその開発の加速によって、一つの製品を長い期間作り続けることが難しくなったことにも原因があるという。いずれにしても、熟練工に対する考え方が少しずつ変わってきたことだけは確かなようだ。機械化による便利さはこういうところに大きく反映してきたのだろうが、もう一つ一般の人々にまで影響を及ぼしている面がある。機械化とはちょっと違うが同じような技術の延長として捉えられるもので、情報化という言葉がこのところずっと使われ続けている。何でもかんでも情報として扱うことで、画一的なシステムを導入することができ、お互いの間での情報交換を可能にすれば、あらゆることが便利になると言った話だが、その整備が進んできた途端に、様々な問題が噴出しているように思える。たとえば、情報を管理する人々による漏洩事件がその一つだろう。情報が大切な商品の一つとして扱われるようになってくると、それを商売にする人々が登場し始める。当然のことながら肝心の情報を手に入れなければ商売が成り立たないから、何らかの形で情報を集める必要が出てくる。地道に集めることを商いとする人も出てくるだろうが、一方で集まった情報を譲り受けることを生業にする人も出てくるだろう。後者の場合、どうやって譲渡するのかが問題になるのだが、はっきりとしないことが多い。昔からある名簿屋はその一つなのだが、電子化された情報については別の形の商売が成立しているようだ。そんな中で様々な不正行為が摘発され、情報化社会の抱える重要な問題の一つとして扱われるようになってきた。一方、情報を管理する会社を相手に不正を働くこともあるようで、不正アクセスがあったのではないかとこのところ騒がれているのもその一つだろう。実際に、それによるのではないかと思われる不正請求が見つかってくると、可能性どころの話ではなく、かなり深刻な問題となりそうである。ネット社会におけるハッカーの問題があれほど取り上げられていても、未だにこういうことが起きるのは何故なのか理解しがたいが、起きてしまうのであれば各人が自分の財産などを自分で守るしかなくなる。こうしてみると、便利とはその裏でこんなことを起こすものと認識しておくことが何よりも先に来るべきものなのかもしれない。

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6月20日(月)−過信

 機械は信用できないものと思っている人もいるだろうが、最近はどうも人間の方が信用できないという認識の方が強くなっているようだ。人間の指示と機械の指示が異なっていたときにどちらを採用すべきか、既にきちんと決めているところもあるという。経験に基づく人間の判断は総じて正しいものとされていたが、最近はそうではないと結論されているようだ。
 いくら機械が信用できるといっても、所詮は人間が作ったものであり、どこかに欠陥があるという思い込みが強くある。よくよく考えれば、これは機械を信用するかしないかではなく、単に人間の信用を測っているだけなのだ。作る側の問題もあるだろうが、操作する側の問題もあり、入力ミスが事故の原因になったり、操作ミスが原因だったりするわけだ。先日の飛行機の高度ミスも結局は機械の故障をどう扱うかという点での判断の間違いと言われていたが、機械にも故障があるのは常だからその時の判断はどうしても人間に委ねられる。対処法は明記されていたとの指摘だったが、いずれにしてもその時選択によって残りの操作すべてが狂った座標にのったものとなってしまったらしい。たった一つの選択の間違いが大事故につながるとすれば、そこにあるべきフェイルセーフの考え方が不十分であったということになるのではないだろうか。確かに操作する人間の犯した間違いには違いないのだろうが、最近の人間の行動に関する話題を見るかぎり、そこに当然あるべき備えがなかったというべきなのではないだろうか。とはいえ、自分のこととなると機械を信用しない癖は中々抜けないものである。定期点検の結果、バッテリーの性能低下が著しいという診断が下ったのだが、まだ何とかなると思ってそのまま車を走らせていた。四ヶ月ほどは何も起きなかったのだが、いざというときに経験したことのない異常音がけたたましく鳴り響いた。何が起きたのかさっぱり理解できず整備に問い合わせたら、予想通りといった感じでバッテリーの異常との判断となった。たまたま点検を行ったところの近くにいたから良かったのだが、もし別の場所だったらどうなっていたのだろうか。機械の出してきた数値はまさにこういう結末を予感させるものだったのだろうが、こちらはある意味高を括っていた。気温の高い時期にくたばるとは思ってもみなかったが、どうもバッテリー上がりは夏場に頻発するそうである。理由は高温多湿の気候にあるとのことで、降雨中のクーラーの使用と渋滞が大いに影響するのだそうだ。充電を効率良く行わせるためにはエンジンの回転数がある程度高くないといけないのだそうで、渋滞に巻き込まれると速度も上がらず、当然の結果としてエンジンもゆっくりしか回せない。そんなことが長く続けばあっという間にダメになるのだそうだ。今回はそんなケースではなかったものの警告は出されていたわけで、それに従わなかった人間の判断ミスということになる。なるほど、機械は正確なもののようだ。

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