パンチの独り言

(2005年7月4日〜7月10日)
(首都、難問、有用、迷惑、不労、強要、土俗)



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7月10日(日)−土俗

 車を走らせているときはある意味暇なのである。だから余所見もよくする。事故に繋がるようなことはしないが、走り慣れた道でもそうでないところでも、道の脇や風景に目が行く。走っている最中にそのまま目を奪われたらちょっと大変なことになるが、まあそこまでならない程度に暇潰しをするわけだ。自然に目が行くときもあるし、人間の営みもある。
 何度も走った道であるにも関わらず初めて気づくこともある。この間もたまたま信号待ちをしていたら、ふとそこに石仏のようなものがあることに気がついた。片方は仏さんのようだったが、もう一つは明らかに違う。庚申塚と刻まれていて、どこかで聞いたことがあるけれども何だろうかと思った。ちょっと調べてみると、庚申信仰に基づくものらしく、供養のための塔とのことだ。そんなことを言われても、今度はそういう信仰がわからない。こうなるときりがないような気もしてくるが、庚申の庚はかのえであり、申はさるであることくらいしか知らないわけだから、そこから想像しろと言われても無理である。庚申信仰とは庚申待ちのことであり、庚申の夜に寝ると命が縮むことから来ているのだそうだ。詳しいことは辞書に書いてあるからそちらに譲るとして、こんな信仰があったことなぞ知らない人間にとっては、どうしてそんなことを信じるようになったのか不思議で仕方がない。とにかくその名残として塚が残り、区画整理やら家の新築の時にもそれに手を付けずにいたのだろう。信仰という意味からするとやはり気持ちの悪いものであり、うっかり手を付けて何かしらの祟りがあってはと思うのも無理はない。先祖代々の墓についてもそんな考えがあるだろうが、先祖とは身内のことであり、自分の身に直接関係あることだから何となく理解できるが、信仰はちょっと違った考え方なのではないだろうか。そういえば、小さい頃、まだ車の行き来も少なかった頃、舗装されていない道を馬が通っていたような記憶がある。何処にいた馬なのか、何をしていたのか、思い出せないが、その道が昔から塩の道と呼ばれていて、運搬のために使われて道だということを小学校の時分に習ったとき、何となくだが判ったような気になっていた。その道沿いには馬頭観音が祀られている祠があり、周囲の密集した住宅地とはどこか違った世界のように思えていた。馬に関係するからそういう運搬に関するものかと勝手に思っていたが、これまたまったくの大外れだったようだ。馬頭は一切の魔を打ち伏せると書いてあるが、そんな信仰心から祀られたものなのだろう。今も残っているはずだが、いつ誰がどうして築いたものなのかまったくわからない。機械文明が押し寄せ、八百万の神に対する信仰もどこか隅の方に追い遣られた感があるが、こういうところにはまだ古い信仰に手を付けられない雰囲気が残っている。何とも不思議な気がするが、ホッとする気もする。一神教とは何処かしら違った雰囲気を持つ国がこれからどんな方向に向っていくのか、こういう気持ちを失わずにいれば大きく外れることもないのだろうけれど。

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7月9日(土)−強要

 学校で習ったこと、どの位覚えていますか。そんな質問を受けたことがあるだろうか。子育てをしていると、子供からそのものではなくても何となくそれに近いことを聞かれることがある。断片的なのは仕方ないとしても、ある程度部分的に記憶していることは沢山あるのではないだろうか。無駄なことと思えるようなことまで覚えている自分に呆れることもあるが。
 では、何故そんなことをいつまでも覚えているのか。それに答えられる人はそんなに多くないだろう。無理矢理記憶したことの中で、ある部分だけが鮮明に残っている。この原因を知ろうとしても簡単ではなさそうだ。でも、残っている事実だけはそこにあるわけだから、それを無視することは難しい。歴史の中の年代を語呂合わせで覚えていたものなど、今でも出てくる人は多いのではないだろうか。つまり何かしら抽き出しの開け方を覚えておくと、記憶はすっと何気なく出てくるもののようだ。そういうあまり役に立たない一つ一つの事柄は別にして、たとえば今でもある程度役に立っていることはどうだろう。九九はその典型だと思うが、小学校二年の時に習ったことが今でもある程度すらすらと出てくる。何故と聞かれても理由はまったくわからない。あえて言うならば、ある時期無理矢理覚えさせられて、それが強く記憶の中に残ったということくらいだろうか。この状況は今でも続いていると思っていたのだが、そうでもないと言われているようだ。中学生の中に九九が満足に言えない子供がいるというのだ。ちょっと信じられない気もするが、自分だけが例外であり、この年になったら皆そんなことはすっかり忘れているのかもしれず、これらの子供たちの方がまともなのかもしれないなどと思ったりする。流石にそんなことはないと思いたいが、現状では計算することがあらゆる場面で必要となるはずの生徒達に基礎さえもできない子供が増えているらしいのだ。そこで話題になっていたのは、その時はできたけれども、直後に忘れてしまったという話である。いかにもありそうに思えるが、これはおかしいと思った。なぜなら、自分は今でも問題なく思い出せるからである。さてこの違いは何処から出てくるのだろう。一つだけ思い当たるのは、強制の程度の違いである。無理強いすることは子供たちの発達に適さないという意見が大勢を占めるようになって以来、どうも覚え込ませるやり方に批判が集中してしまった気がする。良いか悪いかという議論があるようだが、覚えることにかけては良いも悪いもない。覚えなければならないものであれば、その過程を問うてはいけないのではないだろうか。確かに無理矢理やらされることによって嫌になったり、避けようとしたり、悪い面があることは否定できない。しかし、覚えなければならないとすれば、そこに無理が必要な場合も多々あるだろう。何かにつけて、理解ある社会を形成しようとする動きが目立っているが、理解とは甘やかすとか楽をさせることとは違うはずである。必要なものを身に付けるのに中途半端なやり方をするほうがよほど理解していないことになるのではなかろうか。最低限が何処までなのかを判断することは難しいが、小学校の頃に習うものはほとんどがそれであるはずだ。無理強いはいけないと強調するばかりで成果を上げられないのであれば、それはやらせたことにさえなっていないということなのだから。

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7月8日(金)−不労

 不況、不況と叫ばれ、自分自身のことを心配していた人も多いだろう。まだその余波は終わっていないようだが、一応一段落ついた雰囲気は出来上がってきた。渦に巻き込まれてしまった人たちにとっては青天の霹靂といった感のあった出来事だが、実際にはそれぞれに理由のあるものに違いない。なるべくしてと言わないまでも、何となくわかるという意味で。
 中高年のリストラが漸く山を越えて、次にくるのは何なのかと別段期待もしないが眺めていると、話題になっているのは若年層のようだ。上の層に影響が出たくらいだから、新規採用は難しくなるのが当り前、という考えもあるだろうが、どうも実際にはそれほど大きな影響は出ていなかったようだ。以前から続いていた不況の影響による採用見送りといった動きに、更なる拍車がかかるかと思えばそうでもなかったらしい。流石にまったく採用しない年を続けるわけにも行かず、細々とでも人を採る戦略に出た企業が多かったようだ。それ以前にそういう状況に追い込まれた企業のその後の動向を見るかぎり、不採用による弊害が出ることは必至であるから、そういう憂き目に遭うのは御免といったところなのかもしれない。それにしても新規採用については厳しいことには変わりがなく、就職活動に走り回る学生たちには危機感が漂っていた。ただ、このところ経済的には少しずつ回復して来ているのが明らかとなり、就職戦線にも変化が見え始めた。新規採用を大幅に増やす企業まで出てくるようになったから、一気に楽観ムードが漂い始めたところもあるのではないだろうか。ただ、全体としてみれば慎重な姿勢を変えていない企業も多いようで、求人が増えてもバブル期のような狂乱状態には陥っていないようである。とにかく、そんな形で状況は良くなりつつあるのだが、そこに大きな問題が見出された。活動しても就職できない大卒者が沢山いた時期には目立たなかったものが、就職の状況の変化とともに顔を出してきたというべきだろうか。以前からかなり多くいたのだろうが、他の人々の陰に隠れていたのは、自らの事情で就職できない人々のことである。確かに活動を一生懸命しても採用を勝ち取れない人々にも事情があるには違いないのだが、ここで問題視されているのはそういう競争に参加するところまでいたっていない人々のことである。ついには略語まで作られることになり、いよいよ社会現象になりつつあると思われるが、それにしても何故こんな状況に陥るのか不思議に思えるところもある。精神疾患を扱う本を読むかぎり、人はそれぞれに何らかの病気をもっているように思えてくるが、それが単に大きく表面化しただけなのではないだろうか。実際にそのずれ方自体は昔からそこら中にいた人のそれと大差ない感じがするし、最近流行の騒ぎ過ぎという感じがしないでもない。しかし、一度社会問題化されるとあとは行くところまで行くしかなく、どうにも理解しがたい施策の対象となる。社会の問題と考えればその通りなのかも知れないが、元をただせば家族の問題に過ぎないのではないだろうか。大きな集団で考えると問題は多様になり、対応も難しくなる。それに対して小さな集団で考えれば、一つ一つにうまい対応ができそうな気がする。ところが、現状はまったく逆であり、その場で対応しなければならない家族の問題のほうが、誰を対象とするのかはっきりしない社会の問題よりもずっと難しいということになる。何故こんな誤解が産まれたのかわからないが、身近な問題に真正面から取り組む姿勢が必要なことは確かだ。

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7月7日(木)−迷惑

 便利とか効率とか、そんな言葉が氾濫する時代である。何を対象に考えるにしても、便利さとか効率の良さが優先され、その結果として起きる歪みは軽視されるか無視されることになる。より高い経済力とか良い生活といったものを求めるあまりこんな状況に陥ったのかもしれないが、歪みは大きくなるばかりだ。
 毎日毎日産み出される新しい製品に囲まれた生活をしていると、それらによってもたらされる便利さなどを無条件に受け入れるようになる。それが当たり前となってくると、供給される便利をただ享受するだけになるようだ。だから、そこに矛盾を感じる人が出てきたとしても、便利だから良いじゃないかという返事だけが戻ってきて、矛盾自体についての議論は始められない。確かに、便利なことは大切だろうし、高効率は重要な要素だろう。ただ、そこには何かしらの線が引かれていて、ここまでは追求しても構わないが、これ以上はダメというものがあったような気がする。そのはずだったと言うべきか、より良い生活ができるようになるとそれが当たり前となり、さらにその上をと要求する。その繰り返しが起きると何処かにあったはずの線は取り払われ、駄目だしをすること自体が憚られるようになる。具体的にどんなものがあるのか、あまりに沢山事例がありそうなのに、実際にはすぐに出てこない。逆に見れば、それだけ日常生活の中に溶け込んでいて、目立たないようになっているのだろう。敢えて挙げるとすれば、携帯電話がその一つになるだろう。普段生活しているときには便利と感じているが、一方で他人の使用の仕方には一言言いたいところがある。そんな状況の典型なのではないかと思うが、社会的には色々な策が講じられている対象でもある。人が沢山集るところでは使用を控えるようにという意見が大勢を占めていた時代には、電車やバスの中での使用は禁じられていた。しかし、便利さを実感した人々はそれに抵抗することもできず、かかってきた電話を所構わず受けてしまうようになった。こうなると一つの線が消え失せることになる。どうにも規制できないとなれば、違った策を講じるしかないわけで、二年ほど前に電車に導入された注意書きはまさにその典型だろう。禁止が無理なら、棲み分けをしようとするものだ。元々他人への迷惑などという形になりにくい理由では無視されてしまうことが明らかだったから、機械によって生じる何かを禁止理由としてきたが、徹底できなかった。そこで、被害を受けそうな人々をある場所に集め、そうでない人々と接触しにくいような環境を整えるという方策が講じられた。面白い考え方だと思ったが、実際には何の効果も挙げられなかったようだ。優先席と普通席での棲み分けがその基本だったが、元々何の躊躇いもなく優先席を占めるごく健康的な人々が周囲への配慮を欠くことくらい想像がついたはずである。にもかかわらず、わずかに残る良心に期待したわけだが、どうも期待外れに終わったようだ。迷惑という言葉が押し付けがましい使い方に限定され、他人への配慮に使われることが少なくなってきた現代では、もうこういった考えに基づく方策は通用しないということだろう。個人個人では何とか通用したとしても、集団に対して無効であることの典型ではないだろうか。そんなにまでして便利を追求して、何ができているのかわからないのが一番の問題だろうが。

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7月6日(水)−有用

 世の中、何が起こるかわからないと言っても、誰も振り向かないのではないだろうか。何か心配事があるにしても、大したことでもなく、また個人的なことが多い。社会全体として先行きに不安があるように見せる向きもあるが、現実には実感はほとんど無い。そんな具合だから、安全第一、効率第一が掲げられ、巧みに生きることが推奨される。
 同じ作業をするにも、いかに短い時間、少ない労力で行うのかが問題になる。巧みさとはそういうものを指すらしい。一方学校での勉強では、将来役に立つかどうかが問題となっている。算数は役に立つのか、数学は、社会は、歴史は、等々といった調子だ。誰も役に立つとはどういう意味なのか、教えてくれないのに、役に立つかどうかが論じられる。学校を出ても同じ状況が続く、たとえば資格の取得である。こういう資格を持っていると将来役に立つと言われても、学校の教科と同じようにどう役に立つのかわからない。他方転職の時に役立つとか有利になるとか、いかにもといった具合に言われるが果してどれほどのものなのかわからない。そういう資格に見合う実力を本人が持っているのならばそれでよし、単なる俄勉強の結果であり、何も実際的な実力がなければ見掛け倒しである。こう見てくると、世の中あらゆるところで役に立つか立たないかが判断基準となっているように思える。まあ、人材自体もそういった観点で評価され、リストラの対象となるわけだから、仕方のないところなのかもしれない。しかし、何でもかんでもこの調子でやられるとどうもへんてこに見えてくるものもある。たとえば、子育てについて夫婦の共同作業であるはずだから、育児休暇を女性だけでなく男性もとれるようにすべきという指摘があり、結果として実行に移されている。何を進めているのか聞き逃してしまったが、ある化粧品会社の女性重役がラジオでこのことの重要性を説いていた。そこに違和感を覚えたのだ。男性も参加すべきということ自体に反対するつもりは毛頭無い。子育てに関わりたい人がいればそうすればいいわけで、それをわざわざ妨げることが必要とは思わない。しかし、育児休暇の重要性を論じている中で、たとえば大企業であれば基礎体力があるから一人二人が休みをとったとしても大した影響が出ないのに対して、中小ではもろに影響を受ける。その点の支援策の無いまま施策を進めてもある面でのみ効果を上げるだけで、多くの弊害を産みだすだけという指摘である。その他にも様々な指摘があったと思うが、それらをひっくるめて彼女が出した答えは、子育てに参加すればそれは将来職業上に役立つことが必ずあるといったものだった。本人にとってそれはその通りなのかもしれない。だから本人がその気になったらそうすべきということには反対しない。しかし、体力のない中小企業がそういうことを考えて従業員の扱いをするとなれば、少々話が違ってきそうだ。これは、社員教育の一環として扱うべきという意味なのだろうが、それならば休暇ではなく学習中という扱いをすべきだろう。つまり、MBAなどの資格を取るための海外とか内地での留学と同じ扱いになるということだ。本当に会社のために「役に立つ」ことならば、無給の休暇ではなく有給の研修とすべきなのだ。将来のためになどと奇麗事を並べているだけで、そこに潜む問題を一つも拾い上げていない態度に、こういう問題に取り組んでいる人々の相変わらずのいい加減さを感じるしかなかった。

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7月5日(火)−難問

 選挙にしても何にしても、政治の話題を遠いものと感じている人が多いのではないだろうか。何をしても変わるはずの無いものと言えば良いのだろうか、まったくその通りの展開がこのところの永田町の動向に現れている。誰のための政治かと聞かれたら、政治家のためと答える人が増えているのかもしれない。そんな世の中になりつつあることに、誰も何も感じないのか。
 そんなことより自分の身の回りの変化の方が気になり、政治なんぞに興味を抱く暇が無いと言う人も沢山いるだろう。身の回りの変化といっても、人生を決める重大なものから取るに足らない些細なものまで、千差万別のはずなのだがそれこそ十把一絡げで扱われているようだ。重大か些細か、人それぞれに取り扱い方は違う。何しろ親から見たら重大に思えることが子供にとっては取るに足らないことであり、子供にとって命の次に大切なことが親から見ると他愛もないものになる。昔からこういった図式は変化していないと思うのだが、どうも大きな流れに変化はなくても、細かなところでは違いが一杯ありそうである。まあとにかく、そんな変化が次から次へと覆いかぶさり、潰されそうになりながらやっと生きているというのが最近の若者の姿のように見える。覆いかぶさることや潰されることは、上の世代から見たらなんと大袈裟なと思えるものだが、本人たちは大真面目にそう信じているのだからどうにもならない。これほど適応力の低い世代はないのではと思ったりもするが、まったく別の場面では驚くべき対応を示すわけだから理解不能である。とにかくそんな世代が今抱えている問題の一つに職があるだろう。どんな職に就くのか、幼稚園児が汚れない心で勝手なことを言い並べているうちは良いのだが、それが段々現実味を帯びてくると、勝手なことを言う代わりに逃げを打ち続ける人が増えてくる。その結果として職に就けない人々が増えてくるわけだが、このままだとどうにもならないところまで行ってしまいそうである。それを避けるためだろうか、色々と策を講じる動きばかりが目立っているが、果して良い方向に動いていると言えるのだろうか。ただ闇雲に突き進んでいたときには、周りを見る余裕なぞ無かったはずの人たちが、どこかで後ろを振り返ったり、周りを見る機会を得て、はたと気がつくことになった。ところがそこにあるのは以前自分たちが苦しんでいた頃とはまったく異なる光景となっていたわけだ。そこでできることは色々とあるのかも知れないが、結局付け焼き刃的なものが沢山披露されることになっているようである。その場で困難に直面しているが、取り組んでいるようには見えない人々を救うために、様々な方策が講じられている。しかし、根本的な解決にはほど遠いようにしか見えない。悲観的な筋書きを思い浮かべても何も面白いことはない。でも、今の状況を見るかぎり、そんな風にしか見えてこないのだ。結局問題を抱えた人々を救おうとするだけで、次にやって来る人々にもその問題を抱えさせることには変化が無さそうなのだ。根本解決とは、問題を抱える前に与える何かにこそあるように思えるのだが、このところ応急手当ばかりに腐心してきた世代にとってはそういう考えは思い浮かばないらしい。このまま行くと、やはりどうにもならないところまでということになりそうなのだが。

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7月4日(月)−首都

 車で長距離を移動するとき、ラジオは重要な情報源となる。世間一般に起きている出来事を知るためだけでなく、道路情報を手に入れるためにも重要だ。それは高速道路上の情報網から流されるものもあるが、一般のラジオからもたらされるものもある。どちらの方が大切というわけもないが、場所の限られた情報網より、垣根の無い一般放送の方が便利のようだ。
 道路情報はある限られた人を対象に流されるものだが、その他の情報は何をしている人にとってもある程度役に立つものだろう。そうは言っても、地方ごとに違ったものが流れている放送局もあり、それぞれに重要度の順位が少しずつ違っているように思える。その傾向が最も強く現れるのは選挙速報で、全国版で次々に流されるものはあまりに大量の情報だから、音声で伝えることが主体のラジオという媒体にとっては大きな問題となる場合がある。そこで地方ごとに区分けされた情報をそれぞれの放送局が分担することになる。しかし、長距離を走っている者にとっては、見知らぬ土地の選挙の具合など気になるはずもない。こういう時には選択肢があればいいのにと思ったりするが、衛星放送があるテレビと違って常に全国版を流すチャンネルがあるわけでもないから、何ともならないまま時間が過ぎていくわけだ。国会議員の選挙のように全国規模の場合はこんなことがよく起きるのだと思う。しかし、都道府県の知事選挙や議員選挙の場合、全国的に見たニュースとしての価値は大したことが無いと思われるから、そんなことは起きないと思っていた。しかし、首都だけは違っていたらしい。定時のニュースから流れていた速報がそのまま流れ続け、一時的なものかと思われたが結局のところかなりの時間続けられた。定例の番組にまで影響を及ぼし続けて流されていた速報に、果してどれほどの人間が興味を抱いたのかわからないが、それにしてもどうしたものかと思ってしまった。確かに、今後の選挙の動向を占う意味で重要な要素と受け取られていたのだろう。しかし、結果の重要性を認めたとしても、同時放送の必要性はどうだろうか。候補者やその関係者が速報に耳を傾ける理由はよくわかるが、選挙区から遠く離れたところに居る人々にとって、それらの情報を即座に受けとる理由は無さそうに思える。そんなことを考えながら、流れてくる音声を受け取っていると、ただ耳に残るのは政党名と当選者の数だけである。それだけのことにこれだけの手数をかける必要があるのか、と言ったとしても、結局他の地方で制作されたものが全国に流れるだけのことなのだから、変わりはないと言い返されるのだろう。こんな流れを見ていると、首都にいろんなものを集中させないようにと言われたあの頃の話は何処へ行ったのかと思えてくる。重要度の順なのだから、と返されるのかも知れないが、どの位の人々が興味を抱いていたのか、少し調べてみたらどうかと思う。占いに使うにしても、すべてのシナリオを網羅しなければならないほど複雑なものでもあるまい。結果を並べて検討するだけなら、もう少し違った形の番組編成を考えるべきだったのではないかと思う。

(since 2002/4/3)