パンチの独り言

(2005年10月31日〜11月6日)
(駄々、驚愕、試行、忙中、処理、時流、比較)



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11月6日(日)−比較

 買い物に出ると、つい考えてしまうことがある。同じような商品が微妙に違う値段で売られているとき、さてどちらを買うべきか迷うのだ。品物の質が明らかに違えば迷うことはないが、同じようなものの場合、差が見つからず迷うばかりとなる。となれば決定要因は価格しかなくなるが、単価が示されていないとそこではたと困ることになる。
 衣料品などでは単価という感覚が必要となることはないだろうが、食料品となると単価が絡んでくる。同じ重さのものが売られていたり、表示として一定重量の価格が示されていれば一目で分かることだが、各メーカーが微妙に異なる重さのものを売り出し、その上売り場での表示が親切になっていないと、直感だけで比較して間違えることが多い。落ち着いて、計算機を手に確かめればいいのだろうが、そんなものを常に持ち歩く人はそうそういないだろう。こんなことを書くと、今時そんなことはないという反論が返ってきそうだ。なぜなら、携帯電話という便利な道具には計算機能がついているからだ。本当に必要ならばそれを使えばいいだけであり、使わないのは本人の勝手ということになる。だから逆に言えば、そんな小さな違いなど買い物客にとっては重要でなく、勘で動いて自分が納得すればそれで良いという程度のものなのである。もう少し暗算が簡単にできればと思っていたが、そんな事情を考えるとどうもその能力を欲している人は少なくなっているようだ。その一方で、最近時々聞こえてくる話題に次のようなものがあるのはとても不思議な気がしてくる。この国の人々の暗算能力の高さを示すと同時に、その助けとなっているものに九九があるが、ある国では二桁の数字同士のかけ算まで丸暗記させていることに注目する話が出ている。それがどれほど役に立つのかははっきりしないが、これを基礎にして暗算能力を高めていく動きがあるとしたら、それ自体が計算能力の向上に役立つことになるのだろう。実際の計算として日常生活でどれだけ必要とされるのかは大したことはないかも知れないが、こんなふうに他の国で話題になるということは意味があるということなのかも知れない。不思議なのは、話題にしている国では暗算の価値が下がり続けているのに、こういう話題ではそれを評価しているように見えることだ。自分ができないことをやれる人を尊敬する気持ちは解らないでもないが、それにしても何故こんなに正反対なことを考えつくのだろうかと思ってしまう。そんなことを気にするよりも、もっと別なことを考えたほうがいいように思う。話を元に戻して、価格表示のところに戻れば、正確な計算が必要なわけでなく、結果的に概算のような計算の手順としては単純化したものがあれば十分なわけで、それを使う能力を身に付けることの方が重要なのかも知れない。賢いという言葉を忌み嫌う人がいるが、悪賢いという意味ではなく、単にこういった道具を巧く使う意味だとすれば、賢く生きるのも悪くないのではないだろうか。毎日買う食料品ごときで活用しても下らないことと言われてしまうだろうが。

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11月5日(土)−時流

 流行って何だろう。たぶん、はやっていること、という答えがすぐに返ってくるだろう。では、はやるって、何?と聞かれたら、どう答えるだろう。皆がやっていること、あるいはやっていると言われていること、となるだろうか。次の質問はすぐに浮かぶ、何故、皆がやっているの?この辺りで、はやっているからと答えたくならないだろうか。
 実際、流行というのは不思議なもので、まるで生き物のようだと評されることがある。生き物と言われる由縁は一つではないだろうが、掴み所が無いとか、次々に変わっていくとか、そんな意味も込められているのではないだろうか。しかし、その発生の仕組みとなると、はっきりしないことが多い。何故あんなものがはやるのだろうかと、その時思うこともあるし、何故あんなものがはやったのだろうかと、あとになって思うこともある。その程度のものでさえ、爆発的な流行となり、その場限りとあとから思えるものも、誰彼無く熱中してしまうのだから不思議だ。そこに理由を見つけようと頑張ってみても、多くの場合徒労に終わってしまう。はやっていること以外に原因を見つけられず、結局はやり始めた理由は見つからないからだ。最近の傾向は誰かが流行を作るといったもので、マスメディアを通して流行しているとされるものが提示され、それに人々が乗っかるといった形である。とされるもの、と書いたのはその時点で実際に耳目を集めているものがある一方で、まったく知られておらず流行の先駆けとして紹介されるものが多数あるからだ。そう思いつつ見てみると、多くの事例には流行を先導する動きがあり、そこでの操作がかなり重要な役割を果たしていることが分かる。それにしても不思議なのは、何でもかんでも乗っかる人々である。面白そうだからという理由もあるのだろうが、それらの人々の心の中にあるのは、乗り遅れることに対する怖れなのではないかと思えてくる。皆が知っていることを自分だけ知らないとか、皆がやっていることを自分だけやっていないとか、そんなことばかりが頭の中を駆け巡り、それを消し去るために流行と言われるものには全て手を出すという人がいるかも知れない。本人の心の不安を消し去るために重要な事柄だから、他人が全面否定をしても始まらない。今や心の不安が全てに優先されるものだからだ。アザラシが何処やらで出現したとか、ある動物が立ったとか、まったく平和な世の中だが、そんなニュースが流されるたびに確かめに出かける人がいる。そこに肝心のアザラシがいなければ残念がるより腹を立てるし、立つはずの動物が四つ足で歩き回るだけだと騒ぎ立てる。不安から始まったことのはずが、自らの欲求を満たすことだけが目的となり、何とも傍若無人な行動を始める。そんな未熟な心の持ち主達の不安の解消に、何故これほどまでに気を遣うのかさっぱり分からぬのは、こちらの神経が曲がってしまっているからだろうか。もう少し落ち着いてものを見ることができる人々を大切にするようなやり方を考えないと、どんどん荒んだ世の中が出来上がっていくような気がしてならない。

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11月4日(金)−処理

 不良債権という言葉はいつ頃から使われ始めたのだろう。あの時期、急激に使用が高まり、その後は頻繁に耳に入り続けた。ところが処理云々の話がやっとのことで軌道に乗り始めた途端、急に聴かれなくなったような気がする。もうすっかりその事を忘れた頃、再び話題になり始めた。かなり処理が進んだという報告として。
 この国の経済全体に対する負債として扱われることになった不良債権は様々な方面に影響を及ぼし、そのために解決策として浮かび上がったのは企業による自力回復ではなく国全体としての対応だった。賛否両論があったが、結局は強行に移された方策にはどんな結果が出るのか、気にした人も多かったのではないだろうか。その結果が徐々に明らかになりつつある、といった雰囲気の報告が出されたわけだが、実際にはそういった類のものではないのではなかろうか。確かに処理が進んでいること自体は国からの援助の結果を示しているように見えるのだが、これ自体は援助なしでどうなったかという話と直接的につなげられるわけではない。処理自体は時間が解決したものかも知れず、もしそうならばあの選択があったからこそと結論付けるのは難しいからだ。実際にはそこへの影響より、もっと大きな要素がありそうに思える。たとえば、不良債権処理のための多額の資金投入の効果より、その後の銀行経営の回復に対する効果と、それによって引き出される景気の回復への効果をもっときちんと評価しなければならないだろう。その上で、つぎ込まれた金がどんな形で戻されたかもちゃんと報告されなければならない。そんなところでさえ、ちゃんとした検証が行われているのかわからないのに、さらにその先のこととなるとさてどうなのか。特別扱いされた業界がその力を回復したとき、特別な扱いが特別ではなく、当たり前のものとして扱われるようになっているとしたら、それはあまりに身勝手な行動を産み出すのではないだろうか。ほとんどつかない利子の改善が行われるわけでもなく、サービスの向上についても経費の利用者負担が続き、経営努力がただ不良債権処理にだけ向けられている状態では、これから始まるはずの次の段階に対して何かしらの対応ができるようには思えない。何を当たり前のこととして扱うかは、当事者たちにかかる話だが、このまま行くと今まで話題になったものと同じような経過をたどりそうな気がしてくる。もし、そんなことになったら、公的資金の投入の本来の意義はあまり活かされなかったということになってしまうだろう。さて、どうなるのか、これからをきちんと見守らなければならない。

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11月3日(木)−忙中

 このところ、色々な仕事が降ってきて、ただ忙しい毎日を送っている。忙しいというのは、時間的、気分的なものを表しているだけであり、それが高い生産性に必ずしも繋がるわけではないことが、ここでただ忙しいと表現する理由だ。気忙しいとか多忙とか、そういう言葉を喜んで使う人々もいるようだが、意味のないことに忙しいのは好みではない。
 ある程度より忙しくなると、ただ追いまくられているだけのことになり、それぞれの事柄についてじっくり考える時間が無くなる。人によってはこれは致命的で、集中力を必要とする人は他のことに忙殺されるだけで、何一つうまくいかない状況に追い込まれてしまうからだ。一瞬の考えだけで動く人や、その場の遣り取りから方策を導き出す人でも、次々に対象が入れ替わるのではやっていられないだろう。なんとかうまくこなしているように傍目からは見えても、本人はどこかに不満を持ったままだろうし、過負荷となれば能力を十分に引き出せなくなる。どこまでが大丈夫なのかはやってみなければわからないわけだから、結局は破綻するまでやり続けるしかないということになる。こういったことが起き始めると、ふとあることに気がつく人がいる。自分の忙しさが増す度に、他人の忙しさが気になるのだ。そう思いつつ見てみると、意外に多くの人々がちゃんと働いていないように見えることに気がつくわけだ。これは見方の問題ということもあって、一概に言うことはできないだろうが、人それぞれにこなすことのできる仕事量があるように見える。それが多い人は忙しさがずんずん増していき、限界に達するまで積み重ねられていく。そんな人がいる一方で、同じ組織には全く別の人種が存在している。ほんの一握りの仕事をこなすことにやっとで、あっという間に限界が見えてしまう人たちだ。一握りの仕事さえも他人から見れば不十分であり、結局彼らには任せられないという判断が組織内で下される。そうなると、忙しい方には更に仕事が降ってくるようになり、暇な人は更に暇になる。これはある意味悪循環なはずなのだが、組織の運営が優先される状況では他の選択肢はないようだ。そんなことが繰り返された挙句、どんな結末になるのか、たぶん組織にもよるだろうし、人にもよるだろうから、何とも言えないが、結局は何となく進んでいくという場合が大部分だろう。ほんの一部の人たちが仕事に疲れて、彼らを頼りとした組織を去る決断をするが、多くの人々はなんだかんだと愚痴を漏らしながら、それでも降ってきた仕事を消化していくからだ。こんなことでいいのかと思うところもあるが、結局のところ社会全体で能力の大小が歴然とあり、そんな混合物がそのまま大人しくする為には、これしか方法がないように思える。諦めに似た気持ちを持つ人もいれば、自分が組織を支えているのだと自負する人もいる。どちらにしても、なんとか折り合いを付けて目の前に山積した仕事を片付けていかないととんでもないことになる。そんな思いを持ちつつ動いている人が多いのだろう。

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11月2日(水)−試行

 最も多くの人が持っている資格は何だろうか。学歴を除けば、この国では運転免許だろうし、世界中どこへ行っても、自動車などの運転資格が最も普及しているのではないだろうか。理由は簡単で、便利で手軽でといった面と、もう一つ重要なことは操作が容易ということだろう。ちょっとした訓練だけで便利な道具を使いこなせる例はあまりないのだから。
 免許を取得するための仕組みは国ごとに違っているようで、申請をするだけで与えられるところから、簡単な筆記と実技の試験を設けているところ、更にはかなり厳格な試験を実施することで厳しい訓練を課すことに繋げているところもある。この国は最後に書いたやり方を導入しているが、それでも成人の過半数の人々がその資格を取得しているのだから驚きである。初期には申請のみであったようで、高価なものを購入できる人の数が少なかったからだろう。それが人々が豊かになるに連れて、徐々に普及し始め、それとともに事故の件数が増加したから免許の取得を難しくする必要が出てきたのではないか。ただ、そんなことをしてある特殊な技能を持つ人だけが手に入れられるようにしたのでは、多方面からの反発が出てくるから、一定の訓練を義務づける形で済ませたのではないだろうか。訓練の仕方も時代とともに変化し、最近は模擬実技のような形式まで導入されている。目の前の画面に映し出される仮想展開に対応することで、技術を向上させようとするわけだ。シミュレーションと呼ばれる方式は様々な場で利用されており、運転や操縦といった技術の向上だけでなく、起こりうる出来事の検証といった方面にも使われている。現実に起こすことで実施される訓練も重要だが、場合によってはやる事自体が憚られるものもあって、仮想空間での実施に制限されてしまう。逆に考えれば、ありそうにもないことにまで訓練を拡張することができるから、緊急事態への対応という意味で重要なツールとなっているのかも知れない。しかし、運転訓練といったことには一般に使われるようになっているようだが、未だに普及の程度は大したことが無く、ある特殊な場面でしか目にすることはないようだ。本来、そういった使い方だけでなく別の使い方もあるはずで、その方面についてはかなり普及しているはずだが、一般的には表に出ることが無いから実態はよくわからない。たとえば、新しい装置や新しい仕組みを導入するとき、それが正常に稼働するかどうかを確かめる必要がある。実際に動かしてみて確かめればいいという考えが以前は当り前だったが、場合によってはそれによって飛んでもないことが起きる可能性もあって、おいそれと試せないものもある。そんな時、何が起きるかを現実に確かめるのではなく、たとえば現実とは切り離された環境で同様の手順を試してみるなどすることで、異常を検知しようとするやり方があるのだ。それによって、何かしらの間違いがあるかどうかを検出し、製作途中で検証を繰り返されたものでもたまに起きる誤りを見つけ出すわけである。こんなやり方が全てのところで使われていると思っていたのだが、このところ起きるシステム障害なるものを見るとどうもそうではないらしい。たとえ試してみるにしても、試し方が不十分であれば検証できないし、試し方自体が間違っていることもある。どれに当てはまるか分からないが、とにかく影響の大きさを考えて慎重を期してもらいたいものだ。

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11月1日(火)−驚愕

 カタカナ語を使うと違った印象が浮かぶのだろうか、単に驚かすだけなら誰にだってできることだ。予想を裏切る行為を繰り返せばいいわけで、その結果が問われることはない。まさにそんなことが行われていることが明らかなのに、何故だか批判が出てこない。これこそ恐怖煽動の現れだと思うが、本来先鋒に立つはずの人々が飼い犬のような態度なのが不思議だ。
 再編の結果中央省庁の数は減少したはずで、結果としてその長になる人の数も減った。そうなれば厳選された人が就任するはずという憶測は当然のことだが、実際にはそうならない。だからこそ驚きなのだ。ただ、驚かされたとしても、その後に出てくる成果が十分なものならば誰しも選択者の手腕を買うことができる。しかし、どうだろうか、毎回繰り返される騒動のあとに、前の内閣の総括を真面目に行う人がいるとは思えない。驚いただけで終わる騒動が、毎度毎度繰り返され、まるで悪名高きワイドショーさながらの狂騒曲が奏でられて、後に残るのは紙屑ばかりでは何とも情けない気がする。この国の人々は総じて過去の清算に時間をかけず、将来のことに気を配る。確かに、過去にこだわっていても何も起きないことが多いが、とはいえ、何の総括もなければ将来もへったくれもなくなるのではないだろうか。あまりの質の悪さに呆れるほどの人事を繰り返し、その結果を問われることなく、ただただ漫然と劇場での猿芝居を演じ続ける人のアホさ加減もかなりのものだが、それを客席から眺めている人々も同類と思える。更には本来辛口でならすはずの批評家達までが、猛獣さながらの恫喝をすっかり忘れ、自らの地位を守ることに汲々としている。まったくどうなっているのかさっぱり分からない世の中だが、これがこの国の今の姿なのである。世代による荒廃作業はずんずんと進み、ここまで荒んだ世の中が形成されても、支えるべき世代が何もかも牛耳っているわけだから何ともならない。そう言ってしまえば全てが終わりなわけで、本当はそろそろ何かが起こり始めなければならないはずだが、さて、どんなものだろうか。法律を知らない法務大臣、噛みつき犬と化した国土交通大臣、数え上げたらきりがないほどの人材である。馬鹿げた行状で知られたかつての大臣が今や与党の中核を成しているわけだから、既に御里が知れているわけだが、それにしてもそういう人々の集まりに何の批判も浴びせない人々もかなりのものだ。今や大人しく老後を送ることだけを考えているのかも知れないが、それならもう少し長期的な展望をもって欲しいものだ。さて、では、次にやって来るのは何か、誰にも分からないのだろう。何しろ、驚きがテーマなのだから。

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10月31日(月)−駄々

 他人の迷惑になろうがなるまいが、自分のやりたいことをするという人が目立つようになってきた。以前からそんな人は世の中にいたはずだが、見かけてもほんのたまのことで、あまり気にもならなかったのだが、最近は色々な場面で見かけるようになり、たまとは言えない状態になってしまった。その上、老若男女を問わずというのが更に気になる。
 酔っ払いのおじさんがくだをまくといった光景は昔からあり、周囲の人々も迷惑と思いつつ、仕方がないといった諦めをしていた。そういう人の数はどちらかといえば減っているようなのに、実際に迷惑行為を目撃する数は増えているように感じられる。この違いはどこにあるのだろうか。最も大きい要因はおそらく、年齢層、男女差などといった違いがほとんど無くなり、誰でも予備軍となりうるからなのではないだろうか。だからといって、皆が皆そうだと言ってしまうと思いきり嫌な顔をされそうである。実際にはほんの一握りの人々が他人の迷惑省みずといった行為を繰り返しているのだと思うが、もしそうだとしたらそういった人々は幼少のころから今現在までそういうことを繰り返してきたのではないだろうか。満員電車の中で騒ぐ子供たち、多くの人がいる場所で走り回る子供たち、こういう子供たちは素質も含めて環境の問題を抱えているのではないだろうか。つまり、親という本来最も身近で最も強力な存在がその責務を果たさず、そういった逃避行動に出る親もよく似た性質を持つから、結局子供としてはそちらに向う要素が揃っていると言わざるを得ない状況にあるのだろう。それにしても、無視を決め込む親と、それに対して周囲の状況を読む訓練ができていない子供の組み合わせは、何とも最悪なものとなる。同じことを繰り返すことで相手に嫌な思いをさせ、それによって自分のやりたいことを実行するというやり方になれてしまった子供は、おそらくどんなに成長しても同じことを繰り返すように思える。根本のところで、たがが外れているとでも言うのだろうか、何とも情けないほどの行状をいつまでも続けるわけだ。親は慣れているのかも知れないが、大勢の人々が集まる場所では大多数の他人には単なる迷惑行為としかならないものが強行されているのである。何とも情けない光景であり、そのことについて親も子も大いに反省してもらいたいと思うが、現実には反省の二文字が彼らの頭をよぎることはないようだ。どちらも自分の主張が通るようにするだけであり、無理もその通り、大声の反復もその通りなのである。結局は周囲の誰かが厳しく注意するまで、本人たちは自分たちの世界の出来事に熱中してしまい、何とも傍迷惑なことが続く。最近、特にこういった行動に出る子供について気になることが出ていて、彼らが将来に渡ってこんな行為を続けるのではないかということだ。一見正常に思える人間も、こんな行為を繰り返しているときにはその異常性を表面に顕す。その異常性こそが、将来に渡って問題となるものに思えるのだ。あの時点で何とかしておけばと親が思うことはないだろうから、誰かが何かをしてやらねばならないのかも知れない。

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