親が子供に期待することとは何だろう。子供の頃の漫画で、肩を壊した元プロ野球選手が子供にその夢を託すという設定のものがあったが、あそこまで極端ではないにしろ、自分の実現できなかったことを子供に実現させようとする親もいるのではないか。漫画の主人公が小さな子供の頃から苦労しているのを見て、自分の姿と重ね合わせた人がいたかどうかはわからないが。
上を目指すという心掛けは何をするにしても重要と言われる。それだけ努力を怠らないからだろうが、これは自分の中から出てくる話であって、周囲からの圧力となってしまっては邪魔になることの方が多いのではないだろうか。実現を次世代に期待すると言うのは、何も親子関係に限ったことではなく、組織の上下の関係にも当てはまることだと思う。実際に成長を続けなければならないという意味では、企業の体制はかなり厳しい状況に置かれているから、こんなことは日常的に行われているのかも知れない。親子関係にしろ、上下関係にしろ、期待するということはそれだけ厳しい環境に置くことになり、期待外れの部分については糾弾されることもある。そういう意味では最近の状況はかなり悪いと言わざるを得ず、次世代に期待しようにもこれでは駄目だという意見の方が多く聞かれるようになってしまった。そんな中でよく聞かれることに、目標を持たないとか、目的を定めていないとか、そんな話がある。これらのことを苦言の一部として、若者における傾向について語るときに常用するのだ。確かに、何をするにしても目標を定めたほうがやりやすいだろうし、努力のし甲斐も出てくるだろう。目的を持ったほうが、その実現のための一段一段を見定め易いだろう。しかし、これらは先達の経験の上に成り立つ事柄なのであって、今渦中にある人々にとっては未経験の事柄でしかない。目標や目的を持つことを重視すればするほど、どうも筋が違ってしまうのではないかと思えるのは、こちらの見方がずれているからだろうか。まず考えて欲しいのは、自分たちが目の前にいる若者たちの世代の時にどれほどの目的、目標を持っていたのかということだ。一部の早熟で、目的意識が確立していた人を除き、ほとんどの人はただ何となく歩んでいたのではないだろうか。それに対して、あとになってあの時ああしておけばという反省の下に、そんなことを強調するのではないだろうか。ただ、目的、目標を設定すること自体が悪いと言うわけではなく、実際にはその設定を誰がするのかにもっと注意を払って欲しいと思っている。つまり、指示待ちや周囲の状況ばかりを窺っている人々に目標論を押し付けたとしても、そこに生まれるのは目標を授ける役割なのではないだろうか。長い目で見れば、後手に回ったとはいえ、自分なりの目標を作り上げてきたことが、今の親の世代、上司の世代をその地位に引き上げてきたに違いない。ところが、今慌てて目標を設定させられる状況に追い込まれている世代はおそらくこのままでは自分なりのものは作れず、他人の用意したものを受け取るだけになることが確実と思えるのだ。暗中模索は先が知れていなかった時代には他に選択肢がないとして受け容れられていたが、今やそんなまどろっこしいことはいけないとする意見が多くなった。それが将来どんな結果を産みだすかを考えずに言っている人の方が多いことが、一番の心配の種のように思えるのだが。
電車の中やバスの中をはじめとした公共の場で、隣の人が何をしているのか気にする人が減っているのではないだろうか。監視をするわけではなく、どんなことをしているのか気にするくらいの気持ちだったのだろうが、そんな雰囲気が昔はあった。そんな中で変なことかもしれないと思いながら何かをするのは勇気がいったのだろうが、今はお構い無しである。
いつごろから、どこら辺から、こんな変化が目立ち始めたのか、はっきりと思い出せないが、そういった兆候は人が沢山住んでいる地域で始まったように記憶している。はじめに書いた話ではなく、都会での孤独を描いたものが大部分だったが、それは隣に住む人が何をしているのか、どんな人なのか、まったく意識しない人の登場を告げていて、それがどれほど異常なものなのかといった雰囲気が漂っていた。ところが、いつの間にかそんなことは当たり前のこととなり、都会ばかりか田舎に向かってそんな病が伝染することになった。沢山の人がいるから、変な奴がいても仕方がないのだという主張はその頃から聞かれなくなったが、何故こんなことが起きているのかを説明できる人はいなかったように思う。小さな組織にも起きているということは、人が暮らす組織の最小単位で起きていることを指していると思うのだが、もしそれが事実なら最小単位はほとんどの場合家族であるから、家族の中で隣を気にしないことが横行することになる。こんな話にそうかなるほどと思う人は、ある部分危険性を孕んでいるから注意して欲しいが、身内という言葉が死語になりつつあるのはそんなところが原因かもしれない。いずれにしても、個人主義と呼ばれる海の向こうからやって来た考え方が、どこでどうねじ曲がってしまったのか、誰とも関わりを持たないといった形に変化して、この国では広められたのかもしれない。まさにそんな雰囲気が漂っているのだが、未だにその辺りのことを問題視する人は少ない。家族という身内の集りの中でも、個人を尊重することの重要性が力説され、結局のところ全ての構成員が悪い意味での独立を余儀なくされる。そんな方向に個人主義が向かってしまった結果が、この国の現状を表しているのではないだろうか。個人主義という形での尊重が、実際にはあらゆる面で無責任で、お互いに干渉しない組織を産みだし、互いの孤立を招いたというべきなのだと思う。そういう意味で、個人とか独立とかいうべきではなく、現状を表すには孤独とか孤立といった雰囲気の言葉の方が適しているのではないだろうか。孤人という言葉はないが、まるでそんな感じなのだ。考え方を紹介した人々の責任も重いと思うが、自分に自信がないために、そういった間違ったやり方を有難く奉って、闇雲に実践してきた人々にまったく責任がないわけではないだろう。互いを尊重するためには、それぞれが確立していないといけないのだが、そうはなっていない。個人主義は集団が維持されていてこそ成立するはずなのに、集団が壊れるような方向に向かったわけだから、どうにもならないわけだ。そんな調子で動いてきた結果が、今車中で見られる光景を産みだしたのだろうが、さてどうするべきか。社会的に警告を発することも大切だろうが、一度形成されたものを再び変形させるのは難しいし、時間のかかることになるだけだろう。社会に責任を持つ人々は別だが、一人ひとりの人々がやれることは何かと考えれば、それはおそらく自分の周りについて考える事が精々である。まずはそんなところに気を配ることから始めるべきなのだろう。
この国は明治の開国以降先進国の真似をして、という言葉がよく聞かれる。確かに、近代文明という意味ではその通りなのだろうが、様々な文化を輸入してきたという意味ではたった百数十年の歴史しかないわけではない。鎖国の時代でさえ、一部にはそんなものを採り入れる動きがあったし、さらに遥か昔からそうだったことは正倉院の宝物を見てもわかる。
そういう歴史の上に国が成立していると言っても、実感の無いところからは何も出てこない。それより、今目の前にある問題に他国の影響がどんな影を落としているかを見た方が、真似の実態は理解しやすいのではないだろうか。戦後の変遷はそれまでの欧州偏重から米国一辺倒へと雛形の元になるものの源が変わっていったことを如実に表している。それでも、制度的には戦前、特に明治期、に採り入れられたものがいくらか残っていたから、身の回りの製品ほど目立つことはなかったのかも知れない。ところが高度成長期を経て、バブル期に入る頃には国力の大きさを誇るために大国の仲間入りをしなければならず、そこに効率のよさを導入する必要性が訴えられるようになった。この辺りから、偏重が急速に進み、近代国家となるためにはあの国の写しとならなければならないという脅迫観念的な主張が罷り通るようになったと思う。その結果は、その後の急速な減速、停滞に現れていたはずなのだが、そこでも問題を打破するための手法として同じ轍を踏むやり方を採用してしまった。何事も停滞してくれば、決まったことをいかに効率良くこなすかが問題といってしまえば、確かにこの考え方は正しいことになるのだが、先を進んでいる国を見るかぎり、同じことを少し違った形で繰り返しても、結果としてほとんど変わらないところに行き着いてしまうことは確かなのではないだろうか。もっとゆったりと構えたほうがいい時でさえ、次々出される要求に応えることに腐心して、急激な変化を無理矢理導入する。何が起きるのか、予想もつかないはずなのに、薔薇色の未来を提示することで、納得を得るようにしている。これはいかにも正当な手法のように見えるが、実際には詐欺と変わらぬ行為になるのだ。そんなことが次々起きてきたが、結局停滞しているものを打破するという名目の下にすべてが無深慮に受け容れられてきた。しかし、やり方自体を考えてみても、あちらを筆頭に様々な国で起きている歪みは顕在化しており、そんなことを真似してもろくでもないことにしかならないことは明らかである。たとえば、無就労者に対する社会福祉の必要性から、ある大都市の再開発地区に大規模な集合住宅が建設され、そこに社会的弱者たちを迎え入れたのだが、結果としては失敗に終わった例がある。何が起きたのか。それらの住宅の多くでは母子家庭が形成され、父親不在の家族の形成が急速に進んだのだそうだ。働かなくてもいい、あるいは定職に就かなくてもいい、という環境が形成され、将来設計が根本から崩れてしまうと、それまで道徳的に受け容れられなかったことがいとも簡単に蔓延することになる。母子家庭では、誰の子かわからぬ子を育てる母親と、同じようにしてきたさらに上の世代が生活し、出産の低年齢化が際立ってしまった。父親となるべき人物にはそのつもりはなく、人間としての家族形成は根本から破壊されたと言うべきなのだそうだ。福祉という名の下に、生活を破壊するのでは本末転倒であり、何の意味もなさないだろう。そういうやり方を同じように導入するとしたら、はたしてどれだけの賛成が得られるだろうか。ただし、そこには別の騙し文句が加えられるに決まっているのだが。
算数、数学は役に立つのか、そんなタイトルの掲示板を立ち上げたが、今は閑散としている。まあ、そんなものだろうなとは思うけれども、ほとんどの人にとってはどうでもいいことなのだろう。特に、役に立つという意識を持つほどではなく、ただ単にどこかで使っているかも知れないといった程度であり、何しろ意識下にある話なのだろうから。
そんな世の中なのに、何故だか知らぬが数学に関する本が売れているという。たぶんある物書きが何とか博士のという本を書いたせいだろう。その後も、企画に飢えた出版界の人々はここぞとばかりに対談集を出し、そんな流れに乗せて他の本にも注目が集まったのではないか。但し、それらの本を一つも読んでいない者にとっては、批評も感想も何もあったものではない。何故流行するのかさっぱりわからないが、どこか気になるところがあるのかも知れない。ちょっとした蘊蓄のために、この辺りを押さえておかねばと思う人もいるだろうし、逆に遅れてはならじという人もいるだろう。いずれにしても大した理由でもないものに金を使うのは国が豊かなせいかも知れない。そんなこじつけは脇に置いておいて、本の題名と売り言葉から気になったものを一つだけ取り上げてみたい。蝉についての話だが、そんなものが算数、数学と関係あるのかと思った時点で、その人々は罠にはまりかけているだろう。数学は何に対してもこじつけの如くまとわりつき、そこに何とも不可思議な解釈を加える。そんなことを常としてきたものに対して、何故と思うことは既に相手の土俵に乗せられているわけなのだ。海の向こうでも、西海岸では真夏でも蝉の声は聞こえない。おそらく砂漠地帯に無理矢理作った人工都市というのがその主な原因だろうが、中西部から東海岸にかけてはうるさいほどの鳴き声が聞こえるそうだ。こちらと同様色々な種類がいるらしいが、その中で注目を浴びるものがある。17年ごとに大発生を繰り返すもので、そのまま17年ゼミと呼ばれている。別の言い方をすると、この蝉が卵から成虫になるまでに17年かかることを意味している。これについて数学が蘊蓄を垂れるわけだ。つまり、17という数字は1と17以外では割り切れないいわゆる素数であり、そこに大いなる理由というか理論というかそんなものを展開するらしい。何しろ中味を読んだことがないから、想像で書くしかないのだが、題名とキャッチからすればこんなところが始まりになっているのだろう。さらに進めば、おそらく他の蝉との兼ね合いが紹介され、素数の意味合いを解説することになるのではないか。ただ、そこから先がわからない。戦略的なことを述べるにしても、それぞれに両刃の剣といった感があり、一概に有利とは結論づけられずに困ってしまうからだ。たとえば、素数だから、他のより短い成長周期をもつ蝉と発生周期が重なることが少なく、それだけ繁殖に有利であると結論づける方法もあるが、土の中に何年もいるときの競争を無視していいのかと思える。また、一度に大発生するのなら、その年に天候異変が起きたら一発で絶滅の危機に瀕するかも知れない。そんなことを考えると、たぶん読んでも面白くないなと思えてしまうわけで、リストから外すことになるわけだ。まあ、どうでもいいことを含めて、数学はあらゆることに口を出すわけで、そこに法則を見出せばそれだけで面白がる人々が関わっているのだろう。まあ、それはそれとして、掲示板の方も是非覗いて欲しいものである。
悪いことや間違ったことをしたら謝る。当り前のことだろうか。誰が見ても間違ったことならばその通りなのだろうが、人それぞれに見方が違うところで、こういった考え方が通用すると思っていると落胆したり、腹立たしく思ったりしてしまうのではないだろうか。もう一つ、謝り方にも色々とあって、どれが正しいとは一概に言えない部分があるだろう。
外国、特に太平洋の向こう側にある国では、どんなことがあっても謝ってはいけないと言われていた。たとえば、車の事故を起こしたとき、謝ればそちらに非があることになり、裁判で不利になると言われていた。しかし、最近では謝ることの心理的な重要性を指摘する声が大きくなり、事故直後のそういった会話は責任の有無とは無関係であるとする意見が出ているようだ。頑として謝らないことにより、互いの人間関係が歪んでしまい、社会全体にそういった風潮が蔓延した結果、どうにもねじまがった世界を作り出してしまったからのようだ。それにしても、これほど極端ではないにしろ、些細なことを含めて互いの意志の疎通が図られにくい世の中ができているようだ。日常の挨拶をしなくなり、無言で画面に向って働いている人々にとっては、人との関係において円滑に進めるために必要な言葉の交わしあいも面倒なものになってしまったのだろうか。一方、もっと深刻な問題について謝るかどうかを論じることがある。たとえば、原爆投下の問題はいまだに論じられているが、その是非を論じるだけでなく、当事者たちの気持ちを理解しようとする動きがよく紹介される。丁度節目の年だったせいもあるのだろうが、どこかでそんなことを取り上げていて、当事者が頑なに謝罪しないのを映像は映し続けていた。被爆者にとっては何とも納得できないものだったのだろうが、相手は落とした自分たちが悪いのではなく、そういう状況を招いた人々が悪いのだという主張を繰り返していた。年齢的なものがあるのかどうかはわからないが、彼らにとって謝罪することは自らの非を認めることになり、それ自体許しがたいこととなっているのかも知れない。それにしても、こういう平行線は何処にでも現れてくるものなのではないだろうか。戦後の処理についていまだに揉めている事柄についても、何をどう認めるか、どう処理するか、はたまたどう処理されたか、などといった問題が山積していて、簡単な解決法など見つかりそうにもない。被害に遭った人々にとっては何とも許しがたいことなのかも知れないが、それとて当時の状況を考慮せずに論じていては判断を誤る可能性が大きいし、ただ闇雲に謝罪を繰り返していてもおそらく何も解決しないのだと思う。謝ることの重要性は皆が認めているところだろうが、誰がどんな形でどうすればいいのか、という問題になると、結論が出せなくなる。日常的にも遣り取りが難しくなってきた時代に、さてこれほど深刻な問題をきれいに片付ける方法などあるのだろうか。そんなことさえ議論しにくくなっていて、一方的な主張の浴びせあいになっているようでは、出口は見えてきそうにもない。歴史は勝った者の解釈が残ったものであるという話もあり、まさにそれかも知れないと思える部分も多々あるのだが、だからといって負けた者が正しいことをしたとは言えないだろう。いずれにしても、難しい問題であることだけは確かである。話を元に戻して、日常生活で謝ること、あるいは一言声を掛けることが難しくならないようにするためには、どんなことが必要なのだろうか。こちらは、たぶんちょっとしたことですみそうな気もするが。
本が売れないという話を聞いてから、もうずいぶん時が経ったような気がする。書籍の売れ行きに影響する因子として考えられるものに、どういったことがあるだろうか。流行という言葉で片付けてしまえばそれまでだが、確かにこの二文字がすべてを表しているのかも知れない。要はどうやってそれに乗せるかということなのだが、容易なことではないだろう。
昔であれば、新聞雑誌に掲載される書評欄が最も影響の大きなものとして君臨していた。しかし、出版される書籍の数が急増し、種々雑多なものが巷に溢れるようになると、どうにもすべてを調査することは難しくなった。当然上手の手から漏れることも多くなり、流行という観点からすれば良質な情報を流すことができなくなった。これと似たものに、ある番組の書評のコーナーがあり、それはそれでかなりの視聴者の目を集めている。しかし、実際に爆発的な売れ行きに繋がるためにはこれでは不十分なのである。本好きの人々がそういう情報を漁って、面白そうな本を探しだすという図式では、本好きの数が減ってしまった今どうにもならないことが明らかだからだ。そんな中から産まれたのは、本好きではないが、本屋に足を運ぶ人を対象にした紹介法である。書店の店員が自分の観点で選んだ本に宣伝文句を書いた札を付けるという手法で、ある意味専門家ではない人々の分かり易い解説といった雰囲気があり、突然売れ出した本の話題とともに注目されるようになった。専門家を嫌う傾向は何処にでもあるようで、そういうお高くとまっている感覚は今最も嫌われるものらしい。それに比べると友達の一人が推薦する本のほうが馴染みやすく、共感できるものと評価されるわけだ。確かに本を読むこと自体が一大作業となった今、いかに気楽にいかに分かり易く書かれたものかが、最も重要な因子となっているわけだ。だからと言ってしまうと言い過ぎになるのだろうが、書き手の方も連続して売れる本を書くことが難しくなっている。身近な存在としての書き手であればあるほど、次の流行に乗ることが難しくなるのではないだろうか。中には、何冊も同じ系列のものを出すことで二匹目、三匹目のドジョウを狙うところもあるが、読み手の方もそれほど馬鹿ではないらしい。特に最近の小説には一発屋が多く、斬新な書き方と言われれば言われるほど、飽きられやすくなっているようにも見える。広告の狙い目が何処にあるのかよくわからないが、それもまた以前にはなかった様相を呈しているように思える。まるで権威が推薦しているようなやり方も、最近は横行しているようだが、これは上に書いたこととは正反対の手法に見える。おそらく、人それぞれに感じ方が違うのだろうが、こういうことの難しさを表すものに思えてくる。また、どれだけの影響力があるのか、広告と見た瞬間に無視してしまう人も多いだろうから何とも言えない。いずれにしても、依然として本好きにとっての情報源は何と言っても書評であろう。それもある新聞の書評の評価が特に高いらしく、そこに掲載されると売れ行きが変わるという。ちょっと気になっていた本が紹介されると嬉しいものだが、書評の内容には納得しがたい面もある。まあ、それでも評判になれば、人より先に読んでいたと自慢できる分、本好きにはたまらない快感なのかも知れない。
最近、子供たちの様子が変だ、という話がよく流れる。今までにないほど奇行が目立ち始めたとか、凶悪犯罪に走るという極端な行動に出るなどといった話である。それに対して、一部の人々は犯罪率には変化がなく、凶悪性も社会的な許容範囲に過ぎないとしている。どちらが正しいかを論じても仕方のないところで、目の前に問題があるならそれを片付けなければならない。
ふと見かける光景にもおかしなところが見えるようになったのはやはり最近のことであり、後者の考えでいくと極端なものには変化がないが、些細なことには大きな変化があったというべきなのかも知れない。先日も満員電車の中で小さな手提げ袋を手首にはめたまま、つり革を持っている若者を見た。何故もう一つの手でつり革を持たないのかと見れば、熱心に漫画本を読んでいる。何とも無神経な振る舞いに嫌な思いをしていたが、隣の女性の顔にその手提げ袋をぶつけるにいたって、一言二言注意をした。するとまったく反応が返ってこないのである。ただ黙って手提げ袋の手を下ろしたと思ったら、そのまま電車から降りていった。想像するに、何をしたらいいのかわからず、その場から逃げ出した、といったところなのではないだろうか。こんな光景はごく当り前に見られるようになり、他人と接することができない人の数は増すばかりである。彼の後ろ姿を見ながら思ったのは、あのままいけばいつか無言で人を殺めるのではないかということだ。勇気のあるなしで論じられた時代はよかったのだが、越えねばならない試練として人を殺めたり傷つけたりすることを考えられるうちはその通りだったのが、最近はその実感がないために越えるも何もないわけである。それぞれの違いが見極められず、ただ自分の思い込みだけで行動する人々が増えると、周囲に対する警戒をさらに厳しくせねばならない。まったく、恐い世の中になったと思うが、一部の有識者はそうは思っていないようだ。一方、こういう行動に出る子供たちのことを一種の障害者と見る人々がいる。教育に携わる人々からの提案なのかどうかはわからないが、海の向こうからやって来たものらしい。行動の異常は脳の障害によるものという判断が下されるようになって来た。教育現場に関して、この辺りの事情は理解しにくいものがある。つまり、才能は遺伝せず、ほとんどの部分は教育などの環境要因によって形成されるとする一方で、教育によって変化が見えない対象については、遺伝的なものを含む障害の存在を導入する。教育という道具の力の大きさを誇示しようとする動きと、それが無力化する存在の否定とが相俟って、教育の存在意義を主張するものらしい。しかし、現場にいる教師達にとっては、前者が足枷になり、後者は詭弁と断定され、いずれにしてもうまく事が運ばない状況に陥っているようだ。何故、こんなことになってしまったのか、原因は色々とあるだろうが、やはり身近な存在による働きかけの希薄化が最も大きいのではないだろうか。社会による働きかけが最近強調されているが、それにも増して重要なものが家族による働きかけである。何を考えているのかわからない子供たちを育ててしまった親達に責任がないとすることの是非は、もっと論じられなければならないと思うし、学校教育に対する過度な期待についても考えねばならないところがある。教育の威力は、たとえば洗脳について考えればよくわかるが、普通の世の中はそんなことをするところではない。もっと真剣にこの辺りの事情を考えてみる必要があると思う。