規制緩和、もうすっかり忘却の彼方に押しやられてしまっただろうか。そんな気さえしてくるこの言葉が、今一部で注目を浴びている。あれほど大騒ぎをして、あれほど画期的なことと称賛され、あれほどの後押しを受けた動きが、こんな馬鹿げた結果を産みだしたことに関して、当事者たちは何を思うのだろう。既にその辺りの言い訳が巷に溢れ始めたようだ。
一番面白く、興味深い言い訳はおそらく性善説なるものに関わることではないかと思う。こんな責任のある人が悪いことをやるとは思わなかった、と述べた検査会社の責任者は、検査が何たるかを理解しておらず、その責務に対して支払われる報酬をなんと思っていたのだろうかと呆れるばかりだ。それを後押しするように、性善説を前面に押し出して規制緩和の本質的な問題を覆い隠そうとする人々は、更に大きな責任を負っていると言うべきだろう。その多くは公的機関での検査が如何に非効率でどうにもならないものかを声高に主張し、規制緩和がそこに山積する問題の全てを打開する唯一の手段のように説いた人々である。その結果がこうなってしまった時、彼らが主張できることはこれくらいのものなのかも知れない。更に重大な責任を負わされたはずの企業に、それを果たせなかったときに生じる補償などの問題を解決する力が無かった時、さて誰がどうすればいいのかをまったく考えもしなかった人々がそこにいるわけだ。もし性善説が成立するならば、そこで検査の必要性を論じることなど、ちゃんちゃらおかしいということになる。全ての人々が規定に従って、職務を遂行するならば、何故そこに検査機能が必要なのか、誰が考えてもおかしい。にもかかわらず、こういう場に陥ってしまってその窮地を逃れようとした時に、こんな詭弁を弄するなど、ふざけた話はないのである。その上、何とかラッシュなる予期せぬ好景気がある業界に訪れたことが、こういう結果を産みだした原因であるなぞと宣う論者には存在価値は微塵も感じられない。それだけの仕事をこなすべく画策された緩和施策が何の役にも立たず、仕事に追われてこんなことを引き起こしたとはどういう頭の構造をしているのか想像できぬ代物だ。民営化を推進している人物達はこの場において矛先がそちらに向くことを警戒するあまり、規制緩和の本質的な問題に目を向けず、ただただ関わる人間の問題にすり替える。しかし、モラルの欠如、道徳観の喪失、等々、これまで何度も取り上げられたことの明らかな存在を無視した結果であることは明白であり、更にその問題を先送りしたまま効率のみに目を向けて馬鹿げた策を弄した人々の責任は非常に重い。今更そんな環境に無かったなぞと言い訳をしたとしても何の意味もなく、そんなことよりその環境下で別の愚策を弄そうとする人々がいることに目を向けるべきである。今、大切なときを迎えているにも関わらず、構造的な欠陥から引き起こされる目の前の問題の解決に奔走するだけでは、その後に控えている更に大きな問題の表面化を防ぐことはできない。いつまでも呆けた人々が奏でる狂騒曲に聞き惚れているこの国の民達には、こんな問題を直視する精神も残っていないのだろうか。いい加減に心に制動をかけないと、飛んでもないことになってしまう。こんな世界を生き抜く方法には二つあり、馬鹿騒ぎに乗って他人の金をかすめ取る側に回るか、馬鹿騒ぎの外で我関せずを貫くか、なのだと思う。
寝ることと同じくらいに大切なことに食べることがあると思う。どちらも良好に動いているかぎり、その個人は健康なのではないだろうか。確かに色々な病気は様々な状態の人に降りかかってくるが、どちらかというとよく食べ、よく眠っている人はその機会が少ないのではないだろうか。にもかかわらず、食べない人が多いのは何故だろう。
女性がバランスのいい体を手に入れたいと望むのは仕方ない、と言われていたが、最近は色々なところで男女の区別が無くなるにつれて、体型についてもそれが当てはまるようになった。ある程度栄養価の整った食事を摂っていれば、何も心配することはないはずだが、その結果としての鏡に映る自分の姿には満足しない人が多い。その結果、何かが不足する食事の摂取を体に課し、何処かの均衡が崩れたものを手に入れる。結果としてはそれでも満足いかないことが多いようだが、その一方で体の調子は崩れてしまっているわけだ。摂取熱量の問題からすれば、一部の人々は明らかに過剰なものを摂っており、その結果以前は見かけなかったような体型の人を町中で見るようになった。しかし、それは例外的なものであり、多くの人々は必要量から大きく外れているわけではない。であるのに、それが過剰だと思うように、何処かから強制されるわけだ。必要が満たされないのでは何かしらの問題が生じるわけで、それを補うために錠剤を飲んでいる人も沢山いるだろう。しかし、根本となるエネルギーを補助食品から摂ることはまれで、結局燃料不足の車のような人間を作り出すことになる。大きなエンジンを抱えた機械にはより多くの燃料が必要であることは確かだが、それだけではなく、人はそれぞれに最低限必要となる燃料の値を持っているのではないだろうか。それを下回るような食事を体に押し付け、理想といわれる体型を手に入れようとするのは、何とも無茶苦茶な話である。手に入れたいから、という考えでやっているわけだから個人の自由であるが、何か論理性の無い話のように思えてならない。一方、そういった目的ではなく、何故だか体が食事を受け付けなくなってしまう人も世の中に入る。その場合、本人の思いとは裏腹に、身体は摂食を拒否し、体力が徐々に低下する。心の病の可能性が大きいのだろうが、そこまで至る過程で何らかの対処をする必要があるのだろう。そのために重要なことは、おそらく、その異変のごく初期の段階で本人がそれを認識することなのではないだろうか。少しずつ進行する症状であることが多いだけに、初期の対処があればそれほど大きな問題にはならないように思える。下手をするとこれらの要素が重複してしまい、何が何だかわからないという状況が生まれるかもしれないが、いずれにしてもちょっとした異変を感じ取る感覚を身に付けているかどうかが鍵になりそうだ。とはいえ、そんなこととはまったく関係なく、よく食べ、よく眠る人がいるわけで、心の部分に健康の基があると言うべきなのだろうか。
寝不足は色々な問題を産む。たとえば集中力の不足が起き、様々な作業に支障を来す。特に、機械の運転に従事する人々の場合、何かの事故を起こすとその影響も大きく、時々報道されることもある。車や電車の運転者が集中力不足や時には居眠りをして、事故を起こした話を聞くと何故と思うが、寝不足の原因は色々あるようだ。
過労という原因は寝不足とは関係のないものかもしれないが、自己管理という意味ではたとえ外的な要因によるものでも、極端にならないように注意すべきだろう。長距離運転手の多くはかなり無理な計画で動いているようで、本来ならば法律で禁止されていることでさえ実行しているらしい。様々な圧力があり、仕方なかったという言い訳が使われるが、それでも起こした事故の大きさやその後の本人の運命を考えると、何とかそういうものに抗する力を持たねばならないように思える。一方、単純に眠れないという理由での寝不足もある。これも時々取り上げられるが、無呼吸症候群と呼ばれる病気も眠りを妨げることになり、結果として寝不足となり、問題を引き起こす。明らかな体の変調や明らかな過負荷の場合はそれに早く気づく必要があるだろうし、何らかの対策を講じる必要がある。病的な寝不足とは別に、慢性的な寝不足という問題を抱えている人もいるようだ。病気とは違うからという理由で仕方なく諦めている人もいる一方で、睡眠導入剤などの助けを借りて、少しでも長い眠りを求めようとする人もいる。元々、一日の三割ほどの時間を眠りに充てているわけだから、それだけ重要な要素であるはずなのだが、かなり深刻な状況に陥るまで放置することが多いのは不思議なことだ。ここでも仕方ないという理由が出てくるのだろうが、本来健康に暮らすためには休息が大切であり、中でも夜の睡眠は最も重要なものであるはずだから、あまり軽く考えないほうが良いのかもしれない。といっても、人それぞれに眠りに対する感覚がかなり違うようだし、結果としてもかなり違ったものになる。自分には辛いものでも、それが当たり前となる人もいるし、逆の場合もある。あまり他人のことなど気にせず、自分の調子として考えるべきなのだろう。これとは少し違った話だが、電車やバスの中で居眠りをする人が多いとこの国で言われる。どうも外国ではそういった姿はあまり見られないというのだ。当然、職場の会議でも同じことが言えるようで、少しでも暇があれば眠りを貪る人がいる。どれほど疲れているのかと思う向きもあるようだが、実際にはそういうわけでもなくただ居眠りに陥る人もいる。結局疲れという要素だけでなく、集中力の欠如など興味との関わりもあるようだ。乗り物で眠くなるのもやることがないからという場合も多く、そんな暇ができると眠るのが手っ取り早いのだろう。それにしても、多くの人々が寝ていて、自分の荷物への注意も払えない。と考えてくると、この国でそんな人々が多く居るのは実はそのあたりに原因があるかもしれない。つまり、油断しても問題がない環境にあるということだ。まさか職場の会議も同じことというわけではないだろうが、疲れていては頭も回らないということだろうから、夜の過ごし方を含め、ちょっと考えたほうが良いのかもしれない。
飽食の時代、一時の馬鹿げた騒ぎはなりを潜めたように見えたが、実際にはかなり酷い状態が続いているようにも見える。繁華街の朝の様子がたまに伝えられると、そこには大きなゴミの山があり、大いなる無駄が溢れているようだ。高級食材の話題は依然として興味深いものとして扱われ、高額な食事を見せる番組も多い。
これもまたこの国の金銭的な豊かさを象徴するものだと思われるが、一方で、無駄遣いの現れのようにも見える。高級な食材を使おうが、手の込んだ料理を作ろうが、それはそれで人それぞれの愉しみが表に出てくれば良いと思う。しかし、こういう企画の多くは単に話題をとるためのものであり、そこでは人が味を楽しむということより、見せることの方が中心となっている。所詮見せ物に過ぎないものだからこんなことも珍しくはないが、その行動様式が画面の反対側の世界に住む人々にまで及ぶとなると何ともはやである。高いものを食べることの方が、美味しいものを食べることよりも重要であるとなると、さてそこにある楽しみとは何を指すのかまったくわからなくなってしまう。金銭的な価値が全てに勝ると主張する人々にとってはごく当たり前の感覚でも、そんな考え方の意味を理解できない人々にとっては単なる馬鹿騒ぎのようにしか見えないのだ。さらに食糧危機が同じ画面の違う企画から伝えられたとき、金銭価値派の人々がどんなことを感じるのか想像できない。ひょっとすると、そういう可哀想な人々を見て涙するのかもしれないが、そこにある明らかな矛盾には気づかないのかもしれない。高級なものを追いかけるのとはまったく違う話だが、世界的に見れば食料不足はかなり深刻なのだそうだ。先進国がこぞって金にものを言わせて食料を買い占め、それらに無駄に溢れた扱いをする。その一方で飢えた人々が居ても、経済の原則から言えば、彼らには権利がないといった話になってしまうわけだ。そんな状況で、多くの食料をもっと安価に手に入れる方法を提供しようとする動きがあるが、これとて実際には研究レベルでの話であり、市場に顔を出した途端にまったく別の流れが起きてしまうかもしれない。現実には開発された植物の多くは既に栽培されていて、ある国ではかなりの量の流通があるが、それが食料を求めている国に流れることはないようだ。結局、市場原理がそこにも適用され、金が全ての世界が築かれる。当然、無い袖は振れないといった言葉が頻繁に使われ、ごく当たり前に通常の流通に乗せられるだけのことだ。更なる高生産性の植物の開発を目指す動きも出てくるのだろうが、その開発にかかる費用の回収や市場性、さらには環境に対する安全性などの問題を考える段になると、話はまったく別の方向に進む。食糧事情は全体としては良好な状況にあるとは言えないのだが、しかし、金持ちの国は何も困っておらず、そうでない国は常に困っている。そんな状況を打破する力は研究開発という分野にはないようで、ただ話題提供の一つとして、食糧事情やら、食料不足が使われているに過ぎないのかもしれない。こちらの世界に住む人から見れば、それだけのことをした結果だから何の問題もないことなのだろうが、遅れてしまった人々にとっては何とも勝手な差別に見えるのではないだろうか。
夜の街に繰りだす。会社に勤める人々にとって、少ない楽しみの一つなのかもしれない。しかし、不景気が続いた時期、そんなこともままならないと思えることもあったようだ。当然ながら、繁華街の勢いは衰え、街の輝きもくすんでしまったように見えた。当時と比べたら少しはましな状態に戻りつつあるが、踊り狂っているような時代は何処か遠くにあるようだ。
いくら楽しみのためと言っても、財布の紐が堅いときに無理をしようとする人は少ない。だから、景気が悪くなったとき、自腹で飲みに出ようとする人は少なくなった。それまで経費で落とすことができた人でも、それができないとなれば、急に足が遠のくものだったのだろう。飲みに行くことだけでなく、その後のことも含めて、自由にできる部分が少なくなったのも、足を遠ざける理由となったに違いない。依然として、経費による宴会が戻ってきているわけではないが、それでも自腹で出かけるくらいの余裕が何処かに生まれたのではないだろうか。少しずつ繰りだす人の数は増えているように思える。だから繁華街のネオンもいくらか明るくなったように思えるし、そういう場所で客引きに精を出す人の数もまた増え始めているのではないだろうか。それにしても、ああいうことを商売にする人々は何とも不安定な立場にある。そういう産業全体に回る金のほんの一部を受け取るしかないわけだから、不景気などと言われる時代には何の実入りもなくなったのだろう。今はそれと比べれば少しはましなようで、酔いに任せて判断力の減退した人々に声をかけ、甘い言葉で誘うことで、何とか客を見つけることができるようだ。そうでなければ、あんなに数多くの人々が街角に立つこともないだろうし、一晩中寒い中で動き回ることもない。一方で、騙される人がまだまだいるというのは何だか悲しい気がするが、人それぞれ、酔っぱらったらどうなるかを知らずに飲むこと自体、危なっかしいというしかないから、まあしょうがないということだろう。自分の金で遊び、その金を誰かに巻き上げられたとして、それが全て相手のせいにできるかどうかはっきりしない。確かに、そういった商売は違法なものであり、それに対する取り締まりは必要だろうが、場合によるとはいえ、そんなところに誘われる人々の責任はまったくないとは言えないように思う。何でもかんでも法で取り締まり、無知な人々を守らねばならない、と書けば誰だっておかしいと思うだろう。無知かどうか、判断力をちゃんと身に付けているかどうか、そういったこと自体もちゃんと考えておかないと、誰かが守ってくれるという安易な考えが全体を覆うことになり、取り返しのつかない状況に追い込まれることがありそうに見えてくる。自分たちでできることをまず考え、その上で取り締まるべきは取り締まるといった姿勢をとっていかないと、社会全体がおかしくなりそうだ。
以前、自信とは自分を信じること、と書いた。自分で自分のことがわからないという感覚は理解できないが、自信を持てない人が自らを信じられないかどうか、怪しいかも知れない。では、信じるというのはどうだろう。対象は多くの場合相手であり、他人のこともあるだろうし、身内のこともあるだろう。こちらも危うい感じを持つ人が増えているように思う。
順序として、子供が育っていくときに接する相手は、身内から外の人という形がほとんどだと思う。だから、人間を信じるかどうか、はじめのきっかけを作るのは家族、特に親兄弟、ということになる。もしも、そこでの関係が壊れてしまっていたなら、人を信じることは難しくなってしまうだろう。身近な関係の大切さを認識している人もいるが、最近は自分の世界だけに閉じ籠ってしまい、他の人のことなど気にかけない人が多くなっているから、こういった状況が生まれやすいのかも知れない。そういった難しい状況がある一方で、盲目的に信じることの不確かさに対する認識の甘い人も多くなっているようだ。自分自身の判断が下せず、他人の判断を頼みにして、その結果として不利な状況がもたらされたとしても、他人に責任を擦りつけるようではどうにもならない。はじめのところで、自分ができなかったことをもっと強く意識すべきで、その部分の修練を心掛けるようにすべきなのだ。にもかかわらず、いつまでも他人任せにするばかりか、責任までも外に回すことを繰り返す人々がいるのは理解に苦しむところである。それが一番楽な方法なのだろうが、それにしても、それでは成立しないことがあまりに多くあることに気づかずに済ませられるのは何故かとくびを傾げたくなる。昔から社会全体としてはこんな状況は概ね変化していないのかも知れないが、社会の仕組み自体が変化しつつある環境下では、このまま突き進んでもろくでもないことになるだけだ。公という、何かしら社会的な責任を負ってくれるものが明確な形で存在しているうちは問題にならなかったことが、別の一見便利な、そして効率的な仕組みが導入されたことで、小さな問題が数多く噴出し始め、ついにはそれが増殖して巨大な問題として立ちはだかることになった。道路行政や談合の問題はそのほんの一部に過ぎず、納税者としての不利益を被る形で表面化したわけだが、問題が多様になるとともに、直接的な被害が一部の人に降りかかるようになった。これとて一部に過ぎないから適当に処理しておけば、それで済むという意見が聞こえてきそうだが、本来公が責任を持つことに対して民間がその責務を果たす形式が導入されると、トラブルが生じたときの対応に明らかな歪みが生じるように見える。今回の建築物設計の問題は、責任の擦り合いという無様な様相を呈しているが、それ以上に大きな問題として立ちはだかるのは、それを利用する人々に対する対応である。公が関わった上でこんなことが起きれば、当然の策として出てくるはずのものが、民間となった途端に出てこないとしたら、騙されたような気になる人もいるだろう。実際、仕組みとして導入するときに、影の部分については何の議論もされていないわけだから、こんなことが起きたとしてもそれに対する策は誰も考えていない。一方、これが当り前となっている国では、当事者の責任という部分が明確化されているから、こんなことが起きても公的援助はほとんど無い。その前提なしに、いいところだけを表に出して、導入してきた人の責任も実は問えないわけだ。何とも情けない世の中になりつつあるように思えないだろうか。
それまであったものが無くなると困ることが多い。何でもそうなのだが、今回はちょっと驚いた。事情があってコインランドリーで洗濯するのが習慣になっていたのだが、ある日突然その姿が消えた。週に一度の習慣だったから、つい先日のことに違いない。それにしても、どうしたものか、少し落ち着いて考えねばならないのかも知れない。
商売の形態は時代の変遷とともに大きく変化する。洗濯機の無い時代、母親達は毎日たらいに洗濯板という形でごしごしやっていたのだと思う。流石に記憶に残っていないが、発売された時代からすると、見ていたとしても不思議はない。初めて洗濯機が家庭に登場したときには、機械の横にローラーが二つ並んだものが備え付けられていた。洗濯の終わった衣類の水を絞り取る機械である。ゴムのローラーが並んでいて、その間に衣類を通して圧縮することで絞るわけだ。あれはあれで画期的な発明だったに違いないが、ある時期フッと姿を消した。その代わりに登場したのが二槽式の脱水洗濯機と呼ばれるもので、洗濯槽と脱水槽が別々にあり、洗濯の終わった衣類を脱水槽に入れて回し、水を絞り取る仕掛けが導入された。これはこれで登場したときは凄いと思ったが、いつの間にかほとんど見られなくなった。今、店頭で売られているかどうかはわからないが、十年ほど前から一槽式の全自動洗濯機なるものが登場し、現在はその変形のようなものが登場するようになった。しかし、基本的には洗濯と脱水を同じ槽の中で行うという点で同じであり、様々な付加機能がついているとはいえ、ほとんど変わらないものであると言えそうだ。こうなると便利になっていいと思う人もいるだろうが、どうもそれとは違う形で不便なことが多くなっているとみる人もいるだろう。二槽式の頃の洗濯機はほとんど故障をすることが無かった。それぞれの槽で、別々の作業をさせるので余分な機構をつける必要がなく、意外なほど単純な仕組みになっていたからだろう。それに対して、一つの器の中で様々なことをさせる機構は、一見便利で優れ物のように見えるのだが、それだけ複雑な機構となり、制御部品とともに故障の原因を数多く抱える結果を産みだした。生産する側にとってはこれは都合のいいことなのだろうか、どうも故障しやすい機械は減らないし、次々に新製品を出すことで流通をうまく調整しているようにも見える。新しいものが好きな人種にとっては、これもまた好都合なものだろうか、何処が新しく、何処が便利になったのか、さっぱりわからないものが売れているようだ。それでも経済の基本から考えれば、長い期間故障しない機械よりも保証期間を過ぎた途端に故障してくれるものの方がいいと言うのだろうか、この状況に大きな変化は起きていないように思える。自動車が故障しなくなってきたのに対して、洗濯機に代表される家電製品のこういった状況は何かおかしなものを見せられているようで変な感じがする。同じ家電製品でも、それぞれに違った傾向があるのかも知れないが、毎日使う機械の中で最も過酷な使用環境にあるものとして、洗濯機の耐用年数は製品の質を計る指標となるはずである。そういう中でこんなことが度々起こるのは、何とも情けないような気もするが、さて、これは製造会社に責任があるのだろうか、それとも使用者側に問題があるのだろうか。