パンチの独り言

(2005年7月11日〜7月17日)
(外食、今昔、分権、道案内、委託、疲れ、長旅)



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7月17日(日)−長旅

 久しぶりに長距離の列車の旅をした。車を走らせるのと比べれば格段楽になるはずなのだが、いろいろな問題があり、そうとは限らないと実感した。楽になることとして最も大きいのは寝られることや神経集中をしなくていいことだろう。一方、そうとは限らないとする所以は、不特定多数の人々の中で行動しなければならないことだろう。個室のような感覚でいられる車と違い、列車は様々な雑音がある。
 一長一短と言ってしまえばそれまでだが、疲れていても何とかなるという意味では列車の方が長じているところがあるのかもしれない。その辺りも周囲の人との関係をどう感じるかといった部分によるところが大きいから、一概には断定できるものではないが楽は楽なのである。ただしあまり油断し過ぎてしまうと、乗り越しをしたり、ついうっかりという間違いを起こしてしまう。楽しもうとすればそんなことを気にしないのが一番だが、久しぶりとなればそうも言ってられない。何となく寝られないし、何となく落ち着かないものである。それでも、泣き叫んでいる子供たちよりはずっとましなのかもしれないと思いつつ、満席の車中なんとか読書をしながら暇つぶしをしていた。飛行機のように目的地が決まっている場合は安心できるが、列車では途中下車の方が多く、そのことが気になって落ち着けないことも出てくる。旅慣れた人々はビールなどを一本といわず数本仕入れて、ゆっくりと飲み、酔いにまかせて眠りにつく。大丈夫かと心配するのはおそらく慣れていないからであり、本人はごく当たり前のようにある長さの睡眠を取るだけのようだ。それにしてもいろいろなシステムが変わり、ちょっと戸惑ってしまう場面にも出くわす。何しろ様々なものが機械化され、窓口での手続きよりそちらの方がずっと早く処理できる状態にある。一見良さそうに見える状況なのに、未だに窓口に並ぶ人の数が減らないのは何故だろうか。機械よりも人間の方が信頼できると思っているからか、あるいは機械の取り扱いに自信が無いからか、いずれにしても長蛇の列は途切れることも無く、相変わらずの調子で一人ずつ片付けていくのが見える。大きな駅であれば、処理能力も高くなるが、地方の小さな駅ではそうも行かない。買いにくる方も、相手にする方も、慣れていない雰囲気だ。それでも、田舎の落ち着いた空気が許しているのかなと思える光景が目の前に展開されると、やはり何となく気が落ち着かない。もっと計画的にやればいいのにと思うのは、ある意味慣れている証拠かもしれない。まあ、それはそれとして、いろいろとあったけれども旅を無難にこなしていく。こんなところにもなるようになるといった考えが当てはまりそうな世界がある気がした。

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7月16日(土)−疲れ

 世の大人たちが忙しなく働いていたのはもうずいぶん昔のことのようである。忙しい、忙しいと言っても、以前ほど仕事はなく、結局手持ち無沙汰で何となく時間をやり過ごすという人もいるのではないか。皆が朝から晩まで残業の制限など気づかぬふりをして働いたのはずっと昔のことで、今は一部の人々を除けば大した労働時間にもならないのだろう。
 大人たちの変化とともに、子供たちの時間の使い方にも大きな変化が生まれてきた。遊びという時間の使い方が大きく減少して、何かしら大人の仕事にあたるようなものに費やされることが多くなっているように見える。当然のことながらそこには精神的な疲労を伴うものがあり、学校に通うようになったばかりの子供たちに精神疲労が見られ、ストレスの蓄積が問題視されるところも多くなっている。ではなぜ、大人の忙しさは減少し、生活を楽しむ人々が増えているのに、子供たちはそれに逆行するような環境に置かれるようになっているのだろうか。一概に言うことはできないだろうが、社会が成長期にあったときにはそこでの変化が大きすぎるために対応策が講じられても、効果を上げられなかったのに対し、安定期に入るとある程度対応が功を奏するようになってきて、とにかく何をすればよいのか明らかになってきた。そうなると、猫も杓子もといった状況になり、皆それぞれに習い事に通う時間が増えてくる。週末も含めて毎日どれかに通っているという小学校低学年の子供も都会には沢山いるようで、疲れないほうが不思議に思えてくる。現実に疲れを感じている子供も多いだろうし、そうでなくともまるで毎日会社に通う親達と同じ抑圧下にある場合も多くあるだろう。そんな状況が精神的にも肉体的にも未熟な子供たちに覆いかぶさるようでは、どこかに歪みが生まれてもなんら不思議ではない。かえって生まれないほうが心配になり、平穏に見える状況がいつ爆発に変わるのか常に注意しておかねばならない。疲れ切った大人たちが将来を悲観していた時代は少し昔のことのように思え、今はそれほど疲れてもいないが将来を見通すことのできない人が増えている。さらに現在20代にある世代では既に疲れはピークを越えており、ただ漫然と惰性で毎日を過ごす人がいても少しも変でなさそうに思える。しかし実際にはこれはかなりおかしな現象であり、既に手遅れの状態になっているとはいえ、いくら何でも何かしらの方策を練らねばならないだろう。疲れ切った人々は常に癒しを求め、自ら何かを発信しようとはしない。そういう世代が多くを占めてしまうようになったのでは、将来を楽観視することはほぼ不可能に近い。一方で、人口の割合という意味では、がむしゃらに働き続けた世代のすぐ下の世代が主流となっており、彼らの果たす役割はかなり大きいはずだ。ただ彼らに期待しにくいところがあり、数の論理以外に主流を築く材料がないことが何とも大きな欠陥となっている。子供たちの歪みも元はといえば彼らが親であるときに産みだされたものだろうし、自分たちがまずは楽しむという主張を繰り返したのもやはりあの辺りに始まったことなのではないか。そう考えると、社会の多数を占めることの弊害が大きく表面化しているのが現代であり、それを改善するための方策を講じようとしているのが、その下の世代ということになる。さて、どうしたら良いものか、すぐには思い浮かばないが、とにかく動くしかないわけだ。まあ、疲れない程度に、ということが肝心なようだが。

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7月15日(金)−委託

 良いものを売っていると評判になれば、さらに売れるようになると言われる。かのウォークマンで一世を風靡した企業も、かつて海を渡ろうとしていたときにはそんな誘いがあったそうだ。つまり、既に名前が売れている企業が新参者に斬新な製品を供給させ、自社製品として売ることだ。これをOEMと言い、Original Equipment Manufacturerの略である。
 有名企業となれば、開発戦線の先頭を切っていなければならず、そのために新製品開発にかなりの力を注がねばならない。しかし、市場動向は企業の思惑通りには行かず、意外な当りが転がり出たり、期待外れの製品が墓場送りになる。その度に慌てて対応していたのでは間に合わず、子会社でなくても、どこか別の後発会社や中小企業に依頼して、新製品の製造を任せる場合が多い。逆にそれぞれの社会的には無名な会社が自社製品を有名会社に売り込むこともあるのだろう。社会的にというのはまさに消費者にとってと言うことであり、実際には業界ではかなり名の売れた会社でもOEMを主体にしているために消費者に聞こえないことが多いようだ。あるパソコン関連製造会社は海の向こうでの展開に巨人の肩に乗ることを決め、写真機だけでなく様々な製品を出すことで企業としても評価の高い企業も当時最先端を行くプリンタをOEMで流していた。技術は確かなものであっても、名声はくっついてこないから、一部の人々を除けば何も知られておらず、いざ自社製品として売り出したときには真似と思われたことも多いのではないだろうか。こういうものの中に、このところ売れ行きがかなりの勢いで伸びているものがある。個人情報の保護が法律で規制され、様々なところで記録の破棄の問題が取り沙汰されるようになると、電子記録も印刷記録も直接的な破壊が必要とされる。最近も金融機関の個人情報保管の杜撰さが問題になっていたが、まさにそこで問題となる文書の細断に使われる機械はある企業がかなりのシェアを占めていると言われる。個人情報は当然のことながら家庭から出されるゴミの中にも含まれているから、最近は小型の家庭用のものまで売り出されており、さらに製造部門にかかる負担は大きくなっているようだ。シュレッダーと呼ばれる機械で有名になった企業だが、最近は製造のほとんどをOEMに頼っていると言われる。どの程度のことかは知らないが、それを担当しているある企業は増え続ける注文に応えることが難しくなっているほどらしい。不況とか停滞とか言われていても、伸び続ける業界、業種はあるもので、こんなところもその一つなのかもしれない。それにしても、情報を持つものが天下を取るかのごとく言われていると、何となく反発したくなるのも当り前なのではないか。とにかくやたらに勧誘の電話やメールが舞い込み、ところ構わず、相手構わず、さらにはなりふり構わず飛び込んでくる連中には辟易とする以外に反応はない。そのはずなのに、何故世の中にはこんなにそういうものに躍らされる人々がいるのか。自分に欲が無いとは思わないが、分相応な程度のものであり、その程度の判断くらいしているつもりだ。ひょっとすると騙されやすい人々はそういう判断がどこか欠けているのだろうかと思ったりするが、さてそんなことくらいでこれほどの被害が出るものかさっぱりわからない。

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7月14日(木)−道案内

 このところの改革騒ぎを眺めていると、将来の見通しとか、現実の直視とか、そんな言葉が並んでくる。将来は不確かなものであり、それを少しでも確実なものにするためには、まずそれを考えるための材料を集め、検討を重ねる必要があると言う。また、現実は目の前にあるのだから、それをきちんと見極め、問題点を引き出して、検討せよと言う。
 これらは何度も繰り返された文句だから、人によっては聞き飽きたと思っているだろう。聞き飽きているから無視するくらいならましなほうで、不確かなものの上に色々なことを検討しても無駄と反論する人もいるだろう。現実、現実と強調したとて、それを見極めるやり方は人それぞれに違い、結局正反対の結論が導き出されることが多い。にもかかわらずそれぞれの意見に対しては必ず現実という語句を付け足し、いかにも決定的なもののように振る舞わせることがある。意見を出す人々にとって、自分の意見の確かさを測る指標は現実性の有無だけなのだから仕方がないのだろう。ただ、それを受ける人々にとっては出す人々の現実ではなく、受ける自分の現実との兼ね合いの方がずっと大きい。それを無視して、自らの意見を強化するために誰のものかによる現実を引き合いに出されたのでは、どうにも受け入れがたいこともある。そんなやり方が将来の見通しにも適用されるわけで、結局何がしたいのかといえば、自分の尺度で測ったものを押しつけたいだけなのだろう。変な話に思えるが、こういうことは現実性を帯びれば帯びるほどある人々にとっては遠い存在になるのである。理想はある考えによれば一般化できるものだが、いかんせん現実味の薄いものが多い。そのために理想を論じる人々は目の前にあるものを見ていないとみなされる。実際にはそうとは限らないことも多く、目の前ではなくもっと広い領域に渡る現実を概観した形でのものを見てしまうから、それぞれ個々の人間が考えたり、見たりするものとの共通性が少なくなってしまう場合もある。このところの社会の動きを見ていると、必要性の重視が極度に大きくなっているために、一時的な必要に惑わされることが多くなっている。将来に渡ってということを考える場合にも同じような観点が使われるから、結局のところ局部的に適応できるものにしかならないことが多い。それを繰り返せば繰り返すほど、読みの甘さが露呈することが多くなり、それを克服するためにさらに必要性を深く検討するとなれば、どうにもならない道を歩むことになるだろう。しかし、今の状況を見ていると、どうもそんな道をとぼとぼと歩いているような気がしてくるのだ。確かに理想はあくまでも理想であり、現実化することはあり得ないのかもしれない。しかし、どうあるべきかを論じないまま、目の前の問題を解決しようとすれば、歩むべき道を見失ったまま彷徨することになる。意見に貴賎はないと思うが、直面する問題を解決するか否かを強調するあまり、更なる先を論じたり、根本的な解決に挑む意見を軽んじていたのでは何ともならなくなるだろう。何事も釣り合いが大事と思えば、目の前も先々も足下も全部それなりに大事となる。一つだけでも大変なのに、三つも四つもはと言う人々には無理なことだろうが、道を決める人はそんなことでは困るのではないか。

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7月13日(水)−分権

 地方の時代とか地方分権とか強調されるようになったのはいつ頃だったか。おそらくその頃首都移転が取り沙汰され、各地で手を上げる動きが出た。今となってはいつもの如くの空騒ぎというしかないのだが、まったく、最近はこれに限らず無駄な運動ばかりが目立つ。責任を果たすこともできず、他人に任せることもできないという風潮はいつ頃から定着してしまったのやら。
 経済が停滞していることが明確になり、それを打破するためには思いきった措置が必要と言われ始めた頃、突然のように地方が強調されるようになった気がする。それまで中央集中が当り前であり、明治以来そのやり方が最良とされてきたものが、成長が見られなくなった途端にその責任を他に向けようとしたことが遠因かもしれない。それにしてもあからさまな動きの割に各所に制限を加え、結局のところ責任だけを負わせる形にして関与する体制だけは残そうとしたとしか思えない。何処までも自分たちの存在を重視していると、他の価値は減ぜられてしまうことに気づかぬ人々なのだろう。いずれにしてもそんな環境下で手を上げる人々にもそれほどの意気はなかったのかもしれない。そんなこんなを繰り返しているうちに、地方移転という話も忘れ去られてしまった。金太郎飴のような存在を全国津々浦々に築こうとした動きは高度成長期には其処彼処で歓迎されていたが、結局目一杯作ってしまったら何の役にも立たないものだけが目立つことになった。今はその反省をするわけでもなく、それらのものに対して批判の声を荒げている人々も当時はその波に乗っていたのではないだろうか。地方が地方なりに生き延びるためには大きく分けて二つの方法があると言われてきた。一つは中央に媚を売って、おこぼれをいただく立場を築くことに腐心する。もう一つは地方独自の路線を築き、中央とは一線を画す形で進むという形だ。前者が没落していっただろうことは想像に難くないが、後者とてこういう時代に生き残ったとは一概に言えないところがある。政府関係とは直接的な結びつきが希薄で、どちらかと言えば企業が支える形で反映を築いていたある地域は、バブル崩壊後肝心の企業の不振が酷すぎて大波を避けることができなかった。結局政府が中央で実施した計画の企業を主体とした複写版を作るという独自性の無さが仇になり、転げ落ちていったように見える。その後注目された地域は政府の愚策を眺めるだけで真似をするわけでも反発するわけでもなく、独自の路線を邁進していたようだ。たまたま成功につながっただけで、それは経済状況の変化や社会体制の変化がそちら向きに好都合だったのだろうが、いずれにしても勝てば何とかである。中央の真似をすることが安全であり、危険回避の最善策と思われたのはずっと昔のことだが、今でもそういった考えは根強く残っている。分権をことさら強調するのであれば、あらゆる面で各地方単独に決定し、実行できる体制を整える必要があり、そのためには自分たちが引っ込む決断が権限集中する人々に必要不可欠である。にもかかわらずいつまでも首根っこを押さえようとする欲求がおさまらないのでは、どうにもならないことは確かだ。それぞれの地域にとっても同じことで、誰かの庇護を期待しているようでは無理である。さて、そこからさらに思いきった動きが出せるかどうか、期待は半分にも満たない気もするが。

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7月12日(火)−今昔

 集中豪雨の報せが入る。局地的と言われるだけあって、ある地域に限定されたものだ。旅行好きというわけではないから、行ったことの無い土地も多く、初めて聞く地名も多い。確かに見ず知らずには違いないのだが、それでもどこかで聞いたことのある地名の方が多かったような気がする。ところが最近その傾向が崩されているように思えるのだ。
 別に豪雨のニュースに限ったことではないが、小さな国土とは言え、全国的な話題に興味を持つ人が多い国では、まず全体に対するニュースが流されるようになっている。当然のことだが、地図の上でしか知らない土地の話題も多く、明るい話であればそれだけでその土地に興味を抱く場合もある。訪問したことのある場所なんてそんなに数多くあるわけではないから、ほとんどの土地は地図上やニュースの上でのお付き合いである。それでも何度も聞かされていれば覚えることもあって、都道府県名は当り前のことだが、市や町の名前も徐々に記憶に残るようになるのだ。そうやってせっかく築いてきたはずの知識が最近役に立たなくなりつつある。ラジオから流れてくる市名にまったく覚えが無いのだ。ニュースでは肝心の事柄を伝えることにほとんどの時間を費やすから市名の解説なぞ入るわけが無い。テレビであれば画面に示される市から大体の場所がわかるのだが、ラジオでは名前から連想するしかない。その肝心の名前に聞き覚えが無いからどうにもならないわけだ。聴視者からの便りであれば、少しだけ解説が入るからちょっと救われる。ちょっとというのは位置の話が紹介されるだけの場合、元の名前にまで話が及ばないことが多いからで、結局何処なのか判らなくなる。そんなことを気にするほうがおかしいと言われてしまえばその通りかも知れないが、そういう話題を含めて楽しんでいるのだから、どうにかして欲しい気もしてくる。ここまで読んできた人はもう既に気づいているとは思うが、ここで話題にしているのは市町村合併のことである。仕組みの変更を仕掛けることで、企業のリストラとは違った形の本来の意味でのリストラを強要された地方中小都市が、次々と合併再編を行い、見たことも聞いたこともない名前に変化することも多い。迷惑などと言っては関係者に失礼になるのだろうが、それにしてもこんなことが数年に渡って起きるということに対して歓迎する人は多くないのではないだろうか。確かに地図の変更が必要となりそれを出版しているところはこの機に乗じてある程度の収益を上げるかもしれない。しかしそれも一時的なものであり、さらには変更に継ぐ変更となれば対応することも難しくなるから、一概に歓迎するものではないのかもしれない。いずれにしても、何が何やら判らぬ間に次々に繰り出される変更策は、当事者が声高に訴えるほどの効果を産んでいるとはとても思えぬ代物である。その土地に暮らさぬ人々にとっては新しい名前が登場するたびに面倒な手順を頭に押しつけられた気持ちになるし、懐かしい名前が消えてしまうことに淋しさを抱くこともあるだろう。こんなことを言い出すこと自体、齢を重ねた弊害であると言われるかも知れないが、変えることだけが良いことと誰が決めたのか、それによって生じる弊害の方が老害よりも遥かに迷惑なものなのではないだろうか。公共的なものであればあるほどそういう手続きにかかる経費の問題は大きくなる。それを含めてもなお意味のあるものという主張が届いてくるわけでもない状況では、ただ不満と迷惑の感覚が出てくるだけなのではなかろうか。

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7月11日(月)−外食

 味覚は人それぞれに違う。持って生まれたものという場合もあるだろうが、その後の経験によるところも大きいようだ。特に乳児から幼児にかけての離乳食の時の味の経験が大きく影響すると言われている。確かに市販されている離乳食は大人にとっては誠に味気ないものであり、楽しく食べる気にはならない。基本としては楽し過ぎることは悪となるようだ。
 乳児が初めて離乳食を口にするとき無垢な状態であると思うのだが、子供によって反応はまちまちのようだ。よく考えれば流動食を与える前にもいろんな味を経験しているわけで、母乳の場合と人工乳の場合でも違うだろうし、その他の飲み物も親によって与え方が違うだろう。そうなれば既に嗜好がある程度できていて、極端に言えば好き嫌いが形成されている場合もあるのではないか。甘いものが好きとなるのはごく自然の成り行きと言われ、なるべくそういうものを与えないように注意すべきと育児書の多くは警告している。同様に塩味についても配慮すべきとするものが多く、この二つの味が将来の健康状態を決める要素であると訴えるものまである。確かに甘味は肥満に繋がる要素だろうし、塩味は高血圧に繋がると言われる。慣れればもっとというのが味を要求する行動に現れることらしく、そういう傾向ができてしまうと変えることが難しいとされる。そんなところから初めての経験では注意せよ、という結論が導き出されたのだろうが、それだけで十分とは言えないのが誘惑が溢れた世界の問題の一つだろう。子供たちの好きなものを挙げていくと、驚くべき傾向が現れるとよく言われる。つまり、大人で言えば不健康に繋がりそうな食べ物を総じて好むからである。中でもハンバーガーはその代表的なものだろう。脂ぎった挽肉の固まりをパンで挟んだだけのものでも、かなりのカロリーが含まれるだけでなく、動物脂肪という危険極まりないものが多く含まれる。活動が激しい子供たちにとっては大人ほどの悪影響はないと言われることもあるが、最近の子供たちの動向を見るかぎり、とても激しいなどとは言えない状況に陥っているから、大人と同様の影響があると考えるべきかもしれない。それにも増してフレンチフライなどの揚物が一緒についてきたり、味付けにマヨネーズを使ったりするわけだから、健康に良いとは言い難いものとなってしまう。海の向こうでも問題視する動きはずっとあって、特に子供たちに人気のあるチェーン店のものについてはいろんな警告が発せられている。しかし、その効果のほどは大したことが無いようだ。それよりも、健康に良い食材を使用していることが度々伝えられたり、頻度からすれば大したことが無いと訴えられたり、とにかく健康第一主義の国において、その点には抜かりが無いように見える。いずれにしても、これから十年か二十年もすれば、そんな食生活で育った世代が全体を占めるようになるから、どんなことが起きるのかは徐々に見えてくるだろう。実際には戦後の食生活の激変から起きたことについて既に知られている部分も多いわけで、そこから想像すれば大体のことは予想できそうな気がする。にもかかわらず、外食産業に対する好みにはほとんど変化が見られない。子供に好かれる味の追求が完璧なせいなのか、はたまた別の要素があるのか、いずれにしても早晩知られることになるのだろう。

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