パンチの独り言

(2005年9月26日〜10月2日)
(特効、選択、鍛錬、座り込み、常識、要約、不自由)



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10月2日(日)−不自由

 原油価格が上がりつづけている。需要と供給の均衡が価格を決めると言われているが、どうにも説明できないほどの変化である。今までが安すぎたという意見も聞くが、では何故そうだったのか説明して欲しい。どう見ても思惑が入り乱れた末の変化に思えるが、すべてが電子化された今となっては、誰が何をやっているのか明らかになることもないだろう。
 原油高騰の結果、色々なところに影響が及び始めているようだ。直接的なものとしてガソリン価格があるが、海の向こうではガロン当たり3ドルを超え始めた。それでもこちらよりも安いのだが、その対策として馬鹿げた話が出ているらしい。3ドルは高いという印象を与えるから、ガロン当たりではなくクォート当たりにしようという話だ。そうなれば価格は四分の一になるからというのだが、これは単なる子供騙しでしかない。これほど直接的でないものに、海産物の価格があるらしい。海で獲れるものに原油価格がどう影響するのかと思ったが、船の燃料よりも油を食うものがあるという。照明装置のための発電機に使う重油のことなのだそうだ。いか釣り船が強力な照明を使っているのは、人工衛星の写真で有名になったが、それ以外の漁業にも使われる場合がある。その一つが今が旬のサンマ漁であり、そうでなくとも豊漁で価格が下落して苦しいところに、経費が嵩んで更に追い討ちをかけられているという。なるほど大変なんだなあ、と思うと同時に、おかしいなという思いがよぎった。沢山獲るために必要な照明装置に経費がかかり、沢山獲れ過ぎて困っているのだとしたら、何故皆で自粛して漁獲量を減らす工夫をしないのだろうか。獲れ過ぎで困っているのに、まだ無理をしてでも獲ろうとするというのは、何とも理解しがたい図式のようにも思える。おそらくそこに働く心理は、いい加減安くなってしまっているものを少量しか持ち込まないのでは、更に実入りが少なくなるから避けねばならないということだろう。確かに、一部だけがそういうことを実施し、他に出し抜かれてしまえば戦略としては成立しない。そこに全体的な調整が入らないかぎり、巧くいくことはあり得ないだろう。一方、この戦略が実行された場合、消費者に届くサンマの値段は上がるに違いない。結果として、漁師が被る被害が末端消費者に回されただけのことになるだろう。いずれにしても、今回の騒ぎはどうも解せないところが多く、自由経済とか資本主義とか、これまで金科玉条のように言われてきたことが、どこか綻びを見せ始めているような気がしてくる。金持ちは更に金持ちになり、貧乏人は更に貧乏になるという話が現実に起き始めているのではないだろうか。これ自体は別段制度的なものだけで生じるものではないのだが、今の仕組みを見るかぎりこういう事態を招かないようにする抑制力が小さすぎるように思える。自由はあくまでも自由なのだから、という論理が頻繁に展開されてきたが、それが招いた様々な問題が、ある人々の自由を奪ってしまうのだとしたら、さてそれは本当の自由主義と言えるのだろうか。

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10月1日(土)−要約

 本にも流行り廃りがある。今活字離れとして問題となっている全体の話ではなく、ある分野の本、ある主題の本という意味での流行りのことだ。いつだか本屋を覗いていたら、すぐそばに一字しか違わない題名のついた本が並んでいて驚いたことがある。それは極端としても、ある書き手が売れれば二匹目三匹目を狙う本が次々に出る。手っ取り早いということだろう。
 そういった本の中の最近目立つものに、頭のいい人悪い人という枕詞を使ったものがある。賢く生きるとか、失敗しないためとか、同じような意味をもつのだが、以前のように遠回しな表現を使わず、直接的な表現が目に付くようになったこと自体、その意味するところは大きいような気がしてくる。頭の良し悪しに関して、いろんな指標があるのだろうが、中でも今時のものとして注目されているものに、言われたことができるかどうかというものがある。指示通りに事が進められるか、という意味なのだろうが、言われた通りやるのは簡単と思う人がいるかも知れない。たとえば誰かに仕事を教わる場合、一つ一つそばで見ながら、場合によっては真似をすることで覚えていく。その後は、あれをやれ、これをやれといわれたらその通りにこなすだけだから、一見簡単なように思える。しかし、真似をしたからと言ってすべてことをそのまま繰り返せる人は少ないだろうし、同じことが同じように起きないことも沢山あるから時と場合に応じた対応が必要となる。だから指示通りに事を進めると言っても、同じことの反復はほとんど無く、様々な対応が要求されるわけだ。言われたことくらいやれなければ困るという愚痴を漏らす上司が沢山いるということは、それだけ最低限と思われることさえもできない人が増えているのだろう。何が起きても同じことしか繰り返さない人や、逆に毎回違うことをやってしまう人、そんな人々が世の中には溢れていて、どうにもならない状態にあるのかも知れない。一方、かなり頭のいい人でも何も知らない、初めてのことを上手にこなすことは難しい。言葉を覚えたときのように、真似をするにせよ、誰かに教わることが必要な場合が多いからだ。あるテレビの広告で解析データを未整理のまま会議で提示する若手社員を叱責する場面があったが、あれなどは典型的な例であり、取捨選択をせず、すべてをさらけ出すことの功罪を説く人が必要なのだろう。同じような場面に出くわしたことがあるが、その時は話のまとめの提示において、まるで原稿用紙数枚に書いたほどの分量が目の前に現れ、本人はそれを順に朗読していた。一生懸命やったと言いたいのかも知れないが、そこに見えるのは「私は馬鹿です」とか「私は阿呆です」といった炙り出し文字であり、恥をさらすに近いものがある。どんなに高度な教育を受けたとしても、こういう行動しかとれない人間は役に立たないし、この程度のことさえ知らないとしたらきちんとした教育を施していないことになる。頭の良し悪しを測る指標として、対応力や適応力を持ちだす人がいるが、どうすればいいのかを教えずにそれを論じても仕方のないところだ。教えてもなおどうにもならないという人を目の前にして初めて良い悪いの意味が見えてくるのだろうから。

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9月30日(金)−常識

 今どきの若者は、と眉をひそめて語る大人たち、どこにでもある光景だ。その一方、おばちゃんは厚かましくて困る、という話も一部の地方だけでなく、よく聞かれる話だと思う。若いと常識が身に付いておらず、年をとると自分勝手になるなどと解説しようと思えばできないこともない。しかし、実際にはそういうことではないのだと思う。
 時間的なずれから言えば、ある程度の年齢の人々の行動が年をとるにつれて出てくるとすれば、たとえば昔ほど素早く動けなくなったとか、そんなことがあると思う。肉体的な衰えは誰にでも訪れるものであり、程度の差こそあれ確実に襲われるものだ。しかし、精神的な面について、どのくらいの範囲のものが年齢に応じて変化するのかといえば、大して多くないのではないか。厚かましいおばちゃんが、あるとき急に厚かましくなったのかといえば、そんなことはほとんどなく、若い頃から自己中心的な面があったという場合が多いだろう。ただ、たまたま見かけた人の昔を知る人はおらず、今目の前で展開される奇異な行動を見て、つい年齢のせいにしているだけなのではないか。そう思いながら、今度は若者の行動を見てみると、その非常識さかげんに類似点が見えてくる。典型的なのは中学生くらいの登下校時の自転車の乗り方、歩き方に現れている。車がやって来ようが、何があろうが、自分たちの隊列を乱すつもりはない。あくまでも唯我独尊のごとく、相手がよけるのを待つ。というより、気づかぬふりをすると言ったほうがいいのかもしれない。この手の行動はおばちゃんと呼ばれる人々の自己中心的な行動とそっくりなのだ。女性のことばかり引き合いに出して、読む人によっては腹立たしく思っているかもしれないが、書き手の性別に関係したことだから、まあ仕方がないと思って読み進んで欲しい。おそらく性別には関係ない部分が多いのだろうが、どうも話に出しやすいだけなのだ。若者とおばちゃんの類似の話と似たところがあると思ったことを先日目撃した。以前、電車の中でおかしな臭いがするから不審に思ったら、車内でマニキュアをつけている人がいたことがあった。その時、また二十歳過ぎくらいの女性が、非常識に化粧の一環としてやっているのだろうなと、隣に居合わせた人と話した覚えがある。先日見かけたのは、どう見ても五十過ぎの髪を赤く染めたおばちゃんが、おもむろにマニキュアをつけていた姿である。常識とは年齢に関係なく、その人の身に付いたものなのだな、と改めて思ってしまった。身だしなみという言葉をよく聞くが、それを整えるのを皆が見ている前でやろうとする気持ちはまったく理解できない。特に、臭いは敏感な人がいるし、まして溶剤の類いのものは注意すべきだろう。こんな様子を見ていると、最近の何とかは、などという話は本来適切な表現ではなく、目の前にいる非常識な人、その個人に対してのみ当てはめるべきことなのだ。それにしてもどうにも不快な臭いが車内に立ちこめていた。

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9月29日(木)−座り込み

 鉄道の旅を楽しみにする人がいる。どこへ行くにも鉄道を使い、何とか新しい路線を開拓しようとする。衛星放送だったか、全国のJRを一筆書きで制覇する企画が放映され、全路線制覇が続いた。ご当地番組のような企画の受けは相変わらずで、鉄道人気が戻ってきたような気がしてくる。実際、目的地を目指す旅ばかりなので、時にはこれが良いのかも知れない。
 こういう番組で紹介されることはまず無いはずだが、実際にそういうところへ出かけてみるとおやっと思う光景に出くわすことがある。都会ではなく地方では鉄道の利用者のうち最も大きな割合を占めるのは学生だろう。それも高校生が大部分だと思う。そんな彼らはカメラの前では大人しくしているかも知れないが、普段は我が物顔に振る舞っているようだ。場所によるだろうし、町によるだろうし、たぶんそこに住んでいる人々によるだろう。しかし、既に成人でさえ車内喫煙が許されなくなったのに、制服姿のまま煙草をくわえた高校生が床に座る姿が目撃されたり、ホームでの喫煙が目撃される。既に当り前の光景となったのだろうか、誰も注意する人はいない。駅員でさえ、もうどうでもいいとばかりに無視しているようだ。喫煙自体も大きな問題だが、もう一つ気になるのは床に座ることだ。潔癖症が問題視される一方で、どうにも汚れた生活に何の疑問も抱かない人が増えている。コンクリートのホームにべったりと座る姿を見ると、さすがに首を傾げたくなる。まるで、烏か雀が電線にとまっているかの如くだ。車内での行動も凄まじいものがあるが、これは別にそこに限ったことではなく、おそらく学校内でもかなりのものなのではないだろうか。だから先生の指導が不十分だというつもりはなく、ただ家庭の問題がこんなところにまで及んでいるのかと驚くばかりなのだ。どう考えても服の汚れは尋常ではないだろうし、あれでは体の方だってどうなっているかわからない。だからといって何かを言うつもりもないのだから、社会として彼らに何かをしているとは言えないわけだが、さてどうすべきなのだろうか。個人主義の尊重がこんな形でしか表に出てこない国というものに、落胆しても仕方のないことなのだが、はてさてどちらに向うのか、心配するほうが馬鹿らしいということになりそうだ。そんな時代があっても、ちゃんとどうにかなるものだ、という意見を言う大人たちは単に無視しているだけで、将来を見守ることさえしていない。自分の子供に対してもそんな調子では、どうにもならないと言うしかないだろう。都会ではそういう場所が無いせいか、あるいは別の場所がそうなっているせいか、あまり見かけない光景だが、電線にとまった鳥のような姿を観たいと思う人はそんなにいないと思う。

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9月28日(水)−鍛練

 時間に追われる生活をしていると、その大切さを実感することが何度も出てくる。ちょっとした油断で、間に合うはずの仕事を終わらせられなかったりすれば、様々なところに無理が生じる。そうならないように事前に注意してもうまくいかないこともあり、反省しきりとなることもある。輸送機関である事故の直後、時間厳守の問題が取り上げられたが、簡単なことではない。
 公共機関の事故のように大きな責任を負っているわけでもないが、やはりちゃんと責任を果たしたいと思う人は多いだろう。そのためには時間を守ることは最低限の決まりごとであり、それをいい加減にしたままちゃんとした仕事を進めることは不可能に思える。納品の時期を守れなければ、その仕事だけでなく次の仕事も失うことになりかねない。にもかかわらず、どうにもそういったことがきちんとできない人が増えているように思える。何かにつけて、守るべきものを守るのは最低限であり、必須条件のもののはずなのだが、どこがずれているのかうまくできない人が増えているようだ。よく考えれば、何らかの圧力を意識している中でちゃんとことを進めることができるのはほんの一握りの人だけであり、大部分の人々はどこかに欠陥を残したままに進むしかない状態にある。そんなことでは役に立たないはずと思っても、できないままではどうにもならない。となれば、何らかの形で訓練を行わねばならないことになる。働くようになってから、そういった訓練を始めるようではおそらく駄目で、学習している間にそんなことが身につくような環境に自分をおかねばならない。そうは言っても、実際にはそういうことをきちんと授けてくれるところはそれほど多くなく、大部分のところでは教わる人々の資質や努力に頼るところが大きいのではないだろうか。そんなことでは駄目なはずなのに、などと文句を並べてもどうにもならないものはならないのである。結局は何とかうまい方法を考えて、それによって効果をあげるしかないはずなのだ。時間内に何かを終わらせるという訓練は、もともと入学試験のような場でなされていたはずなのだが、どうもその辺りが怪しくなっているのではないか。うまくやろうとする気持ちはあっても、それを実施する力がなければどうにもならない。まさにそんな様相を呈しているわけだが、ではどうすればいいのか。教え、教わる二つの側で、ちゃんと何かを意識した形で、訓練を行うのが一番なのだろう。他人任せにしておいてどうにもならないことになるよりは、自分なりの工夫をしながら両方から近づいていくことが必要なはずだ。当然そういった狭い社会のことだけでなく、もう少し広がったところで周囲から圧力をかけることも効果を産み出しそうだ。そういった圧力を避けることばかりに気を取られ、抑圧に耐えられない人間を作り出しているようでは、どうにもならない結果となる。時間内にことを済ませるだけでなく、完璧に近い仕上がりを約束できるようにならなければ、仕事ができると言われることは永遠にない。それでいいのなら、どうにもならないが、少しは自分を高める努力をすべきだろう。

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9月27日(火)−選択

 人生には沢山の選択があると言われる。自分自身で選ぶ選択もあれば、親兄弟によって押し付けられる選択もあり、好むと好まざるに関わらずという場面に遭遇することもある。とは言え、どれかを選ぶということには変わりがなく、少なくとも二つの選択肢が用意されているのが普通だ。そんな人生の中で一つだけ選択できなものがあるが、何かわかるだろうか。
 最近、選択を迫られると逃避行動に移るという人をよく見かけるようになった。逃げても何とかなるからという意見が大勢を占め、その退路を塞ぐべきであるという過激な意見まで聞かれるようになった。というのも、そういう人の数が少ないうちは社会の包容力で何とか全体を保つことができるが、ある限度を超えると急速に崩壊してしまうことが今までの例から明らかだからだ。現状を見るかぎり、かなり厳しい状況に向いつつあり、一部の識者からは対策を急ぐべきという声も上がっている。にもかかわらず、全体としては何もなされておらず、この国が如何に酷い状態にあるのかを如実に表していると思う。選択という重要な決断を下せない人々を次々に無思慮に生産する社会はやはり滅びるしかないのかも知れない。その代わりといっては言い過ぎになるだろうが、本来選べないはずのものを選ぼうとする人々がいる。人生に対する逃避行動の極致とも言うべきものだが、普通なら簡単なはずの選択を避け、躊躇するはずのものをいとも簡単に選ぶ。その進境はそういう人にしかわからないのだろうから、ここで論じても仕方のないことなのだが、本来これが選択できない人生唯一のもののはずなのだ。といってもそれは正反対の方向にあるから、すぐにはピンとこないのかも知れない。無理矢理選択する人は避けようの無いものに突入する選択であり、別の選択をしたい人は何とかその運命を避けたいということなのだから。一部の例外を除いて、誰だって平穏無事な人生を送りたいし、なるべくなら長生きしたいと思うだろう。しかし、ことはそう簡単ではなく、平穏無事も難しいし、長生きは永遠に続くわけが無い。そうなれば、選べないことに対してどう向きあうかが重要な事柄になる。人によっては死ぬ準備とも言うべきものを始めるだろうが、一方ではそんなことにはまったく無頓着という人もいる。どちらが死ぬ運命を受け容れているかという疑問を投げかける人がいるかも知れないが、実際にはどちらもそこまで到達していないのではないだろうか。準備をする人でも単純に旅行に出る準備程度のものであることもあり、決意と呼べるほどの境地に達していないことも多いだろう。逆になるべく長生きしたい人は、いろんなことを試みるわけで、そのために金を惜しまぬ人もいる。古今東西、不老不死は永遠の望みであり、何とか死という運命を切り抜けたいと思う支配者はあとを絶たなかった。しかし、その望みが叶えられることはなく、依然として死を迎えるしかない状態にある。生き延びると言っても、ちゃんとした形で健康な生活を送れるのであれば、それで良いのだが、単に生きているというだけだとちょっと考えてしまう。以前は延命措置を施すのが当り前となっていたが、今ではその辺りも選択の範疇となっている。その場で本人が選択できるわけではないから、事前にその意向を尋ねておくか、家族が決断するという。実際には、死に目に合わせるためだけの延命が行われることも多く、まあそれならと受け容れる人も多いようだ。いずれにしても、運命は運命、一時的に避けたとして、永遠に逃げ続けることはできない。

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9月26日(月)−特効

 年齢にもよるのだろうが、人それぞれに服用する薬がある。高齢者ともなれば、薬の山を捌いて、それぞれの日に分けておかねば忘れてしまいそうなほどだ。以前よりも薬の種類も量も増えているようで、大丈夫なのかと思えてくるが、一部の人を除けば大したことはないという。一部とは、多科を受診している人々で時々一緒に飲んではいけないものを処方されるらしい。
 安全性に配慮されているはずだから大丈夫、という話をよく聞くがその真偽のほどは不明だ。実際には各製薬会社のホームページを覗くと薬それぞれに注意書きが添えてあり、様々な逃げ道が設けられているような気がしてくる。ある国で頻繁に使用されている薬が、企業の注意書きではその処方を避けるようになっていたり、そうでなくても医者の説明には無かった事柄がさらりと書いてあったりして、人によっては不安を煽られる結果となる。体調不良を改善する薬は崩れてしまったバランスを調える作用を持つはずだが、逆に言えばバランスを変えるわけで、少なくともそれによる副作用が起きる可能性は否定できない。内臓系の薬の場合、処方される側は精神的に安定していることが多いから、説明を十分にしたうえで、注意を促す傾向にあるが、精神的に支障を来した場合に処方される薬の場合は、服用する側に安定性が期待できないこともあって、そういうところを端折ってしまうこともあるらしい。薬の開発のお陰で、かなり重篤な症状でも改善されることがあり、そのため処方される例は増え続けているというものがある。医師にとってもこういう薬は扱いやすいらしく、症状の程度を無視した処方や改善の具合を見ないままの継続を行う場合も多いと聞く。そうなると徐々に不必要な服用が増え、それによって起こる副作用の症例も増えていく。そんなことが重なったせいなのか、一部の薬に対する認識が改められ、結局製薬会社からの注意書きにある一文が加えられることになる。これですべてが解決するのなら良いのだが、実際にはそうならないことが多い。二つの場合があり、一つは注意の徹底がなされず、依然として同じような処方が繰り返されることで、これでは何の改善も見られないことになってしまう。もう一つは、こういった対応は症例の数に依存するから、次々に表面化する少数の副作用の例は漏れてしまうことが多いということだ。確かに、服用する人の数が増せばそれだけ症例が増え、かなり多くのものが表面化する。そうなることで、ある程度の解決はみられるようだが、実際にはまだまだ表に出てこないことも多いようだ。特に精神疾患の場合この傾向はかなり強く、すぐには解決しないのかも知れない。風邪のようなものだという意見を出し、それに対する薬のように処方する現状では、この辺りの問題は深刻化しているという話もある。無くせばいいというわけにも行かないのだろうから、簡単には解決できないだろうが、色々な例も含めて気になることではある。

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