パンチの独り言

(2005年6月27日〜7月3日)
(疑義、優等、がり勉、オフ会、吉日、相談、遺言)



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7月3日(日)−遺言

 昔唄っていた歌にあったのかもしれないが、人は皆人生を振り返るものだろうか。このところ読んでいる本の中に、死に行く人が書いたものがいくつかあり、それらを読んでいると何だかそんな気がしてくる。何かを遺したいと思う気持ちは誰にもあり、ものを書くことができる人々はそれを本という形にして残す。そんなことなのだろうか、と。
 手元にある二つの本は、同じような状況に追い込まれた人が全く違った視点で書き記したものに見える。片方は、新聞記者に始まり、独立してルポライターなるものを手がけ、その後流行となったノンフィクションライターなる職業にあった人である。当然ながら、社会問題を自らの視点で捉え、その問題点や解決法を論じることを主体として来たから、最後まで現代社会の抱える問題のことが気掛かりで、一言言わせろといった雰囲気が全編に渡って滲み出ているものである。読み手によっては言いたい放題、単なる放言と受け取る人もいるだろうが、実際にはその捉え方には何ら特別なところは無く、ごく自然に真直ぐ物事を見据えた上での意見に過ぎない。そういうことが自由に言えない世の中に慣れてしまった人々にとっては、特別な存在に映るのだろう。一方、ある時期までものを書くことなど気にも留めなかったもう一人の方は、ウィンドサーフィンの選手として名をあげ、その後も実業家として活躍していたが、がんに冒され余命数ヶ月と言い渡されてから、突然書き物を始めた人である。初めて本格的に書いた小説が売れ、その後も毎日のように書き綴った日記がネット上で公開されていたらしい。それをまとめて本にするという形で実現したものだが、こちらは社会問題を捉えるというより、身の回りの小さな事柄を真摯な態度で見つめるといった姿勢がうかがわれるもので、私事ですがといった雰囲気が漂う。しかし、これはこれで一般の人々にとっては、社会云々よりも身辺の方が大事ということからか、何となく身近に感じられるものだったのではないだろうか。一つだけ共通点があるとすれば、どちらも気恥ずかしさや立場の問題などから普段は口に出しにくい話題を取り上げたものであり、いざ死に行くことが決まってしまったからといった状況だから、と言えるところにあるのではないだろうか。それにしても、一部の人を除けばこうも色んなことが言いにくい世の中になってしまったのかと思えるし、一方で、こんなに問題を直視できない人々が増えてしまったのかとも思える。その流れを憂いて、何度もそのことを強調していた前者の文章に、警告を感じた人がどのくらいいるのだろうか。全くの他人事、どこか別の世界の話、と思うような人々は、あんなに厚い本を開くことは無いだろうし、問題意識を持つ事自体に疑問も何も感じないのではないだろうか。享受という言葉をよく使って来たが、まさにそれだけであり、それ以外には癒されるとか、何かにつけて受け身だけの言葉遣いが目立つ。自分たちが何かをしようとする気の無い人が溢れている世の中に、将来性は無いと断言していた著者の警告は、どこに向けて発せられたものなのか、空(くう)に向けられたものだったのだろうか。病魔に苦しめられている人々からの声も、絵空事のようにしか見えない人々には、全てが映画やテレビのドラマのようにしか見えないのかもしれない。その中で演じられるものに感動し、目の前で起きていることに眼をつむる。不思議な人々が増えて来たと、こんなところに書いたとて、やはり宙に向けて放つだけになってしまうのだろう。

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7月2日(土)−相談

 人を騙して金を儲ける、こんなことが世の中では大流行りのようだ。いつから、どうして、こんな社会になったのかなどと悩むのは馬鹿げたことで、こんなことはどんな時代にも起きていたことに違いない。それが何故こうも大きく取り上げられるのかと言えば、おそらく被害額が大きいことと被害に遭う人の状況があまりに普通だからだろう。
 とにかく被害者の多くは老人である。オレオレ詐欺が流行り出した頃も被害者は孫を持つ老人ばかりだった。そのうち手口が巧妙となり、夫婦間、親子間の信頼を利用した詐欺行為が目立ち始めたが、基本となっていたのは急な対応をとれない人が多かったということだ。もっぱら老人が被害に遭っている時には何故と思った人たちが、自分がその対象とされた時にはまんまと騙される、そんな図式が次々に明らかになっていった。しかし、不安をかき立てるやり方で金を巻き上げる方法はこの手の詐欺行為の典型のようだ。布団の訪問販売も既に過去の物となった気がしており、最近の流行りはリフォームになっている。やっと手に入れたマイホームが潰れてしまうと言われて、不安にならない人はいないだろう。それも相手は権威ある存在のように振る舞う人々であり、場合によっては連係を組んでまで騙しにやってくるわけだ。こういう行為がいかに酷いものかを訴えている報道を見ていると、ちょっとどうかと思える部分もある。筋が違うと言われてしまえばそれまでのことだが、リフォームの話が出て来た経緯を報道関係者は意識しているのだろうか。一概には言えないことだろうし、問題となった業者がそういうことを利用したかは定かではないが、家を建てる事自体に問題を提起したのを忘れたわけでもあるまい。悪徳業者は建築業界にも蔓延っており、不要な工事、杜撰な仕事、そんなことを列挙して訴えかけていたのはついこの間のことである。それだけ家屋には怪しいところがあると言われたら、不安になりやすい人々はすぐに乗せられる。そこへリフォームである、さて、どうなるのか、あまりにもはっきりしているではないか。報道する側にも何か考えておいて欲しいと思うことはしばしばだが、こういうときも実は情報の垂れ流し状態が原因となることがある。不安を煽っているのは業者だけでなく、報道に携わる人々もそうなのではないだろうか。そこまで考えてみると、結局のところ、皆が自分で自分の身を守る以外に方法が無いことは明らかだ。さて、しかしどうやって、と悩んでみても答えは示されない。そこに大きな要因があるのではないだろうか。つまり、自分だけでなんとかするのは難しいのに、自分しかいないのである。社会という存在の中で、自分が孤立していることに問題があり、それを解決する手だてが今最も必要とされていることなのだと。向こう三軒両隣などという言葉も死語になった。何しろ、マンションにはそんな構造は無いし、持ち家でも隣は何をする人ぞの世界である。すぐ近くでなくても、相談する相手を持っているかどうかがこういう時大切なのではないだろうか。遠くの身内よりと言ってばかりで、近所といがみ合うのでは無理なことだろうけど。

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7月1日(金)−吉日

 冠婚葬祭は日を選んで行う人が多い。最近では結婚式を吉日に挙げない方が安上がりということで、大安ではなくその他の日にする人も増えているが、葬式はそうも行かないらしい。自分たちのためだけを考えればいいしきたりと、他人のことを考えねばならないしきたりとの違いだろう。何も根拠がないと言ってしまうと語弊があるが、その時だけ考えるのはいかがなものか。
 とはいえ、目出度いことは皆で祝って欲しく、そのためには吉日の方が都合がいいと考えるのはごく普通のようだ。そうしておけばお互いに安心というわけなのだろう。棟上げ式とか、新しいことを始める時も、何かしら良い日柄を選びたくなるものらしい。理解できるとかできないとかいった考え方が採り入れられるわけもなく、単純に暦を見て、そうなっているということで決めることが多いようだ。昔のように一年に数日しかない最良の日に結婚式を挙げようとして、かなり前から予約を入れるという話は最近はとんと聞かなくなったが、そう思っている人はまだまだ多いのかもしれない。単に話題にならなくなっただけで、心の中ではそういう気持ちがしっかり残っているのだろう。ここ数年懸案だったことが決着し、何とか一纏めにすることができたので、それを形にして出すことになった。といっても、こことは無関係だし、自分との直接の関係も薄い話である。それでも、数年かけて形にしていく過程はそれなりに大変なものだったし、新たな課題が出てくる度に何とも言えない面倒が起きてくる。そうこうしているうちに段々形が整ってくるのだが、当事者にとっては最終版が現れる直前までいつ終わるとも知れない作業が山積みになっているような感覚があった。それでもとにかく終わらせることができ、やっとのことで世に出せる形となった。まあ、どんなものなのか想像できない人もいるだろうが、仮想的な空間での独り言として軽く読み流して欲しい。そうなってみると突然日取りの問題が飛び出してくる。それまで、何にも考える必要もなかったし、おそらく意識もしていなかったものが、突然暦を繰ることになる。この辺りの変貌は中々興味深く、特に無宗教的な人々がそういう動きを見せると、なるほどと思えるのだ。大体のことが決まってしまえば、あとは適当に配置するだけである。注文を出すところにも日程を伝え、それに間に合うように作業を進めてもらえばいい。この辺の経緯はまるで結婚式への準備のようなものかもしれない。これが葬式でのあたふたのようだったら、楽しみも何もあったものではないが、そこはそれ全然違った感じで、楽しみがじわじわと滲み出てくる感じだ。ということで、大安吉日の日にいよいよお目見えとなったわけである。やっと終わったと思った矢先、さて次の準備をと言われると、おいおいと思いたくなるこの頃なのだが。

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6月30日(木)−オフ会

 5年前のこの日、このサイトに関係する人々が集まった。いわゆるオフ会というものである。ネット上で言葉を交わすことはあっても、お互いに顔を合わせたことのない者たちが現実の世界で言葉を交わすわけだ。人それぞれに期待と不安の入り交じった何とも複雑な気持ちをもって集まったのではないだろうか。それはそれで面白いことなのかもしれないのだが。
 オフ会とは、オフラインでの会合という意味なのだそうだ。ネット上で言葉を交わすのはオンラインでの会合であるのに対し、現実の世界で顔を合わせるのがオフラインというわけだ。インターネットがまったく新しい世界を築いていることがこういうところでも判るのだが、オンとオフの関係がそれまでの経験とはまったく逆になっているわけである。期待は、サイトの中での遣り取りから抱いていた人物像との比較とやはり実物に会ってみたいという気持ちなどから出てくるものだったが、不安のほうは、仮想世界での遣り取りが現実世界に引っ張り出された場合に起こりうる何かしらに対するものだったのだろう。これといって実感があったわけではないが、何かしら得体の知れないものに関わろうとしている自分を見て、どこかに不安を抱いていたのだろうと思う。それでも数ヶ月に渡る会話をきっかけにしたものだけに、それぞれに人物に対する不安があったとは言えない。それよりも、仮想世界での自分の存在が現実社会での自分の立場とどう折り合いがつくのか、捉えることができなかったことが大きい。得も言われぬ不安というと大袈裟に聞こえてしまうが、姿の見えないものに対する不安とよく似たところがあったように思う。何でもそうなのだろうが、初めて経験するときにはそんな気持ちが頭をもたげる。そんな中で事が進み始め、何となく障害もなく進む中にいる自分を意識すると、結局何でもなかったという安心感が広がるわけだ。当時集まった人の一部はまだここに出入りしているが、残りは行方知れずとなっている。仮想世界だけにそんなものなのだろうが、自分にとって何かの役に立つという思いがある中で関わっていたところが、そういう思いが消えたり、別の事情が出てきたときに遠い存在になってしまうのは仕方がない。その後も年に何度か集まっていたが、最近は一年に一度くらいしか集まらなくなった。参加者の顔触れもその時々で変わり、はじめの頃からずっと参加しているのは3人ほどなのではないだろうか。5年経過してもなおそれだけの人が居ると考えるべきなのだろうが、所詮は仮想空間である。いつ何時消え去るかわからないものだし、いつでも自分の存在を消すことができるわけだ。だからこそ気楽にできるという人もいれば、そうでない人もいるだろう。気楽さだけを追い求めるのであれば、現実社会には顔を出さないことが大切なのかもしれない。そのあたりの事情はともかく、今後もここのオフ会は何となく継続していくのだろう。

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6月29日(水)−がり勉

 いつの頃からか、忙しいのが当り前になっている。世の中全体的には、高度成長期にそんな話がそこら中で聞かれるようになり、何処も彼処も忙しいという状態が作られた。それに対応するように、時間を節約する方法が考え出されたが、交通網の発達もその一つだろう。速い列車、速い飛行機、便利なダイヤ、留まるところを知らない状態で上を上をと目指した。
 世の中が忙しくなってくると、それが大人たちの世界だけという訳にも行かなくなる。受験戦争が取り沙汰された頃から子供たちに負荷がかかり始め、戦争から地獄へと言葉が移り変わるようになる頃にはかなり深刻な状態になったようだ。それを憂いた人々が考え出したのがゆとり教育なのだろうか。たぶんそれ以前から教える項目について議論が盛んになり、増やすべきと減らすべきの間で激論が交わされていたのだと思う。結果として、ある程度まで増やされ続けた項目は限界を見て、減る方向に転換された。振り子が振れる如くというと語弊があるかも知れないが、丁度良い所などはなく、すぐに行き過ぎることになる。となれば、ゆとりどころか何も教えていないといった批判が聞かれるほどになり、また見直しが始まることになった。実際には、現在就学中の子供たちはその過渡期にあり、上の層はゆとり教育の名残、下の層はその揺り戻しの最中といった具合になっている。それにしても、学校教育の現場ではゆとりが強調されていたが、外ではまったく違った様相が展開されていた。子供たちの忙しさがどんどん増していたのだ。通勤途中にある予備校は高校生、中学生向けの教室も開いているようだが、その時間割が恐ろしい。5時頃に始まり、10時過ぎまでびっちりと組んであるのだ。すべてに参加する生徒ばかりではないだろうが、学校で6時限まで頑張った上に、さらに5時間近くの勉強とは何事ぞと思いたくなる。どちらみち自宅でも同様のことをするのだからと言える人がどの位いるのか判らないが、ここまでしなければならないのかと呆れてしまう。ただし、これは15歳前後から上の年齢層に対することであり、精神的にはまだ不安定でも身体はそれなりに成熟している子供たちの話である。それに比べるとさらに劣悪化していると思えるのが、小学生を対象にした学習塾の話だ。地方都市ではほとんど見られないが、都会では真夜中に帰宅する子供たちの姿が見かけられる。何故こんな時間に、と思う人たちには実情が理解できていないのだ。10歳を過ぎたばかりの子供たちが夜の10時過ぎまで塾に通っているのである。理由は簡単なことで、有名私立中学への進学を目指しているからである。そのためには難解な入試問題を解かねばならず、何かしらの訓練が必要となるわけだ。いつ頃から始まったことなのか判らないが、とにかく競争は激化している。余裕とかゆとりとか、公立学校が役人の思いつきに振り回されている間に、その縛りを受けない私立は独自の路線を築いてきた。その利点を最大限に生かそうと親が思ったとしても、何も不思議なところはない。しかし、そんな思惑に振り回された子供たちは、その後も線路の上を爆走し、エリートへの道をまっしぐらに進む。子供らしさに拘ってしまえば落伍者になるわけだから、それを捨ててでもという訳なのだろう。何とも悲惨な気がするが、関係者達はそんな気持ちを抱かないであろう。単純に成功のための階段を上っているだけなのだ。何が成功なのか、よくわからないように思えるのは、蚊帳の外にいるからだろうか。

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6月28日(火)−優等

 新聞の広告でやたらと目立つようになっている言葉に、頭がいい、悪いというものがある。何を言いたいのかははっきりしており、うまくやれるやつとそうでないやつがいて、その違いが成功と失敗を分けるという訳だ。だから成功しようと思えば、うまくやることが必要で、そのためには頭のいい方法をとらねばならないとなる。これがなるほどと思えるらしい。
 頭の良し悪しは、学校に通っていた頃であればすぐにわかる指標があった。通知表である。当時は相対評価だったが、何しろクラスの中で上位にいれば頭が良く、下位は頭が悪いと簡単に分けられてしまった。高校に通い始めるとちょっと事情が変わってきたが、相変わらず実力試験の順位表の掲示から何となく頭の良し悪しの順位付けをしていたのかもしれない。勉強ができるできないという表現もあったにはあったが、どちらかというと頭の話にすることの方が多かったようだ。しかし、今広告で目に付く頭の良し悪しは勉強の出来不出来とは無関係なところにあるように思える。思い出してみると、子供の頃にもそういった要領の良い悪いという違いに気づいていたところもあり、普段の勉強ではあまり目立たないのにそうでないところで才能を発揮する子供が周囲にいたように思う。これがまさに今言うところの頭に関係していることであり、うまく立ち回るという意味では子供の頃から実行していた人とそうでない人がいたように思える。同じ要領の良さでも、口だけが達者でと人から陰口を叩かれる人もいれば、なるほどと尊敬の眼差しで見られる人もいる。見方によれば同じようなことをしているのに、まったく違った評価が下されるわけだ。要領良くすることができるかできないかということでの区別もあるが、一方でうまくできているように見えても違った評価を受けることがある。この手の本を読んだことはないからどちらと断定することはできないが、今の段階で望まれているのは前者なのではないだろうか。うまくできないという人がやたらに増えてきて、本人の問題どころか組織の問題にまでなってしまう場合も多い。そんな中でマニュアルの必要性を説く人が増え、そこに登場したのがこの手の本であるような気がするのだ。こうすれば良いとか、こうしないようにとか、そんなことを実例を示しながら説明していってくれると何となく判ったような気がしてくる。そう思わせられれば本としては大成功であろう。その後の本当の評価の良し悪しはさほど問題にはならないのだ。組織がうまく動くようにという意味では、ちゃんと物事を捉え、実行できる人間がいることが大切であり、その人間の性格などは問題とはされない。本人の評価が上がろうが下がろうが、組織にとってはあまり関係のないことだからだ。面白いと思うのは、本を購入して読む人は自分自身のことを考えているに違いないのだが、結果として出てくるのはそうでない部分である点である。これは極端な考え方かも知れないが、今本当に困っているのは組織をまともに動かせる人間が減り続けていることで、それを何とかしないといけないということである。そのために頭の良し悪しに結びつけてでも意識改革を促そうとしているのが、今の動きなのではないだろうか。人間の誇りの部分をくすぐって、意識を持たせることでいい結果を引き出そうとしているとしたら、これほど目立つということはうまくいっている証拠なのかもしれない。

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6月27日(月)−疑義

 元新聞記者の書いた遺稿を読んでいる。事件に対する取り組み方として、ある意味一時代前のやり方を紹介し、現状の甘さを指摘しているところが多い。情報操作と言ってしまうと言い過ぎになるのだろうが、とにかく当局が出したものを疑いもなくそのまま載せることに呆れているくだりが頻繁に出てくる。裏をとれと叱られ続けた世代ならではなのかもしれない。
 それにしても、情報化社会では速度が最重要になっているようだ。裏をとる作業に時間がかかるようならばそれを飛ばしてしまえ、とでも言い兼ねない状況で、信頼できる筋の流す情報を鵜呑みにする職業人が増えている。そうなれば、新聞だろうがテレビだろうがすべて同じ話になり、何ともつまらないのではないかと思えるが、情報に飢えている人々にとっては同じものが流れることの方が大切なのだろう。一時期当局による情報操作や捜査の行き過ぎなどが指摘され、冤罪の問題も絡んでかなり痛烈に批判されたことがあったが、最近の情勢を見るかぎりそういう経験は活かされていないように思える。さらにしつこく言えば、その片棒を担ぐ人々が登場したという点で、以前より悪化したということなのかもしれない。流す側の行き過ぎに対する反省から、以前よりはまともなものが流通しているわけだが、これが少し狂ってしまったら飛んでもない所にまで達しそうである。つい先日も、ある高速道路での事故の報道があった。ごく当り前の伝え方で、流される事故の内容にははじめから首を傾げたくなる部分があったが、流す側は何の疑いも挟んでいないように思えた。交通事故には加害者と被害者があるわけで、その区別を明確にすることに力が注がれ、今回の事件でもはじめから加害者の名前が明らかにされていた。しかし、被害者とされた人の車の状況には不審な点があるように見えたにも関わらず、そこにはまったく触れることはなかった。結果としては単純な交通事故であり、事故後に慌てて飛び出していた運転者を後続の車がはねたことと片付けられた。おかしなことは徐々に明らかになり、同乗者が事故以前に死亡していたことなど、次々と謎が引っ張り出されることになる。しかし、依然として加害者は加害者のままであり、その点については何も変化が起きない。高速道路上で人が歩いていた場合、どんな状況に見えるのだろうか。真夜中に高速で走っている車の前に人が飛び出した場合、どんなことになるのだろうか。実際にどうであったのかは捜査中で何も伝えられない。単純に現行犯逮捕されたことだけが伝えられるのだが、どうにも疑わしく思えてくる。そういう感覚を持つ人がおかしいのか、持たないのが当り前なのか、よく分からないがとにかく、そんなことばかりが流されることになる。急いで重要なことを伝えるのが使命であるということなのかもしれないが、少し考えてみたほうが良いのかもしれない。今後、様々なことが明らかになったとしても、当事者死亡で不明のままに終わることも多いだろう。そういう事件において、捜査段階での情報について吟味なしで伝えてしまうことは、かなりの危険を伴うのではなかろうか。おそらくいつものように流れ、いつものように終わることになるのだろうけれども。

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