参政権について考えてみたことがあるだろうか。言い過ぎになるかも知れないが、そんなものについて取り立てて考えたことなどない、という人が多いのではないかと思う。ただ、そういう人々にも二種類あって、そういうことに関わるのは当り前で今更言うまでもないという人と、政治なんて期待できるものではないから興味さえ起きないという人がいるだろう。
ある国に住んでいて、そこである権利を得ていることについて、権利のない時代に生きていた人々は真剣に考えている。しかし、あるのが当然という時代に生まれ育った人々には、そういう感覚はまるでないのが当り前のようだ。良い悪いの問題ではなく、また感覚のあるないの問題でもない、関わることが当然ならば関わらねばならないのではないだろうか。しかし、何をしても何も変わらないという思いがあると、そんなに簡単に参加しようという気持ちは出てこない。この辺りの葛藤は経験した人にしかわからないのではないだろうか。当然ですべてを行ってきた人間にとって、葛藤は不要なものだからだ。それでも、事情が許されず、当然が行えない人もいた。外国に出かけている人、仕事で投票所にいけない人、そんな人々のために制度が設けられていたが、手続きの煩雑さと不十分な仕組みからほとんど評価されていなかった。特に在外の人々は権利を奪われた状態で放置されていたに等しい。それが突然可能になるなんて、不思議に思えるほどだ。いずれにしても、以前不在者投票と呼ばれた制度も、一部を除き期日前投票となり、簡素化の効果が出てきている。ところが、そこに不思議なことが存在することに気づいているだろうか。知らせの中に明記されているが、衆議院議員選挙の場合、同時に最高裁判所裁判官国民投票が行われ、期日前投票は別々の形になっているらしいのだ。というのも、この制度を使える期間が前者が8月末からなのに、後者はもう少し後からだったのだ。その間の期間に投票に出かけると、議員選挙の投票しかできないことになる。何故なのかわからないが、そうなっているのだ。もう一つ、いつか書いたような記憶があるが、裁判官の履歴などの情報が期日前には手に入らなかったことがある。今回も前日に折り込みが入っていたが、期日前投票をする人にとっては何の情報もないことになる。実は、一週間ほど前にある新聞にはその情報が掲載された。以前からそうだったのかも知れないから、気づかなかっただけなのかも知れないが、いずれにしても不十分な情報提供というべきだろう。世の中にはそういうことが気になる人がいて、自分のホームページにそんな情報を載せる人もいる。公的な情報提供があてにならないから、自分を介して情報発信をしようということなのだろう。こういうものを活用するのも一つの方法だが、やはり一つ一つを点検しないといけないのはどうにも面倒である。先日見かけたサイト(リンクはずしました)を一つだけ紹介しておくが、これを読むかぎりある程度の情報は最高裁判所の公開情報から得られるということなのだろう。ある程度の整備が進み始めると、何処かしら綻びが目立ち始める。そんなことの繰り返しによって、整備がさらに進むわけだが、その途上はかなりひどい状態が続く場合がある。不在者投票も、特別に設けてやった制度であり、特別な事情のある人間にのみ、その権利があるといった扱いがなされた。その割りには開票を忘れたり、棄てられたりといった不自然な行為の対象となり、あまりにいい加減な制度に嫌気のさす人もいただろう。期日前投票はそれに比べれば投票したいという人々の側に立った制度であるが、しかし何処かしら不自然なところも残っている。また一歩進まねばならないということだろう。
ある日、ふと思って辞書を引いてみた。恐怖政治という言葉が気になったからだ。するとそこには、「反対者を殺したり投獄したり、恐ろしくひどい手段で押さえつけて行う悪政」とあった。なるほど、行為の極端さの違いはあるが、よく似たことをしているものだ。辞書にはなかったが、自らの行為を正当化することを忘れない点も酷似している。
しかし、現代版ではこれは政治の社会内部での問題であり、その他の社会にまで波及するものではない。さすがに独裁政権時代の、誰でも彼でも声をあげた者はすべて処分するという形式は、ここでは使えないからだ。もし、あの時代に戻っていたら、何処まで魔の手が伸びるのか想像するだけでも恐ろしい気がする。それはさておき、内部でどんな手法が用いられようとも、外部の人間にとっては大した問題とはならない。もし、それが受け容れられないのなら外に出れば済む話だからだ。このところの展開を見るかぎり、それで済ませておけばよいと思う人がいることがよくわかる。つまり、そういう人々にとっては手法がどうであれ、政治そのものにはなんら問題がないと思えるからだ。しかし、本当にそうなのだろうか。独り言では直接的な政治の話題はなるべく取り上げないようにしてきた。面白い話題と思わないこともあるし、こういう類いのことで人に押し付けるような書き物をするべきではないと思ってきたからだ。しかし、このところの世の中の展開を見ていると、これほどひどい状態にありながら何も思わない人がいるのだろうかと心配になる。これも悪くなる、あれも悪くなる、といった切り口で、何でもかんでもある方向に向けてしまう。改革断行という大層な呼び名を付け、そのために何かを失っても仕方ないと説く。しかし、実行者が自身に失うものを持たないことは周囲に気づかせない。誰かが苦しんでも、自分が苦しむことはないという行為はおかしく見えるはずだが、外側に垂らした何かがそれを見えなくしている。とにかく、悪くなるの連呼は悪くなったと感じている人々にとってはかなりの効果を上げた。そのためにこれも変え、あれも変え、落ち着いて考えれば変えた後の悪影響の方が甚大であることは明らかなのに、つい今現在の悪い点ばかりに目を奪われる。この手法が絶大な効果を産みだしたことで、実は他のところにまで影響が出ていることに気づく人も少ない。自分たちの職場に、そんな雰囲気が漂いはじめたのだ。こんなに悪くなる、このままではいけない、変わることが大切だ、といった言葉が飛び交いはじめ、あたふたとした動きばかりが目立ちはじめた。確かに、安閑としていられない状況にある企業も多いし、こういった自己改革は落ち着いた中で行われれば、かなりの効果を産む。しかし、単に慌てただけで、将来の展望も何もなければどうなるか、考えたくもないものだ。恐怖を煽るやり方が安定した社会に対して最も効果的であることは、歴史が物語っているのだと思うが、そういう歴史はそれらの煽動に躍らされた人々、国の末路を明確に示している。戦前の政治を煽動政治と呼ぶ人がいたらしいが、手法はまさにそのものだろう。将来に不安を抱かせ、恐怖を煽れば、人々は冷静な判断力を減退させられる。そこまで来れば施政者の思うつぼ、あとはどうやろうが思惑通りとなる。あまりに簡単な話ではないだろうか。まさか、そんなことに乗せられる人はいないと言えるか、すぐにわかることだろうが。
昔、東欧諸国で配給品をもらうのに長蛇の列に並ばねばならないという話がよく伝わってきていた。今は、本当に自由かどうかは定かではないが、とにかくそんな話は聴かれなくなった。話にしか聞いたことが無いが、戦後のどさくさでは色々なことが起きたという。物資が足りず、金は価値を持たず、物々交換が盛んであったと。
その後、目覚ましい発展を遂げた国なのだが、小さい頃にはまだ色々な名残が残っていた。さて、今これを読んでいる人々の中にどのくらい知っている人がいるのか、かなり心配なのだが、米穀通帳なるものがあったように記憶している。配給米とか、政府米とか、そんな言葉も飛び交っていた。それがいつの間にか自主流通米という何とも都合のいい言葉が作られ、制限を加えられない自由なものになったように見えた。しかし、実際には様々な制限が加えられており、いくらか自由度が増しただけに過ぎなかった。何となく誤魔化されていたのかもしれない。とにかく、戦争による影響が本当の意味で消えたのはこの辺りの整備が済んだ頃だったのではないだろうか。その後も、色々な混乱があり、オイルショックと呼ばれた事件では紙が無くなるというデマが飛び交い、長蛇の列に並ばされた子供たちもいた。ちょっとしたことをきっかけにまことしやかな話が流布されると、それを否定することも難しくなる。その結果としての長蛇だったのだが、あとで考えてみてもさっぱり理解できない。あんな列はその後ほとんど見たことがないが、実際には色々な場所で作られているらしい。有名歌手のコンサートの入場券、最近は、少し事情が違い、電話線の上に列ができているようだ。このところ話題になっている万博の列は、行きも帰りもうんざりするようだと言われる。それでも整理されたものであれば、順番が狂うことも少なく、おとなしく待つことに抵抗を覚える人は少ないだろう。しかし、この国ではすぐに人々の良識に任せるやり方を採用するから、昔は色んなところで問題が起きていた。たとえば、銀行や郵便局の自動預払機の列、以前の様子を覚えている人がいるだろうか。大きな支店では複数の機械が並んでおり、それぞれに列ができていた。並んだ列の前に要領の悪い人や多数の作業をやる人がいたら、飛んでもなく長い時間待たされることになる。かといって、隣の列も既に長いわけだからどうにもならない。客の不満は頂点に達して、ついには行員を詰る声が出る。そこで考え出されたのが、待つための列は一つにして、機械が空くごとに先頭の人がそこに行くという方式だ。これは別段この国の発明ではなく、とうの昔に他の国で実施されていたことで、そういう国に行ったことのある人の中には何故採り入れられないのか不思議に思っていた人も多い。しかし、制度的に採り入れられたにも関わらず、心理的には未だに複数の列を作ろうとする人が沢山いる。そして、自分の列の処理が遅いと文句を言うのだ。早いときには何も言わないわけだから、どうにもならない話になる。何故、一つの列にしないのか、そういう人に聞いてみたいものだが、何か一つの権利を手に入れることが彼らには大事なのかもしれない。いずれにしても、何とも非効率なやり方だが、駅のトイレ、ホテルのフロント、色々な場所で横行している。一つの列を作っているところに、脇から別の列を作るなどという暴挙に出る人もいて、先日も逆切れされてしまった。難癖をつけると言われても、アホなことをしているのはあちらなのだから、あきれてしまう。そういう心しか持てない人々が巷に溢れ、お互いに権利主張ばかりを繰り返す。これでは世の中良くなるはずもない。大人でさえそんなものなら、子供に何が言えるのか、ふざけた社会になってしまったか。
急激な天候の変化があるとその後にはすっきりとした天気になるという感覚がどこかにある。色々な表現方法があるのかも知れないが、とにかく悪いことはいつまでも続かない、逆に言えば良いことばかりが続くこともない、そんな雰囲気だろうか。巡り巡るからこそ、良いも悪いも、その場限りと思うことができる。それを救いと見るか、邪魔と見るかは人次第。
人はそれぞれに先行きを明るく見ようとする人と暗くしか見えない人がいるのではないか。楽観と悲観、そんな言葉で表現すればその通りだが、楽観視する人の将来が常に明るいわけではなく、一時的に明るい見通しが立ったとしても、その後に厳しい状況に追い込まれることもある。いつでも一つのパターンになると思っている人もいるが、こういう人ほど飛んでもないことに巻き込まれることが多い。特に精神的に不安定な人にこんな心理が働いているように思えるのは、おそらくそういう人に限ってあの人はとか、この人はとか、他人がいかに良い状況にあるかを熱弁する人が多いからだろう。そういううわべだけの評価はされた方もかなわないし、聞かされる方もまた迷惑なことが多い。突き詰めれば、単なる呟きというか独り言に過ぎないのだが、相手を必要としているから困るわけだ。分析的に考えられる人たちにはこういうタイプは少なく、どちらかと言えば感情に走ったり、気分の抑揚の激しい人に多いような気がする。それにしても悲劇の主人公になることが何故大切なのか、わからない人にはわからないのだ。もし、そういうことを理解してくれる人がいたら、こんなタイプの人はその人を逃してはいけないだろう。はたしてどの位そんな殊勝な人がいるのか、さっぱりわからないのだが。話を元に戻して、楽観と悲観の違いについてだが、すべてに同じことを続けるのは難しい。それよりも、それらの間で行ったり来たりすることの方が多いのではないだろうか。ある意見を貰ったとして、その意見が悪いことを示していたら、それを受け止めることは楽観だろうか、悲観だろうか。ここまででそれを決めることはできないが、たとえば意見が何かしらの指示を含み、それが改善勧告のようなものだったらどうだろう。改善と言われてもできないことかも知れないし、そうでないかも知れない。できないと考えれば、改善はつまり消えろという意味だと受け取る人もいるだろう。そうなれば、意見を受け止めることは楽観のように映る。消えろと受け取る、つまり改善に結びつけないことは、結果として最悪に思えるから悲観となる。これは正しいのだろうか。意見を受け止めること自体は楽観に見えるかも知れないが、難しい改善がその後にやって来る。つまり、楽観の後に悲観がやって来るかも知れないから、そんなに簡単な話ではないのだ。にもかかわらず、表面の、そして目の前の問題にのみ目を奪われ、そこでの判断だけがすべてとなる人々がいる。これでは何事も進まない。ただ一つ言えることは、彼らは彼らの思い通りにすべてを運び、しかしその流れは誰か他人が決めていることにしているということなのだ。他人のせいにするといえば、おそらく反論が山のように返ってくるだろう。しかし、決めているのが彼ら自身だとしたら、それは当然の分析結果なのだ。そういう人が周囲にいたとき、どうすればいいのか、これが一番の問題だが、今のところこれといった妙案は浮かんでいない。
政治の話と災害の話は、同じ場に持ち出せるものだろうか。大雨の中を車の中から声を嗄らせて連呼する人を、歩く人はどんな思いで見るのだろう。災害が起きても政治的には大したことがないと先送りにした施政者が糾弾されて、応援する人々はどんな感覚を持っただろう。所詮はあっちとこっちの違いと言ってしまうのが手っ取り早いのだが、それにしても無深慮だ。
始めから設定された争点に集中させることが仕掛け人の思惑であり、その結果がどちらにでようとも無視されることよりはいい結果を産むと言われる。どんなに反対論が盛んになっても、その議論を導いている人間は常に有利というわけだ。面白いのは党首討論という演劇風の場で、突然出された話題に振り回されることをあれだけ問題にしていた人々が、今回明らかにその手法を利用していることで、逆に言えばそれを利用していた人間がまんまと相手の術中にはまっていることを示しているのではないか。確かに議論をせねばならないことがあり、その一つを争点とするのも理解できないわけではない。しかし、今回の流れを見ているかぎり、子供の喧嘩の様相は否めず、引っ込みがつかなくなったガキ大将の一人がクラスの皆を巻き込んで騒いでいるだけに思える。何が大事で、その順番はどうか、という議論は何処にもなく、ただあることについての勝ち負けをはっきりさせたいだけなのではないだろうか。結果として勝負がつくことは誰も否定はしないが、勝負のために人を選ぶという順序に賛同する人はいないだろう。馬鹿げた議論を続けていても、仕方ないと思うのだが、実際に彼らが勝負に拘る理由は別のところにある。おそらく、関心のない人々でも勝負となれば気持ちが動くということなのだ。そういう無知な人を巻き込む戦略は海の向こうでも採用されたが、まさにそれを繰り返しているというべきだろう。そこに配慮せずに分析する人がいるとしたら、それはまさに的外れになるだろう。元々地方に主導権を握らせていた国でも、財政的な援助はある程度行っていた。ところが、自国の問題ではなく、他所の話に首を突っ込むために大規模な予算が必要となった途端に、国全体ではなく地方に限定される課題に対する援助は次々に打ち切られた。その結果と言えるかどうかはわからないが、とにかくそれと関連する形である都市が水没しかかる事態となった。一部の有識者は予算の問題を指摘しており、地方限定と言いつつ、これほどの災害が起こるとその後始末には国全体の負担が出てくるわけだから、先の見通しの無さが露顕したと言われてもしょうがない。しかし、これはこれでこのまま終わったら、海の向こうのお話に過ぎないのだ。こんな災害は今こちらでも起こりつつあるし、将来も起こる可能性は大きい。しかし、お国は自分の腹を痛めたくない気持ちで一杯で、何とか各地方に負担させようと必死なのだ。この姿はまるであちらとこちらで一緒なのではないだろうか。改めて言うまでもないことだが、この手法はあちらからの輸入品である。跡をついていくしか能のない人々がそのまま持ち込んだ手法が、何を産みだすのかは今回のことである程度明らかになっている。まさにそれが争点の一つとなりうるはずなのに、まったくそういうアイデアさえ生まれてこない。どっちもどっち、同じ程度に能がないと言うべきなのかも知れぬ。
海の向こうでは余程のことが無いかぎり、四年に一度と決まっているものがある。全国的に一つのお祭りに精を出すようなもので、こちらのものと違って直接選ぶわけだから気合いの入り方も違うのだろうか。それにしても、二人の候補のどちらかとなった時点から、あれほど加点要素ばかりを強調していた風潮が減点探しに移るのは何故だろう。下品に思えるのだが。
その辺りに関するあちらの事情ははっきりと理解できていないが、いずれにしても人間は良い面よりも悪い面の方が理解しやすいのではないだろうか。こんな良いところがあると言われても、自分の理解できないものであることが多いし、逆に当たり前すぎて面白味のないものも多い。一方、悪いほうは千差万別色々あろうが、とにかく欲望に関わることが多く、誰にでもわかるものだ。そうなれば宣伝効果を考えればどちらを選ぶべきか自ずと明らかになるというものだろう。しかし、最近はどうも様子が違ってきているらしい。というのも、誰も彼もが同じようにそういった悪いことばかりを前面に出してしまうと、肝心の負の印象が薄れてしまうのだ。そんな中では加点要素を強調した方が良い結果を産みだすことになるのだろう。情報操作とは所詮そんなものであり、環境によって正反対の戦略を選択しなければならないことも多い。不思議に思う人もいるだろうが、ちょっと周囲を見渡してみれば同じようなことが沢山あるのに気づくだろう。皆と同じであることを望む一般大衆にとっては大それたことかも知れないが、彼らが心の奥底で願っている成功を勝ち取るためには必要不可欠なことなのだ。相手の欠点、特に人生における失敗を声高に取り上げて、負の宣伝を繰り返すのはあちらの専売特許のように思っていたら、最近はこちらでも盛んに行われるようになったらしい。理解の程度が低いほど、この戦略は功を奏すると言われるから、おそらくこの国の人々も大した理解もできずに参加しているのだろう。そんな風潮は以前からあり、まるで認知度を測るようなやり方が行われていたときには、人気歌手が選ばれることもあった。これはつまりは専門職の考え方をねじ曲げるものであり、単に数の論理がそういう場で横行していたことを示すものだ。当時とは違う制度になったとはいえ、多くの人々の心の中には政が何たるかについての知識は微塵もなく、知る知らないの選択肢や面白いといったことが重要になる始末なのだ。そんな中で、当然のことと言うべきか、負の宣伝が盛んに行われるようになってきた。この効果はおそらく絶大であり、それによって決める人々も沢山いるのだと思う。しかし、逆に本来ならば名前を出すこと自体が運動の一種であることを考えると、負を狙っていても単なる宣伝になってしまうこともあるだろう。要は、的確な指摘による負の効果をどれだけ出すかといったところなのではないだろうか。特定人物に限ったものというのは本当に狭い地域に限られたことだから、怪文書が飛び交うのが以前の習わしだったと思うが、最近は雑誌などのメディアを使う場合の方が多い。他の土地のことなどどうでも良いはずが、そうなっていないところに何かしらの歪みが感じられるが、関わっているほうはお構いなしである。肝心の一番上に立つ人物のそういう話が聞こえてこないことも不思議といえば不思議で、そこら辺にもう一つの怪しさがあるのかも知れない。この世の中、情報を握ったほうが勝ちというのはこんなところにも顔を出しているようだ。
さすがに身近で起きたことはないが、結婚式のドタキャン、新婦か新郎かどちらが現れなかったとか、直前になってお知らせが舞い込んだとか、そんな事件に遭遇した人がいるだろう。結婚が決まってから揉め事が起きたという場合もあるだろうが、一方で決断しきれずに相手方のペースに乗せられてしまった場合もあるだろう。ある日突然ハッと気づくわけだ。
こんな話は何も結婚に限ったことではなく、色々なことに出てくるものらしい。進学、就職、様々なことだが、特に人生の節目に起きることが多いようだ。節目はある意味ではそれまでとは違った道や方向を歩むことになる分岐点だろうから、人によっては大きな変化を求められることもあり、そのために心の準備も必要となる。となれば、躊躇する機会も増え、できれば避けたいこと、逃げ出したいことが出てくるのも当然だろう。そんな中で決めかねていたことがついに目前に迫り、どうにも避けようのない状況に追い込まれてしまうとフッと逃げ出したい気持ちになるのではないだろうか。それがどれだけ無責任なことであっても、本人にとってはそこから始まる難業に対しての恐怖心が絶対的な決め手となってしまう。一度この手を使ってしまうと毎度となることも多くあり、たとえは悪いが、まるで窃盗を繰り返す人のようになってしまう。ここまで極端ではないのだろうが、最近決断のできない人が増えていると言われる。個人的なことにせよ、仕事上のことにせよ、決断を迫られた瞬間から逃避行動を示し、何とかその場から逃げ出す算段をするという。さすがに社会的に許される行動ではないから、多くの人々は心の中にそういった兆候を隠したまま、心理的な不安定を抱えることになるようだ。それが次の不安定を呼び、ということが繰り返されれば、ついには精神疾患の一つに罹ってしまうこともあるだろう。これもまた極端と言われればそれまでだが、多くの人々がこういった傾向を示すという結果が出ているわけで、社会問題の一つになりつつあるという。しかし、よく考えてみると決められないという行動は、よほど極端なものでないかぎり、すべてに当てはまることではない。つまり、日々の食事などという普段しなければならない選択については、何の問題もなくすませているのに、これといった大きく見える問題に対して突然現れる現象に思えるのだ。何故日常的なものでは起きない問題が、より大きな事柄に起きるのだろうか。心理的なものと言ってしまえばそれで済んでしまうが、実際にはどちらにするかといった決断には大した問題もないのではないだろうか。それよりも、決断したあとの理由を考えるところで大きな問題が生じているように思える。決断できない人々の多くは、この部分で障害を乗り越えることができず、一見どちらかを決めること自体に問題があるように見えているのではないだろうか。自分のことを考えてみれば、どちらを選ぶかということ自体にかける時間はさほどでもなく、それより、何故そちらを選んだのかの理由を考えるのに時間をかけている。理由を考えてから選択するはずだから、それはおかしいと思う人もいるだろうが、実際にどうしているのか少し見つめ直してみてはいかがだろうか。理由というものは実際にはどうにでもなることが多く、特に将来にかけての選択の場合、そこにある材料はどれも不確定のものばかりである。そんな中で理由から考えていっても、何の結論も得られず、決めかねることになるばかりなのだ。そのことに気づかず、決断の順序を取り違えたままだと、何も決められないということになる。おそらく、そんな状況に陥った人が多いのではないだろうか。