パンチの独り言

(2005年7月18日〜7月24日)
(水辺、仲間、潜伏、良書、返金、制度、競争的)



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7月24日(日)−競争的

 安定した社会ではとんでもないことは起こらないという仮定があるようだ。だから決まりきったことをいかに効率よくこなすかが問題にされたり、同程度のサービスをいかに安価で提供するかが問題となる。従来では考えられなかったことを提供するのであれば、従来と同じ尺度での価格設定ができないから、高いとか安いという感覚は出てこないが、当たり前のものであればあるほどその感覚が強くなる。
 ということだろうか、世の中にあるほとんどのことは当たり前だから、そこにサービスの向上と価格の低下が要求される。公的なものだと何かと制限がかかるから、私的なものへ転向させて制限を外そうという動きがある。いわゆる民営化がその一つなわけだが、このところの動きを見ていると謳い文句にあったような展開とはほど遠い状況になりつつあるようだ。確かに、官から民への転換は効率化やら何やらを考える上で重要な因子であろうが、看板を変えたらすぐに大転換が起こるわけではない。制度の問題だから制度を変えればと考えたのだろうが、それによって変わる部分もあればそうでないところもあり、場合によっては意図していたところは変わらず、変えてはいけないところばかりが悪化してしまうこともある。公的なものを民間に移管する場合にも、効率化を図る為という主張とともに、競争の重要性を説く人々がいるが、これとてそろそろ綻びが見え始めていると言っていいのではないだろうか。確かに見かけでは競争が実施されているように見えるが、実際には名ばかりのものであったり、場合によっては出来レースなどと称されることも多い。はじめから結果を決めているのに、競争の実施を強制されて、無理矢理対抗馬を出すなどという話もあるくらいだ。そこまで極端にいかないまでも、競争という名の下に候補となりうる構成員に対して提案の提出を迫り、結果としては予想通りになってしまう場合には、落とされた提案の意味は何だったのかさっぱりわからなくなる。競争という限りは提案そのものの質を吟味して、その上で決定されるべきであり、予想通りとなること自体、競争とは言えないことになる。本来の実力の差だから、という話を聞く度に、それなら競争を実施する意味はどこにあるのかと思えるのだ。それに勝ち抜ける実力をつければ競争の意味が出てくるという話も、それが表に現れなければ何にもならない。こんな競争を続けていると、馬鹿げた行事が増えるばかりで何にもならないことになるのではないか。民営化については、別の見方からおかしなところが指摘されていて、元々独占的なものであれば民営化の意味は出るだろうが、競争的なものに関わる公的な機関が民間と同等になることは危険であるという考えもある。競争の意味も問題となるが、それを実施することの意味も大きな問題となりうるのだ。効率的とか競争的とか、謳い文句ばかりで何も有益なものを産み出さないのであれば、有害なものと言わざるを得ないのではなかろうか。

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7月23日(土)−制度

 誰にでも同等のチャンスを与えねばならない。こんな話をどこかで聞いたことは無いだろうか。チャンスとは機会のことであり、それを使って表現すれば、誰にでも同等の機会を与える、つまり機会均等ということになる。先入観である人々を区別したり、性別によって区別したり、いろんな区別が行われているが、本人の資質を見ることなしに判断してはいけないということなのだろう。
 これが本格的に議論され始めたのはおそらく女性の社会進出が目立ち始めた頃であり、当時の状況から理不尽な差別が行われていたことが推測できる。人間の才能は男女によって明らかな差はないはずであり、個人差と思われる部分を確認することなく選別をしてはいけないというところが基盤となっているはずだが、こういう話はいつものことだが基本理念として大切だとしてもその運用の仕方によって間違った方向に進められてしまうことが多いのが欠点だろう。機会均等を強く主張してきた男女差についても、資質や才能という点での差を際立たせるものがないとはいえ、一方で肉体的な差は歴然とある。全く同じことをやれると主張してしまったのでは無理な部分もあり、それによって弊害が生じる場合もあるようだ。その為に、入り口での支援だけでは不十分であり、その後の支援についても整えていかねばならないとしたのが、共同参画といった制度の導入の理由なのかもしれない。いずれにしても、全体の整備が進められた上で、実際に個人差をどう判断するか、そこに性別による差がどんな影響を与えるのか、見定めていく必要があるだろう。制度化することによる弊害はいくつもあるのだが、一番大きなものは逆の制限をかけるものであり、制度という名の下に行動範囲を狭める方向に社会全体が動くことだろう。制度としてあるのだからそれで十分という話は色々なところで聞かれることだが、それが必ずしも十分に整備されたものでない場合にはかえって逆効果を産むこともある。これについては実例を知っているわけではないが、何となくそんな雰囲気の話は聞こえてきて、制度で決まっているからという一言が決め手になることもあるようだ。もう一つ整備による弊害として考えられるのは、成果を上げねばならないという命題だろう。確かに新しい制度が制定されれば、当然その効果が現れるはずで、期待されるのはプラスの効果である。しかし、例の数が少なすぎたり、想定とは異なることが多い場合、期待通りの結果が得られないことがある。更にはプラスよりもマイナスを強調する風潮があるから、少々プラス要素が多くても大して評価されない場合が多い。長い目で見ることも大切だが、客観的な評価を心がけることも重要なのだ。この話は何もこういった問題に限るものではなく、おそらく社会現象全てに当てはまることなのだろう。拙速な対応に終始したり、見かけの効果に目を奪われているようでは、目的を果たすことなど不可能になる。機会均等に限らず、どんなものについてもその辺りの事情を考えながら対処し、見守ることが肝要なのだ。

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7月22日(金)−返金

 雷が鳴ると心配になる。自分のところに落ちるとは思わないが、変電設備に落雷があれば停電するからだ。急な停電でパソコンが壊れたという話は少なくなったとはいえ、何が起こるかわからない。ましてやひょっとして近くに落ちたときには、と考えると恐ろしくなる。電源から外してしまえばいいだけなのだが、外に出ているときには何ともならない。
 雷に敏感なのは、何もパソコンに限ったものではない。最近の電化製品にはほとんどパソコンと同様の部品が使われているから、何かあれば同じことが起きる。ほとんどの場合は過電圧や過電流が流れないような仕組みがあるだろうから問題はないだろうが、故障してしまったら面倒なことになるわけだから何とかしておきたくなる人もいるだろう。先日のかなり酷い雷の時もそんなことが起きたようで、メールサーバーが落ちてしまったりしていた。これは単純に停電によるものであり、機械が壊れてしまったわけではないから被害はなかった。ただ同じ日に、それとはまったく違うところでちょっとした被害が出ていたようで、自分も含めて困った人がいたようだ。この国ではいろんな機械が普及しており、道端に置かれた自動販売機は外国ではほとんど見かけないものの一つだ。ちょっと違うが、大型の洗濯機や乾燥機が置かれているのもあまり見かけたことがない。おそらく一部屋だけの賃貸住宅が普及してからだろうか、町の其処彼処に見かけるようになった。その一つを時々利用しているが、酷い雷の翌日、利用しようとしたらできなかった。いつものように洗濯機の蓋を開けたとき、ちょっとした異常に気づいた。洗濯槽に洗剤が入っていたのだ。まず洗剤を流してからと思って、硬貨を投入したがうんともすんとも機械が動いてくれない。はたと気がついて乾燥機の様子を見たら、いつも点灯している営業中のランプが消えていたのである。つまり、全部の機械が故障してしまったか、あるいは電源が落ちていたか、どちらかで作動しなかったというわけだ。仕方がないので管理会社に連絡して、投入金額やこちらの連絡先を伝えたが、当然何も期待していなかった。その日の午後には何事もなかったかの如く営業していたので、そのまま使ったけれどもそれっきりと思っていた。ところが先日見知らぬ送り主からの郵便が届き、中から紙に留められた百円硬貨三枚が出てきた。管理会社が、投入金額だけでなく、電話代と称したものを送ってきたのだ。ちょっと驚いたけれども、中々良い話なのではと思って、ここに書くことにしたわけだ。時々利用するとは言っても、管理する人と出会ったのは一度きり、ましてや会社として付きあったこともない。にもかかわらず、こういう対処をきちんとするところもあるのかと、びっくりすると同時に気持ち良くなったわけである。世知辛い世の中というけれど、こんなこともまだ起こるわけだ。お金が絡んだからというわけではなく、こんな気持ちと気持ちの交換ができると、何でもすんなり進むのにと思うのは、現代では甘い考えとされてしまうのだろうか。

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7月21日(木)−良書

 今月の読書のペースはかなり速い。暇というわけでもなかろうに、と我ながら思うが、記録上はそうなっている。確かにこれまでひと月以上付きあってきたものが中にあり、今月読んだとは言えないものもある。しかし、いつかどこかで記録に残しておかねばならないから、それが重なるといかにも凄い読書量という結果が出てきてしまうわけだ。
 それでも最近読む本の多くは文庫や新書である。持ち運びに便利だし、量も適当な場合が多いからだ。中には単行本として出版されたものを文庫化する場合もあるようだが、それはどうもと思うことが多い。そういう期待を持ってしまうと旬を逃してしまいそうな気がするのだ。本当に良い本はいつの時代にも読まれるものという話を色々なところで聞いたことがあるが、必ずしも当てはまらないと思っている。つまり話題の対象によってはその時代にしか通じないものもあり、時代が変わってしまうとはてさてといった印象しか浮かばないからだ。確かにどんな時代背景にも溶け込んでいける秀作もあるのだろうが、それだけが良い本であるとは言えないと思う。少なくともその時代時代に伝えるべきことがあり、それを多くの人に上手に伝えることができればそれを良書と呼んでいいのではないだろうか。こんなことを書いてはいるものの、そういう本に出合うことが少なくなっている。特にその傾向が著しいのは、持ち運びに便利ということで読む機会の多い新書なのではなかろうか。これには幾つか間接的な理由がある。一つは新書の数がやたらに増えていることである。どの出版社も挙って新書を発刊し、以前は二つ三つしかなかった新書の棚が今やかなりの数に上っている。その時代の流れに則した良い内容を身近に感じられるようにといった意図で新書が作られた時代は遠い昔で、今や売りやすいからという本の内容やその質とはまったく関係のない理由で次々に発行されるようになっているわけだ。こんな状況でなるほどと思える本が出てくるはずもなく、それこそ時代のニーズに応えてという謳い文句が飛び出てきそうな状況で、ほとんど同じタイトルの本が同時に複数の出版社から出されるという事態になるわけだから、飛んでもない時代と言うべきなのだろう。つまり、まずは人の目を引くことが大切であり、内容は二の次ということである。さらには、これは以前から用いられた手法だが、新書の場合前半部分の読みやすさが購買意欲に大きく影響するという。その峠さえ越えれば、こちらのものといった感覚なのだろう。だから後半は著者の放言のみとなり、読むに値しないものとなることが多い。ただしこれは以前からの傾向であり、最近始まったものではない。最近の傾向としてさらに悪い方向に向っているのは、前半部分でさえ読みやすくする努力がなされていないことだろう。おそらく編集者の資質や考え方の問題なのだろうが、編集方針だけでなく、文章の質を含めた本を作る作業における重要な事柄の多くが抜け落ちているように思える代物が世の中に溢れているのだ。買い手が選ぶ時代などと身勝手な言い草を放つ業界人は退場してもらうとして、ただでさえ売れ行きが冴えない出版業界がこんなやり方を続けているようでは、離れた顧客は戻ってきそうにもない。そんなものは図書館に買わせてしまえという考えが出てくるほどの意識が低下しているのである。もっと手をかければいいと思うが、薄利多売を心掛ける以上、無理な話となるのだろう。さて、どうなることやら。

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7月20日(水)−潜伏

 石綿の話題が大きく取り上げられている。使用を中止されたのに何を今更と思うのは早計なようで、とっくの昔と思っていたのが、部分的な禁止ばかりでついこの間まで継続していたとのこと。さらには既に使われているところについても、除去作業が順調には進んでいない状況にあったとのこと。ちょっと驚かされた話だが、毎度の事と言えなくもない。
 ただ、こういうことが起こるたびに大々的に取り上げて、ある意味感情的に思えるほどの意見が出されるのを見ていると、情報の伝達が相も変わらず酷い状態にあると思えてくる。こんな状況は一部の報道機関に限られたものであるとする向きもあるが、逆に冷静な取り上げ方をしているのはほんの一部であり、多くはある一面だけを捉えていることに過ぎないことを認識すべきではなかろうか。確かに危険性が訴えられたのは70年代であり、ほとんどの人たちにとって遠い昔と思える時期である。その後の対応の拙さが指摘されるのもここまでの流れを見るかぎり当然のことだろう。しかし、同時に流れてくる潜伏期の長さとここまでの時間の経過をじっくりと論じる向きは少ないように思える。患者の数、死者の数、そういったものを使うことで世論を煽り、さらには時限爆弾のような病気の性質を声高に訴えることで恐怖心を煽る。相も変わらずそんな台本が書かれているのかと思えるが、こちらの見方がずれているのだろうか。確かに、場合によっては50年近くもの潜伏期があると言われる病気だから、今後患者の数も増え続けるという見方もできるだろうが、今のところ未知数であるとしか言い様がない。にもかかわらず、それがあたかも確定しているかの如くの伝え方には少々辟易としてくる。被害に遭った人、その可能性がある人、さらには製造施設だけでなく、石綿を使用した施設の現状などを訴えることは確かに意味のあることだろう。しかし、その手法にはどこか疑わしいものを抱いてしまう。とにかく、行政の問題はかなり大きなものであろうし、それについての批判は今後の対策も含めて大いに議論されるべきだろう。ただし、そこでの様々な問題の扱い方には感情論に基づくものではなく、冷静な対応が必要と思う。多くの使用施設では現在解体作業が進んでいるところもある。それらのものについてどんな対策がとられているのかをきちんと伝えて欲しいし、また一方でそれらの施設を利用した人々に対してどんな影響が考えられるかにも触れて欲しい。疫学的な調査が十分になされているとは言えないが、工場従事者だけでなく周辺住民にまで被害が広がっていることを考えると、今まで想定されていたような程度の被曝よりも遥かに低い値を考えるべきか、あるいは想定以上の粒子が飛散することを仮定しなければならないのかもしれない。色々な要素が考えられるにも関わらず、一般の報道ではそういう点の議論はほとんどなされない。確かに感情に訴えたほうが効果は大きいだろうし、注目される。そうやることで、あとの作業がやりやすくなると考える人もいるだろうが、逆にやりにくくすることもあるのだ。それをきちんと正確にすることを任務とする機関があり、そこがちゃんと仕事をすればいいわけだが、それを妨げるような動きがあってはいけない。驚くばかりでなく、冷静な目で見ることも大切だろう。

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7月19日(火)−仲間

 調子の良い時も悪い時も何となく仲間を求めてしまうのが人間かもしれない。孤独が好きという人も中にはいるが、結局は人を認め、人に認められることを好む人が多いのが現状のようだ。それでも順風満帆に人生を歩んでいるときであれば、あまり気にかけずに過ごすこともできるが、少しでも気になることが出てくるといっぺんに気が変わる。
 それではあまりにも身勝手なやり方ではないかと指摘する向きもあるだろうが、自分にも覚えがあるのではないだろうか。これまで浮き沈み無く過ごしてきた人にはそんな経験はないだろうが、少しずつ年月を重ねていくと徐々に振れ幅が大きくなってくるものである。何とも感じずに済んでいるうちはまったく何とも無いが、振れが大きくなるにつれて不安も大きくなり、それに耐えきれなくなると何らかの行動に出るようだ。それが自分の中に閉じこもる方向に向えば、流行りと言っては語弊があるが、いわゆる「鬱」の状態に陥る。それに対して外向きに向えば仲間に助けを求めることになるのだろう。助けを求めると言ってもそのものずばりの行動をするとは限らない。まずは仲間と呼べる相手を見つけ出し、少し話をしてみる。うまく話が合うのならばそのまま付きあっておけばいいし、そうでなければ次の相手を探せばいい。それの繰り返しとなるのだろうが、こういう場合には大抵同年代に関心が向くようである。そんな時にちょっとしたきっかけになってくれるのは同窓会なのではないだろうか。同年代そのもので、ある時期の生活において共有する部分が大きく、その割に現状では関係の薄い立場にある者同士ではそういった話を気楽にすることができる。男性同士、女性同士という面も色々と利点があるだろうが、異性の間でも話は通じるものだろう。自分の配偶者に対して興味を失った人々には当てはまらないのかも知れないが、少しでも配慮するところがあれば比較することで様々な考えを出せる。それはそれで色々な意味で有用となる助言に繋がる場合もあるし、自分の生活へのフィードバックにもなるだろう。そんな有用性ばかりを考えながら話相手を務めるのは馬鹿らしいことだが、まずは他愛もない話に付きあうことがお互いのためとでも思うことが肝心なのかもしれない。人それぞれに抱える問題は違っていても、理解できる部分はある程度あるだろうし、相槌を打つだけでなく何かを返すことくらいはできそうに思える。話を聞いて欲しいだけの人だって、ちょっとくらい反応があったほうが良いこともあるわけで、見ず知らずとまでは行かないが、とにかく現状では遠い存在の人とそういう関わりを持つことは良いことなのかもしれないのだ。昔懐かしい存在と久し振りに対面してさて何を思うのか、人それぞれなのだろうが、そういう場に出てくること自体何か思うところがあるからだろう。よく言われるのは、そういう学校を卒業した後十年ほどの間は何の役にも立たないと思ってきた会に対して、ある時期から何となくその意義を感じるようになり、それがついには楽しみになるということだ。実際に自分がどの段階にあるのかは判らないが、とにかく周りを見るかぎりそういう変遷をたどる場合が多いと聞く。すぐ近くに仲間がいるうちは良いけれども、それが難しくなったときに昔の仲間が大切になるのだと。と言っても結局のところ自ら積極的に動かないといけないから、それが面倒になったり、そんな暇など無いと考える人々にとっては無理なのかも知れないが。

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7月18日(月)−水辺

 そろそろ本格的な夏になってきた。何処にいても気温で判るとは言うものの、やはり実感できるのは水辺に行ったときではないだろうか。海水浴は昔から夏の風物詩だったが、最近はそれとは違う川での活動が盛んになっているように思える。一時期流行したウインドサーフィンなるものは姿を消してしまったが、その代わりに登場したのが水上バイクだろうか。
 正式な名称は知らないが、海水浴場での使用が禁止されているためもあってか、特に川で目立つ存在になっている。さすがに岩に当たったり、そこを擦ったりしてはいけないからだろう、川幅の広いところでよく見かける。そういうところは大体が泳ぐには深すぎる広すぎるといった感じで、彼らの遊びにピッタリのところのようだ。モーターボートもよく見るが、それよりも手軽に遊べるせいか、最近は数がどんどん増えているように思える。それとともに目立つようになっているのが事故の数で、互いに衝突したとか、たまたま泳いでいた人を引っかけたとか、結局のところ陸の上で起きるのと同じような形態のものが多い。ただ、免許の関係や、一般の人々の認識の違いなどから、車による事故よりも率は格段に高いのではないだろうか。なんだかんだと言っても、自動車の免許を取得するためには何日も教習所に通わねばならず、かなりの訓練の末に交付されるから下手といってもそれなりである。それに対して、その他の免許の関係のものは特に水上のものがそうなのかも知れないが、大した訓練も必要とせず、教科試験だけで十分というものも少なくない。操作が簡単になっていることは認めるが、だからと言って誰でも大丈夫というわけでもないし、所詮は機械のやることだから人を傷つける場合はありうるものだ。にもかかわらず、操作する側にそういう認識が無ければ事故を未然に防ぐことは不可能となるだろう。節度をもって遊んでいる人たちには失礼な言い方かも知れないが、事故を起こしたときの影響を考えれば、もう少し真剣に取り組まないと危ないことだけは確かなようだ。その上、気を失っても呼吸ができる陸の上と違って、水の上ではちょっとしたことで死に繋がるのである。遊ぶ側に認識が無ければならないのは当り前だが、それ以上にその周囲にいる人々に注意が必要だろう。そうでなければ簡単に被害者になってしまうだけでなく、その被害の程度が極度になることが多いからだ。橋の上から眺めるかぎり、水の中で涼しげに走る人々を見ていると羨ましい気も起こってくるが、実際にやりたいと思うところまではこない。何故だか判らないが、どうもああいったものに興味を抱けないのだろう。ちょっと違うが、たとえばカヌーについても同じような感覚を持っている。こちらは人を傷つけることはまず無いが、自分自身が危ない目に遭う可能性はかなりある。結局、水の上でやることが恐怖に繋がっているのではないかと思うが、それを克服して頑張ろうという気もない。人それぞれに遊び方が色々とあっていいのだろうから、ちょっと足や手を突っ込むだけで十分と思っているのかもしれない。

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