株式会社は誰のものかとか、誰のためにあるのかとか、そんな質問が飛び交うようになっているらしい。何を目的にしたことなのか、そこには理由があるようだが、どうにも理解できない。元々、所有権のような代物をこういう場合に振りかざすのは筋違いのように見えるし、一部の人間にのみ権利があるかの如く論じること自体間違っているのではないだろうか。
いずれにせよ、こういう話になると得意満面、権利主張やら、資本主義の原理の解説やらを行い、その正当性を論じる人が出てくるのは何故だろうか。市場経済の原理とは、という議論自体を忌み嫌っているわけではないが、どうも流動的なものを捉えるのに固定観念を使っている人たちを眺めていると、不思議に思えてくる。確かに、株主はその企業に対して投資した人間であり、それに対する見返りを求めることは権利の一つとして認められるべきだろう。しかし、一時的な現象として起きていることに対して、それ以降長期に渡って影響を及ぼしかねない要求がなされるとしたら、そこに不合理性が出てくるような気がする。この手の話題については、その場その場、時代時代で、世論も大きく変わり、その点から考えても、これという絶対的な答えが存在するとは思えない。にもかかわらず、議論は答えを導こうとする方に向うわけだ。その辺りに何かしらの無理が生じているように思えるのだが、このところの盛り上がりからするとそういった観点は取り上げられていないように見える。大株主になれば、その企業の経営に対する発言権も高まり、場合によっては乗っ取りも可能となる。あまりに急速な動きは控えるようになっていたはずだが、ここ数年、そんな動きを好んでとる人々が市場に現れてきた。事前通告がどれほどの意味を持つかは分からないが、それをしない人々がいるということは、しないことによって得られる利益があるという証だろう。また、それを可能にしている市場の仕組みに問題があるという意見も出ているようだ。どちらにしても、結果として仕掛けた人間に利益が出るとなれば、こういうやり方が横行し、投資に対する考え方自体に変化が起きることになる。元々、企業は投資家全員に対して利益を還元するように働くべきなのに、その原理自体にひびが入ることになるのではないだろうか。株価の低迷が原因で、それを利用して利益を上げることが目的と主張する人が、一方で相手の企業の傘下にある組織の株の上場を迫る動きをするのは、どこか矛盾しているように思えるし、儲け第一主義ならば、後者に意味を持たせることは難しいと思える。更に、別の場合でも、約束事を破る結果を導かないために、大株主になった企業の傘下にあるものを売り払うように圧力をかけているような状況も本末転倒に思えて仕方がない。投資、経済、資本、等々、いろんな用語が飛び交う中で、果たして彼らの思惑はどちらを向いているかといえば、あくまでも自らの利益、他人の利益は引き合いに出すだけのことに過ぎない。そういう人々の片棒を担ぐような報道関係機関の動きは、そのことを如実に表しているように見える。なぜなら、それらの機関はもう既に自分たちの利益を考える行動しかとれなくなっているからだ。何とも腐りきった社会に見えるのだが、人によったら金のなる木に見えるに違いない。
社会問題として取り上げられることの多い話題の一つに、中高年の自殺がある。鬱症状が出たうえでのものもあれば、そういった兆候の見られないものもあるようだが、総じて社会的責任といった問題があるようだ。組織の中での責任、社会の中での責任、様々な責任を負わされて、それに潰された結果としての自殺、という解釈がよく出されるらしい。
中高年と言っても、どの辺りを指すのかはその時々でかなり違う。責任が出てくる年齢としてよく取り上げられるのは四十代くらいからであろうか、そういう時期に一気に責任が増し、過労も重なって、最悪の結末を迎えるのが自殺なのだろう。自分自身がこういったことを考えたことがなければ想像もつかないし、おそらく大部分の人はそれほどの極限に到達する前に何らかの措置を講じるだろうから、終末を迎えることもない。それにしても、何故こうも増加しているのか、社会の歪みやら、構造の欠陥やら、更には人間性の問題にまで議論は及んでいるが、結論は導かれていない。おそらく、非常に多くの要素が複雑に入り組んだ仕組みの中から生まれるものだけに、少数の要因に帰結させることが難しいのだろう。その一方で、最近頓に意識するようになったことがある。世代の循環とでも言い表すべきなのだろうか、各世代が持っている特徴があり、それが波のように上がったり下がったり、ある見方をするとある世代は波の上にあり、別の世代は下にあるといった感じのものである。分かりにくいかも知れないが、最近の考えをまとめると次のようになる。戦後の復興を進めた世代は、おそらく現在八十歳前後の人々だろう。彼らは荒廃した社会を立て直すために努力し、高度成長期を長い期間支えてきた。次の七十歳前後の人々は、そういった遮二無二走る人々を後から見ながら、そのやり方を模倣し、繰り返した世代である。ここまでは比較的安定に成長曲線を描いた時代を生きてきた人々であり、拡大路線を築くための手法を編み出してきたと言える。しかし、その下の世代になると様相は一変する。継続は力なりと言われた時代から、変革が必要不可欠と言われる時代に移り変わり、どうにも落ち着かない時代を生きてきたのは六十歳前後の人々である。特に、団塊世代の直前、戦争中に生まれた世代においてはその傾向が顕著に現れている。つまり、団塊世代を後に従えて、変革を先導し、付け焼き刃的な変化を次々に導入していった世代で、自らを正当化しながら、好き勝手なことをやり続けた人々である。実際には、継続から変革への移行期に、彼らが中心となり舵取りをするべく努力をしたのだろうが、結果は今見る通りである。悲惨な状況を産みだした人々はそろそろ退場すべき時を迎えたが、未だに付け焼き刃を突出す行為を止めない。その割に、ずっと被害者を装ってきており、その厚顔ぶりには呆れるばかりだ。では、更に下に進むとどうなるか。五十歳前後は荒れ果てた環境を再度整える作業に明け暮れる世代であり、実際には彼らの親の世代である八十歳前後の行ったことの違った形での繰り返しとなっている。おそらくその下にいる四十歳前後の人々は整地された道を歩むことができるのだろう。そこで再び形が違うだろうが、何かしらの成長期を迎えることができるのではないだろうか。大きな違いは、戦後の復興を支えた人々は実はその時二十代三十代だったのに、今整える作業を強いられている世代は五十歳前後ということなのだ。戦争によるご破算がなかっただけに、こういう状況になっているが、いずれにしても、世代交代ばかりでなく、そこに循環のようなものが存在することをもう少し意識したほうがいいのではないだろうか。
ある個展の開催を知らせる葉書が舞い込み、たまたまそちらに出向く用事があって立ち寄ってみた。画廊ではなく、喫茶店の中で開催されるとあり、目立たぬ店を探しだすのに四苦八苦したが、やっとのことで見つけた。ただ、肝心の主はおらず、それはそれで残念だったが、珈琲をいただきながら店主と暫くの会話を楽しむこととなった。
広々とした店内は、おそらく二十席ほどあっただろうか、テーブル、椅子ともに趣のある物で歴史を感じさせるものだ。開店から二十年を短いとみるか、長いとみるか、意見の分かれるところだろうが、食器も含め、かなり力の入った雰囲気が感じられた。店主によれば、軽井沢にある有名店の名前をいただいたものだそうで、その辺りにこれだけのものを揃えた理由がありそうだ。喫茶店の前から書店を経営していたとの話で、以前は階下の不動産屋も本屋だったそうだが、もう一つの店と共に閉じてしまったとのこと、残るはスーパーの店内にあるものだけなのだそうだ。色々な話を伺ううちに、話題は本屋の経営に関するものとなり、閉じた理由の一つについて話してくれた。根本には活字離れといわれる、本を読まない人の数の増加があるのだろうが、それよりも直接的に影響したと思われるのは、万引きの多発なのだそうだ。時々報道されることだが、どれほどのものか実態はあまり知られてないとのことで、酷い場合には棚に数冊残して、あとは全て抜き去られるということもあったそうだ。そんなに本を読みたいのならば、と考えるのは昔の人々であり、今の盗賊達はそんなことは微塵も思っていない。その足で全国展開をしている古書店に駆け込むのだそうだ。何でも、どんなものでも、を売りにするその店では、兎に角どんな経緯があろうとも問い質すこともなく、特に新本は喜んで引き取ってくれるとのこと。盗品だろうが、中古品だろうが、知ったことではない、と言うのは言い過ぎだろうが、事務的に引き取り、それなりの額を支払うわけだ。一度味をしめた人間にとっては、それだけで十分であり、小遣い稼ぎの一つとみなされるようで、被害を受けた店は何度も襲われる。店は店で、バイトが時間の過ぎるのを待つのみであり、どんな客がどんなことをやろうとも気にしないとなれば、もう行き着く先は決まっているのだ。一般の書店にとって、この古書店は単なる競争相手というのではなく、もう少し違った存在となっているのではないだろうか。万引きの横行はそこに原因があるという人がいるということは、まさにそれを表しているような気がする。以前も書いたかも知れないが、これを防ぐ方法はおそらく二つあるだろう。一つは古書店の姿勢の変化、あまり望めないことだが、これが早速効果を上げられるものだと思う。もう一つは本への仕組みの導入、ICチップを埋め込み、ここの書籍を全て記録しておけば、その流通における異常事態を把握することができる。どちらも経費のかかる話だろうが、悪事を悪いこととも思わない人々が出てくる社会では仕方のない出費ということになるのかもしれない。本来は別の働きかけが最重要なのだが、それが整うまではこんな方策に頼るしかないのが現状だろう。荒んだ社会と呼ぶのは憚られるが、まさにそんなほうに向っていることを実感させられる話だった。
朝、部屋の中でゴソゴソと音がする。始めは何かが落ちた音と思ったが、いつまでも続くので何か生き物がいると思うようになった。ゴソゴソという音は時に大きくなるが、暫くするとぱたりと止んでしまう。よくあるのは蝿が窓のところで喘いでいることだが、それにしては少し音が低すぎる。ただ想像しているだけだと、何とも気味が悪くなるものだ。
意を決して、台所に見に行ったら、そこには蝿と同じように窓に向って徒労を繰り返している昆虫がいた。蜻蛉である。蜻蛉が家の中に入るとは珍しいと思いつつ、はていつの間にと考えた。たまたま前日は風呂の窓を閉めていたから、そこから入った可能性はない。では玄関扉の開け閉めの間に、と考えるのにはかなり無理がある。こういう時記憶がはっきりしなくなっていることを意識するものだが、よくよく考えてみたら前日洗濯物を干した際にベランダ側の窓を開け放していたことを思い出した。なるほど、あれだけ解放しておけば間違って入ることがあるかも知れない。おそらくほぼ一日そういう行動を繰り返していたのだろう。戸棚に止まった蜻蛉はいとも簡単に素手で捕まえられ、外に出してやることができた。彼らがどの位の期間飛び回っているのか知らないが、おそらく羽化してまもなく生殖活動に入るのだろう。そうだとすれば、あんなところで一日無駄にしたのは大きいのかも知れない。まあ、それでもたまたま気づいたから外に出して貰えることができたわけで、そうならなければそれまでだったことを考えれば、結果としてはずいぶんましなほうなのかも知れない。一時期姿を消しかけた赤蜻蛉も、いくらか戻ってきた雰囲気で、初秋から晩秋にかけて山やら里やらを飛び回っている。環境に適応してきたためなのか、はたまた別の要因があるのか、判断はつかないが、少なくとも環境の悪化は少し勢いが衰え、それに対して生き物のもつ適応力が上回るようになったと言えるのだろう。本来ならば、湖沼や池をすみかとした昆虫たちだが、住宅建設などの勢いに押されて、そういう水場が消滅し、一時的に姿を見かけなくなった。それに対して、特に学校教育の現場で危惧する声が大きくなり、プールを蜻蛉に貸しだしたり、ビオトープと呼ばれる小さいながらも自然を再現する施設を作ったりして、蜻蛉をはじめとする水棲昆虫達のための場所を提供するようになった。実際にはこれらの効果は大したことなく、おそらくは従来とは異なる水場を昆虫たちが独自に見つけ出した結果なのだろうが、いずれにしても徐々に戻ってきていることだけは確かなようだ。ただ、戻ってきているように見えて、実際には顔触れが変わっていることも多く、気温の上昇に伴い南方系の昆虫が北上する傾向が見られている。当然ながら、北方系の昆虫は姿を消してしまうわけで、虫そのものは多く見られるようになったのに、以前とは違った様相を呈している場合も多いのではないだろうか。環境保護の立場から言えば、どちらが歓迎すべきものなのか、簡単には結論できないだろうが、現状としては減りつづけるよりはましと考えるべきなのかも知れない。
こういうところに毎日何かを書いていると、その大部分が批判的になっていることを意識する。元々、意見を書く場合には賛成、反対、どちらもありそうだが、賛成が何の理由もなく書けるのに対して、反対は何らかの理由を書き加える必要がある。それに加えて、今の社会の流れを見ていると、一方向に暴走している姿が目立つから、つい批判したくなるのだ。
ある意見に賛成する場合、理由が要らないことは書いたが、更に賛成した場合には批判されにくいという特徴がある。皆が賛成しているからというだけでなく、誰かの意見に賛成しているだけだから、批判されるとすればはじめにその意見を言い出した人が対象になるからだ。それに対して、反対する理由として意見を述べれば、その意見を出した人間は自分自身だから、他の人々からの批判の対象は自分になる。その辺りも、一方向への暴走を助ける要因になっているのかも知れない。出る杭は打たれると言う通り、まさに目立たぬことが肝心なのだろう。しかし、そうすることで無批判に誤った方へ向う提案を受け入れているとしたら、これは大変なことなのではないか。60年以上前にどういう経緯かはっきりしないが、兎に角そういった暴走を止められなかったことがあり、それについて反省していた世代がいなくなり始めた途端にこういう状況になるのは、まさにその危険性を表している気がする。批判の重要性は確かにあり、ある程度そういった仕組みが必要なのだと思う。そのためにはその主体となる人間がいなければならず、そうなるべくして生まれないかぎり何かしらの働きかけをして、次の世代を産みだす努力も必要なのだろう。今読んでいる本の中に、そういったことに従事している人が書いたものがあるが、評価されるべきところがある一方、やはり批判の的になりそうな部分が多く含まれている。誰かを批判することによって生まれる批判の種は、その批判の姿勢が強固なものほど多いような気がするのだ。結局、どこかしらに矛盾を見つけ、それを攻撃するという形式の批判は、明らかな矛盾を大量の情報の中から抽出する作業を伴うから、どうしても無理が出ることが多い。それはそれで重要な手法なのだが、相手がこれまでにそういった批判の対象になったことがない場合、かなり苦しい取り組み方となってしまう。しかし、本論としては関わった人々が等しく批判されるべきという骨子があるから、何とかそれをまとめ上げねばならない。書き手がどれほど苦しんだのかを文章から読み取ることはできないが、都合のいい推測や批判される側に関しての心情分析などが目立ち始めると、綻びが出ていることが窺える気がする。批判する人間は、されることを覚悟しているから問題なく、そうでない人間の方が悪質であるとする人がいるが、その真偽はどうだろう。いずれにしても、こういった姿勢を無くしてはならないことは確かだが、その一方で批判を怖れて流されてしまうことを避ける努力も必要なのだろう。
人は何かを理解するとき、そこに理由を求める。何でも無思慮に受け容れるという人も世の中にはいるかも知れないが、そういう人は少ないのではないだろうか。たとえ、きっかけは何でもなくても、自分なりに何故受け容れたのかの理由を考え、それを使って納得するというのが常道のような気がする。場合によっては、理由が見つからず、決められないこともあるが。
この場合、自分自身で理由や原因を考えられる人はいいのだが、そこまでじっくり考え込むことのできない人の場合、他の人々に救いを求めることになる。人間、得手不得手があるのは当り前のことだから、こんなことは歴史的に見ても、いつでもどこでも起きてきたことだろう。そんな状況で、理由付けを考える人々が世の中に現れ、同じような人々が集まった時代があった。哲学の始まりと言われる時代だが、当時の考え方は色々な意味で間違ったところがあったとはいえ、人間が何の資料も無しに頭の中で考えつく最良の理由の一つに至っていたことは確かだろう。その後、長い期間、こういった人々は考え方などを人に教えることを生業としていたようだが、それ以外のことに展開を求めた辺りから、科学者とか学者とか呼ばれる人々が登場したのではないだろうか。その頃になると、目の前で起きていることをそのまま受け取り、そこから解釈を導き出すといった手法から、何かしらの働きかけをして、それによって明らかになったことを加えて、解釈をより深いものにするという手法へ変わっていったようだ。何かしらの働きかけの一つとして、実験と呼ばれるものが始められたわけだが、これも一つ間違えば人為的な働きかけになってしまい、自然には起きえない事を導き出すことになる。これは今でも起きていることで、自分の考えに合致する結果を得るための実験を行う人々は日々その活動を続けているようだ。解釈という手法は、科学の常道であり、そのために様々な努力をするわけだが、結局は起きている現象の説明であり、何が起こるかを予測することは不可能と言われている。ただ、目標として予測を据えることは課題の一つであり、分野によってはそれが最優先とされていることもある。経済学は元々解釈を中心とした学問だったが、人間の営みの核に位置するものを扱うだけに、解釈だけでは満足せず、更にその先に向おうとする人々が参入してきた。そんな中から様々な理論が産み出され、これこそ決定的と思われるものが次々に登場してきたが、未だに終わりを見ていない。結局のところ、予測を可能にすると思われたものが単にある特定条件下での事象の解釈に留まることが明らかになり、沈んでいくという経過を辿るしかない。最近は、あらゆる営みが相手を必要とすることを中心に据えて、そこで起きる遣り取りを分析して、次に起こることを予測しようとするものが出され、そこに興味が集まっているようだが、これとて今後どんな展開があるのやら、さっぱり予測がつかない。それでも意味あるものにしようと学者達は躍起になっているのだろうが、さてどうなるのやら。
誰しも自分のことを認められたいと願うだろう。他人から無視されることほど辛いものはないという意見もよく聞く。物騒な言い方だが、誰かを抹殺したいと思うなら、徹底的に無視するか批判し続けるのが効果的だと言われる。批判されて反発する心も、結果として認められなければ満たされることがない。まるで水を与えられなかった植物のように枯れていくしかないわけだ。
認められることを願うのは人間の特性と言われるが、ペットの行動を見ていてもよく似たものがあるように思える。ペットと人間が同じと言ってしまうと反発を招くだろうが、動物という括りではまさに同じなわけだから、本能に近い部分であればあるほど似ていて当たり前なのではないか。それはそれとして、以前と比べると「認め」を強く求める人が増えているように感じられる。誰しもと書いたものの、その程度は人によって大きく異なり、たまに声をかけてもらうだけで満足する人がいる一方で、ほぼ毎日必要とする人がいるようだ。前者に比べて後者は色々な意味で手間がかかるし、いわゆる独り立ちという態勢に入ることが難しい。常に誰かに頼らねばならず、自己の確立が遅れてしまったかのように見える。何を決めるにしても、誰かの助言を必要とし、その一方で達成したことに対しては自分の手柄として認めてもらいたい。パッと考えると矛盾しているのだが、本人にとっては手を下したのが誰かということしか眼に入らず、その人だけが褒められるのだという。何とも情けない状況に思えるが、こういうことは年齢に関係なく起きる。ほとんどの人々は幼少の頃は親、特に母親、に褒められることを喜びと感じ、それを手に入れる為に努力をする。しかし、ある程度の年齢に達するとそれだけが喜びではなく、自分を満足させることも大きな要素になる。そんな変遷を辿り、他人に頼るのではなく、自分自身が判断を下すことが第一となれば、誰かが認めなくても、そこに道を見出すことが可能となるわけだ。その経過を辿れなかった人々が独り立ちができずに苦しむのだろうが、それにしてもいつまでもペットの犬のような行動をするのはどうかと思う。かなり失礼な言い方だが、飼い主の気を引く動きをする犬の行動は、時には周囲の人間に認められようと必死にもがく人の行動と似ているように見えるのだ。始終認められたいとこちらに働きかける人の動きはまさにそんな感じに見える。犬と猫の違いを人に当てはめることがあるが、こういう時にそんなことを思い出してしまうのもそんな類似点からくるのかも知れない。いずれにしても、認められたいと望む心が色々と無理難題を産み出し、周囲にそれを投げ始めると更に悪い状況が生まれる。自分はこれほど一生懸命にやっているのに、何故、誰も認めてくれないのかとか、その努力が報われないのかとか、そんな言葉が出てくるようになるわけだ。他の人々の努力や行動は一切目に入らず、自分のことだけを投げまくるから、周囲の人間にとってははた迷惑となる。その上、評価されないことになれば、経過は悪くなるばかりとなる。しかし、本人はその原因が自分にあることなぞ、露いささかも思わぬものなのだ。さて、その後の経過は言わずとも知れている。ひょっとして気がつく機会に恵まれれば変わるのだろうが、その可能性はかなり低いからだ。そういう人がこんな話を聞いても、おそらく他人事にしか感じないわけで、これも意味のないことなのだろうが。