夏祭りで全国津々浦々盛り上がっているのではないだろうか。ストレス解消が第一目的のはずもないが、結果的にはそうなっているように見えることもある。パッと騒いで、ドッと疲れて、また捩子を巻き戻せば、だらけかけた気持ちも何となくすっきりするのかも知れない。元々は宗教的な色合いが強かったのだろうが、今やそんな香りはまったくしないから。
大騒ぎをすることは確かに気持ちをすっきりとさせるようだ。スポーツ観戦に出かける人々の多くは、その雰囲気に溶け込み、応援を理由に騒ぐことで憂さを晴らすことができる。そんな言い方をしたら失礼かも知れないが、やはり溜まっているものを吐きだす機会が必要なのだろう。祭りもそんな要素が強く、伝統に則った部分はそれとして、それ以外にはどちらかといえば無礼講的な雰囲気が重要になっているようだ。老いも若いも、女も男も、入り交じって皆で騒ぐ。これが大切なのかなと、祭りの光景を見て思う。しかし、騒ぎ方にも形があるようで、あまりに型破りなことは歓迎されず、排除されるようだ。有名な祭りの多くは人が集まり、その注目を浴びたい人々も吸い寄せられるところがある。ただ、祭りの主旨とは無関係な形で注目させようとする人々は何処へ行っても嫌われるようだ。皆が騒いでいるから、自分たちも騒いでいいはず、という考えは祭りの参加者にもあるだろうから構わないことなのだが、邪魔をして、見ている人に不快感を与えるような行動しかとれないのでは歓迎されるはずもない。無礼講と言っても、最低限の守るべきものがあるわけで、それを無視する輩は排除されてしまうわけだ。それがさらに彼らの不満を募らせ、どこか別の方向に爆発させる結果となったとしても、自業自得というしかないものだろう。近くの祭りも毎夜多くの人を集めているが、一目でそれとわかるような集団が警官に囲まれながら移動する姿を何度も見た。予期されたことだから、動員された警官の数も尋常でなく、其処彼処で引き起こされる騒ぎへの対応に追われていたようだ。自分たちの祭りを大切にする気持ちが強かった時代には自制の思いが常にどこかにあったと聞くが、最近では自分たちのという考え自体に変化が現れているようだ。所有物という考えと共有物という考えは明らかに異なるのに、どちらをも私物化する心がその根底にある。個人主義が重視された時代が長く続き、そういう考え方自体は浸透していったが、一方で次々に歪みを産んでいることも事実だろう。個人を尊重するのは集団が成立しているからであり、社会が混乱しているときには個人の権利に目が向けられないことは明らかである。個人主義が独り善がりの人間達の集まりの中で成立するかといえば、難しいと答えるしかないのだが、それにしてもここまで極端に走らせたものは何だったのだろう。一部には長く続きすぎた平和がその原因という声もあるが、それはあまりに危険な考えに思える。それを解消するための手だてが危険な方に向いているからだ。平和をうまく楽しんで、それを貴重なものと考える気持ちがあれば、もっと違った展開があるはずなのではないだろうか。
自宅のパソコンからこういうサイトにアクセスしている人たちのほとんどは、プロバイダを使っているだろう。電話回線というと古めかしい感じがするが、基本的にはそれを使う人が大部分ではないだろうか。都会に住む人々の一部はケーブルテレビに加入し、そことの繋がりでインターネットもという場合もあるだろう。いずれにしてもまず繋がねば、ということか。
プロバイダは単にネットへの接続をするだけでなく、様々なサービスを提供する。その中にはメールアカウントの提供も含まれ、利用している人も多いと思う。しかし、ネット上での遣り取りの中には匿名性を利用したいものもあり、その場合には個人契約であるプロバイダのメールは使いたくないこともある。理由はそれだけではないと思うが、ネット社会には何処の誰でも利用できるメールのアカウントを提供するところがある。利用料金も取られず、何も悪いことはなさそうだから、気軽に利用している人が多いと思うが、個人情報を収集される可能性は大いにあるから、注意した方がいい場合がある。何処からそのアカウントに接続したか、どんな遣り取りがあったか、交信相手はどんな人々か、等々様々な情報が収集できる。それをどう利用するかは、供給元によるわけで、まったく知らないところで利用されているかも知れない。個人名が出ていなくても、何かしらの情報は含まれているわけだから、それを欲しいと思う人がいれば利用価値があるということになるだろう。そんな危険性はともかく、これだけ多くの人々が利用するようになると、その特長を活かそうとする人々が出てくる。広告活動に使う人々はその代表的な存在であり、一般の広告から、性交渉の誘いまで、種々雑多なものが相手構わず送られてくる。供給元にとっても迷惑な部分があるからか、最近はこの手のメールを拒絶する仕組みを採り入れており、利用者は嫌だと思ったものについて登録すればいいわけだ。このやり方は何もフリーメールにのみ当てはまるものではなく、職場のメールでも同じことが行われている。スパムメールと呼ばれる、誰彼構わず大量に送り付けられるものから、ある特定のメールサーバーの機能を混乱させるものまで含まれる、悪意に満ちた迷惑メールは、今現在もかなりの数が飛び交っているはずである。これらの被害を食い止めるために、受信拒絶というやり方で@以降のドメイン名によって選別をするわけだ。同じことがフリーメールについても行われていて、おそらくある程度の効果を上げているのではないだろうか。といっても、こういう話はイタチごっこであるのが通例で、最近はNobodyという送り主からのものが一部のフリーメールに目立つようになっている。送り主が特定できないものらしく、それ自体を拒絶する仕組みにしていないとそれらが次々に繁殖することになる。まったく別の話かも知れないが、環境問題が様々なところで取り沙汰されており、地球資源の枯渇が話題となっている。こういうゴミメールの氾濫はまさに資源の無駄遣いであり、無意味としか言い様のないものだ。情報社会とは、単に無駄な情報が流れるものであると思えるほど、今やどうにもならない段階に入ってしまった。確かに工夫をすることで何かしらの対策は講じられるのかも知れないが、堂々巡りになるだけなのは明らかで、根本解決はあり得そうにもない。結局、人間自身の問題に戻るしかないのだろう。
夏は何処も暑くないといけないというわけでもあるまいが、無理矢理暑さを演出しているところもあるようだ。国民の無関心が極度に進んだせいもあるし、張りぼて改革の連続で呆れる面もある。それにしても、これほど冷ややかな目で見られることもかつてなかったのではないかと思えるほど、永田町だけが氷河期にあるように見える。
マスコミは総じて盛り上げようと躍起になっている感じがあるが、依然として関心は集まってこない。とにかく国を動かす中枢の話題なのだから国民たるもの関心を持たずに何とするか、という意見が聞こえてきそうだが、他方からは下らない改革に無駄な時間を費やすことに責任を感じないのか、という意見が流れてくる。報道関係は総じて前者の立場をとっているようだが、世論調査は後者の立場にいる人々の声の大きさを実感させる。確かに大いなる改革なのかも知れないが、改革そのものの話題より、造反議員の数とか解散風とかそんな話題に終始していることを見れば、情報を伝える側にもその重要性が認識されていないことは明らかなのではないか。そんな中で、大学教員から議員になった人が質問に立ったことが伝えられた。本人の弁によれば、改革の意味を国民に知らせるための質問を数多くすることで、認識を高めようとしたとのことだが、はたして功を奏したのか、どうも怪しい感じがする。もう既に薄れてしまった関心の下では、そういう遣り取りを見る人の数も少なく、効果の上げようがない。そんな中で行われる質疑応答はまさに茶番の様相を呈していたのではないだろうか。さらにその印象を強めたのは、彼の改革に対する見解で、政局混乱を避けるために法案を可決しなければならない、というものだった。法案の可否そのものではなく、別の要因が尊重されるというわけだ。政治に携わるかぎり、大局観を失ってはいけないとよく言われるから、それを持ち出したのだろうが、はたして正しい見解と言えるのだろうか。法案の可否と政局の安定を天秤にかけること自体、どこかずれた感覚なのではないかと思う人々には、これがまさか大局を見据える行動とは見えないだろう。異様な行動をとる人に対して、責任を問う動きに出るのではなく、他の形で解決を図ることが肝要であるとする解説は、一般社会では通用しない考えのように見える。とは言え、演技時間の限られた舞台ではいつまでも茶番狂言を繰り返すわけにはいかないし、冷ややかな目を意識しつつ先延ばしにするのも馬鹿げた話である。週明けには決着がつくと報じられていたが、既に着地点を示す動きは着々と進んでいるようだ。昔から行われていたことなのだろうが、明らかに違う点が一つだけある。それは内部の不一致であり、さらには分裂の回避が含まれていることだろう。呉越同舟というわけでもないのだろうが、舟を半分に割って沈んでしまっては元も子もないということなのか。とにかくどこかへんてこなことが続き、その一方で一時的に何かおかしくなったとしても、最後にはこんな結論がという話が出てくる。それくらい先が読めるつまらない流れになっているということなのではないか。政治の話を取り上げるのは好きではないし、どうせという多くの人が持つ気持ちもわかる。でも、これほどまでに的外れの話をいつまでも続けているのは何とも理解しがたいのである。
暑い、暑い、のっけからこんなことを書いたら怒られそうな気もするが、まさにその通りだから仕方がない。南北に長い列島だから、何処も彼処も同じようにというわけではあるまいが、温度と湿度が共に高くなっているところでは、生活すること自体大変そうである。省エネなるもので締めつけられているから、さらに厳しい感じもしているが。
このところの暑さの原因は風向きにあるのだそうだ。南からの暖かい風が海から吸い上げた湿気を含み流れてくる。場所によるのだろうが、風の向き一つで気温が10℃くらい上下するというから驚きである。さらに、そこに不快度を上昇させる湿度という因子が加わるから、風の向き一つでとてつもなく大きな差が生まれることになる。国内でも有数の酷暑地の多くは、逆に風が吹かないことによる気温の上昇と安定に悩まされているようだ。じりじりと暑い日中だけでなく、夜半を過ぎても風が吹かないことによる熱帯夜で悩まされている人も多いのではないか。とは言っても、最近では電化製品の助けを借りる人も多く、窓を開け放つ危険より、冷房による安全と快適さに浸っているのだろう。一度そういう環境に入ってしまうと、自然がどうなっているのかに注意を払わなくなる。実際、冷房装置どころか扇風機さえ備えていない家に暮らしていると、夜の風を心待ちにするものだ。夜の9時頃でもまだ30℃を超える気温では、何しろ風の有無が快適さを大きく左右する。ちょっとでも風が吹けば、日中の高温で温められた室内の熱気も何とか追い出すことができるが、無風状態となるとどうにもならない。そういうときに扇風機は助っ人となるはずなのだが、ないものはどうにもできない。土地柄からか、真昼の無風はあるようだが、夜中のそれは数少なく、何とか睡眠を妨げられずに過ごしている。昼の気温も問題だが、夜の方がという地方では蓄熱作用と無風が大きな条件となっているのではないだろうか。水の都と呼ばれたところも、近年その傾向が強くなり、ひと月もふた月も熱帯夜が続くという。悪循環と思えるのは冷房によって快適さを追い求める方法が、熱の排出というトータルには温度を上げる結果を産みだしていることで、解決の方法は中々見つからないようだ。その中で可能性がありそうと思われるのは、水の利用なのではなかろうか。昔なら打ち水は当り前のこととして其処彼処で見られたが、このところそんな手間などかけられないとでもいうのか、とんと見かけなくなっていた。何とかの知恵かどうかはわからないが、最近それが見直されているという。日中の気温低下に役立たせるだけでなく、これを夕刻から夜にかけての低下に活かせないか、考えてみたらどうだろう。上水ではなく、中水を使えば資源の無駄遣いといわれることもないだろうから、やってみる価値はありそうだ。水による温度下降は家屋への利用も実施されているようで、昨年あたりずいぶん取り上げられていた。しかし、その後の展開はあまり見えてこないようだ。水不足との関係をどうするか、設備投資として見合うものか、そんな要素があるのかも知れないが、風やら水やら、自然の恵みをどう活かすかが先人の知恵だったはずで、それを思いだすことがこれからの課題となるかも知れない。
夏といえばお祭りだろう。北から南まで、各地から土地それぞれに独特の祭りの便りが届いている。伝統の祭りと言っても色々とあるようで、毎年開かれてきたものがある一方で、ごく最近復活したものもある。何事も中央にという指向性が失われるとともに、地元指向が強くなったことに起因するようだ。失ったものを取り戻すのは大変なことのようだが。
地元という意識の強さは田舎といった感覚の強さと似たところがあるのではないだろうか。田舎というと聞こえが悪いようだが、地元というとそうでもない。だから気楽に使えるというわけでもなかろうが、とにかく地元優先とか地元重視といった言葉がよく聞かれるようになっているのは事実だ。そんな中で地元を盛り上げるための格好の材料の一つが祭りということになるのだろう。伝統的なものが多い中で、二つの地方の祭りの合体したもののようなことが出てくると、何とも複雑な感覚がする。都会の祭りの盛り上がりが今一つな理由は一つには祭りというより、客集めの行事といった雰囲気が強いためで、参加者自体を集めることに四苦八苦しているところも珍しくない。たとえば神輿を担ぐ伝統を復活させようとしても、地元にいる若者の数は減りつづけ、さらには転入者の方が圧倒的に多い土地柄だと、そのために他所者を募らなければならない。地元の祭りを盛り上げるために、他所から人を呼ばなければならない状況はどうも変な感じがするのだ。この傾向は大都会だけでなく、新興住宅地と呼ばれた地域でも顕著で、細々と続けられた祭りを保存するために苦労することになる。一方、地方都市はこと祭りに関してはずいぶん元気が回復したように感じられる。地元意識が強くなるに従って、自分たちで支えようとする人の数が多くなり、結果的に賑やかな祭りを自分たちの手で開催できるようになったからだ。そうなると、他所から来る人々は観光客として参加することになり、一時的とはいえ賑やかさを取り戻すことになる。夏祭りは元々お盆との関連が強く、先祖を迎えるために何かをするといった感覚のものが多い。そういう意味ではもっと宗教色が強くなってもよさそうな気もするが、そっちの方は衰退したままのようだ。元の姿がどうだったかということは、今の祭りを支える人々にとって重要ではないのだろうが、少しはその成り立ちくらい理解しておいたほうが良いのかも知れない。伝統を重んじてきたものの幾つかはそれを保ち続けてきているわけだが、そうなっていないものの方が遥かに多くなっている。地元ということを考えると、祭りの由来くらいは知っておいても損はないのではなかろうか。普段の不満の捌け口としての存在ではなく、そこにある何かしらを理解するためにも。
子供が少なくなったから、というわけでもないだろうが、子供に手をかけるためのものが増えているように感じる。教育玩具と呼ばれるものも、その対象となる年齢がどんどん低くなり、最近は乳児を対象としたものが当り前となっている。実際に教育的効果があるのかどうかは別にして、教育という言葉が売るための切り札になっているということなのだろう。
目的を明確にすること、というのがこの頃の流行のようだが、人生の目的がそんなに早いうちから決まるとも思えない。しかし、安定した社会ではどんなことが起きてもたかが知れているということで、安易な目標設定に走る動きが増えているようだ。何が起きるかわからないときには努力の多少によって結果が違ってくると言えたのだが、最近はそんなことで大勢は変わらないと考える向きの方が多いようである。しかし、いくら安易と言っても目標が定まってしまうと、そこに向って一目散に走らねばならない。大したご褒美もないのに、全力を尽くすというのはどうにも割が合わないと思えるのだろうか、どうもこの頃の子供の考え方に諦めの気持ちに似たものが入り込むようになった気がする。どうせ、などと言っていてはろくなことが起きないと言われたのは昔のことで、最近はそんなことを言おうが言わなかろうが変わりがないのではないか。現実の社会は思われているほどはっきりとした道筋があるものではないが、たかが知れてると思う心にとっては頑張ってもこの程度という読みが簡単にできてしまう。そうなれば、何でもかんでも説明書通りに動かせばいいということになり、決まった道筋を決まった手順で進むことに専念するのが最良の選択となるわけだ。子供の側にそこまでの考えが広がっているかどうかはわからないが、少なくとも子供に関わる側にはそんな考え方が浸透しているように見える。夏休みに入っても子供の姿があまり見られないのは、暑いからというのが一番の理由なのだろうが、何かと忙しいということもありそうである。本人たちがそうしたいというわけでもなく、ただ周囲からの圧力でそうなっているのだとしたら、何とも悲惨な話に思える。休みの最終版に一気の挽回を図っていた子供の頃を思いだすと、とにかく宿題を後回しにしていたことがわかる。それでも何とかなっていた時代だったのだが、今はそうではないらしい。とにかく地道にこつこつが最適解と思われているのか、それを実施させるために大量の宿題を課すところがあるようだ。そうすれば毎日やらざるを得ず、地道が身に付くということらしい。休み中の塾が賑わうのもそれが理由なのかも知れない。コツコツやるのが悪いことというつもりはないが、過剰なほどの課題を与えることでそれを実現させようとするのはどこか間違っているような気がする。ちゃんとやる子とやらない子の差をさらに広げることぐらいしか期待できず、結局思惑通りに動くのはほんの一部に過ぎないことが休み明けに判明するだけなのだ。やって当り前の宿題では、ご褒美も期待できず、与える側の目的がいかに明確でも与えられる側にはそれが見えない。そんなことの繰り返しで、精神的に疲弊した人間を量産しようとする動きにはどうにも賛同できない。休みは休むためにあるので、休ませたら怠けるなどという考えが出てくること自体おかしいのだ。ちょっと考えればわかることをわからなくなってしまった感性に不安を覚える。
少子化の影響はどんなところに出ているのだろう。今のところ就業人口についてはまだ大問題というほどではないようだが、団塊世代が舞台を去るのも近いからすぐに問題が出てくるだろう。一方年齢との関わりからいえば、既に小中学校については統廃合が行われるなど問題は表面化している。それが高校にまで及び、次はという段階に入ったようだ。
新聞を眺めていると大学全入時代の幕開けなどという文字が踊っている。大学の入学者募集人数の総計に対して、高校卒業生を含む大学進学者数がついにその数を下回ることになったからだ。こうなると大学評価の順位付けが大きな影響をもつようになる。つまり、評価が高く、受験生にとって利点を見出せる学校については、入学者のレベルの低下が引き起こされるとしても、受験者数が募集数を下回ることはない。それに対して、評価が低いところはそこに入学したとしても大した成果が得られないように見えて、受験する価値さえも失われつつある。受験料を支払ってまで行く価値のない大学を受けることは、このご時世から無意味なことと言われるのだ。定員割れと呼ばれる現象は、今や無名私立大学にとっては最も怖れるべきものであり、そうならないような対策を講じることが緊急の課題のように言われる。しかし、現時点で低い評価をどのように上げるのかは、これまでの経緯から判断しても容易なことでないことは明らかだ。また、バブル期に見られたような教育機関としての評価ではなく、まるで遊び場としての評価を得ようとする動きは、現時点では逆効果となるに違いないと思われているようで、そういう対策は行われていないようだ。さすがに踊り狂っていた時代と違い、少しは真面目に教育というものを考えるようになったのかと思えば、どうもそうとは言えないようだ。最近の動向を見るかぎり、無名、有名に関係なく、どの大学もそこで学ぶことが何に繋がるかを明確化しようと躍起になっている。受験生の大学に対する要求をいかに満足させるかが最重要課題のように思われるのだ。客商売で重要なことは客の望みに合うようにすることだとよく言われるが、ここでもそういう話が引き合いに出される。しかし、客商売にも色々とあるように、本来授けるものである教育を受ける側の要求に合わせることはかなりの無理を生じるようだ。受験産業で培われたやり方をそのまま受験とは無縁になった人々に施すためには、再び受験と同じ感覚を呼び覚まさねばならない。それがおそらく就職なのだろうが、これとて人の数が減ればどうなるのか、同じことにしかならないだろう。そう考えると、受験請負業のような何らかの見返りを約束するやり方は難しくなるのではなかろうか。今更原点に立ち戻れと言われても、原点から出発していない後発無名大学にとっては戻る場所も見つからないだろうし、そうでなくても既に何処が出発点かわからなくなってしまった伝統校とて道案内なしの行程を歩むことになる。見失ってしまったものを探す努力はどうにも無駄が多いようだから、こんな状態に陥ってしまった人々はおそらく新たな方策を講じることに専念するだろう。さて、そうなったとき、どんな案が出てくるのか、今後の生き残りをかけるにしてはちょっと頼りない雰囲気が漂っているが、はっきり言ってしまえば必要ないものはなくなるべきだろうから、そういう運命も受け入れねばならないのだろう。誰がそうなるのかは、まだわからないわけだが。