パンチの独り言

(2005年9月12日〜9月18日)
(待機、廃棄物、極端、現状、無意義、平明、不伝)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



9月18日(日)−不伝

 海の向こうの大統領選挙、といえば誰でもあれを思い出すだろうが、その時期になると必ず盛り上がることがある。候補者そのものの話題も取り上げられるが、それが絞り込まれると、必ず民主か、共和か、という話題になっていく。その際面白いと思えるのは、ある業界では必ずと言っていいほど、ある政党の候補者に人気が集まるということだ。
 その業界における人気が必ずしも全体の人気に繋がらないのは何故なのか、すぐには理解できなかったが、よくよく聞いてみると人気の元となるのは提示された政策の吟味からくるものであり、政党ごとの基本政策の違いが常にあるほうに人気が出る理由となっている。しかし、それだけだと全般的な不人気の理由にはならないわけで、依然として何故なのかという疑問は残る。敢えて言うなら、合理的な考え方からかけ離れた政策を提案する人々に対して、その業界の人々は期待が持てないと思うのに対して、一般国民は違った観点から支持をするということなのだろう。現在の大統領が選ばれた選挙は、それまでにない特徴を持っていたと言われる。投票に参加した人々の階層の違いと言われているが、ちゃんとした調査を見たわけではないから、不確かなことかも知れない。こういうわけ方自体が拒絶反応を産みだす部分もあり、不用意な表現は避けたほうが良いのかも知れないが、そこでは知識層かそうでない層かで分けることが投票行動を分析するうえで非常に重要な示唆を与えることになると言われている。後者の層に対する働きかけが功を奏して、当選を果たしたと言われた大統領のその後の動向は見るも無残なばかりで、政策そのものが不評なのが予想通りなだけでなく、何か事件が起こるたびに示される彼自身の行動が異常と呼ばれそうな状況にある。それも、支持してくれたはずの階層を無視したり、ぞんざいに扱ったりするわけだから、矛盾に充ち満ちていると言わざるを得ない。選ばれてしまえばこちらのもの、といった政治家はどこにでもいるのだろうが、リーダーたるもの、それではいけないのではないだろうか。いずれにしても、現状についてのみ言えば、知識層の下した判断は正しかったということになるのだろう。では、こちら側の選挙はどんな具合だったのか。予想外の圧勝と言われた結果だが、その一番の要因と言われているのが、投票率の回復である。そしてその原動力となったのが、今まで投票所に足を運んだことのない人々の参加と言われる。それをまた促したのは、圧勝した政党の仕掛けた運動であると言われ、それはかなり強烈な情報操作によるものと言われているようだ。ようだと書かざるを得ないのは、情報を流す当事者たちからそういう声は上がっておらず、別のところから情報が流されているからであり、この状況がまさに情報操作の証拠ではないかと一部で言われている。たとえば、新聞をきちんと読んだことのない人々を投票行動に駆り立てるためには、折り込み広告が有用であるという戦略とか、郵政民営化に対して海の向こうからかなりの支援があったのに、それがほとんど報じられないとか、そんな思惑に満ちた話が伝わってくる。しかし、そこでは本来の担い手の活躍はなく、別の経路に頼るしかないのが現状なのだ。これも含めて、海の両側でまさに同じような戦略が展開されたことは何を意味するのだろうか。その観点からの分析の必要性を感じる人はどれくらいいるのだろう。

* * * * * * * *

9月17日(土)−平明

 掲示板を読むのは何のためだろうか。何か情報を得たいから、という人が多いのではないだろうか。どんな情報が得られるのかは定かではないが、何もしなかったのでは何も得られない。どちらを選ぶのかと問われれば、まずは接触するほうを選ぶだろう。といっても、これは一部の人に当てはまる話であり、皆がそうというわけでもない。知る必要さえ感じない人もいるのだ。
 周囲の動向に慎重に気を配る人がいる一方で、まったく我関せずという人もいる。以前なら、人それぞれの考え方と見做されたのだが、最近そうでもない意見が多くなってきた。ある掲示板にある情報とも重なるのだが、教育現場で注目されている子供たちの問題が社会現象化しているというのだ。前に取り上げたことがあるが、注意欠陥多動症とか、学習障害とか、学校で大きな問題となっていることは周知のことだが、一方でこういった症状を示す子供たちの将来の姿を現しているのではないかと思われているのが、我関せずという人々である。すべてがそうだと言われているわけではないが、かなり周囲との関係構築に問題ありと思われているようで、もしそうだとすれば同じ兆候を示しているということになる。類似点を引き出すのは容易なことらしく、注意力散漫や理解力不足、更には意見交換の困難さが加わって、まさにそっくりそのままと思われる部分がある。そういえばと思い当たるところがあり、こういう子供に注意を与えるときの注意点に、一度に与える注意は一つだけにすることというものがある。いろんな話をしてしまうと、何が要点なのかわからなくなり、結局何も伝わらなくなるということなのだ。確かにこういった傾向は大人の側にも多く見られ、以前に比べたらはるかに多くの人々が指示の受け取りに欠陥ありと言われるようになった。たとえば、上司が部下に指示を出す場合にも、一度に一つの指示を出すように心掛けないと、結局何一つとして伝わらないという状況が生まれてしまうというわけだ。二つ伝えようとすると、どちらも伝わらないというのはちょっと不思議な状況なのだが、まさにそういう現象が出てくる。なるほど、指示の与え方もかなり高度な技術を要するようになっていて、すぐに理解できる、単純な話の展開と、すぐに手がつけられる、明確な手掛かりの提示といったものが必要とされる。そういう心掛けは確かに重要であろうし、業務遂行のために大切なものとなるだろう。しかし、そこまでやらなければ動かない人々は問題にならないのだろうか。察するとか、推測するとか、そういった言葉で片付けられてきたものが、成立しなくなったのはいつ頃なのかよく思い出せないが、とにかく無理なものは無理らしい。ここまで考えてふと思ったのだが、まさに今飛ぶ鳥を落とす勢いの施政者が、このことを実践しているのではないだろうか。単純な言い回しで、利害関係のはっきりした、一つの話題に絞った、そんな話の展開が最近よく聞かれるようになった。分かり易い、と言われる由縁なのだろうが、はたしてそれが正確に事実を伝えることに繋がっているのか、怪しいものである。都合の悪い余計な情報には触れず、都合の良い数少ない情報を前面に押し出す。平易なものに飢えた人々にとっては格好の餌となるわけで、まさにそれをうまく利用した結果がでたのだろう。その先に出てくる結末に、本人が関心を抱いているかどうか、定かではないが。

* * * * * * * *

9月16日(金)−無意識

 時々起こることだが、どうも言い足りないと感じたり、うまく伝わらなかったのではと思ったときには、連続して同じような話題を取り上げる。勝手な独り言だから構わないとは思わないが、折角書いたことが伝わらないのでは勿体無い。このところ、歪みや矛盾が積み上げられていて、その結果としてとんでもない方向に進みかけている国を思うと、ついこうなるのだ。
 ある時、ある会合で、一流企業の役員が人材獲得について講演していた。どんな人材が欲しいかという月並みな話ではなく、学校が世に送り出した人材を企業はどう評価しているかといった話である。この手の話は様々なところから聞こえてくるのだが、それぞれの立場や事情が異なるために正反対の結論が導き出されることも多い。そういう意味で、きちんとした形の総括を一人の人がすることには大きな意義があるだろう。結論から先に始めていたが、大学やその他の組織が目論んできた制度は一流と名の付いた企業にとってはほとんど意味をなさないということらしい。折角ある一定の水準を設けて、それに見合うだけの能力を身に付けた人材を供給しようとしても、そのレベルの人を採用する気が無いということなのだ。学力低下が社会問題化してきて、積み残しが上の学校に持ち込まれるようになってから、求人の様相も同じような変遷を辿ったらしい。不十分な教育しか施されていない人材にはそれを満たす時間を与え、さらなる高等教育を受けた者だけを採用するとしてきた。ある業界のある職種では大卒では不足と判断されるわけだ。そういう事情を吟味せずに、独自の路線で水準設定を行ってきた教育機関とそれに関係する官庁はどうにも見通しを誤ったとしか言えないだろう。こういった部分にも実情の把握と将来の見通しの甘さが見られているわけである。一方、企業にとって獲得した人材の水準の低下は深刻な問題で、その改善のために様々な調査を実施しているとのことだ。中でも強調されたのは、目的意識を明確に示した教育の導入という一見何のことだか分かりにくい方策である。これはつまり、勉強は何のためにするのかといった、初等教育にまで持ち込まれている考え方を高等教育にも導入する必要があるという意味である。入社して初めて自覚するのは、自分たちが受けてきた教育に対する取り組みの甘さであり、それを補う努力の必要性なのだそうだ。そのために、彼らが大学などに要望することは、入社して気がつくようなことを学生のうちに示してもらい、自覚を促して欲しいということらしい。なるほどと思ったからこそ、その役員が紹介したのだろうが、こちらは別の意味でなるほどと思った。何でもかんでも、目的至上主義が導入されれば、目的に沿った知識に関することには都合のいい仕組みが導入できる。しかし、将来必要となるかどうかわからないもの、あるいは間接的に有用となるものについては、脇に追い遣ることになる。明確な目的が設定された時期に思いついたことをそのまま実行に移すことは、将来の状況が見えない人々については弊害を産むことになるだろう。今最も心配しなければならないことは、こういった精神性であり、よく言えば安定した、悪く言えば停滞し、閉塞感のある社会での生き延び方が、そういった方面にのみ向いていることなのではないだろうか。人生に無駄はないと言いきることは難しいが、そう思って晩年を過ごす人が多いのは、まさにそのことへの警鐘になるだろう。

* * * * * * * *

9月15日(木)−現状

 科学技術の進歩は人間に何をもたらしたのか、という設問がよく出される。それに対する答えの多くは、より良い生活、便利な生活、効率化などといったものなのだが、これらはすべて肯定的、好意的なものである。それに対して、武器の発達や薬の副作用、更には想定外の悪影響という類いのものを取り上げて、悲劇を産んだとする人もいる。
 どちらが正しいと言いたいわけではなく、ただ単に発達には両刃の剣の要素が必ず含まれていると言いたいのだ。だから、悪影響のみを捉えてすべての開発行為を禁止することは間違ったやり方だろうし、一方で利己主義的な開発が優先されることにも制動をかけねばならない。そんな調子の良いようには行くはずが無い、といわれればその通りであって、特に事前調査では予想できなかったことが開発後に起こる場合が多いから、常に注意を払う必要があるというのが精一杯だと思う。現実に何が起こるといった目に見える形での影響ばかりを取り上げたが、実際には進歩によって引き起こされた悪影響でもはっきりと形が捉えられないものがある。その一つが心理的、精神的な影響で、便利な社会になったがために、以前ならば当り前のこととされたものが排除され、普通だったと思われることをやる気持ちさえ起きなくなるというものがある。交通機関はその最たるもので、発達すればするほど、行動範囲は大きくなり、その代わりに自分自身で行う運動の量は減りつづけることになった。筋肉の衰えだけでなく、精神的にも何らかの影響があるはずだが、正確な調査は行われていないだろう。数値化の難しさだけでなく、何をどう測ればいいのかさえはっきりしないのだろうから。この例からもわかるように、科学技術の進歩につれ、人々の意欲は基本的なところには余り現れず、ある意味以前よりも高度な活動の方に移行していったように見える。つまり、基本行動をする意欲は余り必要とされず、それよりも余暇や趣味を成立させる副次的なものの方へ移っていったのだ。その結果、生活の様式は様々な形で豊かになっていったように見えるのだが、何かしら基本的なところに欠落部分があるように見える人が増え続けてきた。日常生活でもそんなことが多々見受けられるのだが、それにもまして生後の発達において最も重要なものの一つである教育という面で多くの欠落が目立っている。目立ち始めたのはおそらく三十年ほど前からに思えるのだが、はっきりしたことは言えない。でも、ある世代の人々による影響が大きくなったときに明確化したことだけは確かだ。当時、教育現場では現状に則したという言葉が頻繁に使われ、教える項目の減少がはっきりと意識された。それは今でも続いているが、最も大きな影響はこの時期全般に渡って関与してきた世代からのものであるように思えてならない。そろそろ、その人々も枠の外に出され始めているが、依然として力を発揮している人も多く、いまだに同じお題目を唱えているから不思議である。学力が低下しているから、更に基礎に絞った教育をせねばならない。こんな形の方策が何を産みだしたのか、本来は現状を直視すればわかるはずなのだが、どうも産み出された人々を見ずに、目の前にいる子供たちを見ることに専念しているようなのだ。結果を見ずに対策を講じることほど危なっかしいものはないはずだが、彼らにはその気配さえない。現状に則したとは、目の前にある現実のみで、未来の姿を思い浮かべられないのだ。もういい加減に舞台の袖に向ったほうが良いと思う。

* * * * * * * *

9月14日(水)−極端

 朝、横断歩道橋の手摺の上で、赤蜻蛉が羽を休めていた。虫の活動時間はよくわからないが、より小さな虫を捕まえる蜻蛉にとって、あの時間は働いても実りの無いときだったのかも知れない。気温は期待通りには下がらないが、こんなところにも季節の移り変わりが現れているようだ。あと少し我慢すれば、と思うだけでは涼しくならないのは何とも言えないが。
 暑い日が続いているが、前の年が極端だったせいか、余り話題に上らないような気がする。平年とか、平均とか、そんな言葉が好きな国民性のためか、逆に極端なものばかりを取り上げる傾向があるようだ。平均から外れたものを話題にして、そこに問題点を探そうとする。様々なものに適用されるやり方だが、極端な方に行きすぎるとどうにも無理が出てくるような気がする。平均とか中庸とかは少しくらいの変動があっても大した動きも見せないが、極大、極小となると当然のことながら大きく動き回る。それを取り上げて話題にするわけだから、原因や理由を論じるのは造作もなく、それなりの展開が期待できる。そんなところから多くの人々がそういう例を引いて、議論を推し進めようとするわけだが、それでいいのだろうか。極端は極端に過ぎず、本来問題にすべきところから大きく外れたものも多い。問題外のものを詳細に分析して、そこから将来の展望を引き出したとしても、意味のないことなのではないだろうか。実際には、本当に問題外かどうかの吟味が必要だが、極端ばかりを相手にしているとそんなことが起きそうな気がしてくる。また、現実にそんなことが数多く起きているのではないだろうか。しかし、取り上げられる事象も無数にあり、結局のところ何の総括も無いまま次へと移っていく。何とも気楽なものだと思うけれども、渦中の人々はそうとは思っていないだろう。何しろ適切な極端を見出さなければならないのである。ただし、ここで言う適切とは議論を導く本人の意図にとってという意味だが。将来の展望について語る場合にも、両極の使い方は肝心だろう。明るい未来と暗い未来と言ってしまうとそれでおしまいといった感じがしてくるが、まさにその二つを例にして議論を進める。ただし、人々の思惑がそこに入ってくるから、明暗どちらを選ぶのかは人それぞれであろう。ここにも国民性が現れていると思うが、この国では暗いほうを選んだほうが無難なようである。また、良い時と悪い時のどちらが記憶に残りやすいかという点も、こんな部分には大きく影響する。右肩上がりの時代は意外なほど多くの人々が楽観的な見方をし、またそういう見方を歓迎していたが、その後の凋落を経験することによって、再び元の気持ちに戻ってしまったようだ。ひょっとすると、揺れ戻しが大きく元を過ぎるところまで行っているのかも知れない。いずれにしても、こういう時代に暗さを吹き飛ばす妙案が出されればすぐに飛びつく人がいる。さて、今そんな気持ちの整理がついて、新たな出発となっているわけだが、揺れ戻しの効果がいつものように悪いほうに出るのか、はたまた明るい未来に邁進することになるのか、少しの間見守る必要があるのだろう。

* * * * * * * *

9月13日(火)−廃棄物

 便利は不便、こんな話を何度もしてきたような気がする。何かを便利にすると、それが影響して不便なところが出てくる。そんなことの繰り返しを眺めていると、つい、こんなことを言いたくなるのだ。効率化によって余暇ができたとして、その使い方に思い当たるところがない人にとっては、漫然と過ごす時間が増えただけでかえって無駄に思えることもある。
 色々な場合があるだろうが、それほど様々な形で不便というか、何かしらの違和感を覚えている人が多いのではないだろうか。効率化によってじっくりと考える時間が増えるから、それは有り難いことだという人に限って、少し時間が経つと考えるあてが無くなって困り果てる。変だなと思えるけれど、まさにそんな状況が続いているのではないだろうか。それよりも、何かを計画しても、すぐにそれが実現されてしまって、次の計画を要求されることの方が苦痛、という人もいるかも知れない。計画が実現されることは大変結構なのだが、次々と要求されるから次々に考え出さねばならず、その一方で実現された計画は早々と評価されて、長期的な視野に立ったものが提出しにくくなっている。まったくどこかが狂っていると思うのだが、全体がずれてしまっているから少しくらいの調整では何ともならないのかも知れない。そんな事情からか、提出することが重視され、場当たり的なものほど歓迎される傾向が出ているのは、かなり危険な状況にあると言える。そういう例として使えるかどうかはわからないが、毎度お馴染のネット環境整備にも様々な問題が噴出しているように思える。このサイトの管理用に使っているメールアドレスは、トップページを見ればすぐにわかるようになっているが、そこにゴミメールが山のように送られてきているのだ。世の中そんなにセックス産業が繁栄しているのかと思えるほどのものだが、とにかく次々と送られてくる。ランダムに送っているわけではなく、おそらくどこかで調べて送っていることは確かで、その証拠にまったく送られてこないアドレスもある。職場では、怪しいものをすべて排除するシステムを導入しているから問題は生じないように見えるが、それが行き過ぎると肝心のメールが排除され困ったことになる。このところ、この傾向は過激さを増しつつあり、どんなことになるのかと心配になったりもする。ただ、そこにある傾向を分析すると、おそらく元凶が見えてきそうな気もする。当然イタチごっこになるに違いないのだが、それにしても、少しは対策を講じることも必要なのではないか。傾向と言っても大したことではないが、一つは以前取り上げた送り主不明のもので、それによって篩をすり抜けようとするものだ。もう一つは、最近増え続けているように思えるのだが、ドットコムと呼ばれる.comというドメイン名を持つ、いわゆる米国内の企業形態が使用するものである。どうしてこれが増えているのか、理解に苦しむところであるが、一つには本来企業名が入るはずのところに、いかにもランダムに発生させた英字列が並んでいることに何かヒントがあるのではないかと思える。ここにも二つ可能性があり、ドットコムを登録する人々がいて、その権利を得てから売り捌いているか、あるいは広告を掲載させることによって無料で提供しているというものと、もう一つはいわゆる騙りという類いのものである可能性である。いずれにしても、便利な状況を作りだそうとする意図は見事に裏切られているわけで、まるで産業廃棄物の山のようなものである。どんな対策が練られているのか、防衛手段だけに頼るのはそろそろ限界のようだ。

* * * * * * * *

9月12日(月)−待機

 ひと月ほど前、田んぼの稲刈りが済んでいるのを見て、おかしいと言っている人々を見た。早すぎるとか、二毛作とか、何とも的外れな話題を振りまいていた。その地域では早めの稲刈りが普通だが、秋という思い込みの強い人たちには理解不能だったらしい。ところが、さらにふた月ほど早く稲刈りをするところがあるのは更に知られていないようだ。
 早場米というよりも、促成栽培に似たその米はハウスの中で作られる。田んぼをハウスで囲うという考え自体が突拍子もないものだから、つい疑ってしまうが実際に存在するという。温度と日照時間を調節することで自然の法則を自在に変えてしまうという意味で、技術の進歩と捉えられているようだが、同時にそのための設備の発達という技術についても見逃してはならないだろう。それにしても何故、こんなに早い収穫が要求されるのだろうか。ここで登場するのが流行のニーズという言葉で、市場のニーズに応えてという答えが返ってくる。しかし、野菜にしろ何にしろ、季節外れのものを要求する人々はほんの一握りであり、他の人々は旬さえ知らずに目の前にあるものを買い求めるだけである。そこにあるニーズはほんの小さなものであり、その代わりに振り回すための情報が横たわっていると言うべきなのではないか。それにしても促成栽培などいろんなものが技術の発達によって成し遂げられてきて、それに伴い人々の考えも安直になっているのではないだろうか。必要不可欠なものを手に入れる方法を開発するのであれば理解できるが、それ以外のものにまでそんな考えが及ぶとなるとなんともはやといった感がある。そこに出てくるのは人間の傲り高ぶりであり、できないことはないといった態度にそれが表れてくる。精神的な未熟さからくるものという指摘はその通りだと思うが、一方でそんな人ばかりを見ていると未熟なのではなくて、それ自体が本来人間が持っている資質なのではないかとも思えてくる。そういう人々が自分の考えを修正する機会があるとしたら、おそらく思い通りにならないものに接したときなのではないだろうか。先日、あるところで聴いた話では、まさにそういった事例が示されており、我が意を得たりといった感慨を覚えた。陶磁器の研究を行っている人が、その色合いの不思議を科学的に解明しようとし、結果として人間の力ではどうにもならないところに接することになった。一つは赤という色の発色についてだが、人工物ではどうにもならない部分を自然が成し遂げているという話であり、もう一つは同じ赤だが、意外な組み合わせで実現されているものに焦点を合わせ、結局その仕組みの一部を解き明かしたという話だった。興味深かったのは後者の話で、そこには慌てず騒がず、待つことの重要性を示す話がふんだんにちりばめられていた。緋襷と呼ばれる技術は長い年月を経て開発されたものらしいが、偶然によるところが大きく、まさに芸術の域と言うべきものらしい。それを得るためにはただ待つことが大切であり、急げば零れ落ちてしまうとのこと。まるで人の気持ちを逆撫でするような話であり、特に現代人の心にはかなり強烈な印象を残しそうである。必要不可欠な世界ではなく、単に趣味の世界でこういうことが示されたのは面白い話であり、もっと多くの人々に聴いて欲しいことだ。思い通りにならぬこと、待つべきものは待つこと、そんな教訓として。

(since 2002/4/3)