パンチの独り言

(2005年8月15日〜8月21日)
(無線、重複、出直し、観点、味見、似非、基準)



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8月21日(日)−基準

基準を作る作業はどんなものでも大変なようだ。何もないところに、これというものを作る場合でも、逆に種々雑多なものが入り交じったものを整理して、何とかそれなりの形に統一する場合でも、手間はさほど変わらないのかもしれない。しかし、何かしらの考えに基づかねばならないから、まとまればいいというものではないだろう。
現代社会のように、ある地域のことだけ考えればいいのではなく、地球全体のことを考えないといけないとなると、これが更に複雑になる。国際機関の多くはこういう問題を抱えており、それぞれに解決策を探し回っている感じがするが、結果がいろいろな形になるところを見ると、これという決め手はなさそうである。その中で何らかの方向性が定まるとしたら、おそらく関係者たちの思惑が一番重要になるのだろう。たとえば、電化製品の基準もそんな形で決まってきたようで、その経過を見てみるとなかなか面白い。それぞれに思惑があり、それぞれに向かいたい方向があったのだろうが、結果としては一つにまとめることが基準を決めることであり、誰かが貧乏籤を引かねばならないことになる。そんな例とは少し違うだろうが、たとえばこの独り言を読んでいる人たちにも何かの基準が関係していることに気づいているだろうか。国内で読む限りは同じタイプのブラウザを使用しているし、変換ソフトも搭載されているはずだから、何の問題も起きない。しかし、一歩外に出るとそこは別の世界である。言語はそれぞれに使えるものが決まっており、それ以外には別段必要なかった。そのはずが、世界が一つになってしまう仕掛けの導入で、一遍に様相が変化した。多くの国々では、それぞれ互換可能なやり方を導入することで便宜を図ってきたが、国際語を辞任する国ではそういう考えはなかなか浸透しなかったようだ。つまり、自分たちの言語が中心にあるのだから、ほかの国の人々もそれを使えばいいというわけだ。文化を議論する上で、こういう考え方が受け入れられていないことを当たり前と思っているのは少数派であり、強い人々はそんなことを思いもしないのだろう。そんな訳で長い間、ある国へ旅行するたびに不便を強いられてきた。実際にはそういう機能を持つパソコンを運んでいけばいいのだが、人によってはそんなものを持っていないのだから、土台無理な話だ。ちょっとしたことのはずだったが、ずいぶん長い時間がかかった。今は、どうも色々なところでそういう便宜が図られるようになり、意外なほど簡単なことであったのがわかってみると、さらにその国の人々の基準に対する考え方が露になる。自分中心と言ってしまえば簡単だが、さてそんなものだろうか。グローバルの大きさに対する認識の違いがそこからきているとしたら、ちょっと恐いような気もしてくるのだが。

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8月20日(土)−似非

 戦争に負けてからずっとなのだろうか、それともそれ以前から続いてきたことなのだろうか、この国はある国を対象に追いつけ追い越せを心がけてきたようだ。それがいい方向に出ているときは良かったのだが、最近の動向を見ていると自主的にそういう方に向かっているというよりも、あちらの思惑通りに動かされている感じが強い。
 何を真似していても、自分というものを持っているかぎり、大した問題は生じないと思われている。つまり、真似は必要だからやるわけで、進む方向は違っているから問題なしというわけだ。その辺りの心配は明治時代にも多くの人々がしていたようで、何の思慮もなくただの真似を繰り返す社会に危機感を抱いた知識人がそういう書き物を残している。そんなものを読むと、今とほとんど変わらない状況がそこに横たわっていたことがよくわかり、どうもこの国の人々の考え方は、ことその点に関しては時代の流れにも変化することが無かったように見える。まあ、実際にやってみればわかることだが、真似るというのは人間という生き物が最も得意とすることであり、それだからこそ精神的には非常に楽なものである。それ自体をやめておけと言われたら、かなりの人々が大きな抑圧下におかれ、とんでもない苦労を背負い込むことになるだろう。このことは実際には真似自体が悪いことなのではなく、それ以外の部分のある無しが大きく影響することをさしている。にもかかわらず、真似る部分だけを捉えて問題視してしまうと、やはり厳しい状況に追い込むことになるわけで、それは避けておいたほうが良さそうだ。では、真似る部分以外のところというのはどんなことだろうか。やり方は色々とあるけれどもうまくいくものは少ない。そういう中で前例があり、うまくいくことがある程度わかっているのであれば、それを利用しない手はないわけだ。しかし、利用するとして、それによって実現されるものまでまったく同じにしてしまったら、これは何も変わっていないということを意味してしまう。これでは、新しいことは出てくるはずもないし、かえって時期をずらしていることから悪い面ばかりが目立ってしまう可能性もある。現状で色々な歪みが出ている部分に関しては、まさにそんなことが起きているのではないかと思える。真似というわけではないが、色々な場面での対応の仕方に海の向こうのやり方が導入されてきた。その結果として、そういうときの心の動きまでよく似たものになってきたような気がしている。つまり、自己主張の激しい人間が多くなり、周囲の状況の把握が不十分で、適応力に乏しいといった傾向が進んできているように思えるのだ。最後の点については、ちょっと違った傾向というべきなのかもしれないが、とにかく色々な面でこの国独自の形が失われてつつあることだけは確かだろう。それが良いことか悪いことか、断言するのは簡単なことだろうが、それ自体が良いとは限らない。まずはもう少し様子を見て、という気持ちになるべきだろうが、目の前に山積している問題を見ていると、そんな余裕は消し飛んでしまう。さて、そうこうしているうちに、そんな人間はどんどん世の中に出てくるわけで、考えている余裕はないように思えるが、どうしたものだろうか。

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8月19日(金)−味見

 今年のビールの売れ行きはどうだろうか。これだけ暑い日が続くと、仕事が終わったあとの一杯を楽しみにする人も増えて、当然のことながら消費量は増えそうである。まだまだ暑い日が続くだろうからどこまで増えるのかはわからないが、とにかく作る側としては稼ぎ時であり、さらには最も忙しい季節なのだろう。
 ビールを飲んでいる人にとって、どんな風に作られるのか気になるだろうか。これもまた人によることだろうが、とにかく何にでも興味を抱く人にとっては、ビールの製造過程も気になるのではないだろうか。輸送経費の問題からだと思うが、各社とも国内各地に工場を持っている。ある会社はある銘柄について、天然水の使用を謳っていて、それぞれの地方特有のものを出すという形で注目を集めようとしている。どれだけの人がそれぞれの味の違いを感じることができるのか、かなり疑問となるところだが、実際には水以外の原料がまったく同じでも違う味になるというのが、作る側の理解のようだ。以前見学したことのある工場でも、二つの新しい発見があった。一つは、当時辛口のビールが人気を博していたことから、他社でも似た傾向のものを出し始めていたが、その際に決め手となる酵母の種類については、かなり異なる性質のものを既に用意してあるとのことだった。つまり、色んな味を作り出す用意はできているのだが、どれが消費者に受けるのかがはっきりしないために、使われていないものが沢山あるわけである。なるほどと思うと同時に、消費者の嗜好を測る手だてがほとんど無いことに少し驚かされた。確かに出してみなければわからないのだろうが、だからといってかなり大量に生産する必要のあるものについて、次々に試してみるというわけにはいかないということなのだろう。だから、誰かが先行して成功してくれればそれで安心できるというわけだ。それにしてもものを売るということは難しい。もう一つの驚きは、ビールの味についてであり、工場の責任者によれば、同じ銘柄のものでも全国に散らばる工場それぞれに微妙に味が異なるというのだ。実際にはそれぞれで使用している地下水の性質の違いによるものらしいが、工場で働く人々、特に味の検査をする人以外にはほとんどわからないものらしい。とはいえ、今回の天然水の違いについて、はたして素人がわかるものかどうか、試してみる良い機会ができたということなのではなかろうか。何でも試してみたいと思う人はいるだろうが、実際にはそんなに簡単なことではない。こういう機会をうまくいかせればと思うが、一方で何種類のものを飲んでいたら、あっという間に酔っぱらってしまって、味などどうでもいい状態になってしまうかもしれない。はてさて、どちらにしてもそんなに簡単なことではなさそうだ。どうしたものだろうか。

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8月18日(木)−観点

 また、地震がやってきた。どの辺りが危ないか、色々な形で伝えられているが、はたして地元の人々にそういう意識が浸透していたのか、事前に知ることは難しい。実際に揺れてみて、さてどんなことになるのかを経験してみると、そこでどの程度の心構えができていたのかがわかる。だからといって次の機会にそれが役立つか、簡単ではなさそうだ。
 忘れたころにやって来るはずの震災もこれほど頻繁に起きると、そういう言い方が正しいのかどうかわからない部分が大きくなる。確かにその地域ごとに考えれば、頻繁とは言えない状況だが、しかしニュースになっていることを見てみると意外なほどたびたび起きているような印象が残っている。さらに考えさせられるのは地震の規模を示す指標の大きさで、以前ならばそんなに聞くことの無かった震度が伝えられるとちょっと怖くなる。一方で別の指標として伝えられるマグニチュードの方はといえば、驚くほど大きなものはかえって少なくなっている。原因の一つには直下型の地震が多くなっていることがあるだろうし、もう一つには観測点の劇的な増加があるだろう。以前は気象庁管轄の気象台や測候所に勤める職員が彼らの経験を元に決めていた震度も、最近は機械で決められるようになり、そうなってからは市町村役場にまで設置されるようになってきた。機械の精度がどの程度なのかはっきりしないが、震度のような体感に基づく指標では人ごとの違いがかなりあったように思う。それに比べるとある基準に基づくものになったはずだから、かなり信頼性は向上したのではないだろうか。但し、心理的な要素が以前なら加わっていたことを考えると、以前なら一段くらい低く見積もられていたものが、そのまま発表されるわけだからことは複雑になる。どちらが良いのかと問われれば、ほとんどの人は情報が沢山あったほうが良いと答えるだろうが、こういうことも含めてニュースを聞かないと困ったことが起きそうだ。特に、震度の数値に比べて被害が少ない場合、何が要因だったのかもう少し分析して欲しいと思うことがある。他の分析手法が重要なのか、はたまた別の要因があるのか、知りたいところだからだ。そんなことを考えに入れると、ただ単に情報を垂れ流す形では無理があるのは明白だろう。ここまで色んな情報が流れるようになってくると、流す側にも配慮が必要となるだろうし、受け取る側もある程度の知識や判断を要求されるに違いない。さて、どんなやり方が良いのか、これからさらに試行錯誤が続くと思われるが、送り手は送り手なりの、受け手は受け手なりの工夫や努力を必要とすることは明らかである。何でもかんでも人任せという時代は過去のものとなりつつあり、情報氾濫の時代となれば、それに流されないようにすることが全ての人々に最低限必要となるだろう。そんなことを考えながらニュースを見たり、聞いたり、読んだりして、さて何がわかるか、ちょっと考えてみることも簡単な訓練になるのではないだろうか。

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8月17日(水)−出直し

 市場は閑散としているのだろうか。それとも選挙というものに向けて何かしらの動きを見せているのだろうか。国内の投資だけでなく、国外からの投資が増えている以上、国内政治の成り行きだけに左右されることは少なくなっているに違いないのだが、はたしてその通りなのか、まだまだその勢いは衰えていないのか。
 市場原理から言えば、やり取りが増えなければ動きは小さいままに終わる。何かしらの思惑があれば、なるべく動きを大きくせねばならず、そのために取引を増やすことも重要となるはずだ。しかし、関与しているのがそういった思惑とは何の関わりもない組織や人々だと、そんな流れは期待できないだろう。政治の問題だけでなく、景気の動向についてもある人々は一生懸命情報を集めているのに対し、他の人々はまったく関心を示さない。特に短期の取引に重点をおく人々にとっては、長期変動の要因となる景気動向には無関心となるのが普通かもしれない。それよりも一日の中の動きを注視して、それに対応することの方が重要となるからだ。経済の動向に加えて、政治的な問題が浮上しているから、事情はさらに複雑化しているはずだが、はたして市場の関係者にそういった考えが浸透しているのかよくわからないところだ。経済動向は好転の兆しからさらに一段進んだとの解釈がなされたが、そこに政治の不安定要因が加わることで、どちらに動くのかさっぱりわからなくなりつつある。経済の動き自体は良い方向に向かっているには違いないが、そんなことを吹き飛ばしてしまうほどの影響を持ちかねないからである。とはいえ、現状のままバタバタ動き回るよりは、再出発を目指したほうが少しはましになりそうに見えるから、ここは一番きちんと決着をつけるべきなのだろう。それにしても、どんな流れが出てくるのか、報道を見ているかぎりは今後もかなり派手な動きをしそうに見えるが、どんなものだろうか。目先のことばかり追いかけている人々に対して、投票行為がどんな審判を下すのか、楽しみといえば言えなくもない。しかし、実際のところはそれほどの期待を持たない人の方が多く、誰に代わろうが、現状を維持しようが、何も変化しないとするほうが大勢を占めているだろう。まったくどうなってしまったのかわからないが、過度な期待をしない社会ができ上がってしまったようだ。それよりも自分たちの周りだけでも安心できる場所を作りたいという欲望があるようで、全体についての議論は影を潜めている。こんな状態では国政選挙などというものもまともな形で行われることは少なくならざるを得ないだろう。さて、ここから先、どちらに向かうのかこれもまた様子を見守るしかない。

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8月16日(火)−重複

 二度あることは三度ある、偶然とはいえ重なると再び起きることがあるという意味に使うこともある。偶然も何度か重なると人は気にするようになるものだということだろうか。実際には、どの程度強く印象に残るかどうかが最大の問題であり、強く残れば意味のあるものとなるということなのだろう。人の経験とはいい加減なものということだろうか。
 重ねて起きることで特に印象に残るものといえば、飛行機事故があるのではないだろうか。何故だかわからないが、一つ起きると次々に起きるように思っている人が多い。事故の種類は色々あるけれども、あれこれ交えて次々という印象が残っているのだ。本当のところははっきりしないし、重なって起きたもの以外には記憶に残っていないわけだから、比べようもないといった状況なのではないだろうか。それにしても、人それぞれに違った感覚を持っているはずなのに、こと飛行機事故に関してはほとんどの人が同じような印象を抱いているように思える。まあ、そんなに無理してまで決めつけなければならないわけでもないのだろうが、どうもそんな気がしてしまうから人の気持ちなどというものはかなりいい加減なものだろう。また、一方ではこういう現象を検証するために確率を調べて論じることが必要なのだろうが、どうもその辺りのやり方も不確かなところが多い。そんなことで科学的に論じるよりも、かえって人それぞれの感覚で論じることの方が重視されるようなことも多く、どうなっているのかと思えるほどだ。しかし、小難しい科学を説かれるよりも、感覚的に受け入れやすい話の方が誰にだってわかるわけだから、仕方ないのかもしれない。こんな環境の中で無理して理解させようとしても、結局変な奴と言われるのが関の山だから、無理をしないのが一番なのかもしれない。もう少し、論理で攻めることを日常的にしないかぎり、こんな様相は変化しないだろう。また、そんなふうだからこそ報道機関の情報操作がうまく運ぶのかもしれない。まったくへんてこな話のように見えるが、意外に皆それぞれに同じような感覚を持っているから、知らず知らずのうちに何処かに導かれているのかもしれないわけだ。まったく、困った世の中のように見えるが、皆で同じ方に進んでいれば安心できる面もあるわけで、変な混乱を来すよりはましといえる。そう考えると、流れにまかせて進むほうがよほど効率的なのかもしれず、いちいち引っ掛かって手間をかけているのは馬鹿らしい行為なのかもしれないのだ。どちらが良いのか、今の時点ではわからない。どちらを選ぶにしても大した違いがないと見ればそのまま皆で進めばいいわけだし、そうでなければそのうち色んな歪みが生じるだろう。もう少し見ておかねばならないことだけは確かなようだ。

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8月15日(月)−無線

 最近、駅などの人の集るところに表示が出ていて、おやと思うことがある。無線を使ったインターネット接続のことで、徐々に普及し始めているようだ。これを読む人の中にもいるかもしれないが、自宅に無線LANを設置している人がいるそうで、家の中ならどこでも接続可能になるそうだ。便利と見るかどうかは人それぞれなのだろうけれども。
 技術の進歩は急速で、ちょっと脇見をしていたり、ちょっと古い機械を使っているとあっという間に何処かに置き去りにされてしまう。そうなってしまうと結局のところ新しい機械を導入するしか追いつく方法はなく、そんなことが起きるたびに出費を強いられ、嫌な思いをすることが多い。中でもパソコン絡みの技術の進歩はかなり急速で、最新と呼ばれる機械が中古と化すのもあっという間のようだ。こうなってくると、実は先頭を走るにはかなりの経費を覚悟しなければならず、最新にかぶれている人はそういった出費を躊躇しないものらしい。それにしても何故これほどに新しいシステムの導入が起きるのだろうか。市場の情報を聞く限り、企業の売り上げはある一定の水準を保ち続けねばならず、そのためには客の数を増やし続けるかあるいは一定の数の新製品を常に出し続け、顧客の購買意欲を高め続けねばならない。電化製品は一般にそういう形で市場を開拓してきたのだろうが、ここに来て成長は鈍化し、難しい時代を迎えている。パソコン業界もプログラム関係のものは一見新しい機能を持ったように見える物を出すことで、買わせ続けることができているようだが、機械の方はそれほど素早く回転させることはできない。そうなると、環境の変化によって強制的に新しいものを採り入れさせるのが手っ取り早い方法となるようで、無線を使った接続もその一つなのではないだろうか。ノートパソコンと呼ばれる持ち運びのできるものの場合、以前から様々な機種が売られていて、速度や容量といった機能の向上を謳うことで売り上げを伸ばしてきた。しかし、ここに来て必要な人々のほとんどが保有するようになってしまった結果、売り上げの鈍化は否めない状態となっていた。実際には差し込み用のカードに無線機能を持たせた物を売り出すことによって、既にある程度の普及が図られていたのだが、それよりも効果的な方法として無線機能を搭載した新機種が売られるようになり、使わない人でもそんな機能を持つ機械を保有する状態が生まれた。そこで徐々に普及してきたのが、人の集るところに設置された無線LANである。これによって、手軽に使うことができることを示し、さらに多くの人々の関心を集めれば、更なる市場開拓に繋がるということなのだろう。その証拠に、携帯電話を利用したものでは使用料が必要であるのに対して、無線LANについては無料となっていることが多い。何処かの会社が無料の接続で多くの顧客を集めたように、ここでもそういう形で利用者の数を増やそうとしているようだ。今の経済の原則からして、どうもこういうやり方だけが成功を成し遂げると思われているようで、どうも解せない気がするのだが、他には劇的な方法は見つけられていない。まあ、もう少し時間が経過すれば、どんなことが起きるのか見えてくると思うけれども、その時になって慌てる人が出るかどうか、今の時点では予測不能なようだ。

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