パンチの独り言

(2005年11月14日〜11月20日)
(安全、脇見、臨時、整列、誘致、恵み、感染)



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11月20日(日)−感染

 突然冬になったような気がする天気が続いている。実際には気温の下降も話題になる程大きなものではなく、せいぜいひと月早い程度のものとなっている。しかし、それでも慣れない体にとってはかなりの負担で、こういう時期に風邪を引く人も沢山いるようだ。そんな折に、格好の話題として登場したのが鳥インフルエンザ、確かに警戒すべきなのかも知れないが。
 話題としては、かなり以前から取り上げられてきた。特に、国内でも養鶏場での感染が報告され、鶏舎内の全てのニワトリが処分されると聞くと、それほど大袈裟なものなのかと驚く人もいたのではないか。感染力からすればかなり強いものであり、養鶏場のように狭い区域に多くの個体を閉じ込めておく状況では、あっという間に被害が大きくなることを考えると、こういう対処も致し方ないと思えるが、心情的には可哀相な気がするのだろう。しかし、この様相を自分に当てはめてみるとちょっと怖い気もしてくる。つまり、それだけ狭いところに押しこめられている状態が自分にも何らかの形で該当するとすると、嫌な予感がするものだ。毎日の通勤で苦しんでいる人々の多くは、満員電車やバスに揺られているわけで、あの状況が鶏舎の中のニワトリとさほど変わらないように思うのも無理はない。となれば、その中に人間のインフルエンザに罹った人がいれば、どんなことが起きるか、すぐに想像がつくというわけだ。そんなことがあるからだろうか、このところインフルエンザの大流行、それも新型のものについての話題が頻繁に取り上げられ、かなり心配している人もいるようだ。その一方で、特効薬と目されたものの副作用が表面化し、こちらはこちらで余計な心配をしなければならなくなった。ワクチンという予防法も新型となれば無力であり、こんな解説は更なる心配を煽ることになる。こういう時必ずと言っていいほど引き合いに出される事件にずっと昔に大流行したスペイン風邪なるものがあり、その被害の大きさは一般の人々を不安にさせるのに十分なようだ。しかし、当時と今とで大きく違うものが沢山あることについて、解説に及ぶことがないのは何故だろう。人々はそれぞれに体質も生活習慣も大きく違うが、それにしても一つの国の中で暮らす人々はある程度似通った状況に置かれているのではないだろうか。数年前対岸で大流行したSARSなるものについても、国内で数件の感染が報告されただけで済んでしまった。その他にも、コレラなどの伝染病についても感染の報告はあるが、大流行することもないし、死亡者が沢山出ることもない。ウィルス性のものにしても、細菌性のものにしても、感染力が強いものに注目が集まるが、感染、つまり、例えばウィルスが体内に入ったとしても、必ずしも発病するわけではない。それぞれの個体が持つ抵抗力の違いによって、結果が異なってくるからだ。そう考えると、昔と全く違う食生活、生活環境に暮らす人々にとって、さてスペイン風邪のようなものがそれほど恐ろしいものになるのか、考えてみても良さそうに思える。うがい、手洗いなどの予防策さえ講じておけば、そんなに心配しなくても、大流行を避けることは可能なのかも知れない。安易過ぎるといわれればその通りかも知れないが、やたらに不安になるのもどうかと思う。

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11月19日(土)−恵み

 干し柿報告、それも定期のものをするつもりはないが、進捗状況を気紛れで書いておくことにしよう。暖かい秋が過ぎて、あっという間に冬が来たように冷え込み、普段の生活に支障を来すほどになったが、干し柿作りにとっては有難い冷え込みのようだ。皮を剥いて、表面が乾くまでの間が一番微妙で、その時期に気温が上がると困るという話を聞いていた。
 気温の上下を読むのは農家の人間ではないからはじめから無理と思うし、一方で生き物はこちらの都合に合わせて調整してくれるわけでもないから、柿の実りの時期を変えることもできない。だから、何もかも自然の成り行き任せになり、其処に自分の都合を混ぜ込みながら、なんとかうまく行くようにと願うのみのわけだ。これまでも大体はうまく行ったが、はじめの気温が高すぎた為に乾きが悪く、ちょっと都合の悪いことが起きたことや、かなり出来上がりかけたところで急に暖かくなっただけでなく、霧が出るほど湿度が上がった為に慌てて取り込んだこともあった。いくら自然任せでも、そのまま放置しておけばいいわけではなく、時々世話をしたり、様子を見たりすることが必要である。今回は今までになく順調な立ち上がりで、とにかく実の柔らかくなる雰囲気、表面の乾いてくる感じが何とも言えない。この調子で行けば、思ったより早く出来上がるのではないかと思う。しかし、こちらの気紛れ以上に天候の動きは思わぬ方に行くことがある。この冷え込みがどこかで一段落したとき、どんな気候になるのかなってみなけりゃわからないといった感じだ。それにしても、紅葉にとっては最悪の気候の変化のようだが、別のものにとっては全く正反対の結果を産み始めている。この辺りが不思議に思えるが、実際にはそれぞれに違った反応をしてくれればこそ、年毎に何かしらが実りを見せてくれるわけで、皆が一緒になってしまったら、豊作も一緒、凶作も一緒と、喜びと悲しみが両極端に分かれてしまうことになる。実際には生活していかねばならないわけだから、両極端の結果が生まれるよりは、どれもこれも中途半端になってくれた方が有難い。それはそれで難しいとなれば、やはり天候に左右されるされ方がそれぞれに違っていてくれれば、なんとか生き延びることができるというものだ。それぞれの土地に根付いて、地域の中で自給自足のような生活を送っていたときには、まさにそういったところが重要な要素となっていたのだろうが、今ではもっとずっと広い世界を相手に生活することになり、その辺りの考え方ががらりと変わってしまった。それ自体がいいことか悪いことか早計に判断することはできないが、いずれにしても天の恵みを受ける歓びが忘れ去られるのはかなり心配である。食べ物はどこからやってくるのか、と聞かれて、スーパーと答える子供を心配する向きもあるだろうが、そのうち冷蔵庫と言い出す子供が出てくるかも知れない。何を当たり前と捉えるかでこの辺りの事情は大きく変わるわけだが、それにしてももう少し自然に目を向ける必要があるのではないだろうか。自分たちもこの惑星の住民だが、其処で育てられたものを手に入れて生活していることを意識しなくなったら、おしまいのような気がする。

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11月18日(金)−誘致

 また、誘致に失敗したことが報じられていた。理由は定かではないが、とにかく最終段階まで残りながらの落選である。この手の話はこれまでにも何度もあり、その度に原因の分析が行われていたようだ。しかし、それぞれに違った催しであることや地域性などが複雑に絡み、簡単に結論が出せないだけでなく、結局画期的な妙案も出てこないようだ。
 成長を続けていた時期に開催誘致を試みたものの多くは目的を果たす結果となった。しかし、その陰で無理矢理の誘致によって生じた歪みが深く残った場合も少なくなかった。一時的な経済効果を上げたものの、その後は負の遺産に苦しむ結果となり、それに追い討ちをかけるように経済成長の鈍化、急落が被さり、深い傷を残すことになった。その影響は心理的な面で大きいようで、毎度何かの行事を誘致する段になると反対意見として浮上してくる。大きなものであればあるほど経済効果を見込めるが、それが一時的なものに終わってしまうと大いなる負債がのしかかってしまう。この手の効率を事前の調査で十分に分析できるほどの調査力も基礎データも持たない世の中では、やってみなけりゃわからないの一言で全てを片付けるか、あるいは最悪のシナリオを採用するか、そんな二者択一にならざるを得ないのだろう。成長が当り前であった時期には、こういうものも先行投資の一つと見做すことで全てのことがなされていたが、現状維持がやっとの時代になると、目の前に山積する問題を解決するほうが先決と言われて、中途半端な提案をするかあるいは誘致断念を宣言することになってしまう。どちらにしても、関係者が意図した誘致の意義はどこか脇に追い遣られ、経済の収支という唯一つの尺度による検討が最優先されることになる。こういう状況ではたとえ誘致に成功しても、その後の経済効果のみが注目されることになり、心理的な影響や関係組織に対する効果には目も向けないことになる。何でも金が第一であり、無い袖は振れず、金がなければ生きていけないと考える国民にとっては、自分たちの生活に利益にならないものには一銭も費やしたくないという気持ちが出てくるのかも知れない。しかし、一方で、実際にやってみたら意外な成功を収める例もあるようで、先日閉幕した博覧会などはその良い例だろう。全体の収支報告はまだ無いが、少なくとも動員数は予想を上回るものであり、それなりの話題を提供したことは確かだろう。ただ、これを成功例として表に出そうとするときでも、強硬な反対があることにこの国の抱える問題を見ることができる。動員数が予想を上回っても、局地的な問題であり、国の経済にとっての影響は少ないという意見を出す人がいたり、元々下らない博覧会などに興味が無いとわけのわからない意見が出るようでは、何かを誘致することに対する正当な評価や検討が行われる素地がここには存在していないように思えてくるのだ。鶴の一声で決めてしまうという形式に慣れてしまったせいか、何事も他人事に思える国民性はこういった事柄に対して、まともな議論を行うことさえできないのだろうか。誘致自体が時代遅れと言いたければそれでいいのだが、一方で金儲けになるのならなどと下心たっぷりの態度をとるようではお里が知れる。金銭的なもの以外の尺度も考えていかないとこういう話だけでなく、別のことにまで悪い影響が及ぶことになるのだが。

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11月17日(木)−整列

 社会というものが形成されるのは、そこに沢山の人間がいるからである。これは動物でも同じことで、猿の話は有名だが、ずっと小さくなって蜂やら蟻やらにもそんなものがあるという。人間の社会で、多くの人々の中で暮らしていると自ずと相手によって扱いが変わってくる。何かの形で上下を判断し、それによって対応を変えるわけだ。
 一人ひとり、人はそれぞれに違った尺度を持ち、他の人を値踏みする。しかし、それが集団の中での決定となるとどうも二の足を踏むようだ。これは特にこの国では顕著であり、なるべく大袈裟な評価をしないことで、何となく流れを作ってきた。一つの人種からなる国家の場合、ある基準が暗黙の了解のもとに作られているようで、それはそれで何とか通用してきたようだ。しかし、様々な活動が国の中に限られず、色々な国との関わりが出てくると同じ水準にあるかどうか、また同じ物差しを使っているかどうか、いちいち検証しなければならなくなる。そうなってくると多民族国家と同様に、ある基準を設けて、それに従った分類を行う必要が出てくるようだ。経済活動が活発になるとともに、この必要性が高まり、様々な場面で適用されるようになったが、どうも心理的に馴染めない人が沢山出ているように思える。一時的には評価に基づく査定などという言葉が巷に溢れ、それが当り前のように人に格差を付けることが横行したが、結局基準が曖昧なままで、その上基準の適用の仕方に確固たるものが無いために、横行という言葉で表すしかないほどいい加減なものが目立つようになった。今でも、給与格差を設ける企業は増え続けているし、その適用を歓迎する動きも出ているが、一方ではじめの頃に生じた問題の解決は先送りになったままに感じられる。良い人材を確保するためには相応の手当てをしなければならず、それを巧みに運用すれば企業成績の向上に繋がる、と言われたこともあるが、実際にそれが露になった例も少なく、騒がれた事例ほどその後の惨状が際立つように見えるのは不思議なものだ。一方、それほど極端なやり方でなくとも、ある程度の水準を維持するために給与などを優遇する措置がとられることは珍しくなく、それによる効果はある程度認められているように思う。たとえば、教師の扱いに関して、海の向こうのやり方はかなり酷いものとして捉えられていたが、そこには低賃金という大きな問題があった。それに比べてこちら側はある程度の収入を約束しており、それが水準の維持に一役かっていると言われたものだ。しかし、そんな中で企業との賃金格差が広がり、不満を抱くようになってしまうと、様相は徐々に変わってしまった。能力やモラルの低下が巷を賑わすことになり、それが引き金となって処遇の再考が声高に主張されるようになった。その原因の一つには、格差があったはずの賃金が企業側でかなり極端に低下し始めたことにもあり、能力格差を正しく評価すべきということになったのだろう。しかし、そこに出された提案は実際に効力を持つものとは大きく異なり、横並びに終始するものとなったようだ。つまり、比較の対象を一般の公務員とし、そこに突出が認められた時には教師の給与を減額するというものだ。従来の奨励策はすっかり影を潜め、その上世論の圧力に抗する力は役所には残っていないのだろう。教師の能力を正しく評価するという提案もなく、ただ横並びに減らすという話では、何とも情けない。いずれにしても、この国の根底にそういった感覚があることを再認識して、評価制度などという夢物語を論じないほうが良いのではないだろうか。

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11月16日(水)−臨時

 景気が良くなったと感じている人はどの位いるだろう。そんなはずはないと断言する人もいれば、その通りと答える人もいる。人それぞれに感じ方や目安が違うからだろうが、全般的に言えば、どうも良くなっているようだ。株価の上昇もそうだが、企業の業績もそんな風に見え、その上雇用の状況も改善されつつある。しかし、そんな中で苦しむ企業もあるようだ。
 良くなるとは全てがそうなることを言う、と仮定したら、何も言えなくなりそうだが、とにかく全体的にはいい方向に向っている。業績が向上すれば、生産を上げなければならず、そのために人員の確保が必要となる。ごく当り前の流れで、そのために雇用状況の改善が起こるわけだ。以前なら、新しく雇い入れる人間の数を増やすことをほとんどの会社が行ったが、ある時期からそういうやり方ばかりではなくなった。景気が上向くと言っても、何度かの一時的な現象を経験してしまうと、長期間人件費が必要となる雇用形態は好まれなくなるからだ。そういう状況かで生まれたのが人材派遣業、最近ではアウトソーシングなどとカタカナで呼ばれることが多くなった。要は、企業からの依頼に応えて、人材を送り込むことを仕事とする会社で、依頼する企業にとってはある程度の能力を備えた人材を一時的に使うことができるという利点がある。不況の時期に、一時的に人を必要としたときには大いに活用されたわけだが、景気が良くなった今も依然としてそれに頼ろうとする企業が多い。そんなわけで派遣業は大忙しなわけだが、これを手放しに喜べない事情があるらしい。全ての企業がそういうやり方を採ってくれれば、そんなに大きな違いは生まれないが、実際には最近大きな変化が生まれているのだ。以前は採用を控えていた大企業が景気の先行きに明るい兆しを見出した頃から、新規採用を増やす傾向に転じ始めた。そうなると採用される側にも変化が生まれ、より良い環境を望む気持ちが芽生え始める。つまり、安定した雇用環境で、かつ、名の通った企業への就職を目指すようになるわけだ。当然の流れであるが、これが派遣業種にとってはまったくの逆風となる。人材の確保が第一であり、それが巧く進められた時期には、依頼企業からの評判も高まった。しかし、それが可能だったのはある程度水準の高い人材が確保できたからで、それらの人々は就職状況の悪化により一流企業との直接的な関わりを断念させられたという背景があった。その状況が変わったことは、実際に人材確保、それも好景気に下支えされた形での増員を要求される中で、かなり苦しい状態に追い込まれる形となる。企業の成績は今のところ上昇を続けているだろうが、もしこういった状況が続くようだとその先は暗いと言わざるを得ない。そんな中で、先日ある番組で派遣会社の良さを説明する言葉があった。自分に不安を持ち、相手に不安を抱く人が増えている中で、試してみられる環境を提供できる会社の存在は大きいというのだ。この話に首を傾げる人が多いと思うが、求職者の多くはこれを救いの言葉と受け取るのだろうか。実際の状況からして、そんなはずはないと思う人がいる一方で、こういう売り言葉が流れるのは何とも不思議な気がした。本当に必要な安定、安心とは、どんな形で手に入れられるものか、どんな形で用意されるべきものか、考えるべきなのではなかろうか。

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11月15日(火)−脇見

 珍しく夢を見ていた。地震の夢だが、内容はすっかり忘れてしまった。というのも、その後実際にゆらゆら揺れたからである。二度あった地震のはじめの方を僅かに感じて夢現つとなっていたのか、あるいは別のことか考えても分からない。いずれにしても、ゆらゆら小さくても長く続く地震に、遠くの大きなものを想像していた。
 予知能力とか、第六感とか、そんな言い方をすると突然科学的でなくなるが、実際にはこういったことの中に経験に基づくものもあるようだ。年を重ねることで色々な経験を積み、それらを使って目の前に起きていることを分析することで、次に起きそうなことを考える。こう書くと予知でも第六感でもない話になるが、何も知らない人から見れば不思議の一言だから、まあ、そんな言い方をしても構わないことだろう。経験は多くの見方を身に付けるために必要なことと言われるが、最近の社会の動きを見ているとそれが全ての人に当てはまるわけではないことが分かる。皆同じような経験をしているにも関わらず、まったく正反対の選択をすること自体、経験がものを言うと言えない理由の一つになるだろう。大人からしてそんな状況だから、子供となるとその傾向が顕著となる。本来世代を超えて伝えられていくはずの知恵が、前の世代に備わっていなければ、自ら獲得していかねばならず、それからしてかなりの困難を伴うこととなる。更に、先生と生徒の間の関係にも、以前はそんな機会があったはずだが、最近はどちらにもそれだけの備えができていないようだ。経験によって多方面からの見方を身に付けるという話は、以前なら当り前のことと受け取られていたが、この頃はそんな雰囲気もない。自分の見方を確立することがやっとのことで、違う方向から見直してみて検討するなどといったやり方には到達できるはずもないからだ。馬を走らせるのに余所見ばかりをされては困るということで、眼のところに付けるものをブリンカーと呼ぶらしいが、まさにそういった雰囲気で進学の道をまっしぐらとさせられているのだろうか。その結果がどうなるのかは容易に想像できる。実際、身の回りにいる若者たちを見ていても、与えられた単純なことはこなせるが、少し複雑なことに取り組ませると役に立たないし、問題を抱えた場合にそれを解決するために必要な要素を考えさせても、精々一つくらいしか思いつかない。一つ出てくるとそれしか見えなくなり、それまでに築いた考え方をがらりと変えることさえできないからだ。亀の甲より年の功といった話が成立していたのは、経験がものを言うことが沢山あったからだが、この頃のこういった傾向や同じような状況のまま年を食っただけの人々を見ていると、そんな話が通用しない時代がすぐそこまでやって来ているように感じられる。結局、こうしろああしろと命令され、ブリンカーをはめられてもなお抵抗しつづけながら、それなりの道を歩んできた人にだけ年の功は通用するのかも知れない。元々、脇目もふらずに育ち、一つのことしかできない人間になってしまった人を選択するような仕組み自体に問題があるわけだから、その中から変えていかないと将来の悲劇を回避することはできないのかも知れない。

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11月14日(月)−安全

 安全神話という言葉はもう使われなくなっただろうか。それとも、昔を懐かしんで使う場合が残っているだろうか。とにかく、何でも一番が好きな人々によく使われたこの言葉も実態にそぐわなくなってしまうと、あっという間にお蔵入りとなってしまったようだ。殺人、恐喝、詐欺などと、毎日のように紙面を賑わしているようでは、安心できるはずもない。
 そんな世の中になってきて、その上何でも金銭価値で計るようになると、昔は当り前のことと思われたものにまで金を注ぎ込む必要が出てくる。安全を買う、などと言ったら馬鹿にされていた時代もあったはずなのに、今では正反対の反応が戻ってくる。何がここまで変えてしまったのか、それを論じたとしても、現状の山積する問題を解決することは不可能だ。それより、実際には十把一絡げで取り上げられている問題を整理して、見方を変えることで解決できるものを探すほうが賢明であるように思う。たとえば、殺人の被害者にならないためにどんなことをすれば良いのか、極端に言えば重要人物として多くの人に守られている人は一般人より安全といえるのかも知れないが、一方で危険な立場にあるのだから比較にならないという考え方もある。まさかそんなことは思わないだろうが、自分の身を護るために警護にあたる人を雇うのは一つの方法であることは確かだ。しかし、出費とその効果を考えたとき、余程の人を除いてそんなことを考える意味のないことに気がつくだろう。詐欺についても同じようなことが言えるだろう。結局のところ、自分の身は自分で守るといった姿勢で、犯罪に取り組むだけで大方のものの被害を逃れることは可能だ。しかし、たとえば仕組み自体に投資を必要とするものが組み入れられた場合、どうだろうか。最近、銀行関連のもので何とも怪しい事件が数多く報告されている。入力画面を盗撮するカメラの設置、カード投入口へのスキミング機器の設置、どちらも犯罪となりうるが、情報を得ただけでは何の役にも立たない。結局、前者については暗証番号以外の情報が手に入らないから、何らかの詐欺行為の痕跡は残されていなかったようだが、後者についてはカード情報を全て入手できることから、預金を引き出される被害が生じたようだ。それにしても、カード情報を手に入れたとして何故暗証番号までが入手できたのか、素人目にはまったく理解できない話である。しかし、こんな報道がなされるたびに安全性の問題が取り上げられるわけで、そこからちょっと方向違いの話が組み立てられるから恐ろしい。それはつまり、安全性を高めるために別の手法の導入を図り、そのために利用者に負担をさせようとする動きである。安全を金で買う、今では当り前と受け取られている話だが、さてこの場合にも当てはまるものだろうか。おかしいと思うのは、安心、安全を保障することが機関としての責務であり、当然の事に思えるのに、それに対して顧客が選択を迫られるといった状況である。自らの機構の不備を棚に上げ、それを高めるために必要な資金を利用者から巻き上げるというやり方は何とも情けない話ではないか。サービスは当然のものではなく、客の質によって格差を付けるものという論理が罷り通るようになってから、こんな考えが当り前のように出されるようになった。実際に、どんな順序があるべきか、企業の立場からでなく顧客の立場から主張がなされる時期に来ていると思う。

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