地方の私立美術館の館長が書いた本を読んでいる。変わった経歴の持ち主で、知る人ぞ知るといった存在だが、評判は聞いたことがあっても書いたものを読んだことはなかった。其処彼処に書く機会があって、その度に思いつきや気になることを書いてきただけあって、忌憚ない意見とも言えるが、一方で寄せ集めのせいか、何度も同じ話を読まされている。
様々な主張がちりばめられているが、大きいものには以下のようなものがあるように感じた。芸術には金がかかる、文化を肌で感じるためには金食い虫といった感覚でこういう事業に取り組んではいけない。公立、私立を問わず、美術館は何処も収益が上がらず苦しんでいると時々話題になる。しかし、箱ものではなく、中味で勝負するところであればあるほど、運営にかかる経費はかなりの大きさになり、収益を上げること自体が考え方としておかしい、といった主張だろうか。そういった文化を維持していくためには、当然社会全体で支える仕組みが必要で、それができないからこの国には文化が根づかないといった苦言が並んでいる。一方で、そんな状況を産みだした土壌はバブル期の投資に重きを置いた芸術作品収集にあり、狂騒の後に残ったものは何とも虚しい粗悪芸術の殿堂といった雰囲気のものだという切り口もある。良いものを揃えようとする気持ちがどんな形で表に出てくるかは、それぞれに違うはずだが、どうも気に食わないやり方が目立つと言いたいのだろう。それはそれで面白い感覚だから、大枚はたいて収集した人々の感想を聞いてみたいものだ。更には、現実の話に及ぶとかなり悲観的な雰囲気が全体に漂うようになる。つまり、どの美術館も閑散としていて、見学者が訪れることもなく、このまま行けば閉館の憂き目を見るところが次々と出てくるはず、という話だ。確かに、この美術館を数回訪れたが、毎回数人の来館者のみであり、企画展の有無に無関係にそんな調子だから、厳しいと言わざるを得ない。更には、他の美術館もよく似た傾向にあり、例外的なものとしては障害者の美術館、著名な芸術家についての企画展、更には有名タレントの作品展などが挙げられそうだ。これがまた、ご本人にとっては不満の種のようで、特に最後のものについては審美眼との絡みからもあまりに歪んだ状況といったことが書いてある。外国と比べて悲惨な状況といったことや行政との関わりの違いなど、話題は興味深いものだが、ところどころ首を傾げたくなる部分がある。たとえば、何故絵画美術館がこれほどの数必要なのか、文化というものが大衆全てに関わるべきものなのか、といった類いのことで、何かが先にあるように見えてどうも感心しない。一方、運営などに関することについて、公的な援助が文化水準を維持するために必要と説いているが、ここにも何かよく分からない前提があるように感じてしまう。確かに良いものを覧る機会を増やすことは必要かも知れないが、どんな形式が良いのか、そのことに関する吟味が無いように思う。観たいと思ったものが見られなくなったら悲劇だと言われればその通りだが、さてそういう欲求を満たすことだけに目的を絞ってしまっては何かおかしな具合になりそうな気がする。
例年になく暖かい、そんな報道がなされ、予想通り紅葉は各地で遅れてしまったようだ。それでもやっと朝晩の冷え込みが厳しくなり、木々もそれを感じ取ったように、葉の色を変え始めた。こんな気候の時は色づき方も今一つで、観光客にとっては魅力が少なくなっているかも知れないが、艶やかさは不十分とは言え、季節の移り変わりを示しているには変わりない。
気温の影響は紅葉だけに留まらず、様々なところに及んでいるようで、晩秋に実る果物もいつもより遅れている気がする。この時期、庭に植えられている柿の木にはまさに柿色の実がたわわにつくものだが、色の変化が少し遅れているようで深みを増してきたのは此処一二週間のことではないだろうか。自宅の柿をもいで食べるという習慣はどこかへ行ってしまったらしく、どの家を見ても沢山の実がそのままに放置されている。おそらく、もう半月ほど経過すれば自然に片付けられていくのだろうが、それにしても勿体無い気がするのはほんの一部の人間だけだろうか。甘い柿を作るためには接ぎ木をしなければならず、園芸店でそういうものを買い求めてきて庭に植えた主人も、既にこの世にいないのか、あるいは八百屋でより良いものを買い求めたほうがいいと思うのか、どの柿の木を見ても収穫された跡は見えない。それが子供のちょっとした悪戯によるものだと、当然甘い柿はならず、渋柿ばかりができるわけだから、そんな手間のかかるものの相手をする酔狂人は更に少なくなる。しかし、一方である山の麓の農村を車で走ってみると、この時期路傍に大きな柿の実を並べた無人売店が連なっている。どれも見事なほど大きくなったものだが、全て渋柿であり、持ち帰って処理をせよというわけだ。皮を剥いてそのまま軒先に干しておくのが手っ取り早いが、いかんせん時間がかかる。待つのが面倒な人はアルコールに浸けて渋を抜くらしいし、熟柿が好きな人は逆に皮を剥かずにただ待つのみである。これを匙ですくって食べるのが最高という人もいるようだが、一度に熟れてしまうから余程好きな人か、沢山の人がいないとすぐに腐られてしまう。もうひと手間かけられる人は、熟れた実を裏ごしし羊羹にするそうだが、自宅でやるのは大変そうだ。そんなところから工夫されたのが渋抜きだが、これとて本来の味とは違うという意見もある。一方、それほど大きく違うのであれば、いっそのこと干し柿の形で保存がきくようにとなったのだろうが、こちらも好き嫌いがあるようである。柿はこの国固有の果物という話も聞くが、原種は中国辺りから来たのだろうか。世界的にみると、意外なところで売られているものもあるようで、その上kakiという呼び名まで一緒だという。英語の単語はあるものの食べる果物といった印象はないようだから、その辺り仕方のないことかも知れない。いずれにしても接ぎ木をせずに増やしてしまえば、全て渋柿ということを知らない人も多く、結局熟柿にしている国も多い。面白いのはそんな地域で干し柿が広まったという話で、工夫は偶然から生まれるものだけに、さすがにこういう偶然が二度起こるのは難しいということを表しているように思えた。さて、軒先のものはあとひと月ほど、吊るし続けて楽しみに待つことにしよう。
環境税なるものの導入が検討されているという。「何それ?」と言われるのを覚悟の上で、導入は確実視されているようだ。しかし、その目的は不明確で、何に利用されるのかもはっきりしない。その上、税金が加われば価格に響くことになり、無駄な買い物を控えるようになどと訳の分からない理由を並べているから、こりゃ相変わらず駄目だと思うしかない。
環境という言葉は色々な意味で使われるから、これといった対象があるわけではない。にもかかわらず、この惑星全体についてのという括りで、次々に要求が出され、重要な問題として取り上げられる。だが、全体論に固執することは理解を妨げることに繋がり、自分の身近な問題との乖離が更に増すことになることには誰も気づかぬようだ。そんな中で、意識改革は望めず、車の中からのごみのぽい捨て、煙草の吸い殻は手から自然に離れていく、観光地の惨状等々、数え上げればきりがないほど、自らの生活空間と他との関わりの空間の区別を明確にする自己中心的な人間が増加すると、それに対する策としてつい金に頼る方法を選択する愚行が繰り返されることになるわけだ。これらの人々にとって、自分たちの心の中から何らかの反省が出てこないかぎり、金で解決するのは大歓迎となるに違いないわけで、本来の目的からは大きく逸脱した話が出てくるのは確実に思える。元々、互いに監視しているかの如くの国家を築いてきた国で、他人の目を気にせずに暮らせる人々が増えてしまったことは大いに憂えるべき事態なのだが、そんなことにはお構い無くただ金に換算して考えようとする動きが出てくることは、全く間違った方向に突き進んでいることを示しているのではないだろうか。先日、ある報道をきっかけに株価が暴落した化学企業について、これとは少し違ったことなのだろうが、どこか似た部分を感じさせる話があった。重金属による土壌汚染はある時期から厳しく取り締まられるようになり、不法投棄した企業に対してかなり厳しい罰が下されるようになっている。これは環境保全の一種であると同時に、土中の有害重金属がその土地に住む人々に与える直接的な影響という意味で、かなり重要な問題であるはずなのだが、棄てる側の道徳観の欠如が毎度大きな問題となる。しかし、今回はそれに加えて、更に問題を複雑にしている面があるように報じられていた。つまり、この汚染を生んだものは投棄されたのではなく、商品として売られたものであると企業側が主張したわけで、不法投棄にはあたらないとするものらしい。その解釈の違いを明らかにするために捜査の手が入ったようだが、それにしても土壌汚染は既に起きているのである。どんな手順、どんな手口で、それが行われたかを問題にしなければならないのは、何ともへんてこな話のように思えるのだが、法律で取り締まる以上、どの法律が適用されるべきかを決めなければならないということなのだろう。興味深いというより、面白いとしか言い様の無い遣り取りは、今後どんな展開を迎えるか見守るしかないが、それにしても汚染源を商品として出荷する企業の道徳観は皆無というべきなのではないだろうか。元々、色々な場面、色々な話題で、環境問題に顔を出してきた企業だけに、今回の話はああまたかという印象が残る。モラル、道徳、そんな言葉が死語になりつつある時代に、頻出する話題の一つに過ぎないのかも知れないが。
飲酒と喫煙、どちらも年齢制限が設けられているが、国ごとに違うところをみると絶対的な指標があるわけでもないようだ。しかし、総じて制限を設けていることは成長期における影響が懸念されることを示しているのだろう。そんな中で掟破りをしようとする心が若者にあることはごく普通というべきなのかもしれない。
義務教育を終えた時点で社会に出る人の数が一割にも満たないから、こういった制限が適用されるのはほとんど学校に在籍している若者たちに対してである。規則を破ったときに社会的に制裁を加えられるのは当然だが、学校という組織に属する場合、その中で罰せられることがそれに代わるものとなるのだろう。このやり方はこの国では当たり前のものとなっているようだが、はたして他の国でも同じかどうか怪しいものである。個人の問題であり、学校にとってそれ自体が他に影響を及ぼすものにならないかぎり、家庭内で解決すればいいだけのこと、という考え方もあるからだ。この場合、学校内に留まらせるより追い出したほうが適切という結論に達することも多く、そうなれば処分の仕方も変わってくる。教育に対する考え方にもよるだろうし、何を社会と見るかといった考え方の違いにもよってくるだろう。しかし、最近の動向を見ていて、特に気になるのは、個人の問題として捉える気のない親が増えていることである。つまり、学校に全てを任せているという論理を展開し、処分も学校にやってもらい、自分は少し離れた安全地帯に居たいという親が増えているように感じるのだ。この場合、親が子を叱るという初めに起こるはずの出来事が起きず、その代わりを学校が果たすという仕組みになる。処分が必要な子供たちにどうするのかは当然学校自体の問題ではあるが、それとは別に動きがあってしかるべきの親子関係がまったく機能しない状況にあるとしたら、それは大いに憂慮すべき事態なのではないだろうか。ぜひ叱ってやって下さい、という要望が親から出るのは以前からあったことだが、今どきの親には、その前に口の中で唱える呪文のようなものがあるように思える。つまり、「自分は叱れないので」と口の中で言ったうえで、ぜひ叱ってくれと切り出すわけだ。これでは親の責任を果たしているとは言えず、ひいては社会的責任を子供だけでなく親が果たしていないことになる。そんな親子関係がこれほどよく聞かれるようになってきたというのは、社会全体が何か今までにない歪みを抱え始めたことを示しているように見えるのだ。こういう親の世代は自分たちが属する組織においても、同じような考え方をするようで、たとえば自分が部下を叱責すればいいだけのものを、組織で何らかの措置をしてくれと望むことがある。直接関わることを避け、より大きなものに責任を転嫁するとでも言うのだろうか。実際の意図は確かめられないが、根底に親子関係で現れる考え方がありそうに思える。身近なところから健全化を図らないかぎり何も改善できないと思うが、はたして責任転嫁に慣れた人々がそんな気持ちを起こすかどうか、それこそ次の世代に期待するしかないのかもしれない。
すぐ傍で起きていたら、かなり深刻に感じるのだろうが、地球の反対側となれば、何となく川向こうの火事のように見える。しかし、つい先日訪ねてきた知り合いから帰国後何の便りもないのは、それはそれで不安を掻き立てるものとなる。各地に飛び火した暴動は大都市の一つである知り合いの住むところにも起きているようだ。
その都市は南の方に位置し、海に面した風光明媚なところだが、欧米の都会の例に漏れず、貧民窟のような地域を抱えている。旅行者に対しての注意として、その地域へ足を踏み入れることに対する警告が出されているが、実際にどんなところなのか行ってみたことが無いから分からない。話として伝わってくるのは、移民が数多く住む地域で貧しい人々が多いために、観光客にとっては危険なところということだ。そんなところだから、ご多分にもれず、薬の売買が盛んであるとも聞く。薬と言っても、治療薬という意味のものではなく、通称ドラッグと呼ばれる麻薬関係のものである。此処に住む人々の多くは、若い頃から売買に携わり、次々と悪事に手を染めていくという。その結果、金持ちになる人の数はほんの僅かで、多くの若者はそのまま薬に溺れたり、抗争に敗れて命を失うことになるのだそうだ。その意味で、金を持ち歩いているであろう観光客は格好の標的となり、襲撃されたとしても不思議はないということになる。こんな場所は欧米の大都市には必ずと言っていいほど存在しており、既に知られるところとなっていることが多いから、余程の非常識でないかぎり足を踏み入れる危険を冒す観光客はいない。この都市のこの地域もその典型らしく、観光客に注意が出されているから、おそらくほとんどの人はその実態を目にしたことはないだろう。それにその都市に住む人々でさえ、わざわざ危険を冒す価値もないだろうから、そこを自分の目で確かめることも少ないのではないだろうか。そんなところの出身者に有名人はいないものと決めつけてはいけないようで、この都市出身のある有名なサッカー選手がいる。移民の子と言われるその選手は、まさにこの貧民窟の出身であり、例外の一人として扱われているという。ドラッグに流れる同年代の子供たちを目にしながら、サッカーに打ち込んできたのはどうしてなのか、ほとんどの人には理解できないところであり、本人にも本当のところは分かっていないのかも知れない。いずれにしても、そんな環境でさえそういう才能を持った人々が出てくる可能性がないわけではないことを、この例は示しているのだろう。但し、ごくごく僅かな例外を引き合いに出して、だから皆明るい未来を目指して、などと論じてみても仕方がないのは明らかである。環境に影響される人間とそうでない人間、どちらがより優れているかという議論は全く無意味なもので、それぞれの人々にとってどうあるべきかを議論するのが最近の風潮である。しかし、全ての人により良い世界をという考え方が果たして意味を成すものなのか、その辺りにもそろそろ考えを広げていく必要があるのではないだろうか。優生思想とか、貧富の格差とか、そんなものから入るのではなく、違った方向から入ったうえで、そこに違いを認めることが必要に思える。
海の向こうや遥か彼方の国で暴動なるものが起きると心配する声が飛び交う。実際のところ、何を心配しているのか定かではないが、とにかく大変だと繰り返す声がする。人種差別が根底にあると考えられる場合が多いので、多人種国家でない国にとっては全く異次元の問題と捉えられるが、果たしてそれでいいのかどうか、簡単ではない気もする。
差別なのか区別なのか、いずれにしても見た目が違うとか、住んでいるところが違うとか、色々な要素を頼りにして人は人を識別するものである。本来備わった機能だから、それ自体を無くすのは百害あって一利無しだと思うが、結果として出てくるものに悪影響を及ぼすものがあった場合、ちゃんと考えなければならない問題なのだろう。一方で、今回の問題のように人種が絡んでいるとしても、実際に暴動に参加している若年層はその国で生まれ育った世代だから、移民としての感覚とはかなり異なった人種感を抱いているのではないだろうか。そうなれば、人種差別という問題も、ずっと昔に扱われてきたような形ではなく、もっと違った現代的な感覚で扱うべきものとなるかも知れない。いずれにしても、こういう問題がそういった人間の違いによって引き起こされるものだとしたら、世代間の差別のようなものがありさえすれば、この手のことは簡単に起きてしまいそうである。対岸の火事のように眺めている人々にとって、平和ボケするほど自由な生活を送れる国はあまり多くないことなど、感じる機会さえないのだろう。今、若者の無力感を取り上げる記事は沢山あるが、ひょっとするとそれだからこそこんなに平穏無事な毎日が送れるのかも知れないのだ。団塊世代を巻き込んで全国を駆け巡った騒動も、もう40年ほど前の出来事になっている。その時代の若者たちは暴れ回る気力を持ちあわせていたから、現状に対する不満と将来に対する不安が混じった感覚を吐き出す行為を繰り返していた。それに対して、同じような不満や不安があるはずの今時の若者たちは、何をする気も起きないようだ。そんな中で、年寄り達は彼らの行く末を心配する風を装い、様々な方策を講じてくる。しかし、その多くは徒労というか全く何の役にも立たないものであり、示威行動の一種にしか見えない。そんな環境でも、ただ大人しくしている人々を見るかぎり、暴動という過激な場面は想像できず、とにかく平和な時間が過ぎていくだけに見える。それとあちらで実際に起こったこととの違いが何処にあるのか、推測するしかないわけだが、一番大きな要因はおそらく生活水準の問題なのではないだろうか。誰しもより高いところを目指す心を持っていると思うが、自分の居る場所がその高みとさほど変わらない場所にあったとしたら、その意欲は減退してしまうのではないだろうか。もし、そうだとしたら、現状に甘んじてしまうのも無理からぬことであり、そういう人に対しての働きかけには従来とは違う工夫が必要となるのかも知れない。ただ不思議なのは、こんな環境でも上を目指す努力を怠らない人がいるし、どんなに貧しくとも過激な行動に出ない人がいることだ。これらはおそらく心に備わった何かが引き起こしているものなのだろうが、もし環境からの影響を受けないとしたら持って生まれたものということになる。こう考えてくると、どうも人には大きく分けて数種類のタイプがあり、それぞれに人生に対する違った方向性を持っていることになるのではないだろうか。持って生まれたという言葉を嫌う人々には、聞こえないことだと思うが。
ビジネスチャンス、最近よく耳にする言葉である。商売の機会、商売のあて、とにかく、それまで商いができそうにもなかったところへ、そういう口が出てくることを指すのだろう。そんな話が色々な方面から聞こえてくる。それだけ商売の形態が変化したのか、はたまた社会事情が変化したのか、はっきりしないが、始まっているようだ。
さて、そういう話を聞きながら、どんな商売かと眺めてみると、なるほどと思えるものから、そんなものにまでと思えるものまで、千差万別、まさに玉石混交といったふうである。多くの場合はまったく新しい考えに基づく製品が伴うわけではなく、どちらかと言えば物理的なものより精神的なものを相手にしているように見えるものが多い。所謂サービスと言われる産業にあたるのだろうが、物質を伴わないだけに展開が見えないものも多い。その一方で、まったく新しい考えに基づくものであれば関係ないのだろうが、従来から身の回りにあったものを商売の種にしたものについては、何故、どうしてといった戸惑いがついて回るようだ。本来、といっても何が本来の姿かを断言することはできないのだが、無償で行われてきたものを有償にすることが商売として成立させるための第一歩であるが、その転換が納得というか、理解できるかが肝心要となるからだ。そういう意味では、何でもかんでも有償化すればいいというわけではなく、金を注ぎ込むべきものといった感覚が必要となる。サービスという言葉の本来の意味は、接待、優遇、奉仕などとあり、それに対する報酬を伴わないといった考えがあるように見える。しかし、実際には公的なものなどを含む仕事であり、受け取った人間からの報酬は直接的に要求しないとはいえ、何らかの収入を伴うものも多い。それに対して、最近の傾向はサービスを受けた人間がそれを支払うべきであり、それをビジネスちゃんとして捉えるといったところにあるようだ。こうなると、昔ならそんなことと思えるようなことにまで課金制度が導入されるわけで、社会福祉といった立場やボランティアといった制度からかけ離れたものに見えるものも少なくない。たとえば高齢化社会になり、高齢者の数が増加するとともに、彼らに対するサービスが様々な形で導入されるようになってきた。それを金のなる木と見る企業や人間は沢山いるだろうし、実際に商売とするところも出てきている。中にはなるほどと思えるものもあり、これはずいぶん昔から始められていたが、寝たきり老人を風呂に入れることなども、その一つと思える。一方で、独居老人については自治体も深刻な問題と捉えているようで、様々な仕組みを導入して接触を図るようにしているようだ。その一環なのかどうか分からないが、老人と会話をする、あるいは老人の話を聞くというサービスを始めたところがあると聞いた。以前ならばボランティアとして取り上げられていたのだが、それをあえて商売とするところが出てきたという。金を払ってでも自分の相手をしてもらいたいと言う人がいるから、という理由が聞こえてきそうだが、何だか首を傾げたくなる話である。基本にあるのは、おそらくだが、ある時期に当り前となった何でも金の価値に当てはめるという考えがあるのだろう。確かに、変に心理的な抑圧があるより、金で全てを片付けたほうが良いと思う人もいるだろうが、さてそれは社会として真の姿と言えるのだろうか。何でも大層に考えるから、こんなことになるように思うのだが。