言い古されている気がするが、何度でも出てくる言葉に「今時の若者」がある。いつの時代もこう言われるわけで、言っている人々はその昔そのものだったのだから、ただ繰り返されているだけということなのだろう。しかし、その時その時にかなり深刻な問題と捉えられているからこそ、毎度お馴染のといった具合になるわけで、どうでもいい話ではない。
自分たちがその年代だった頃と比べて、というのが基本となっているが、誰しもその手の記憶は不確かなものらしく、強い語気の割りにはいい加減な話が多いのもそのせいだろうか。それに加えて最近の傾向は、優しく接することの重要性が殊の外強調されることで、厳しく意見を言おうものなら、そちらの方が叱られてしまうこともあるらしい。どの時代も若者たちには生きにくいものであり、煩い先輩達に囲まれて困り果てることが多いわけだから、不満が出ている状況が今に始まったことではないのは明白である。しかし、優しい大人たちはそれらの人々を慰めてやり、何とか状況を改善してやろうとする。この「やる」という行為が実際には大きな妨げになっていることが多く、そのために若者たちの進む道を塞ぐことになるのに気づかぬ人は多いようだ。程度の問題に過ぎないのだが、何事も過ぎたるは及ばざるが如し、何にでも口出しするだけでなく、手出しまでするようになると本人たちの出る幕はない。それを極限まで継続した挙げ句、何もできない人間に呆れているのはまったくお門違いというものだろう。先日もそういった番組が流されていて、チラチラ観ただけだから中味のことは確かではないが、兎に角若者の不満を聞いてやる企画のように見えた。その中で批判が飛ぶと、実は自分たちもそうだったではないかと逆に意見される始末で、そういう身勝手な意見の意味を取り違えている人が多いことに気づかされる。自分ができないことは人に押し付けないようにという話は多いが、それだったら伝達の過程で低下しか望めないことになる。そこに気づく人は少なく、それより責任やら何やら個人に向けた矢を放つことに頑張りを見せているとしか思えない。目の前にいる問題を抱えた人々を相手にするのに、ただ手を差し伸べるだけでよいものかどうか、よくよく考えてみないといけないのではないか。社会が支えるという言葉もよく聞かれるが、これほどいい加減なものはなく、時と場合を弁えずに話を進めたら飛んでもないことになる。物分かりのいい大人、理解のある大人、そんな言葉が連発されればされるほど、社会が荒んでいくように見えるのは何故だろうか。そういう大人がいないから、ということは確かなのだろうが、単に身勝手で自己中心的な大人が多く、自分さえよければという行動をするからであり、若者たちに対する接し方を今までの常識的なものと変える必要はないように思える。社会どころか組織までもそんなことに躍起にならねばならないのが現状らしく、自分たちで立ち上がれない、立ち直れない若者を助けるべく、そんな仕組みを産み出そうとしている。何度も書いたことだが、歩行補助器を使っている子供はいつまでも一人歩きはできない。いつかそれを手放すことがなければ、独立独歩はできないのだ。少ない子供を大切にするという考え方が意外な方に向っているように思う。
言葉は人と人が情報を交換するときに必要となる道具である。初めて見る道具はどうやって使うのか分からず、それを理解してこそ道具の意味が出てくるという。言葉にも同じことが言えて、言葉を発した人間が考える意味と、受け取る人間が思い浮かべる意味が同じであれば、互いに同じ情報を交わすことができることになる。
普段誰かと話をしたり、文章を交わしたりするとき、そういう意識をあまり持たなくて済むのは、おそらく送り手と受け手の意味の差がそれほど大きくないからだろう。しかし、時には互いに何か不自然と思えるところが出てきて、よく話し合ったら実は同じ言葉を違った意味に捉えていたということがある。意見交換をして初めて分かったわけだから、もしそうしなければ互いに誤解したままになり、場合によっては喧嘩別れなどという結果に結びついていたかも知れない。近い関係の人々ではこういった修復が度々繰り返されるだろうから、誤解が膨らむこともないだろうが、そうではない人々の間では一度こんなことが起き始めると修復不能に陥ることが多いのではないだろうか。原因を探ってみたら、ごく些細なことが始まりとなり、それが更なる誤解を産んでどうにもならないところまで発展してしまうことがある。些細なこととは言え、それがきっかけとなるのは、そこでの小さな誤解が意見交換の機会を妨げることに繋がるからで、頻繁に話していれば誤解を解くことができただろうに、それをしなかったために小さな誤解が解けないばかりか、その後に次々出てくる誤解をも放置する結果となるからだ。近い人でもあることが気になっていて、それについて質したいと思っていてもきっかけが掴めず、結局疑いが大きくなってしまうことがある。これも、原因は交換の機会にあるのだろう。元々言葉などというものは人それぞれに少しずつ意味が違っているものであり、特に発する方が意識していない部分で受け手が傷つくなどという場合、その違いによるものが多いだろう。しかし、それを意識しすぎると、あれもあるこれもあると言った表現をせねばならず、話はまったく進む気配を見せなくなる。これはこれでどうにもならない結果を産むから避けたいのだが、誤解を招かないようにと気を配れば配るほど、そういう傾向が強くなるから厄介だ。信頼があれば少々の差は問題ないと言う人もいるが、実際には差が元で信頼を失うこともあるくらいだから、注意しなければならない。反応が急激で、取りつく島もなくなるようだと無理だが、徐々に疑いが大きくなるとか、予想外の反応が目立つようになる場合には、たぶん、その過程でちょっとした軌道修正を加えるだけで、大した傷も残さずに済ませることができるのではないか。便利な道具を手に入れ、それを更に複雑なものにしてきたがために、結果として誤解を招くことも多くなり、かえって不便を強いられることもある。まさにそんな状況にあるのかも知れないが、同じ言語だけでなく異言語の間での情報交換においてもそんなことが起きるようだから、国内だけでなく国外を相手にする場合にはそんなことも気にしなければならない。いずれにしても、ちょっとした注意、怠るべからずと言ったところか。
ネットの恐ろしさを論じる人もたまにはいるが、ほとんどの人はその有用性、効用を説くだろう。使い方さえ間違わなければ、これほど便利なものもないし、これまでとは大きく違う世界が広がると言っても過言ではない。そんな社会が形成されているのだが、その一方でやはり心配となる部分が消え去っていないのも事実である。次々に生じる悪に、どう対処すべきか。
インターネットの有用性を語るうえで最重要と考えられるのは、データへのアクセスだろう。様々なデータベースに自由に接触できる環境は、ネット社会が形成されて初めてできてきたと言えるし、初期段階と比べたら現状はかなり違ったものとなっているはずである。そういう環境を大いに生かすことができれば、ちょっとしたことを調べるだけでも、あるいは様々な人々の意見を集めるためにも、強力な道具となりうるわけだ。ただ、使いようであるのはここでも変わらず、接触の容易さの度を過ごせば、本来入手してはいけないものまでも手に入れられるようになるだろうし、もっと悲惨な状況を迎えることにもなりかねない。にもかかわらず、現状を見回すかぎり、きちんとした考え方やモラルを誰かが率先して教えているわけでもなく、それ以前の世界しか知らない人間達が大きく変貌した社会を相手に戸惑い続けているように思える。先頭を走っている人々はその効用ばかりに目を奪われてしまい、そこから派生してくる問題にまで目が届かないことが多い。いい点を取り上げることは普及という点からは重要なのだろうが、行き過ぎるととんでもない悪影響を及ぼすことになりかねない。しかし、気づかないわけだから何となく流れてしまうことになり、結局傷口が大きくなってしまうことも多いだろう。こんなところでこんなことを書くことができるのは素晴らしいことに違いは無いのだが、しかし、その一方でその利用法を誤れば事実を歪曲させることも偽の情報を流すことも可能となる。流す側に問題があれば、それを少しでも正しい方向に向わせようとすれば、当然受け取り側にその責任がかぶさることになる。送る側に立ったときのモラルが保たれれば、受け取る側にも問題は出てこないのだが、実際にはどうもその辺りに綻びが目立つようだ。どんなに頑張ってみたところで、情報操作を駆使して、思い通りに事を運ぼうとする人々がいる以上、これ以上は無理といったことも起きるだろう。そんな社会が少しでもいい方向に向うことができるとすれば、それは関係者がそれぞれに情報の伝達について注意するということくらいしか思いつかないのである。おそらく、これから更に長い期間を考えてみても、この問題の絶対的な解決策は出てこないと思われる。多くのものは結局イタチごっことなってしまうし、そうでなくても訳の分からない情報が氾濫しているのである。何とか巧い手立てを考えて、いい方向に向わせたいものだが、さて誰がついてきてくれるのだろうか。
名前を出さなければ何でも言う、という人が世の中にはいるらしい。真実を語るという意味での何でももあれば、嘘でもという意味での何でももあり、そこだけでどちらを意味するのかを判断することは難しい。しかし、最近の動きからすると、どうも後者の方が普通になりつつあるように感じられる。大した秘密を持たない人間にとっては、何でもはやはり嘘となるのだろう。
名前を出さないということとは限らないが、匿名性というのはそれに近い状態を指す。名を伏せておけば、そこに責任は生じないはずだから、というのが嘘を平気でつく行動に向う理由だろうか。最近話題になっている情報伝達の方法についても、この話題が取り上げられるようで、匿名性だけでなく、裏をとるかどうかという点でも、従来の報道関係と現在情報伝達の主流となりつつあるインターネットとでは、大きな違いがあると言われる。記者が情報源を特定できないようにするという点ではある程度の匿名性は昔から存在していたが、少なくとも取材した本人には誰かを特定できたわけだから、今のネット社会とは大きく異なると言っていいだろう。今の話題の中心は、こういう方向から捉えると大きく違うはずの媒体を同時に手にしようとする人々が出始めたということで、住む世界が違っていたはずなのに、その間に区別をつけないような方向に進んでいるように錯覚させる。商売としてみれば、そこに大きな違いは無く、広告やら情報伝達やらを使って、どこからか収入を得る活動であることには変わりがない。しかし、流している代物はかなり違っていて、多くの人々にとって信用のあるなしという区別が存在しているのではないだろうか。そんな状況であるにも関わらず、経営する側にとっては如何に利潤を産みだすかが問題であり、何がどう流されるかは本質的な問題とはならないようだ。国内ではほとんど起きないが、嘘をついてもいいと認められている日には、海外でかなり多くのガセネタが流される。送る側も受け取る側もその事情を知ったうえで、中味を楽しむというのがしきたりのようだ。一方、ネット社会には海外も国内もなく、どこからどのように入っても同じものを見ることができる。だからこそ信用がおけるのだと主張する人もいるが、一度間違った使い方をされると、そういった主張は虚しいものになりかねない。つまり、誰でもどこからでも情報を送ることができるから、本来とは違う経路で間違った情報を意図的に流すことも可能となるのだ。歴史的に見れば、こういうことが起きた時にほとんどの場合は何の問題もなく忘れ去られるのだが、ほんの一部だけ事実と受け取られて大変な混乱を招くことがある。深刻な問題に発展する場合もあるが、そのきっかけはほんのちょっとした悪戯心あるいは愉快犯といったものが多い。どんな場合にせよ、一つ間違えば大問題となるわけで、その意味ではそういう道具を持てなかった一般人が、今ではそれができるようになっていることが問題だろう。こうなったら、送り手のモラルを問題にするだけでなく、受け手の判断を鍛えることの方が大事なのかも知れない。さて、どうなるのか、こんな事件が起こるたびに気になるものだ。
自分の経験に基づいて色々なことを判断する。誰でもやっていることだが、そのやり方を他人に説明しようとすると意外に難しいものだ。だからだろうが、大部分の人はそんなことに構わず、自らの判断を信じて物事を進め、周囲にはそれに対する理解を期待する。多くの場合それで十分であり、説明に要する時間が無駄となることを避けているのである。
しかし、一部の人々はそういうことにこそ面白味があると興味を抱き、説明を考え出そうとする。昔から考えることの好きな人の一部にはこんな人種がいて、何でわざわざと思えることにまで丁寧な説明や解説を施す。こういうことでもなければ学問の進展はあり得ないという人もいるが、要不要に関わらず取り組む姿勢がないとつい見落としてしまうから、必要は発明の母という立場とは別に何にでもちょっかいを出すやり方は肝心なのだろう。それにしてもと思う例が幾つもあるが、そこで選別しないことが大切なのだとしなければならないようだ。いずれにしても、そんな考えの中から生まれたもののうち、今やごく普通に聞かれるようになったものに確率とか統計という言葉がある。経験に基づいて何かを決定するという作業には、それまでに蓄積された情報を利用することがあり、ここに統計処理という手順が入ってくる。更にそこから産み出された数字をそのまま取り扱うことの難しさから、単純化の一つとして確率を導き出す作業があるわけだ。頭の中ではそんなことがごく自然に行われているようだが、実際にこの手の分析を実施してみると意外なほどいい加減な処理が行われていることに気づかされる。分析手法の立場に立てば、これは明らかに間違った判断であり、それでは正しい方向性は導き出せないということになるのだが、現実世界ではそれほど大きな誤りとはならないことが多い。一つには何事にも多くの段階があり、その度に判断が下されるから微妙な調整が行われることがあるし、もう一つには確率・統計では不十分な情報しか得られない状況ではどのみち正しい判断は不可能であるということがある。いずれにしても、どうにか説明する方法を見つけたとしても、そこには様々な欠陥があり、更なる進展が必要となるから、学問分野としての継続性は保たれることになる。それだけでも関係者にとっては有り難いことだろうが、不十分と考える人も多いようだ。もっともっとと欲する人はどの世界にもいるわけで、何としてでも注目されたいと思うからだろうか。しかし、世の中で実際に起きていることからすれば、確率的に考えたらとてもわずかな可能性しかないのに起きてしまうことが沢山あるし、平均がほとんど意味をなさない事象も沢山ある。最近の経済の動向を見ていると、金持ちはどんどん裕福になるのに、貧乏人はそんな機会も与えられないといった雰囲気があるのも、単純な確率では説明できないことだろう。しかし、実際には机上の論ではなく、単純に試行を繰り返してみれば何が起こるのかを確かめることだけはできる。結局論理だけで全てを済ませようとするのではなく、実際に試みてこそ色々なことが理解できるということだろうか。
子供の頃、親から「他人に迷惑をかけるな」とよく言われたような気がする。直接的な表現でなくとも、何となくそんな雰囲気の言葉が親の口から出ることは多く、そんなことを意識させられることが頻繁にあった。こんなことはごく当り前のことと信じてきたが、最近の様子を見ると当然とは言えず、逆に非常識のように見られることがある。何とも不思議だ。
どこがどう変わったのかはよく分からないが、兎に角、時々耳にするのは「他人に迷惑をかけるのは当り前」という言い方だ。若い親の一部が言っているだけかも知れないが、色々な場面で耳や目にするから、ごく一部の例外とは言えないと思う。彼らの論理は、未熟な子供が迷惑をかけるのは当然のことであり、それを意識して萎縮するような子供に育てるべきではないといったものらしい。よく言うわ、というのが正直な感想である。この論理は如何にも筋が通っているように見せているが、実際にははじめにある迷惑をかけるなということの意味を取り違えているのである。言葉の上辺しか見えない人が増えていて、含蓄というものが失われていると言われる由縁はこの辺りにあり、迷惑をかけるという現象そのものしか見えない人が多くなっているということだ。迷惑をかけるかかけないかという選択からすれば、子供がやってしまうのは前者になるに決まっている。だから、そんなことを気にせずに、という論理なのだろうが、何とも浅はかな考えではなかろうか。迷惑が次に及ぼすものは何か、それが連鎖して自分のところに返ってくるのはなんだろうか、その程度の推測さえも不可能になっているのだろうか。まったく素直というか、無深慮な大人が増えたものである。この原因がどこにあるのか定かではないが、一つ気になるのは個人主義の台頭である。利己的という言葉は忌み嫌われるものの一つであり、自分中心に物事を考えるのは間違ったことであると教えられてきた。ところがこの辺りに伝達の間違いがありそうに思えるのだ。つまり、自分にだけ良いことがと考えるのは問題だろうが、自分を中心に物事を考えることはそれ自体間違ったことではないのではなかろうか。自分にとってどうだろうか、自分のために、と考えることは利己的であり、間違ったことと解釈されると、実際には何も考えられなくなる。しかし、一時的にせよ、そういった警告が出され、何も考えさせて貰えなくなった時代があったようだ。その裏返しとして、自分のことを考えるのはやめにして、他人を対象に物事を考えるようになったのではないだろうか。その結果、一見筋が通っていそうで、何の意味も成さない言い草が出てきたのであろう。情けは人のためならず、についてもよく誤解を産むと言われるが、同じ根っこを持っているような気がする。何事も他人のためにと思うと重荷になるが、自分のためにやっていると思えば気が楽なものだ。何しろ判断をするのは自分でしかなく、他人の判断を推し量るのは無理というものなのだから。
気配りはどんな状況の時に生まれるのだろうか。人それぞれに違うことは明らかで、そんなことを微塵も感じさせない人がいる一方で、常に何かしらの配慮を感じさせる人もいる。性格の違いなのかどうか、さっぱり分からないが、兎に角違っている。それらの中間に属する人々はおそらく時と場合、更には自分自身のおかれた状況によって程度が変わるようだ。
直接的にいえば、心に余裕がある時には、他人のことを気遣うこともできるが、焦りや苛立ちなどがある時には、そんなことはできないということになる。結局、自分自身の心の状態が直接反映されるわけで、その辺りにそれぞれの気の持ちようが大きく影響しているといえる。個々の関係ではそれはそれで、互いに配慮しあいながら、調整することができるだろうが、社会での関係となるとそうは行かない。どうしても微妙な調整が図れず、ある流れができてしまうとそちらに向って一気に動いてしまうことも多い。そんなことがあるからか、あるいは時代的背景の問題か、最近は配慮の感じられない動きが目立つようになり、その一方で一部の人々は常に被害者意識を持つようになっている。被害者意識とは、実際に起きたことではなく、心や気分の問題として、何かしらの害を被ったと感じることであり、人それぞれに感じ方やその程度が異なるために、意外に大きな齟齬が生じる場合が多い。世の中に被害者と思い込む人が溢れてきたせいか、この辺りの問題がどんどん大きくなっており、それに取り組もうと注力すればするほど、おかしな方向に向うことになっているのではないか。たとえば、被害者の感情に配慮すべきという話が出てくれば、そういう気遣いに満ちた対策が講じられる。しかし、どんなに努力しても、全ての人々の被害を無くすことは不可能なようで、それが特に意識の問題にまで及んだ場合、実現不能であることは確かである。意識の持ちように中庸というものがあるかどうかは知らないが、平均を相手にした話をするのならば、こんな問題は生じるはずはない。しかし、全てという言葉が表しているように、どんなにずれた人々に対しても尊重を欠かさないようにしようとすれば、異常とも思える対策が山のように必要となってくる。現在の社会情勢は少数派に優しくという感覚を強調するようになっているから、こんなことが起きるのは当り前なのだろう。しかし、その一方で実際にはそういう措置を講じたのだから、もう何をしても良いという解釈を成立させる人々が出てくることになり、道理に合わないことを平気で実行してしまうことが起きる。社会が成熟すると、少数派、弱者、等々、被害者となりうる人々を救済しようとする動きが出るようになり、それによって社会全体の安定を保とうとするようだが、実際にはうまくいくはずの無いことを目指しているように思えてならない。強者の立場から考えた弱者の救済の手立ての杜撰さは当然のことだが、更に進んで弱者を特別扱いすることによって起きる歪みも各所で目立つようになった。平等という言葉の適用をどう考えるかで、この辺りの事情は変わってくるようだから、現状はどこかに無理があるということなのだろう。社会全体でこれを是正するのはかなり時間を要するから、個人的には自分の周りからとするのが良いと思うのだが。