パンチの独り言

(2005年7月25日〜7月31日)
(伝達、毎日、釣り、快適、監視、差異、批判)



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7月31日(日)−批判

 評論を読んだり、聞いたりすると、他の人々の意見の批判に終始するのに嫌気がさすことがある。確かに、問題点を指摘することは重要だし、他の評論家にはない批判点というものもあるのだろう。しかし、もしそれが批判だけで終わってしまったのでは、そこから得られるものはほとんど無くなる。批判したうえで何かしらの方向性を示すのなら別だが。
 最近、評論家というより、批判家と読んだほうがいいような人々が公共の電波や一般書籍に顔を出すようになっている。小気味よい批判は気持ちがすっとするからと歓迎する向きもあるようだが、そういう輩を両手を上げて歓迎する気にはなれない。一つには前進のための批判はほとんど無く、後退のためのものが非常に多いこと、もう一つには批判ばかりでそこから新たに提案を産みだす雰囲気の無いことがほとんどということがある。どちらにしても見せ物には格好のものであるから、本にしても番組にしても、それなりの人気を博す。しかし、あまりに安易にそんなものばかりを量産しているものだから、すぐに底が知れてしまい、何とも浅薄なものが並ぶ結果になり始めている。まだまだ、市場に開拓の余地はあるのだろうから、批判家たちは手を変え品を替え、矛先を変えて、批判を繰り返す。早晩材料が尽きるはずと思う向きもあるようだが、彼らにとっての生贄は無くなることがないように見える。結局日々刻々変化する情勢において、話題の対象は次々と変わるわけだし、飽きっぽい人々にとってはその方が好ましいわけだ。受け手がそんな状態でいるから、送り手である批判家とそれを使う人々は造作もなく作り続けることができる。こういうものはある限界点まで到達しないとどうにもならないもののようで、そうなって初めて気がつく人々が多いから、今このときに警鐘を鳴らしたとて効果は期待できない。それにしてもなぜ批判はああも安易に繰り返せるものなのだろうか。誰の意見でも、誰の行動でも、何処から観ても完璧などという代物はないだろう。何処かしらに欠点をもったり、舌足らずの表現があり、そこが攻撃のための標的を供給することとなる。批判をする側に立てばすぐにわかるが、欠陥があるように見えてしまえば、あとは簡単な作業となる。その部分を徹底的に否定すればいいだけなのだ。ここで下手に代替策を提案しないことが重要で、批判に終始しておけば、その次にくるかもしれない自分への批判もかわすことができる。数学の証明や物理の理論のように一つたりとも例外を残さないことが必要不可欠なものと違って、一般社会で論じられる話は何処かしらに例外があり、間違いとなりうるところがある。それは百も承知の上で、自らの論を展開し、何かしらの提案をすることが事を進める人々にとって重要なことであり、幹となる部分がしっかりしていれば、瑣末な枝葉には目をつむるといったやり方が普通なのだ。ところが批判する人々はそこを突いてくる。これでは本筋から外れてしまうと思う人々はそういう形式をとらないが、批判のみを生業とする人々にとって本筋なぞどうでもいいのである。また彼らを支持する人々にとっても、それらの提案が実を結ぶかどうかなんぞは重要ではないのだ。そう考えてくると、結局何が必要となるのか少し見えてくるように思う。批判家を重用するのではなく、提案も含めた形の批判をする評論家を引っ張る必要があるのだ。たとえ彼らの論が複雑で、理解しにくいところがあるとしても、提案に繋がる論理展開をもっと重視すべきだろう。

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7月30日(土)−差異

 昔はこうだったとか、今はここが変だとか、そんな話が書かれるたびに、何を今更と思いながら読む人もいるだろう。昔は昔、今は今、変わってしまったものは仕方がない。そんな諦めに似た思いを持ちながら、目の前で展開される奇妙きてれつな出来事やテレビに映される珍妙な事件を傍観することになる。どこか別の国の話のように放心したままで。
 変だと思う心を失ってしまうと危ないと言われる。危険を察知するのは、いつもと違うところや理屈に合わないところを見つけ出す力によっているからだろう。この力は迫り来る危険という大袈裟なものだけに適用されるのではなく、普段の取るに足らないものからとても重要なものまですべてに区別なく適用される。そうでなければ、そこに潜んでいる危険性を察知することなど不可能だからだ。取り扱い説明書的な生活に慣れた人々はそういう習慣をもたないようだ。まず可能なかぎりの場合わけをして、その中に候補となるものを見つけ、それぞれに対処法を作っておく。そんなやり方が一般化しているような気がするが、これが役に立たないのは災害が起きたときの対応を見てみるとよくわかる。想定というのは所詮大した経験もない人々が考えるものであるから、足りない部分ばかりなのだ。そんな不備に溢れた説明書を絶対的なものとして奉っていたとしても、現実はそんなに単純には展開しない。結局想定外のことばかりが重なり、その度に対応策を新たに考えなければならない。それを数回繰り返すと、もう事前に用意された対策本は無用のものとなる。まさに役立たずとなるからだ。それよりも、自分自身の目で見て、自分自身の頭で判断することの方が、よほど的確な対応ができることに気がつき、事前の対策は一体何だったのかと思える。所詮はそんなもの、と言ってしまえばあまりに簡単だが、ほとんどがそんなものなのだと思う。では、事前にできることは何だろうか。一つは自分の目と耳で情報を集め、自分なりの判断をしてみることだろう。これを習慣化しておけば、何を見ても変わったところを見つけようとするだろうし、そこに予想される原因やら結果やらを見出せるようになる。下らないことだろうが、大切なことだろうが、まず常にそんな態度で臨むことが重要なのではないだろうか。たとえば、流行の服装についても、人それぞれに思うところがあるはずである。どうせ自分は遅れているからと無視したとしても、何かしら気になるところはあるものだ。若い人たちのだらけた雰囲気の服を見ていると何故だろうかと思うが、彼らにとっては重要な身支度なのだ。年齢の違いといった感覚だけでなく、人それぞれに思うところの違いという面の方が大きく、たとえばずり下ろしたズボンなど学生時代から賛否両論があった。今や女性にまでそんな姿をさらす人が出ているようで、みっともないと思ってしまうが、本人はいたってお気に入りなのだろう。日常生活や仕事の上で、こんなものを見つけても何の役にも立たない。しかし、おやっと思う気持ちを持っていると、こんなところにまで目がいってしまうのである。あんなに不格好で、歩きにくいのに、何を好きこのんでやるのだろうと言ってしまっては身も蓋もないが、流行とはそんなものに違いない。わかる人にわかってもらえばそれでいい、そんな気持ちが時代の流れとともに強くなっているから、さらに変なものが出てくるのだろうが。

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7月29日(金)−監視

 欧州の大都市での爆破テロは、ある地域のものと比べるとかなり近い存在のように思えるらしい。かたや毎日のように起きていても、どこか別世界の出来事のように感じられ、報じられるのに対し、身近に感じる地域の事件はたまに起きても、すぐそこにあるように感じられる。まったく身勝手な考え方と思ったりするが、まずは自分の周囲からと思えば当り前か。
 911と名付けられた事件が起きてから、その国でのテロは発生していないようだが、海を挟んだ向こう側では幾つかの国で列車が絡む事件が発生した。テロを組織している集団が潜伏していると言われる国との距離が近いせいもあるのだろうが、元々国内問題で揺れている部分もあり、取締が十分であったとは言い難い面もありそうだ。事件後の解決に向けての動きもそれぞれに違っているようで、西班牙でのものは犯人を追いつめるところまでいったが、自爆してしまったようだし、英吉利はまだ捜査継続中だからはっきりしたことは分からないが、爆破自体は自爆によるものと報じられている。特に後者においてその後の展開に興味が持たれているようで、不特定多数を対象とした取締方法として導入された映像による監視の有効性がその対象となっている。導入によって犯罪件数は激減したと言われているが、今回のような極端な犯罪の場合抑止力が期待したほどでもないという意見が出てきた。確かに、911の際にも議論の対象になったが、自らの命を絶つという行為が含まれる場合、事件後の対応に役立つ手法は犯人の心に大した影響を与えないのかもしれない。倫敦での事件の一年ほど前からだろうか、この国でも列車内の放送で注意を喚起したり、駅構内の雰囲気に変化が見られた。直接的にテロの危険性を呼びかけているものではないが、持ち主不明の荷物に触れた放送はまさに爆破テロを想定したものに聞こえる。しかし、平和惚けしていると言われる人々にはこういうものは何の効果もないのではないだろうか。放送にしろ、掲示にしろ、一方的に流されるだけで、誰も聞いていない、見ていない状態にあるような気がする。駅構内に立っている警備員、ひょっとしたら警察官なのかも知れないが、彼らの姿もどれほどの効果を産むものなのか、疑わしくなってくる。昔から、犯罪者の心に響くようなことをするのが犯罪防止に役立つと言われてきたが、最近の傾向を見るかぎり、そんなに効果的なことが行われているようには思えない。映像監視についても、ある地域で効果を上げたと言われるが、愉快犯に対する効果と凶悪犯に対する効果とはその程度が違うように思える。更なる導入が検討されていると聞くが、元々住民がお互いに注意するという行為が効果を上げていたのに、それが様々な事情から行われなくなり、ついには他人に頼るどころか機械に頼らねばならなくなったわけだ。それでも安全な生活ができればという意見も出てくるだろうが、自分たちの関わりなしにいいとこ取りをしようとするのはどうかと思う。金で解決する方向に向うことも含めて、どうも進む方向を取り違えているように思えるのだが。

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7月28日(木)−快適

 毎年必ずやって来る夏休みに今年も入った。子供たちが朝、袋を抱えて歩いているのはたぶんプールがあるからだろう。基本的なことは昔と大きく変わっているとは思わないが、蝉を採りに出かける姿を見かけないとか、暑い最中に外で遊んでいる子供たちがほとんどいないとか、学校行事とは違う部分に大きな違いが現れているように思う。
 冷房設備が無かった時代には家の中にいようが、外に出ようが、大した違いは無かった。子供だから暑さに強いというわけでもなく、昼寝を習慣とする子供もいたような気もするが、朝から夕方まで虫を追いかけていた子供もいた。何かに夢中になると時間が経つのも忘れ、暗くなって来て初めて昼ご飯を食べていないことに気づくこともあった。不思議なのは水筒を持ち歩いていたわけでもないのに、今のように熱中症になることもなかったし、当時よく言われた日射病になる子供もほとんど見かけなかった。麦わら帽子をかぶって鎮守の森やら公園の中をうろうろしていたのだろうが、さて水を頻繁に飲んでいたのか思い出せない。昔の子供は強かったと言ってしまえばそれまでなのだろうが、そんなに基礎体力に差があったのだろうか。少なくとも体格に関しては今の子供たちの方が遥かに大きくなっている。だからといって暑さ寒さに強いかといえばそうではないのだろう。普段から極端な暑さ寒さを避けるような生活をしていれば、身体はそちらの方に馴らされてしまって、急激な変化に適応できなくなる。身体に優しい生活をすることが、結局こういう状況を招いているのだろうが、一度そうなってしまうとそう簡単にそのやり方を止めることもできない。そんな状況が次々と重なり、現在の状況を産みだしたのだろうか。こんな状況から生まれるものであれば、育った時代の違いがもう少しはっきりと現れてもよさそうな気がするが、熱中症に陥る人の数は世代によって違わないようだ。かえって予防策を講じられるかどうかの違いが出ているようで、予備知識を持ち合わせていない世代の方が酷い目に遭わされているというべきなのかもしれない。それにしても人間の身体というのはいとも簡単に馴らされるもののようだ。空調設備があらゆるところに整備され、何処へ行っても涼しい思いができるようになると、そうなっていないところには居続けられない。すぐにどこか快適なところへ逃げ出そうとする。そうやって不快なところを避けるのが日常化してくれば、やはり急激な変化に対応できなくなっても仕方ないのだろう。日常的に外での生活を余儀なくされている人々はそれなりの準備をしているが、そうでない人は心も身体も準備不足となっている。そんなところに気温の上昇が襲ってくれば、ひとたまりも無いわけだ。昔の人々がよくやっていたやせ我慢も、今の時代には到底無理なものとなっていて、さっさと諦めたほうが良いと言われる。まあこんな調子では、子供たちにあれこれと注文しても、効果は期待できないに違いない。快さというのはなんと魅力的なものなのか、こんなところからもわかるのだが、さてこのまま行くとどうなるのか空恐ろしい気がしてくる。

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7月27日(水)−釣り

 言葉というものは時代とともに変化をすると言われる。都会の一部で流行っているかの如く伝えられるへんてこな若者言葉は別にして、きちんと市民権を得た言葉もちょっと前までは驚きの態度で迎えられていた。総じて若い世代から始まるとのことだが、最近はその流行に後れまじとする主体性のない世代にも受け入れられているようだ。乱れは所詮乱れに思えるが。
 言葉の変化の中で、まったく新しい言葉というのも困りものだが、同じ言葉で意味が変わる場合の方がもっと困る。意志疎通において、すれ違いが増えてくるからだ。特に話し言葉による意志疎通では、時間の経過がそこに存在するから、うっかりすると意味不明のまま話がどんどん先に進むことがある。互いに話が通じないことに気づいた頃には、かなり先まで進んでいて徒労に終わった時間を惜しむことになる。新しい意味に新しい言葉を当てはめる努力をすれば良いのかもしれないが、そんなに次々に適当なものが見つかるわけではない。そういったときに、似て非なる言葉の用法が登場することとなる。そっくりならばどうということもないが、そうなっていないから誤解を招くことになり、おかしな展開に陥るわけだ。最近いろんな場合が報告されている詐欺事件についても、オレオレなどといった新しい言葉が登場するだけでなく、フィッシングなるごく当り前に使われてきた言葉も流用されている。魚釣りという意味で一般に使われてきたのだが、その時はたぶんフィのところにアクセントがあったように思う。それに対して詐欺の態様を表す用法ではシのところにアクセントを置くようだ。といっても、こういう話し言葉のおかしなアクセントは若者を起源とするもので、何かを区別するために変化を持たせたのかもしれない。とにかくそんな言葉が使われるようになり、インターネットによる振り込みなどのサービスをしている銀行口座の番号とパスワードを不正な方法で入手する事件が頻繁に起きている。先日送られてきたメールはある銀行とe-Bayというシステムに関するものだったが、どちらも緊急を要するような内容で、まるでその企業のホームページのようなサイトへアクセスさせ、そこでデータ入力を促すものだった。注意の足らない人々にとってはこういう煽りが有効らしく、被害が増えているという。しかし、少し注意すれば本来のホームページとはまったく異なる所へ導かれていることはすぐにわかるし、元々こんなことをするはずがないという常識も通用する。便利なものを利用すれば同時に危険が伴うという考えが微塵もないのだろうかと、ちょっと呆れてしまうが心理操作とはそんなものなのだろう。それにしてもこういった悪質な詐欺行為が巷に溢れるようになって、世も末だと思うこともしばしばあるが、犯罪者の処分について言いたいことも出てくる。世の中の役に立つか立たないか、という観点で人の存在を考えてはいけないと思うのだが、こういう例に限っては百害あって一利なしの典型ということで、彼らの存在自体を問うても良いのではないかと思う。罰を重くするだけでは犯罪の防止にならないという意見もあるけれども、程度の問題として極刑をあててみてはいかがだろうか。たった数千円だろうが、数万円だろうが、数億円だろうが、こういう犯罪についてはとしたら、どんなことが起きるのだろう。不特定多数を対象とした詐欺行為の場合、はじめは数千円でも、積もり積もれば莫大な金額に繋がる。そのことを考えれば、ネットを利用した詐欺についてはもっと厳しい対処をすべきなのではないだろうか。

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7月26日(火)−毎日

 ものを書くことを商売にしている人にも色々な人種がいるようだ。毎日の積み重ねが大事と思い、日々ある量をノルマとして創作に打ち込む人がいると思えば、機が熟すのが大事と主張し、その時期が来るまでは何も手を付けないという人もいる。どちらがより良い書き手かなどと思ってはいけない。結果がすべてであり、同じ書き手でもその度に結果が違うこともある。
 職業にしているわけでもないのに、毎日ある量を書き残しているのを自分で何と思うか、まだ何とも思えてこないのである。日々書けそうな材料を見つけ出し、それについてほとんどの場合は何も調べることなく、ただ何となく書き始める。時には言葉の意味を気にしたり、最近の動向が気になったりして、ちょっと調べものをすることもあるが、多くの場合そんなことも気に留めず、ただ気軽に書き始めてしまう。そのうち大体こんな量でまとめるのがと思えた時、適当にまとめの作業に入るが、それとてはじめから仕組んだものでもないし、書き進むうちにはじめに思っていたのとまったく違う方向に向ってしまうことも多いから、適当に折り合いをつけることになる。巧くいけば満足感が残るが、多くの場合そうならない。何処でどう間違えたのか、結論さえも正反対になってしまうことがあるし、そこまで行かずとも何とも中途半端な結末を迎えねばならないことも多い。それでもまだ、何となく毎日続けているのは何が理由なのか、今のところ何も見えてはいない。義務なのか、責任なのか、はたまた意地なのか、何も見えていないのだ。おそらくいつかどこかで止まるわけなのだろうが、まだその時期は来ていないように思っている。ただ、こういうものは突然訪れるものだから、ある日突然やめちゃえという気になってしまえばそれだけのことである。材料としては身の回りを眺めているだけでは中々見つけにくくなりつつある。一番大きな問題は、自分の身近に起きたことを材料とすることを禁じていることだろう。そうすれば楽になるのはよくわかるが、しかしそうすることでこういうサイトで独り言を書くことの意味が消え失せてしまうかもしれない。そんなことを時々考えたりすると、やはり禁じ手、禁忌はきちんと残しておくべきであり、そうすることで起きる障害は別の形で克服するようにすればいいと思える。世の中の動きが盛んであれば、こんな苦労もせずに済むのだろうが、どちらかと言えば急激な変化をしているにも関わらず、どれもこれもよく似た代物であるから困ってしまう。同じ登場人物達が同じような話題で踊っているのを取り上げて、問題提起をしたとて面白味はない。やはりそこに変化があってこそなのだと思うのだ。しかし、今の社会情勢は安定期であり、皆が皆つまらないと思っている状況にある。色々なところで閉塞感を感じるのもそんなところから来ているのかもしれない。時々こんな繋ぎを入れねばならないのはちょっと嫌な気がするが、今回も思いつかないのだから仕方がないのである。明日は明日の風が吹いてくれるとありがたいのだが、天候以外にはそういう変化さえ起きないのかもしれない。つまらないと思っても何にもならないから、せいぜい楽しむことにしよう、とにかく。

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7月25日(月)−伝達

 週末の新聞には書評が掲載されている。様々な本が出版されているものだなあと思いつつ、一方でそこに何かしらの共通項がないか気にしたりする。時事的なものを含めていろんな要素がありそうに思えるが、最近の動向で少し気になるのは高齢者の評論やら自伝やらの出版が増えていることだ。後世に遺さねばという思いはいつの時代も同じはずなのだが。
 同じはずの事情だが、どうもそこに何かしら大きな背景の違いがありそうに思える。今、こういうものを書き残している人々は戦後の高度成長期にその中核を形成していた人たちであろう。その後の展開を見るかぎり、彼らの業績はあるところまでは非常に高く評価されていたのに、ある日突然地に落とされた感じがある。成長を続けていくかぎり、その端緒となった時代での貢献は高く評価されるが、それが逆方向に動き出すとまるでその責任が彼らにあるような言い方がされる。確かにきっかけとなったものの中に彼らの関わりがまったくないわけではないが、実際に下り坂の演出をし、演じたのはその下の世代である。それを思いつつも社会情勢から発言が抑えられてしまい、桧舞台を去ることになった人々にとって、何かしら不完全燃焼と思えるものがあるのだろう。大きく外れているかもしれないが、そんなことが背景になり、自らの考えをそういった先入観なしに伝えようとする意図が、こんなことを盛んにさせているのではないだろうか。そう考えるとこういった出版を年寄りの戯言と片付けるのはあまりにも無理があるだろう。そう考えると、彼らが混乱の時代から輝かしい時代を築いてきた流れを彼らの見方で感じてみることも大切に思えてくる。だからと言って盲目的に受け入れられるはずもないが、まずはその後の混乱期の流れによってねじ曲げられてしまったものを、真直ぐに戻す必要はありそうである。そうやっているうちに、これから先の時代に対する考え方も今までのような守りの姿勢ばかりでなく、攻めの姿勢から進めることができるようになるのではないか。そう考えてみると、今の時代こういう書籍が出版されることはこれからの時代を築く人々にとって大いに歓迎すべきことだろう。確かにそれらの本の大部分は単なる自慢話であり、否定された自分を取り戻すためだけのものかもしれない。しかし、その中に本質を見抜く目さえ持っていれば、利用できる部分を際立たせることも難しくはないだろう。問題は、送り手にこれ以上の責任を負わせることにはなく、受け手がその中から大切な部分を炙り出すことなのだ。前の時代のすべてを否定することによって様々な発展があったという意味では、戦後の発展とバブルがはじけたあとの発展に大した差はないのかもしれない。確かに何処まで落ち込んだかという意味では数字的には大きな差はあるが、心理的には落ち込みの実感として差はなさそうに見える。そういうことを考えに入れると、さらにこういった本の活用法が見えてきそうな気がするのだ。否定に終始することは難しいように見えて最も簡単な手法である。それに対して評価すべきところを引っ張り出して、全体の中から何かを学び取ることはずっと難しいこととなる。それを試みる若い世代が出ているうちは、世の中捨てたものではないことになるが、さて現実はどうなっているのだろう。

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