パンチの独り言

(2005年10月24日〜10月30日)
(自惚れ、公害、良質、提案、適評、多重、禁煙)



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10月30日(日)−禁煙

 喫煙人口が減り続けていると言われているが、その割に若い、特に女性の喫煙者の姿はかなり目立っている。少数派だった頃には目立たぬようにという配慮も見られたが、最近ではそんな素振りはない。喫茶店、レストランといった店だけでなく、街中様々なところでその姿を見かけるようになった。多くなればいわゆるマナーも怪しくなる。別に若い女性に限ったことではないのだが。
 喫煙者の数が減ることとある程度の関係はあるのだと思うが、旅行の途上で大きな変化があったことはそろそろ忘れ去られようとしているだろうか。特に大きなものは飛行機による旅行であり、以前は喫煙、禁煙といった場所を分けることによって、両者にとって快適な旅行を提供するという姿勢をとっていたが、実際には小部屋を小さく分けただけということだからどれだけ換気をよくしたとて、煙も匂いも排除できるはずはない。結局、少数派が力を失い、更には健康志向と言う強力な働きかけが加わることで、驚くほど急速に排除が進んだ。近距離の便から始まった動きはあっという間に長距離路線にまで広がり、半日ほどなら我慢できるはずという半ば強制的な考え方から反対の声は抑えられた。そこらあたりが始まりだったのだと思うが、その後は次々に色々な乗り物に波及し、バスは完全に禁煙となり、近距離の鉄道も大部分が完全禁煙となった。依然として残っているのは長距離の路線であり、これは空の便と同様に徐々に変化が見られるが、国際的な問題を含んでいないからか、一気に禁煙完全実施とはならないようだ。それでも車両の数は、喫煙者人口の減少とともに減り続け、かなり厳しい状況にまで追い込まれているのは確かである。ところが、ここに来ておかしな減少が目立ち始めた。それは喫煙者の嫌煙行動であり、そこから出ていると思われるのが、喫煙者による禁煙車両乗車である。これが始まると、喫煙車両が存続するかぎり、愛煙家の多くが煙のない環境を享受し、必要に迫られたときだけ愉しみを満喫するといった行動が主流となる。なるほどと思える部分もあるが、一方で歪んだ状況が生まれつつあり、そちらの解決に向けての方策が重要となっているようだ。歪みとは、禁煙車両の指定席が次々に埋まる一方で、かなりの割合の指定席が喫煙車両で空いたままになっていることである。車両の数を更に減らすべきという声も聞かれるが、それでは不十分という考えもある。もしそれが大勢を占めるようになれば、空の上と同じ状況が鉄道にも起きることになる。さて、それは愛煙家にとって歓迎すべきことだろうか、それともこんなところにまでと悲しむべきものだろうか。どちらと思うかは人それぞれなのだろうが、今の状況を見るかぎり、早晩喫煙車両廃止、全ての鉄道で禁煙完全実施となることは必至であるように思える。それはそれで仕方のないことと考えるべきか、はたまた別のことを考えることができるか、どんなものだろうか。

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10月29日(土)−多重

 車に乗ると人が変わると言われる人がいる。性格が一変するといった話もあるし、独り言、特に罵るなどといった過激な物言いを始める人もいる。同乗者がいても同じ行動をとるところみると、そこには会話といった感覚はなく、ただ単に一方的な話が展開されているだけであり、だからこそ攻撃的な行動に出る人が多いのかも知れない。
 乗せてもらっている立場になると、あまり有難くない行動だが、そういうのが本性ならば仕方のないところだ。さすがに、運転そのものにまでこういった傾向が出る人は少ないから、心配もその程度で済むのだが、それにしても何故こんなに変貌するのだろうか。人格という見方からすると、これはまさに多重人格の現れであり、これほど一般に見られることから想像すれば、人間は元々たった一つの人格を持つのではなく、時と場合によって様々な人格が出てくることがわかる。だからどうしたというわけではないが、多重人格者を異常な者を見るような目で眺める人たちの多くが、実際にはちょっと違った形の多重性を持ち合わせていると考えたら、少し見方が変わるのではないだろうか。精神疾患を持つ場合には多重人格の出現が決まったパターンを持たず、時と場合に無関係に出てくることが多いようだから、正常と言われる人々とはその点で大きく違っているのだろう。しかし、多様性を持つことについてはおそらく元々複雑なものが入り混じった形で顕在化しているのが性格だろうから、誰しも大なり小なりそんなものを持ち合わせているのかも知れない。紙一重という極端な例は別にして、異常と正常との違いなどというものはほんの小さなものと見るべきだろう。再び戻ってくるが、だからどうしたというわけではない。そんなに小さなものだからこそ、ちょっとした狂いが生じるだけで驚くほどの違いが出てくるということになる。別の見方をすると、身近な人々がそういった異常性に気づかず、何となく放置したり、楽観視したりするのも、結局はそんな所に端を発したものなのかも知れない。何でも異常と見なす世の中も困ったものだと思うが、一方で傍目には異常と思えるのにそれに気づかない家族も困ったものである。この程度なら、という見方が、実際には悲惨な結果を産むことも多く、その結果として外の世界にまで影響を及ぼしてしまったとしたら、社会的責任は非常に大きいと言わざるを得ない。家族と比べたら少しだけ大きい社会、昔で言えばご近所さんといったものだろうか、そんなものの存在が色々な意味で大きな役割を果たしていた時代には問題とならなかったことが、最近は特に大きな問題を生じているように思える。

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10月28日(金)−適評

 自己評価にしろ、他人による評価にしろ、何かしらの評点をつけることが要求される時代になってきた。それに基づいて様々なことが決まるわけだから、非常に重要なもののはずだが、どうも受け容れがたい気持ちがある。当然のこととして片付けられている面があるが、実際に正しい評価が行われているか、自他に関わらず疑わしく思えるからだ。
 こういう時代になってもまだよく言われることに、評価の巧拙がある。自分自身の評価も怪しいのに、他人の評価ができるのか、この国の人々に対して話題になることが多い。評価を下せばそれなりの責任が出てくるから、それを避けようとする人々ははじめにあるべき評価をきちんとした形にしたがらない。そのために、折角促されたとしても、何の意味もない評価が次々に出され、基本となるはずのものが一つもできないことになってしまう。そんな状態であるにも関わらず、システム的には評価が重視され、一見機能しているように見えるから困ったものだと思えるわけだ。その一方で、主観と客観の違いを理解できていない人が評価をする場合、自分中心の考えで全てを押し切ろうとしてしまうから、どう見ても偏った結果しか出てこず、それもまた役に立たないものとなる。いい加減な評価が多い中で、極端なものが出されると結果としてそれが全てを語ることになりかねないから、そういった自己中心的な人の意見が大勢を占めるようなことが起きてしまう。それがおそらく現状の山積する問題の大部分を作り出している元凶だと思われるが、実際的にそういった能力が伴わないばかりか、そんな意欲を持たない人が多い中で、評価中心で全てを進めようとすること自体がおかしいものに思えてくる。そんなことが問題視されている一方で、始めてしまったものは進めるべきという意見が出て、結局そのまま突き進むことになっているわけで、さて、この状況がどういった変化を招くのか将来に不安を抱かないと言ったら嘘になりそうだ。評価することについて問題があるということが主張なのではなく、正しい評価を下すことに責任を感じる必要があるということなのだが、さて、そちらの方向に進めるために何が必要なのだろうか。簡単には、それぞれにそういった感覚を持つことが手っ取り早いはずだが、実際にはそこにこそ一番高い障壁がありそうなわけで、簡単には片付かないという意見もある。このまま放置しておいたらどうにもならない状況を産みだすだけだが、では何をするべきか難しいところだろう。気持ちの問題に過ぎないからと言って、簡単とは限らないわけだから。

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10月27日(木)−提案

 時代の流れに乗れるか乗れないかは、人それぞれの資質、気持ち、態度、意欲など、数え上げたらきりがないほどのものに依っているだろう。変化を読み取る能力も大切だが、一方でその変化が一時的なものであり、実際には重要でないこともあるから、その辺りの判断力も必要となる。フットワークの良さと言われるが、ただ動き回るだけでは駄目なのである。
 トップダウンとか、ボトムアップとか、何も無理をして外来語を使わずとも、と思えるが、そういう言葉が巷に溢れるくらい、まったく正反対のやり方が企業の経営など様々な場面で使われているという。命令型とか提案型とか、そんな言葉で置き換えてもいいような気がするが、方向を含めた形として使い勝手がいいとでも言うのだろう。いずれにしても、経営者達も自分なりのやり方を採り入れなければならないらしく、たとえば社員の意見を吸い上げるためにそれぞれの部署を歩き回ったり、直接に提言を吸い上げようと電子メールを活用する人もいる。会社の規模によるのだろうが、毎日数百通のメールを全て読み、返事を書いたり、提案を検討する人もいるようで、大変な労力を費やしているように思える。それでも何かしらの形で組織が良くなっていけばいいわけで、何もしないで放置したり、部下に任せきりで動きがとれなくなってから慌てるよりはましというものなのだろう。特にメールによる提言は直接の会話よりも時間の調整が容易だから、忙しい経営者にとって便利に思えることもあるらしい。しかし、一方でこういうやり方を好まない人もいるようだ。昔の手紙ならまだしも、今のメールは友人同士で遣り取りする気軽なものといった感覚があるらしく、時と場合も考えずに失礼千万なものを無神経に送る人がいるからだ。内容の質の低さもかなりのものだが、文章自体がどうにも通じないものであったりすると、読む方はかなわない。そんな経験を持つ人ほど、メールによる意見収集に消極的になるようだ。光り輝くものを拾うために、ゴミばかり集めているのは辛いもの、というのが彼らの主張だが、果たしてそれが正しい方向なのかどうか、少し考えたほうがいいようにも思える。組織の中では、それぞれに責任があり、個人を特定できる電子メールではそこに責任が伴うことは各個人が了解しておかねばならないことである。にもかかわらず、無責任な提案を、理解に苦しむ文体で送り付けるような人を雇っていることに、本来は危機感を抱くべきなのではないだろうか。今は組織としての話をしているが、社会として考えても同じことであり、自分が特定できないからといって勝手気侭で、暴力的で、不愉快なものを不特定多数の人々に送り付ける行為は、社会を構成する人間としてあるまじきものというべきである。そこに基本があるはずなのに、その欠落が明らかであり、更にはそれがより小さな組織においてまで、実行に移されるということは信じ難いことだが、現実に起きるのだから困ったものだ。人は教えられなければ分からないことがある、という話がある通り、これらの人々にはその経験がなく、更には周囲の状況を読み取る力もないわけで、強制的でもいいから何とか矯正しなければならないものだろう。皆が持っているはずのものという考えが通用しない世の中になってしまったから。

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10月26日(水)−良質

 一つ二つのことを取り上げて、大袈裟に扱うという手法は報道関係によく見られるが、彼らだけに当てはまる話でもなさそうだ。多くの人々が自分が見聞きしたものから推測して、そこにある何かを説明しようとする。これもまた小さな規模とは言え、当て推量の一種であることには変わりがない。影響の範囲が違うわけだが、基本となるものは同じだろう。
 そんな気持ちを持ちながら周りを眺めていると、気になることが次々に現れてくる。その度に、そんなことが起きるのは何故かとか、どうしてあんなことをする人々がいるのかとか、何とか原因やら理由やらを見つけようと考え、自分なりを答えを見つけると何となく安心できる。結局のところこういうことが毎日のように繰り返されていて、ああでもない、こうでもないといった具合の遣り取りが頭の中で駆け巡るわけだ。それはそれで頭の体操の一種なのだろうから、衰えることを防ぐために必要だと思うが、果たしてそれ以外に役に立つことがあるかどうか怪しいものである。これを読んでいる人々にとって、何か思い当たるところが出てくれば、それはそれで役立ったと言えるのかも知れないが、毎日同じように出てくるわけでもないだろう。とはいえ、やはり何かしらの話題提供が必要だろうし、そういう少ないかも知れないが実際に目の前で起きた例を引いて話を進めるのが、やはり手っ取り早いように思う。ごく最近気になったことの一つに、若い世代の人々の仕事に対する姿勢がある。皆が皆、そうであるという意味ではないから、はじめに断っておくが、以前と比べてどこか目立つようになった気がするという意味である。仕事をする目的はと尋ねられると、今ではほとんどの人々が収入を得るためと答えるそうだが、以前でもそういったところはあったと思う。しかし、どうもこのことを強調するようになった背景には、別の要因があるように思えてならない。つまり、仕事そのものに対する思い入れの大きさに変化が起きたのではないか、ということである。収入を得るためだけに仕事をするのであれば、ある決まった時間だけ働き、決まった役割を決められた通りにこなすことで十分である。しかし、実際にはそういう片付け方ではうまく収まらないことが起きるわけで、その度に余計な仕事をこなす必要が出てくるはずだ。にもかかわらず、収入重視の人々の一部にはそういう金に直接繋がらないものに関心を持たない人がいる。これは仕事のこなし方にも現れていて、たとえば、そういった人々は数と量といった指標が仕事を計るものになっていて、質に対する関心が薄い。人より多くの仕事をこなせば収入につながるが、質の高い仕事をしたとしてもそれを認めてくれる人がいないとどうにもならない。そこの違いは小さいようで、結果としては大きくなり、特に長い目で見たときの成果は大きく違ったものになる。単純作業にしても、高い技術が要求される作業にしても、質は重要な因子であるはずで、それを追求する心構えがなければ向上はあり得ないはずだ。高品質のものを生産することが求められた時代に育った人々にとって当り前に思えることが、高品質のものが溢れる時代に育った人々には違ったふうに見えるということだろうか。目の前の単純作業でさえ、正確で丁寧にこなすことができない人に次の仕事を任せる気にならないのは、ごく当り前の心情だと思うのだが。

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10月25日(火)−公害

 公害という言葉が作られるずっと以前から、大量生産をする場所からは何かしらの汚染物質が排出されていた。鉱山も工場も、何処も彼処も、生産によって生じる高濃度の重金属などを垂れ流していたわけだ。鉱毒事件と呼ばれたものもあったし、石炭の煤煙で大都市が霞んでいたところもあった。その頃に比べれば今はずっと過しやすい環境になっている。
 こうなってきた原動力はやはり公害という言葉による括りであり、大気汚染、水質汚染といった汚染に対する考え方の変化だろう。どんなに良い製品を作ったとしても、その一方で周囲に悪影響を及ぼすようでは、社会的責任を果たしていることにならないとされる。足尾鉱毒事件、水俣病、イタイイタイ病、等々、数え上げればきりがないが、兎に角そんな公害事件が次々摘発され、企業の責任が問われた結果、様々な規制がかかるようになった。その結果が現在の状況であり、高度成長期の絶頂期には汚れきっていた川が少しずつ浄化されるようになり、大気汚染についても夏場に光化学スモッグという言葉を聞くことも少なくなってきた。では、企業は全て環境問題に真剣に取り組んでいるのかといえば、そうとも限らないようだ。その証拠に、ISOなる基準に基づき、環境問題への取り組みを社会に示そうとする動きを様々な企業が見せており、それによって社会的な地位を固めようとしているように見える。しかし、この動きは逆の見方をすれば、環境問題に取り組む姿勢が当り前のものではなく、何かしら特別なものであることを示しているわけで、そういうお墨付きを貰わないと誰も信用してくれないという意味に受け取れなくもない。そんな中で、土壌汚染の話題はしばしば取り上げられるから、企業の取り組みにも不十分な点があるだろうことは容易に想像できる。その一方、ISOはその威力を増しており、それをもっていなければ信用を無くすかのごとく扱われている。どこか、狂っているように見える図式に何とも言えぬ不安を抱いていたが、ある事件がきっかけで綻びが出てきたような気がする。ある製鉄企業が高濃度の重金属で汚染した排水を流していたと報じるニュースを聴いて、真っ先に思い当たったのはその企業がISOの認定を受けていたのではないか、ということだ。実際に検索してみると、ごく最近認定を受けたような記事があり、こういった仕組みを司っている認定機関がきちんと機能していないことが明らかとなった。それまで理由は不明だが認定されなかったものが、この夏に解決をみて認定にこぎ着けたとする話は、認定機関のページに掲載されたものだが、もしこれが本当であり、汚染がデータ改竄を伴うものという報道が事実ならば、本来厳正な審査が行われるはずのものがまともに機能していないことを示している。このことは、仕組みがどんなに厳密に作られようとも、その運用で見落としがあったり、不正が行われてしまえば、その威力は激減することを示している。実際には仕組み自体の無意味さを示しているという意見さえ出てくるかも知れないのだ。モラルの話が何度となく取り上げられているが、こういうところにもそんなことが関係しているのを見て、呆れてものが言えないと思う人も多いのではないだろうか。

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10月24日(月)−自惚れ

 自らを信じると書いて、自信と読む。そんな風にこの言葉を受け取る人は珍しいだろう。おそらく自分が信じられない人はいないと思うが、この世の中自信のない人は一杯いるからだ。別に書いた通りの意味である必要はないが、自信を持つためには自らの行動に信頼をおくことが必要なのは誰にでも分かるだろう。ただ、それだけではまだ不十分なのだろうが。
 自信のあるなしで人を見分けようとすると、面白いことに気づかされる。実力の有無、あるいは本人の能力の高低に関係なく、自信の有る無しが存在しているように見えるからだ。このことから言えるのは、おそらく自信云々を感じる部分と自分の能力を自覚する部分がまったく違うところにあるということだ。どちらも冷静に判断しなければ測れないものなのだが、自信は自惚れだろうが何だろうが実績を無視して扱うことができるものであるのに対して、能力は実績が尺度となるので勝手な判断ができそうにもない。だからこそ、実力を伴わない自信が色々なところで問題となるのだろう。自信は良い意味の言葉として使われるが、時に過信になってしまうから注意が必要なわけだ。人それぞれにその辺りの感覚は違うようで、それだからこそ自信の有無と能力の高低が一致しないことになる。確かに、できもしないことをできると宣言することは危険を伴うが、人によってはそういう圧力を自分にかけることで実力以上のものを引き出すのを常としているし、逆に遠慮深い言葉を使いつつ、実際には事も無げに仕事をこなしていく人もいる。どちらにしても仕事が進むという点では問題ないわけで、こういった表れ方であればどうということもない。しかし、最近問題として取り上げられているのは、全てにおいて自信が無く、それが元となって何もできない、あるいはやろうとしない人が増えていることと、まったく逆の現象として、自信たっぷりにことを始めるが何一つ実現したことの無い人が目立つようになっていることである。どちらも仕事が進まないという意味で組織にとっては歓迎できない人々であり、何とか対処しなければならない課題の一つとなっている。成功経験の無さが産みだすものもあれば、そんなこととはまったく関係なく、ただ性格的なものとして顕在化しているものもあり、これという決定的な対処法が見つかっていないようだ。結局誰しもそれまでの経験に基づいて、どう行動するかを決めているわけだから、何かしらの経験が必要であることは確かなのだが、それが成功に結びつかねばならないかはどうも人によるようだ。失敗ばかり繰り返していても、それらから様々なことを学び取って、成功に繋げていく人もいれば、同じようなことをしているように見えて、実際には何も学習できない人もいる。一見同じ行動様式をとっているように見えて、実際にはまったく正反対の結果が生まれるのだから難しいと言わざるを得ない。ただ、前者は経験を積めば何とかなるのに対し、後者はそれだけでは不十分となるから、見守るだけで良いというわけにもいかない。この辺りで戸惑いが出ているようだが、さて何をすれば良いのか、答えは一つだけというわけでもないらしい。

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