パンチの独り言

(2005年9月19日〜9月25日)
(教師像、道義、品位、面倒、荒廃、万博、物知り)



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9月25日(日)−物知り

 曼珠沙華の花が咲いていた。まさにこの季節にぴったりといった感じだ。茎も葉も出ていないのに時期がわかるというは不思議でしかたがないのだが、こちらが知識不足なだけなのだろう。
 もう一つの不思議はこの花が何故人家のあるところにたくさん咲いているのか、ということだったが、何となく片付いたような気がしている。ヒガンバナの球根には毒が含まれていることが知られている。人々がその性質を利用していると言われているのだ。人間が見ると他の植物の球根と区別できないのだが、ネズミは臭いで識別することができる。それでネズミやモグラはこの花に近寄らないと言われているのだそうだ。なるほどそう言われれば、田んぼの畦にたくさん生えていることがある。毒が含まれていると言っても、避けて行けばいいのに、と思うのは浅はかな考えなのだろうか。ある番組で流れていた実験によれば、ネズミは球根に近寄ろうともしなかったという。触らぬ神に祟りなしといったところなのだろう。曼珠沙華ともなればさすがに知らない人はいないようで、間違えて食べる事故はない。しかし、そろそろ季節に入り始めたが、キノコの方は毎年死人が出る。素人には区別がつかないと言われているのに、つい魔がさしてしまうのだろうか。一部の毒キノコはその姿形もかなり有名なのに、食べてしまう人がいるというから本当に不思議だ。ただ、事故の大部分はそういったものではなく、間違えやすいもので起きるという。図鑑を参考にしたといっても信用できないという話は、どうも当たっているようで、見た目が少し違っていても同じ毒キノコであることがあるし、逆に同じように見えても、違う種類で毒キノコだったりする。よく言われているのは、専門家でも初めての土地では間違えることがあるということだ。やはり、知らないものに手を出してはいけないと言うことなのだろう。

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9月24日(土)−万博

 当たり前のことかも知れないが、連休中はアクセス数が激減する。職場から入る人は当然のことだが、そうでない人でもどこかへ出かける方を選択することが多いらしく、カウンタの進み方が鈍ってしまう。一部の常連を除き、ほとんどの人はお出かけのようで、寂しいかぎりだ。どこへ出かけるのかは人それぞれなのだが、今は特にある話題が取り上げられている。
 半年前、始まる前には前売り券の売れ行きの不調さが伝えられ、お先真っ暗といった報道が続いていた。実際、展示物に関しても準備不十分という話が多く、間に合わないという声もあった。しかし、蓋を開けてみるとそういった予想は全て裏切られる結果となった。といっても、始まりはそれほどでもなく、おそらく設定目標ぎりぎりの集客数が精々という感じだった。それでも、報道関係はなんとか話題を作ろうと必死で、毎週報告が入れられたり、現場からの中継を頻繁にするところもあった。その甲斐あってか、徐々に人々の関心を呼ぶようになり、春の連休中にはじめのブームが起きたような気がする。そうなるとゆっくりとだが様子が変わってくる。はじめの頃は入場料の高さに文句を言う人が多かったのに、その頃には何度でも入場できるものに乗り換える人が増えてきたのだ。それだけでも40万枚以上売れたと言うから驚きである。さすがの土地柄と宣うた人もいたようだが、平均10回の入場と言うから凄いものである。ここまできたら、もうほとんどの人は何のことを書いているのかわかるだろうが、今最終盤を迎えている万国博覧会のことである。最終入場者数は目標を遥かに上回り、大台を突破したわけで、当初の心配は杞憂に終わったわけだが、それでも批判の声を上げる人は沢山いる。おそらく、成功という意見が出る度に、苦々しく思っているのではないかと思うが、はじめから失敗と決めつけている節がある。その人は確か35年前に開催された万博の責任者の一人で、その成功によって地位を築いたのではないかと思うが、とにかくはじめからその意義に反対し、失敗に終わると言い続けてきたようだ。ところが、数が目標を上回ってしまうと、そちらに文句をつけることはできず、別の話をまるで言い訳のように語っていた。伝える側もそれに見合う話を付けねばならず、開催地とは離れた場所で、如何に関心をよんでいないかを人々の話として伝えていた。同じ地域に何度も足を運んだ人がいても、そういう人の意見をとりあげなければ、それで済む。いかにも情報操作と思えるが、そんなことを考えない人々にとっては、ああ失敗だったのだ、やはり地元で開いたあの万博とは大違いだ、という結論になる。批判とはこうも簡単なものかと思えるが、まさにその通りなのである。何をするにしても実際に動いている人々は様々な苦労を強いられる。しかし、そのことに批判的な人々は何もせず、ただ悪いところを指摘すればいいのだ。結論がはじめから出ているので、改善する方法を考える必要もない。こういう展開での批判は単に負の方向に向けられるものであり、何かを産み出すとは考えられない。まさにそんな雰囲気だと思えたが、その際に情報伝達機関の果たす役割は大きい。どちらの方を向くにせよ、自在に操作できるということを受け取り側が認識していないと、とんでもない間違いに導かれてしまう。このところ、あからさまな情報操作が目立ち始めていることを心配する声が、意図的に消されているように感じるのだが、どうなのだろう。

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9月23日(金)−荒廃

 小学校が荒れているのだそうだ。校内暴力事件の件数調査が行われ、中高での増減に比べて、小学校での増加が目立ったからなのだが、さてどんなものなのだろうか。増えた減ったという話はいくらでもできると思うが、その数だけを捉えて荒れているというのもどうかと思う。本当に分析したいのなら、もう少し詳しくやるべきだろうし、その後の対策にも気を配るべきだ。
 こんなことを書くのは誰にだってできる。しかし、詳細に渡る分析を行い、更に解決に向けた対策を講じるとなると、簡単なはずはない。だから、誰も声を上げず、ただ増えた増えたとすることの方が簡単なわけだ。荒れるという言い回しは、もう既に何年も使われているが、それぞれの学校によって年齢層も異なり、当然のことながら起きていることも全く違っているはずだ。しかし、活字になった時には、荒れるという一言で片付けられる。児童による殺人事件が起きたほどだから、確かに極端な例は増えているのだろうが、だからといって他の例も凶悪化しているとは限らない。しかし、取り上げ方によってはそういう印象を与えることになるのではないだろうか。こうやって大騒ぎをして、そのうち忘れ去られるか、あるいは騒ぎに巻き込まれた人々が何かしらの被害を受けることになる。騒いでいる方は、そんな結果には関心がなく、問題視することに熱心なだけだから、困ったものということになる。そんな図式が見え隠れしていると思うのだが、今回も以前と同様の展開を見せそうな気配である。何しろ、問題視し始めた時点から凶悪事件の事例を掘り起こしているのだ。事件化したい人々にとっては、騒ぎを大きくすることが重要な要素であり、その為には如何に耳目を集めるかが肝心だ。となれば、当然記憶に残っている重大事件を取り上げるのが手っ取り早い。しかし、増加した暴力とはどんなものだったのか、そちらを全体的に捉えることには誰も関心がなさそうである。重要なことなのだから、重要で注目される存在にしなければならない、とでもいうのだろうか、そんな取り上げ方ばかりがなされているように感じられる。調査を行った機関にしても、さてこんな数字を発表して次に何に結びつけようとしているのか、それが見えてこない。問題化すれば後はどうにかなるだろうといった目論見なのか、はたまた予算やらそんな所が絡んだ話なのだろうか、いずれにしても、本来の問題解決に直接的に結びつくような動きには見えてこない。いつものことなのだからと冷静に見守るのならば大したことも起きないだろうが、騒げば騒いだだけ余計なことが増えるのである。騒ぐ人々と何か仕事を増やされる人々が同じ集団ならば仕方のないところだろうが、現実にはそうならなっていない。だからこそ、馬鹿騒ぎをやめにしておくことが肝要なのだと思う。もし、どうしても取り上げたいのなら、もっと全体的な把握に努力し、個別の例を含めて傾向を導き出すことが必要になる。そんな気がないのなら、騒ぐのはやめておくべきだ。

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9月22日(木)−面倒

 何もかも過渡期にあるからだろうか、どうも効率が悪いと思えることが度々ある。効率化を図ることで便利になる一方、それによる悪影響が出て不便になるという話をしたが、それ以前に旧態然としたところと新しい方式とが混然となっているがために、どちらにしても面倒なシステムができてしまうことが多々あるからだ。やり過ごせばいいと言うしかないが。
 最近は余り言われなくなったが、電子メールは良い例だった。普及するにつれて利用者が増え、更にそれに様々な要素が加わることで拍車がかかり、ついにはかなり多くの人が利用することになった。そうなればごく当り前のこととして電子メールによる情報交換が可能となる。しかし、それまでの段階はかなり複雑で、ある人々は使っているのに、別の人々は毛嫌いして近寄りもしないという状況だった頃は、一つの方法だけではすべての人に情報が行き渡らず、そのために複数の方法を使わざるを得なかった。となれば、手間がかかるし、そういう配慮をするだけでも面倒を増やすことになる。結局、徐々に整備が進むことで解決されたわけだが、それ以外の解決法はおそらくなかったのだろう。自分自身も電子メールの導入は業界人の中ではかなり遅いほうで、長い期間ファックスに頼っていた。始めることの面倒とどれだけの手間がかかるのかわからないという不安が手伝って、職場を移動したのを機会に始めるまで、まったく近寄ろうとしなかったことは事実だ。始めてしまえばどうということもなく、何の問題も生じなかったが、今頃になってゴミメールの来襲に悩まされている。これは後で起こる悪影響の一つで便利が産みだす不便のことなのだが、それにしても中途半端な時代には使用の有無を確認したり、様々な配慮をしたりと何かと不便を感じたものだ。今では、フリーメールという無料の電子メールアドレスを供給するものが増え、携帯を使ったメールの普及と合わせて、大多数の人々がメールを使える環境が整ったから、ほとんど問題を生じなくなった。それでもまだまだ難しいところがあり、実はある年齢層に限って言えば、利用者の数はかなり低いことも事実である。メール機能のついていない携帯電話の販売がその年齢層向けに行われているくらいだから、やはり新しいこと複雑なことを始めることの面倒に躊躇している人は多いのだろう。これとは違う話だが、ネット環境の普及に伴い、それを利用した手続きが次々に導入されている。いかにも便利なやり方に思えるが、その環境にない人にとっては何の利点もない。それよりも不便さが増大し、かえって迷惑を被っている人もいるのではないだろうか。反対側にいる人々にとってはまったく理解できない状況だと思うが、これはまるで銀行の自動預払機が導入されたときの状況に似ているだろう。振り込みも機械でできますと窓口で言われ、無理矢理使い方のわからないものの前に立たされたとき、多くの人は途方に暮れた。その後、さすがに客商売にあらずの行為をしていることに気がついたらしく、徐々に改善がなされたが、依然として考え込んでいる人々を見かけることがある。今のネット手続の状況は強制的でないだけ、銀行のものとは違うわけだが、それにしても弱小集団を無視することには変わりがない。一方で実際に使っている方にも面倒なことは増えており、まだまだ整備が進んでいないことを実感させているわけで、過渡期とはこんなものと言うしかないのかも知れない。

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9月21日(水)−品位

 本を読まない人には関係ないが、読む人がどんな本の探し方をするのかに興味がある。まずは本屋に行く、というのが一番だろうが、毎日のように新刊が出版されるのでは、すべてを網羅することなどできない。どちら道、そんなことは諦めているとして、良い本を探すには信頼できる本屋に頼るかあるいは新聞・雑誌などの書評を参考にするかだろうか。
 書評についても、どんな新聞・雑誌に掲載されているかが重要と言われていたが、最近はどれも質の低下が目立ち、役に立たないという声が聞こえる。その真偽のほどは別にして、自分なりの探し方としてこの頃目立ち始めたのが、通信販売を行っている会社のサイトを使うことだろう。検索機能の発達から多数のデータから的確な結果を引き出すことが可能になったのと、読者のコメントを載せることで評判を知ることができることが大きな要因だろう。その上、気に入れば即座に購入を決めて、数日後に手に入るとなれば、至れり尽くせりのように思える。唯一最大の欠陥は中味の確認ができないことだろう。評判倒れとなっても、文句を言う相手はいない。とはいえ、その代わりに、古本市場に出せばいいからネット様々だろうか。とにかくやたらに出される本の中で最近目立つのは思い出話的なものだろうか。こういう括りは不適切かも知れないが、昔話を綴ったものという意味だ。戦後何年という節目であることもあり、その頃の話が劣化、風化、消失、まあとにかくそんな憂き目に遭うのは忍びないということで書かれたものが多く、当時を知るためには重要な資料となるだろう。しかし、これほど雑多なものが出てくると、統一見解は引き出せず、何とも難しい状況になるのは止むを得ない。一方、そこから始まる成長期を生き抜いた人々の思い出話も次々と出されている。こちらの方も調べようがないから、どれほどの数が出版されているかわからないが、とにかく凄まじい数が出ているに違いない。それらのうちの幾つかを読んでみると、同じ頃を生きた人々の思い出と言っても、そこに大きな違いがあることが見つかり、それはそれで面白い。歴史とは人の捉えたものに過ぎず、実際に起きたことの誰かによる理解といったものと言うべきなのだろう。事実の捉え方の違いも去ることながら、それ以外の部分に関する記述にはそれぞれの人々の思いが込められていて面白い。簡単に言えば、自慢話に終始する人、恨み辛みの捌け口にする人、反省のふりをする人、そんな人々がわんさかいるのである。生きてきた本人が書けば、そうなってしまうのも仕方のないところかも知れないが、それにしても出版の動機がそこにあるのではないかと思えるほどだ。一方で、名誉回復の如く、誰かの書物で扱き下ろされたことの否定に精を出すものもある。特に、故人となっている場合には誰かがその役目を担うわけで、本人が書くよりは穏やかなものになるはずだ。しかし、間違った評判を元に戻そうとすれば、揺れ戻しの如くの作用が必要となり、別の部分で誰かを扱き下ろす結果となることが多い。元をただせば、始めに極端な表現である人を貶めた人の問題なのだが、それを修正するのに別の貶めが出たのでは何ともはやである。結局のところ、そういう面白さを欲する人がいるからとなるのかも知れないが、書き手の品位が現れるとは良く言ったものだ。たまには落ち着いた論調のものを読みたいと思う。

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9月20日(火)−道義

 世の中、そんなに甘くはない。そんな言葉が発せられそうな話が伝えられた。このところ、企業倫理が疑われる事件が頻発し、企業内の意識の問題が取り沙汰されるようになって、さすがに問題が大きいと思ったせいか、大学での倫理教育に力が入れられるようになったそうだ。社会倫理を身に付けていない人が多くなったから、というのが理由だが、さてどうだろう。
 個人主義が台頭して、何でも個を大切にし、集団は二の次とする考えが世の中に広がったとき、どこかおかしな具合になったと感じた人は沢山いただろう。個を大切にするためには、それが構成している社会を大切にしなければならない、という考えには思い至らなかったようで、既に確固たる存在である社会は脇に置いて、個に対する認識を改めようとする動きが起きた。その結果、二の次にされた社会に対してぞんざいな扱いが目立つようになり、ついには自分さえよければという利己主義が蔓延るようになった。社会が崩壊してしまうと、個も何も存在しえないという当り前の考えに到達しない人々には、この結果とて、結局は自分のせいではなく、社会を構成する他の人々のせいになるわけだ。何とも情けない話だが、現状はまさにこういった様相を呈しており、すぐに回復する兆しは見えない。そんな中で、道徳教育やら、倫理教育やらの重要性を認識する動きが見え始め、少しずつ元の姿に戻そうとしているようである。しかし、それらに携わるべき肝心な人々に、こういった感覚が欠落していたらどうなるのだろうか。小中高などの学校関係者の非常識ぶりは毎日のように報道されてきて、はたしてこんな人々に道徳教育が可能なのかと疑うばかりだったが、そういった感覚から少し隔離されていたはずの大学にも変な人々が現れ始めたようだ。セクハラに始まり、アカハラ、パワハラといった、どうでもいいのではないかと思える呼称で紹介されるイジメ行為の問題もかなり深刻化しているが、これは今に始まったことではない。ずっと昔から公然と行われてきたことだが、人間関係に対する配慮からいわゆる表沙汰になることが少なかっただけだ。それより、最近の急増には打算とか思惑とか、そんなものがごちゃまぜになった心理模様が展開されていて、この業界にまで普通の考え方が蔓延してきたことを如実に表している。となれば、倫理問題も当然出てくるわけで、実験結果のでっち上げに始まり、論文そのものをでっち上げた上に、業績の詐称までが登場するというはしたない事件が続発している。問題はそういう事件そのものにもあるが、組織としてのより大きな問題は事後処理など対処にあるのではないだろうか。厳重に処分すると表面上は取り繕っているが、大した処分もされず、本人も反省しないというのでは社会的責任が果たされたとは言い難い。まさにそんな匂いのする事件が起こり、何ともいい加減な処分がなされたが、結果として道義的という言葉を用いることで言い訳じみた再処分が下された。嘘をつくことで手に入れた研究費を嘘がばれても返す必要がないというのでは、どうにもならないのではないだろうか。当事者の処分も軽いもので済ませ、まさに組織の責任を問われて初めて、計画中止を決定するなど馬鹿げているとしか言い様がない。こんなことを繰り返す人々に何を任せられるのか、難しい問題だ。

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9月19日(月)−教師像

 ずいぶん昔のことだし、たぶん今の若い人は聞いたこともない言葉かも知れないが、でもしか先生という呼び名があった。でもとか、しかとか、何のことかと思うかも知れないが、先生でもやるかとか、先生しかなれないとか、学校の教師には誰でもなれるという意味で、蔑む気持ちが含まれていた。これは、それまでの尊敬の対象という存在とかかけ離れていた。
 当時の新任の先生も確かに頼りない面があり、思い通りに授業を進めることなどできそうにもないように見えた。しかし、数年後に接したときには様子が変わり、ある程度自信に満ちた雰囲気があった。おそらく、でもしかと呼ばれたのは少し前の世代のようで、既にその山も過ぎて専門職としての認識が高まりつつあったようだ。ところが、その辺りから学校が荒れているという話が頻繁に伝わってくるようになった。イジメ現象もかなり深刻だったが、その対応に追われているうちに様々な問題が噴出して、心休まる瞬間さえないという状態が続いたようだ。マスコミが騒ぎ立て、そんな問題を取り上げたドラマが制作されるようになったということは、つまり大きな社会問題になっていたということだろう。児童生徒の問題と片付けるにはあまりに急激な変化であり、有識者の知識もほとんど役に立たない状態だったようだ。振り返ってみれば、親の世代と教師の世代がある一致を見て、彼らの子供たちに対する対応の拙さが根底にあったのではないかと思われるが、当時そんなことを思いついたとしても、個人攻撃を避ける世論には影響を及ぼすこともできなかっただろう。一度乱れてしまった仕組みはそう簡単には修復できないもので、その後も様々な方策がとられたが改善の兆しは見られなかった。もし、世代の問題という意見が当っていたとしたら、彼らが関わっているかぎり無理ということになるから、この結果も仕方のないところだったのかも知れない。いずれにしても、その後、先生の資質を見極めるべきという意見が大勢を占めるようになり、様々な仕組みが導入された。在学中に課せられる教育実習のやり方も、以前と比べたらかなり厳格なものになったし、更には、めでたく採用されたとしても仮採用に過ぎず、一年間の試用期間を設けられるようになった。これで十分な能力を持った先生が現場に出ることになるという目論見は、どうも達成されたとは言えず、その代わりに本採用に移行できない人の数が増加しているという。昔の状況でも触れたが、誰しも始めの数年は苦労が絶えず、そこにある困難を乗り越えて初めて一人前の教師になれた。その間、雇用状況に変化はなく、監視されているなどといった感覚もなかっただろう。しかし、仮採用となれば話は違ってくる。常に見張られている気がする人もいるだろうし、失敗を恐れる人も増えるだろう。かえってそういうものに無頓着な人々だけが居残ることになり、実際の資質とは別の要素の影響の方が大きくなってしまう場合もあるだろう。実習にしても、仮採用にしても、そこで失敗しないためには決められた方式を忠実に行うことが重要であり、思いつきなどは批判の対象となってしまう。しかし、実際の現場で重要なのはそこで起きたことに的確に対応する能力であり、台本通りに事を進める能力ではない。今の状況を見るかぎり、本来の姿を見失ってしまったとしか思えないのだが、これもまた例の時間が過ぎるまでの我慢ということだろうか。

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