皆はどんな財布を持っているだろうか。昔、母は蝦蟇口と呼ばれるものを持っていたが、最近そんなのは見かけたことが無い。パチンと閉じる金具がついたもので、中がいくつかに分かれていて、貨幣と紙幣を分けて入れていたように思う。いつの頃からか見かけなくなったが、何故なのかと思う。たぶん、他に入れるものが増えたからなのだろう。
では、何が増えたのか。手元に財布があったら見て欲しいが、おそらく色々なカードが出てくるのではないだろうか。クレジットカードに始まり、バスや電車の乗車カード、果ては洗濯屋やカラオケ店の会員カード、人それぞれに違うだろうが、この手の類いのものが次々に出てくるのではないだろうか。これらを蝦蟇口に入れたら、曲がってしまったり、目的のものが見つけられなかったり、様々な面倒が起きそうである。そんなことから、札入れと呼ばれていた形の財布がほとんどになった。以前の札入れは、単にお札を入れるものだったが、今では沢山のポケットを備えた優れものになっている。それぞれのポケットにいろんなカードを整理していれ、いざという時に使いやすくしているわけだが、それとてこれだけ種類が増えてくると整理しきれない人が多くなっているのではないだろうか。では、何故そんなに多くのカードを持つ必要があるのか。例えば、バスや電車のカードは割安になるものもあるが、そうでないものも多く、金銭的には何の得にもならないのに持っている人が数多くいる。しかし、切符を買う手間や小銭をジャラジャラと用意する手間が省けるというだけでも、大きな要因となるのだ。金銭にうるさい地方の人々まで普及しているということは、まさに手間の省略が得に繋がることを表していると思う。会員カードは特典もあり、利用者にとっての利点もあるが、やはり店にとっての利点の方が大きいだろう。固定客を増やし、客の動向を調べ、といったことが容易になるからで、互いの利益を追求する為の手法として普及したようだ。それ以前から普及していたが、どうもこの国では今ひとつ浸透していなかったものにクレジットカードがある。借金をしてまで物を買う必要は無い、という主張が当然のことと受け止められていた時代には現金払い以外の支払い方法は無く、当然のことながらキャッシュレスなどという言葉は存在していなかった。しかし、分不相応な買い物が流行し始めた頃から急激に普及して、皆の財布の中に入り込むようになった。その上、最近では複数枚のクレジットカードを持つ人の方が多くなっているだろう。特典色々のカードが次々と登場し、客がそれに対応しようとすればその度に入会しなければならない。ガソリンスタンド関連、飛行機のマイル関連、その他様々なものが世の中に溢れており、どうにも制御しきれない。以前ならば、限度を知らない買い物をするからと敬遠されていたものが、いつの間にかこんな特典があるからと歓迎されるようになった。しかし、最近では別の危険性が指摘されている。カードは幾つかの例外を除き、情報を記録することが利用の条件となる。つまり、個人情報がそれぞれのカード会社に握られているわけだ。情報漏洩が大きな問題を引き起こしていることからすれば、カード利用はそういう危険性を孕んでいるというべきだろう。特典と引き換えに、自らの情報を引き渡していて、それが様々な形で利用される可能性があるわけだ。逆に言えば、企業は特典を餌に情報を掻き集めているとも言えるだろう。そのつもりがあればいいのだが、そうでないと慌てふためくことになるのかも知れない。
久しぶりに自転車に乗った。体力は衰えているから、昔のように颯爽と走るというわけには行かないが、それでも不思議なほど滑らかに走れるものだ。自動車に比べるといくらかゆったりとした感じが味わえ、一方で歩くのに比べて景色の流れが少し速い。移動手段はそれぞれに違った感覚があり、電車での移動も、飛行機での移動も、それぞれに違った楽しみとなる。
小さい頃、あれほど苦労して乗れるようになった自転車も、久しぶりなのに苦もなく乗りこなせる。まったく不思議なものだと思える。機械で考えてみたら、ある作業をやらせるのに正確にプログラムして、何度も点検しなければならない。確かに一度組んだプログラムはそれを何度も繰り返して使うこともできるし、記録しておけばあとで必要になったとしても簡単に使える。しかしこれらの作業は機械を使う人間が意識的にいろんなことを選択してやらせるわけで、無意識のうちに自転車に乗れてしまうといった感覚とは大きく異なるように思える。細かいことを言えば逆に似た所が出てくるのだろうが、パッと感じたものは大きく違うように思えるのだ。そんなところから人間の能力の大きさを感じたとしても、何もおかしいところは無いように思う。自転車はそういうものの代表格だろうが、たとえば水泳もその一つである。子供の頃、運動能力抜群の同級生が水泳だけは苦手なのを見て、おやっと思ったことがあるが、持って生まれた才能があってもそれとは違う何かが必要なのだと思う。似た事かも知れないが、冬のスポーツであるスキーやスケートにも同様のことが言える。ちょっとした訓練が必要であり、始めは苦労するかもしれないが、慣れてしまえば苦もなく滑ることができる。それだけでなく、自転車に乗ることと同じように、少しぐらい時間が経過していても、体で覚えたことは無意識に実行することができるのだ。生き物とはまったく不思議なものだ、と思ったりもするが、はたしてすべての生き物がそんな能力を持ち合わせているのか、よくわからない。ペットとして飼われている猫や犬は、時々そんな様子を見せるけれども、もっと小さな生き物である昆虫でそんなことを感じたことはない。とにかく生きている時間が短いし、まず生き延びることが大切だから、そういったことは少ないのかもしれない。はっきりとは覚えていないが、ファーブルの昆虫記を読んだときも、彼が語る昆虫の話の中に、そんな話があったような気もする。人間から見ると、普段にない障害に阻まれたとき、何かしらの対応をしているというのだ。それが学習によるものなのか、単なるでたらめな試みの一つなのかは定かではないが、解釈はいかにも人間的なものだったように記憶している。それにしても、自転車の乗り方をどこに覚えているのだろう。体が覚えるとはよく言うが、はたして反射的なものだけでできるものなのだろうか。こんなことは考えても何の役にも立たないのだろうが、久しぶりでも乗れた自転車の上で、ちょっと思いついた話である。
若者は何につけても純粋に、と言われたこともあったが、最近はそうとは言えないことが沢山起きている。それでも、そんな考えに囚われた人々は教育という手段を正しく使えば何とかなると主張する。無垢という言葉は垢がついていないだけでなく、知識もないのだから、それを上手に使えばいいというのだろう。問題は無垢かどうかの判断にあると思うが。
若者が何かに取り憑かれたように一つのことに精を出す姿が、美しく伝えられることは頻繁にある。だから、ずっと昔はスポーツに打ち込む姿に感動した人も沢山いた。しかし、最近の動向を眺めていると、そういう捉え方をする人が急激に減っていることに気づく。見る目が変わったのか、はたまた見られる側が変わったのか、すぐに答えを出すわけにはいかないのかも知れないが、たぶん両方が徐々に、しかし確実に変化してきたためだと思われる。どちらが先かを論じるのはさらに難しいけれども、そんなことはおそらく問題ではないのだろう。純粋、無垢と見られていた若者たちが、実際には意外に思えるほど様々な思惑を抱き、それを成就するために努力を惜しまなかっただけであり、その姿を誤解しながら眺めていたのだろうから。そんな流れがある中でも、うまく目的を果たした人々には何の問題も起きないわけだが、逆に何かしらの障害に行く手を阻まれ、人生の目的さえも見失ってしまった人がいるから、彼らの考えや行動を一概に否定するのは避けておきたいところだ。20年ほど前なら運動に精を出す姿と聞けば、多くの人々が高校野球をその代表に掲げたのではないだろうか。勝利を信じて全力を尽くす、そんな姿を目の当たりにして感動した人も沢山いただろう。しかし、いつの頃からかそういう見方が影を潜めるようになってきた。地域代表たる学校のはずが選手の出身地は全国に散らばり、あたかも耳目を集めるための進学のような雰囲気が漂い始め、見るものの期待する純粋さが汚されたような印象を与えられた。さらに、一般の高校生の道徳観の低下に比べて、異様に思えるほどの規律を要求する連盟の存在から、そこに何かしらの矛盾を感じた人も多かっただろう。そんなこんなの流れで、徐々に人々の関心は薄れ、以前のような人気はなくなりつつある。全国大会の盛り上がりは海外でも取り上げられ、野球発祥の地でも高い評価を受けていた。しかし、それが虚構の世界のもののように見られるようになると、見方が急激に変化し、一挙手一投足に思惑を感じてしまうようになる。一体全体何が本当の姿なのか、本人たちも含めて誰にもわからない状況にあるのではないだろうか。そういう中で、今問題となっている事柄についても、それ以前に代表校の辞退という前代未聞の出来事があったうえに、マスコミの得意とする情報操作とそれを利用しようとする関係者の思惑などという、何とも見るも無残な様相はこれまでの経過を端的に表すものとなっている。誰が何をしたか、それを明確にしたとして、何が残るのか、情報を眺める側からはさっぱりわからない。にもかかわらず、大騒ぎをして、多くの関係者を巻き込むのは、これまでの流れとまったく同じで飽き飽きしてくる。本当にすべてを明らかにしたいのならば、加害者と言われる人の行為だけを捉えるのではなく、被害者の行ったことの是非にも触れるべきだろう。極端な偏向を常とする報道関係の動きには、いつもながら呆れるばかりだが、それにしても純粋やら何やら、そろそろ幻を追いかけるのを止めたがよい。
外交の場で、互いに乗り越えることのできない壁を意識するといった表現が使われる。その一方で、一般社会においても、無意識に築いた壁が互いの理解を妨げることがあると説いた本が爆発的に売れた。自らの経験に基づく知識を元に意見を交わすわけだから、場合によっては相容れないものが出てくるのは仕方がないが、そうでないことが多いのも社会の常ではないか。
話し合いとか議論とか、この国の人々は苦手だと言われる。何故なのか、いろんな意見があるようだが、その中には自分の考えを表現するのが下手というものもあれば、思惑ばかりに縛られて交渉の余地が作れないというのもある。いずれにしても、苦手な人々が外に出ていって得意な人々とやり合うとなれば、結果は自ずから明らかなのではないだろうか。ただ、外交などの特殊な場では本来それに長けた人々が派遣されるはずだから、こんなことは起こらないはずだった。最近の動きを見ているとどうもその辺りにまで病気が蔓延してしまい、交渉事が進まないようになっているようだ。特に深刻なのは交渉を得意とする人々がある特徴を持ち始めたことで、それはつまり相手の意見を徹底的に拒否するというやり方である。どんな打開策が出ようとも、自ら持ち込んだ考えのみを取り上げ、それが採用されるまで不毛な議論を戦わすわけである。これは以前であれば、よほど特殊な場合を除き成立しないものだったが、最近は特にその有効性が明確になりつつある。国の間での交渉事で成立する手法は、それ以外の場でも使えるはずなわけで、交渉事が下手な国の中でもそんなやり方が横行するようになった。本来下手くそである原因は、妥協案の持ち込み方の稚拙さにあるようだが、そんな中で自らの考えを曲げず、徹底的に相手を糾弾するというやり方はかなり有効となる。子供が親の言うことを聞かずに玩具を欲しがるときと同じで、どんな提案も手に入れたいものに繋がらないかぎり却下されることになる。さて、そう考えてみると、そういったやり方への対応として思いつくところがあるのではないだろうか。つまり、大人が子供を相手にするようにして、頭からダメだしをするとか、子供同士の遣り取りの形式に持ち込み、大人がよく行う配慮をあえて加えないとか、そんなことが場合によっては効果をもたらすかも知れない。何も政治や外交といった大袈裟な場面でなくても、最近はこういう遣り取りが身近で交わされる。その際に互いへの配慮ではなく、自分の思惑、欲望に縛られた考えを持つ人が議論に加わっていたら、大人と子供の話し合いのようになってしまうだろう。そこで大人らしく子供の考えに配慮してとするのは、相手が本当に子供だった場合であり、大人同士の交渉でそんなことをしても相手の思い通りの結果になるだけである。ちょっとした油断と甘さがあとで取り返しのつかない結果を産んでしまったという経験を持つ人が沢山いると思うが、そこには相手の議論上の年齢の見誤りがあるように思える。本来、貸し借りが関わると思える交渉事でも、幼稚な思考回路を持つ人々にとっては無視されるのが関の山である。大人同士の会話という思い込みを捨てて、子供を諭すようにとか、叱るようにとか、そんな感覚で議論に臨んだほうが結果として明るい方向に導くことができるという可能性を考える必要があるだろう。社会が成熟してくればくるほど、未熟な者に対する寛容さが命取りになりかねない。身の回りにしても、より大きな社会にしても、こんなことを意識する必要が出ているように思う。
生活の必需品といったら、何を思い浮かべるだろうか。たぶん、電化製品やらの身の回りの品物を頭に浮かべるのではないだろうか。しかし、生きていく上で欠かすことのできないものは何かと問われたらどうだろう。工業製品の大部分はリストから外れそうである。その代わりに表の一番上に出てくるものといえば、おそらく食べ物となるだろう。
食べるものがなくても生きていけるとしたら凄いことだ。これほど多くの人々が地球上で飢えていることを目の当たりにすると、まず第一に考えねばならないのは食物であることに気づかされる。しかし、豊かな毎日を送っているとそんなことを思いつかなくなるのだから、ちょっと恐ろしい感じもする。食べ物について、売り場を歩いていて気がつかされるのは、その原産地の多彩さである。あんなところからこんなものが、というだけでなく、本来この国固有のものだったと思われるものまでが、どこかからやって来るのに気づくと、何かが狂ってしまったのではと思えてしまう。人間の生活の範囲が狭かった頃は、ほとんどのものを自給自足で賄っていた。何かを欲しても手に入れられる状況になかったからだ。それが人の行き来が盛んとなり、必要と思われるものを交換する習慣が出てくると、そこに満たされぬ欲望が徐々に出てくるようになる。交換するものを持たない時にも手に入れるための道具として共通貨幣のようなものが登場し、それはそれ自身の価値に見合うものとの交換に用いられた。さらに制度が複雑になると、その規則の外ではまったく無価値のものに価値を持たせ、交換に用いられるようになった。これが現代使われている紙幣や貨幣にあたるものだろう。そんな世の中になると、貴金属類を貯め込むことだけが富豪の証とはならず、紙幣を貯め込むことも同じ意味を持つようになる。しかし、本来無価値のものを貯めているだけだから、わらしべ長者の話のようにではなく、物との交換を介さずにそれらを殖やすことも可能となった。紙幣と紙幣の交換によるものの一つに為替市場にのせたものがあるし、それとは少し違った形のものだが先物市場は最終的には物が絡むとはいえ、それまでは単に価値の上下をうまく乗りきることによるものといえる。元々商売というのは何かを売って、それによる利益を元手に次の行動に出るという形式をとっていたが、先物やら為替やらという世界では売り買いするものが実際には存在していないとも言える。そうなると何が起こるのか、乱高下による儲けを目論む人々が出てくることも考えられるだろうし、先物を扱う場合にはそこにある物自体に興味のない人々が参加することになる。実際に物を扱う場合には需要と供給の均衡が基本となるはずだが、物を扱わない人々にとってはそんなことはどうでもいいことになる。結果として、現実にはあり得ないような動きを見せても、その波に乗ることで儲けを出す人々にとっては歓迎すべきことで、それがその後の展開によって経済的な悪影響を及ぼすことになっても、我関せずということになるのではないだろうか。今まさにそういう時代に突入して、利己的な蓄財とそこから生まれるかも知れない社会の破綻が現実のものになりつつある。確かに、自らの生活を豊かにするための一手段には違いないのだが、自由経済という名の下、かなり歪んだ社会の形成がなされつつあるのではないだろうか。このまま行けばどんなことが起きるのか、一部の人々は気づいているのだろうが、今手に入れている富を手放す気にはならないのだろう。
先日ある集まりでちょっとしたことで盛り上がった。別段性差別でもないのだが、最近の若い人々、特に女性に目立つ兆候が見られるというのだ。女性にとっては永遠の問題と思われたはずの体型にどうも以前とは違った傾向が見られるという。国内よりは海の向こうの方がその傾向が激しいと言われるが、はたしてどんなものか、気になるところである。
そんな話題で盛り上がるのもどうかと思うが、実際には将来的な問題としてかなり深刻と言われるところもある。つまり、弱年期あるいは壮年期において過度の肥満になっていた場合、その後の経過はかなり酷いものになると言われている。つまり、心臓疾患やら高血圧やらといういわゆる生活習慣病になる可能性が高くなるわけで、それだけでも厳しい生活を強いられるおそれがあるからだ。どの程度の肥満度かは人それぞれに違っているはずだが、全体の傾向としてその度合が高くなっているということは、社会全体の問題として考えなければならない点が増えてくる。たとえば、病気になりやすい人が増えれば、それだけ医療費が嵩むことになり、結局保険料に響くことになる。また、企業などの立場から見れば、社員の医療費の上昇は当然経費に跳ね返ることになる。いろんな問題が生まれるが一番大きいのは家族にとっての問題だろう。こういうところから短命化する傾向が出てくれば、家族として真剣に考えねばならないことが増えるわけで、ちょっとくらいと考えていいのかどうか、難しいところだろう。ある程度年齢を重ねたあとで肥満化した場合にも影響が大きいのだが、若いうちからの肥満はさらに深刻度が大きいと言われるし、実際には親の目の届くうちからのものだから、本人だけの問題と捉えるのもどうかと思う。そんな中で社会問題化している海の向こうでは、学校にその責任の一端があると言う判断が下されているようだ。教育現場でも経費削減が実行されている国では、必要最小限の予算といえども削られるおそれがある。その中で何らかの形で寄付を募ることが勧められており、そんなところに肥満の種があると言うのだ。街中での自動販売機の普及率ではこの国が圧倒的に他をリードしていると言われるが、学校での普及率はさほどでもない。それに対して、あちらでは特殊事情により普及率が急速に上昇しているというのだ。清涼飲料メーカーの自販機を設置すれば、かなりの寄付がなされると聞けば、誰だってそうしたくなるだろう。その結果、普及率が上がったことが子供たちの肥満を招いたと親達が訴えたのだそうだ。何とも責任転嫁の極限だと思うのだが、とにかくそういう訴えに従わねばとんでもない金を要求されることになる国だから、当然の結果として規制がかけられることになったという。欲を制御するのは難しいから、環境を整えることによって何とかしようとする考えはいかにも正しいように思えるが、単に逃避行動に出ているだけのことである。自らの子供たちの欲望を抑えるように強いることができないのを、他人にやってもらおうというのはいかがなものだろうか。一事が万事この調子という国では当り前のことと受け取られているだろうし、そういう措置によっていい環境が作られているという勘違いも当然起きているだろう。しかし、環境によってではなく、自分の中から欲望を抑える気持ちが出てくるようにしておかないと、将来とんでもないことになるのは明らかなのだ。さて、次は何が起きるのか、楽しみにすることはできそうにもない。
勝ち負けに拘る人が世の中に多いようだ。政治の世界に勝ち負けを採り入れて、何ともぶざまな展開を見せる人もいるし、もっと一般化すれば子供を相手に将棋の勝ち負けに拘る親もいる。勝負というものは常に勝ちと負けを明確に分けるから、勝たねばならないと思う人にとっては相手が誰であろうと変わりはないのだろう。他人には大人げないように見えても。
そういう勝ち負けを煽る方法はいくらでもある。拘る人には特に一言声を掛けるだけで十分で、時には何もしなくてもよい。こちらが観ていると思うだけで異様なほど張り切ることが多いからだ。これは一方では誰も見ていないとそんな拘りも出てこないで済むということになる。すべての人々が拘るわけではないが、そんな人でもたとえば順位付けを見せられたらちょっと気になるのではないか。ライバルと目される相手を持っていなくても、順位となれば何処に自分がいるのか気にならない人はいないだろう。先日そんな表が発表されていて、その中味が意外なもののように映った。このところ順位付けは流行しているから、こんな書き方をしてもさて何だろうと思う人が多いだろう。また、新聞に掲載された記事の場合、どの新聞を読んでいるかによって大きな違いが生まれるから、それもまた的中させることを難しくしている。さっさと言ってしまえば、その時の順位は大学に関係する順位である。確か昨年度の決算報告からの黒字の額の多少についての順位だったと思う。意外だと書いたのは、まず一番であるべきものが一番上にいなかったことであり、次にはいつもは地方大学とひと括りにされる学校が上位にいたことである。前者は単に一番になるか二番になるかの違いであり、その額の差もそれほどでなかったから気にするほどのことはないだろう。しかし、後者はちょっと解せないところを産んでいるように思える。簡単に言えば、付属病院の収入と支出のバランスから生まれたものらしいのだが、それだけでもなさそうな気がする。すぐには分析できないものだろうし、新聞では合計しか載せられていないから何もわからない。それぞれに特徴を出しているのであれば、監督官庁の思惑通りにことが進んでいるとも言えるだろうが、そんなに簡単かどうかすぐには判断がつかない。一方、当り前のことだが、この中には私立大学は含まれていない。なぜなら法人化したあとの大学の事情を説明するために発表されたものだからだ。そうなれば、特殊事情を抱えたものに対して、勝ち負けに拘るものたちは色々な文句をつけるようになる。正当な競争が行われていないというのが最も大きな理由になっているようだが、この辺りは受け容れがたいものがある。なぜなら、大学を教育機関と見るか、研究機関と見るか、はたまた別のものと見るかによって、解釈が違ってくるからだ。法人化は企業と同じ立場にするものと思えば、確かに収支は重要であり、それによる順位付けも大きな意味を持ってくる。しかし、教育に携わっていることには変わりがなく、その点を無視した順位付けにどれだけの意味があるのか、疑問を持った人も沢山いただろう。何でもかんでも、適当に数字を選び出して順位をつければ、それに乗ってくる人もいる。それがどんな意味を持つのか考えないまま使う人が増えれば、とんでもないことになるはずだ。今の状況はまさにそんなところにあるように見える。ただ、そんな中でも小さな大学がそれぞれに努力しているように見えるという意味については、重要なものと言えるかも知れない。