パンチの独り言

(2005年10月3日〜10月9日)
(省エネ、寄稿、貧乏籤、損得、学歴、百人、脅し)



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10月9日(日)−脅し

 自分の思いを相手に伝えたいとき、どんな手段をとるのだろうか。時代の流れとともに手段は変化し、それに伴って使う側にも変化が起きた。直接対面して伝えるのが最善なのは昔も今も変わっていないと思うが、事情が許さない時色々な工夫が産み出され、それぞれに長所、短所を持ち合わせていた。他に選択肢がなくやむを得ず使われたものもあるが、複数から選ばれたものもあっただろう。
 自分が出向けない時に、他人を使いに出して何かを伝えさせるというのが始めの形だろうか。おそらく言葉として伝えるやり方が最初で、次に書いたものを持たせるとなったのだろう。いずれにしても運び手にとって、情報を手に入れることは容易だから、暗号などの手段を用いて彼らに内容が知られないような工夫もあったのではないか。人が運ぶ時代は長く続いたようで、それに代わるものはかなり長い期間出てこなかったようだ。伝書鳩などの生き物を使って手紙を運ばせる方法が編み出され、かなり普及したようで、次の手段が発明されてもなお使われ続けた歴史がある。理由は簡単で、新しい手段では運べないものを伝書鳩は運ぶことができたからだ。電話や電信といった方法は通信文を電気信号に変えることで伝達する方法だが、電信が誰でも傍受できたのに対して電話はそういう可能性が低いものの一つだった。戦時中の通信は暗号化されて、モールス信号で電波にのせて発信されていたが、暗号解読が可能となると全ての情報が敵側に漏れてしまった。暗号化技術の重要性が認められたのはこのことが起きてからだろう。電話は声という媒体を使うから、現場に盗聴設備があればすぐに相手方に情報が漏れてしまうという欠点を持つ。大袈裟な戦いではこういうことも問題になるわけだ。しかし、日常生活では電話はその場で情報交換が可能となる方法だから非常に便利なものである。手紙を使って数日かけて、という時代からしたら、格段の進歩と言えるだろう。その後、ファックスなるものが登場して、声という媒体だけでなく様々なものを伝えることが可能になると、通信手段としての地位は頂点に達した。個と個の間での通信という意味でも、電話は重要な手段だったが、インターネットが登場して様相は一変してしまったようだ。手紙があっという間に相手に届き、すぐに返事をもらえるとなると、自分と相手の時間を縛ってしまう電話の欠点が目立ち始めた。その上、電子メールでは多数の人々に同時に一つの書類を送ることも可能になり、あらゆる点で電話より優れていると思う人々が出てきた。しかし、最近の動きを見ているとどうもその辺りに翳りが見え始めているようだ。不特定多数に送りつけられるごみメールの話もあるが、もう一つ送り手の思惑が錯綜するものが目立ち始めた。電子メールの機能にCcとかBccというものがある。複写を別の人に送る機能で、前者は本来の受取人に他の誰に送ったかを知らせるが、後者はそれが見えないようにする。電話の話を他人にも聞かせるとでもいうのだろうか、そんな機能と見なすこともできる。関係者全員に知らせるという本来の機能に使う人がほとんどだが、一部違う目的に使う人がいるようだ。つまり、何かを誰かに依頼する時に、他人に知らせることで依頼を受けた人に圧力をかけるという使い方である。本来ならば私信で個人間のみでの取り決めのはずを、他人に知らせることで相手の意識を制御しようとするわけだ。何ともえげつないやり方だが、効果的と思っている人がいる。確かに大勢の前で、大声で相手に依頼しておけば、皆に知れることになるわけだから何かしらの利点はあるかも知れない。ただ、脅迫となりうることを意識した上でやるべきだろう。

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10月8日(土)−百人

 確か、新聞のコラムに取り上げられたのが始めだったと思うが、百人の云々という物語が流行したことがあった。地球では、という大きな括りが始めで、そこから派生して、様々な括りが登場した。何故、評判が良かったのか一言では言えないかも知れないが、今時の考え方に適合した部分があったのだと思う。例えば、数字で全てを表現すること、明確な差異を利用することなどがあるだろう。
 流行とはまさにこんなものかと思えるほど、次々と泥鰌を狙う企画が出されて、そしてあっという間に忘れ去られた。こんなとき、困ったものだと思うのは、種々雑多なものが何の考えもなく次々出され、悪質なものが目立つようになる頃には、皆に忘れる準備ができてくる。問題はその先で、悪いものだけを無視するのではなく、実際には最初に取り上げられ流行のきっかけを作ったものまで巻き込まれてしまうことだ。企画する人間にとっては一時的な流行ほど歓迎できるものはなく、その勢いで粗悪品を売り捌いてしまおうとする企画力に乏しい人々にも活躍する場が与えられる。この例に関しても、例外とはならずあっという間に書店の隅っこに追いやられ、返本の山が築かれたのだと思う。そんなこんなで、こちらもそんなことをすっかり忘れてしまった頃、ネット上に新たな百人が登場した。ある業界に関するもので、それはかなり深刻な問題を産み出していると考えられている。その百人はある資格を獲得する為のシステムの中に入り込んだ人々で、そのうちの何割かは所期の目的を果たすだけでなく、資格獲得とともにそれを活かすことのできる世界に進出することができたとある。しかし、その一方で恵まれない境遇に追い込まれてしまう人も多く、徐々に狭まる未来に気持ちが暗くなるだけでなく、自分の将来を明るく見通すことさえできなくなるとある。結果的には、獲得競争に勝てず脱落する者あり、資格を取ったとしてもそれを活かす場所に進出できず去る者あり、といった具合に、百人を選り分けていく。最後に残った数人は、もう既にこの世におらず、獲得競争のみならず人生の競争にも敗れ去っていったことになる。このお話がその業界で受けているのは、おそらく実態を如実に示しているからだろう。数字としては間違っているわけではないからだが、事実を表現しているはずなのにそこに違和感を覚える人も少なくないのではないか。ここで取り上げられている資格はずっと昔から存在していたものであり、その業界で生き残る為には必要不可欠なものである。その一方で、昔と大きく変わった点があり、そこに本質的な問題があることに、百人を書いた人は気づいていないのではないだろうか。実態は数字としてその通りなのだが、そこに関わった人々の質の変化が大本の原因となっていることに配慮しなければ、数字だけの話に終わってしまうからだ。以前と比べて、おそらく十倍以上の人々がこの資格獲得競争に参加しているとしたら、百人のうち九十人は昔ならそこにいなかった人々ということになる。まして、その中に含まれるほんの一握りの人々の話となれば、元々数に入らない人となってしまうのではないだろうか。現状を正面に見据える必要があることに異論を唱えるつもりはないが、そこにある異常性について本質的な見地を欠いたまま表現することには違和感を覚える。つまり、誰にも可能性があるという幻想を抱かせる制度自体に問題があることに、もっと目を向ける必要があるのではないだろうか。この話はある特定の資格に当てはまるだけでなく、おそらく多くのものにも言えることだろう。

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10月7日(金)−学歴

 どんな学校を出たか、ある年齢を超えるとあまり言われなくなるが、それまでは時々聞かれたという人が多いのではないだろうか。戦前派、戦中派は小学校までというのがごく当り前だったが、義務教育が始まると中学校が当り前になり、そのうち高校となり、大学となる。まだ当り前というほどではないだろうが、それでも重要な要素になっている。
 ある程度当り前となってくると、次に起こるのは同じ範疇の中での区別である。こういうのを差別化という人もいるが、差別などと大仰に言うのもどうかと思うところもある。つまり、何をどうして手に入れたのかが関わる場合にはそこに起こることを差別と評するのはおかしなことなのだ。まあそうは言っても、様々な形で嫌な思いをさせられることが多いと聞く。たとえば、就職活動で資料請求をしても梨の礫の企業があったとか、面接に臨んだら訳の分からない難癖をつけられたとか、そんな話には事欠かない。しかし、それとても自らの姿を省みると、少しは感覚が違ってくるのではないだろうか。特に、経済状況が落ち込んでからは色々な見直しがなされ、ただ闇雲にお客さんを相手にするようなやり方を求職者に施すことはなくなった。経費を考えれば、梨の礫もある意味当り前なのだ。意味のないと判断したところに何をしても無駄なのだから。一方、学生の考え方にも変化が現れているように見える。当り前のことをやっているという意識が其処彼処に現れているのだ。当り前とは権利であり、何も特別なことをしなくても手に入れられるものという考えがあるのだろうか、ただ漫然と学生生活を送ってきたという人がやたらに目立つようになっている。社会に出る準備と言われたのはもう遠い昔のようで、どうも出てから考えるというのが今の風潮のようだ。何やら定職に就かない人がいてという議論にしても、定職に就く前に予行演習が必要などと論じられるようになっているわけだから、学校で準備をするなどというのは筋違いと思われているのかも知れない。そういう背景は別にして、子供を大学に通わせることに対する親の考え方も変化し始めているようだ。自分のためなのだから、という論理を通用させるのはどうかと思うが、まさにそれを押し付けて何の支援もしない親が増えていると聞く。そこまで行かなくても、様々な形で支援の規模は矮小化し始め、困っている学生も多いらしい。行っても意味がないようなものという実態があるから、余計にそういう傾向は増長されており、一部の意欲のある人々にまでその影響が及んでいるようなのだ。身勝手な子供を嘆く親が多い一方で、身勝手な親を嘆く子供の数も急増している。ただ、よく考えたほうがいいのは、本来の教育制度から言えば大学などの高等教育は全ての人々が受けるべきというものではないことだ。誰もが行くのだからという論理だけでは、あまりに脆弱な主張なのである。意味もなく、ただ肩書き、学歴のためだけに、そういう場所を通りすぎるのであれば、それは無駄と言われても仕方のないところだろう。でもしか先生ならぬ、でもしか大学生が粗製乱造されているとしたら何とも情けないことではないか。制度の問題に原因を求めるのではなく、それぞれの人々の心の中に原因を見出すべきだと思うのだが。

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10月6日(木)−損得

 この国でも競争が軽視されたり、毛嫌いされた時代があった。須く同じであるべき、という論調は差の存在を否定し、そこに逆の意味の不平等が出現したとしても否定していた。その人々がどこに消えてしまったのか分からないが、次にやって来た時代は全てが競争原理に基づくとするもので、平等の存在は限定された条件下でのみ成立するとなった。
 まったく人の考え方などというものは身勝手なものであり、同じ人物が両極端なことを平気で主張するなど当り前らしい。有識者たる者時代の趨勢に遅れることなく、次々に提案される一時しのぎのアイデアに対しても、その異議を唱える必要があるようだ。現代の流行は民間の手によるということらしく、公の政府の無能ぶりや怠慢を棚に上げて、別の方面に目を向けさせようという意図丸出しの働きかけに加担する人々が急増している。何をすべきか、どの方向に向うべきか、決断することはいつの時代も困難を極め、後になって批判や反省の大合唱が聞かれるわけだが、それにしても無深慮な計画に対する批判の声の小ささには以前の競争批判や現代の競争称賛に対するものと同類の感覚が湧いてくる。何故こんなに考えない世の中になってしまったのかさっぱり理解できないが、おそらく成長が止まったときに考えても無駄という諦めが広がったからだろうか。民間にやらせるという意味で成功例として取り上げられるものに鉄道事業があるが、あれもリストラの塊のようなものであり、人の整理だけでなく赤字路線の整理が全国各地で起こった。その対応の一つとして地域の自治体が絡んだ第三セクターという新しい考え方による経営が導入されたが、これなど民間指向と逆行するものでしかない。しかし、地元の利益を守るためにはこれ以外の選択肢はなく、結局実行された。その後の展開は悲惨としか言い様がなく、大きな組織として生き残ったものとは比較にならないほど大きな負債を産みだしている。全体としては上手くいった部分が大きいからと成功と結論づける場合が多いが、この変化によって何がどう変わったのか、特に利益として何があったのかをきちんと論じたものは少ないのではないだろうか。特定領域に限られた活動でもこれほど多くの問題を産みだすのに、これからどう展開するか予想できないものに同じやり方を押し付けようとするのに対して、危惧する声が高まるのは当然の事だろう。切り捨てられた地方の路線の多くはその後廃止されてしまったが、一方で生き永らえているところも多い。代替案の導入が困難であるためであり、それが上手く動いているからではない。路線の維持費が嵩むことから、何とか妙案をと全国各地で様々な試みがなされているが、そう簡単に解決することはないだろう。そんな中である鉄道が一風変わった切符の導入を決めた。全路線乗り放題で一年間有効という切符を発売し、それが動き始めたのだ。こういった路線の多くは短く、だからこそ落ち込み始めたら回復する手段がほとんど無い。その中で、これ自体は赤字を産みだす可能性があるにも関わらず、導入を決断したのには名を知られるきっかけという考えがあったのではないだろうか。これだけで何とかなるわけではなく、おそらく周辺整備の必要性があるだろうが、それはそれとしてまず引き金となるものをという考えだったのだろう。どうなるかは一年経過してみないと分からないだろうが、見守りたくなる話ではある。

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10月5日(水)−貧乏籤

 景気の動向は油断できない状況にあると言われているが、それにしても相場は賑わっているようだ。何にでも理由を求める人たちにも直接的な要因が見つからず、ああだこうだと訳の分からない話ばかりが続いていて、そろそろ耳を傾ける必要がなくなった。例の悲観論者も姿を現さず、文字通り鳴りを潜めているのだろう。そちらの静けさは歓迎したい。
 ファンダメンタルとか、要因の解析を常とする人々にとって、こういう相場は予想がつかず、概ね後追い、後付けの展開が続く。それに対して、こんな流れを見ると喜ぶ人々は大いに狂乱し、一時のお祭り騒ぎに乗り遅れないように頑張るようだ。いずれにしても、どこかから金が入り、どこかに金が出ていく図式に変わりがあるわけでもなく、最終的に得る人、失う人という二分化が成されるのは避けられないことである。問題はこの状況がいつまで続くかであり、それによって選択の幅が大きく変わるだろうから、被害の程度もかなり違ってくるのだろう。要は、潮時を知ることであり、上昇基調の時こそ、引き上げ時が肝心となるのだろう。遅れてやってきた人々はそれ自体が危険信号であろうし、全面広告が展開されているように今から入ろうとする人々にとっては、難しい局面と言えるかも知れない。特に最近の情勢を見るに、自動制御のような形式を用いるところが増えていて、そのため急激あるいは継続的な上昇が難しくなっているだけに、時期を誤ると飛んでもない損を抱えることになる。自己責任なんだからというのは容易いが、実際には理解不足の上に心理的な要素が加わり、乗り遅れを恥じる気持ちから無理をする場合が多い。失うものが大きいだけに十分気をつけて欲しいものである。一方以前から参加していた人々にとっても、悩む時間が増えているのではないだろうか。上昇が永続するわけでないことは重々承知していても、どこでけりをつけるのかを決断するのは簡単ではない。実際に同じ基調が継続するのであれば、仕切り直しても似た結果になると言われるのだが、そういうことに慣れていない者にとっては判断の難しいところである。でも、結局のところ儲かっているのだから良いではないか、と思ってしまえば事は簡単なのだが、欲というものはそう簡単には片付かないものらしい。直接的なものはそれでもちゃんと自分なりの決断で決着を付けることができるから良いのだが、間接的に関係しているもの、たとえば年金とかについてはそうでもないようだ。大体、何故こういう資金の運用がそれほどに重要なのか理解できない部分が大きいが、このことが大きく取り上げられたのは結局運用によって作られた穴の大きさが尋常でなかったからだろう。右肩上がりの社会では何の造作もないことなのに、変化が乏しくなった社会ではちょっとした動きの違いで結果が大きく異なることが多い。その結果として現れた大穴だったのだろうが、責任の所在は不明確なままだし、依然として同じような動きが続いているように感じられる。現在の上昇相場についても、最後のところで失敗しそうな候補に挙げられているのではないだろうか。全体を支える大量の資金運用であるのだろうが、損を出すための運用はあり得ないことである。間接的だからこそ無関心を装うこともできるが、結局こちらに戻ってくるのだから、考えたほうが良いのだろう。

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10月4日(火)−寄稿

 最近は毎日何を書くのか、通勤途中で考えることにしている。ふと思いつくこともあり、何も思いつかないこともあり、日により様々だが、パソコンに向う頃には大体固まっていることが多い。それでも、折角思いついたことを忘れてしまったり、いつまでもまとまらなかったりで、苦労することも多い。兎に角、材料はどこにでも落ちているわけではないから。
 これだけ毎日書いていれば、大抵の人にもわかることだが、元々書くことが好きである。何かを頼まれても適当に片付けることを常としているから、書くことに苦しむ人々の気持ちは理解できない。おそらく、完成品を人に見せることに対する躊躇の有無が決め手なのだろうが、有るものを無くすことができないのと同じように、無いものを有るように振る舞うこともできない。題材の決め方もそうだし、内容の流れもそんなものだ。ある程度書いていけばそれなりのまとまりは施せる。それをいつまでも手を入れていたら、仕事は進まなくなるだろう。これは、定型文を基本とする法律に関わる文書にはまったく当てはまらないことだが、実際にはそれとて型にはまるように仕上げればいいわけで、かえってそちらの方が楽という考え方もある。書くことを職業とする人々の中にも、苦しむタイプとそうでないタイプがあるらしく、どちらの方が良いとは一概に言えない部分がある。つまり、締切さえ守るのであれば、その過程で七転八倒しようがしまいが関係ないのであり、専門家としてきちんとしたものを完成させていれば問題ないからだ。本人の苦労のほどは、依頼者にとっては無関係なものであり、それを他人にわかるようにするのは本来あってはならないことなのだ。それでも、人それぞれに時間当りに書く量は決まっているらしく、何かに打ち込めば別のことが疎かになる。この時期、かなり重要な書類の作成があるのだが、このところこちらの方に関してはうまく進まないことが多い。結局量的問題があるのではないかと思うが、確かなわけではない。昨年から続けた地元の新聞への寄稿も今回が最後となり、やっと終わりとなった。自らの経験に基づき、素性を明かしたうえでの作文だから苦労はしない。それぞれに、自分なりの考えを書けばいいだけで、おそらく一番大きな問題となるのは題材選びなのだろう。それとて、ふた月に一度の頻度であれば大したことはなく、時期に合わせたり気になることを取り上げればすんなりと行くものだ。職業として考えた場合にはこんなに甘い設定はないだろうが、それでも一般の人々にとっては六つの話題を上げることも難しいのだそうだ。ある夕刊の一面に掲載されている著名人の寄稿は毎週一回、三ヶ月ほど続くのだろうか。題材の数も多いし、登場の間隔も短いから、かなり厳しい条件と言えるだろう。それなりの覚悟をさせられつつ書き続けるのだろうが、著名だからこそ何とかなると期待されたら、それを裏切るわけにもいくまい。中には何だかへんてこと思える話題の取り上げ方をする人もいるし、もう少し巧い書き方があるのではと思うこともあるが、兎に角こなさねばならないから大変だ。ただ、書くことの大切さは自分なりの記録を残せることであり、その機会が得られるわけだから寄稿などは大いに歓迎すべきだろうと思う。

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10月3日(月)−省エネ

 成長に翳りが見え、ついには瓦解し始めたとき、人々は漫然と暮らすことに反省を抱くとともに、賢く生きるための方法を模索し始めたようだ。手持ちの金を減らさぬような工夫として、なるべく安いものを買おうと心掛けるだけでなく、買った後の要素についても思慮するようになった。この動きは環境問題との絡みもあり、ずいぶん注目されてきた。
 中でも、電化製品はその値段だけでなく、使用するときの消費電力の差によって、合計としての必要経費が決まるから、特に頻繁に取り上げられている。待機電力という言葉もいつ頃からか急に聞かれるようになり、リモコン操作を可能にするための仕掛けが実は金食い虫だったと言われるようになった。便利なものには裏があると言うべきかも知れないが、とにかく色々な角度から眺めないと総合的な評価は難しいということだろう。電化製品の中には、大きく分けて二つの分類があり、常に動かすものと、必要なときだけ動かすものという分け方がある。電子レンジやトースターなどは必要なときに動かすだけで、普段はほとんど電気を消費しない。ただし、時計機能が付いたものはそのために少しだけ使っているようだ。一方、冷蔵庫は保存などのために冷却する必要があるわけだから、休ませるわけには行かない。常に庫内温度を監視しながら、冷却装置を制御する必要がある。そのため、エネルギー問題や環境問題が論じられる際に、必ずと言っていいほど登場する家庭電化製品となる。当然ながら、店頭でも消費電力量の表示がなされていて、単に容量と価格といった以前からある指標だけでなく、付加機能とともに省エネの観点が重要な要素のように扱われている。実際に購入を考えている人の中にも、電気代の支払い分を加味して、価格の比較をした人がいるのではないかと思われるが、彼らの信頼を裏切るような報告がなされたようだ。つまり、表示された消費電力量はある条件下での計測結果であり、それが通常の家庭の使用実態にはそぐわないものだったということだ。ある調査機関が行った計測では単に数倍の結果が出ただけでなく、表示では他社より低い値を示していた機種が高い数値を示す結果となった。これは、機種比較を店頭で行った人々にとってはまったく予想外のものであり、結果として高い買い物をしてしまった人もいることを表しているのではないか。この場合、公的に決められた基準で実施されているわけだから、虚偽の表示というわけではないが、それにしてもどこか矛盾を感じた人もいるのではないだろうか。所詮はこんなものといってしまえばそれまでだろうし、たとえ皆が実態に合った測定法と言ったとしても、本人がそれとは異なる使い方をしてしまえばどうにもならない。いずれにしても、意識することの大切さを示しただけになってしまい、それ以上の収穫はなかったということなのかも知れない。結果の報告については、こちらをご覧下さい。

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