人は誰しも年をとる。齢を重ねて行けば成熟するはずで、年相応の考え方、ものの見方が身に付くと信じられている。しかし、そう思って眺めてもどうにも当てはまらない人が沢山いて、何とも非常識な人が目立つような気がする。便利な道具にすぐに飛びつき、周囲への影響が見えないのもそんな人々の典型なのだろう。
年齢を重ねるというのは結局経験の数が増えることと同じ意味であり、それがそれぞれの人の持つ知恵や考え方に大きく影響するわけだから、年寄りほど理にかなった判断が下せるはず、という考えに間違いはないように思えた。しかし、どうも世の中の流れはそうなっておらず、へんてこな考え方、自分中心の考え方、どこかしら年を感じさせない、まるでそこら辺の若者のような未熟とも思える行動をとる年寄りが増えている。素直な若者と比べて厄介なのは、これらの人々はたとえ誰かが注意してもその言うことを聞く耳を持たないからだ。ある部分だけ、世の中の上位にあるものという意識が強く働き、その一方でその位につくものの責任やら能力やらに思いが及ぶことがない。そんなことでは駄目と言われ続けたはずなのに、何故だか世の中の勢いに引き摺られて、何も変えることなく、何も認識することなく育ってしまったような人々である。まあ、将来のことを考えれば、お荷物の一つと決めつけ、そのまま無視し続ければいいのかも知れないが、重い荷物が増えたと言われるご時世ではそうも行かない。どうすればいいのかさっぱりわからないが、まあとにかく地道に対応するしかないのだろう。年寄りだからと許されてしまう年齢に達した無法者たちをどう扱うのか、当分の間かなり大きな問題として存在し続けそうな気配だ。このことも逆の見方をすれば、そういう人々を放置してしまう社会の問題と言えなくもなく、その辺りをもっと真剣に考えることが将来の状況を良くできるかどうかに大きく影響しそうだ。社会の捉え方にしても、何故だか自分たちで何かをせねばならないという意識の少ない人が増えてきて、社会における制度や仕組みの方からもっと働きかけるべきという考え方が大勢を占めるようになっている。制度が出来れば自分たちは従うし、そういう問題児も従わざるを得ないはずというのが根本にあるようで、とにかく自分ではなく誰かがそういうことをしてくれるはずという考え方のようだ。社会の構成員は誰なのか、こういう考え方をする人々に聞いてみたいけれども、とにかく誰か他の人がちゃんと決めてくれるはずというやり方では、今のような状況の悪化を食い止めることは難しい。少なくとも自分の周りから変えて行こうという思いがなければ、社会全体を変えることなどとても無理なことになる。にもかかわらず、何か事件が起これば制度の問題、仕組みの問題、管理者の問題と書き並べられ、そこに関わった全ての人々の問題とならないところがある。つまり、その社会で生活して、そこから出てくる利益を享受するけれども、自分の方から何らかの働きかけをするつもりはないという人が増えているのだろう。安定して成熟した社会が存在する中で、未成熟な人が生産され続けるのは危ない兆候といえるのではなかろうか。
世代のギャップは本当にあるのだろうか。年をとると感じると言われるが、その頃には昔のことなんて美化されてしまっており、実際にどうだったか定かでないことが多い。同じ年代の頃に全く違う考え方をしているのなら、明らかな空隙と呼べるだろうが、もし、単純な記憶違いによるものだとすると、そんな感覚はおかしいことになる。といっても、結局、理解できない若者をさす為だけだから、そんなものかも知れない。
自分たちの昔がすっかり忘却の彼方にあるにしても、何ともはやおかしな様子が若者たちに見えるのは何故だろうか。こちらの感覚が年寄り臭くなってしまったからか、はたまた本当に彼らがおかしくなってしまったからか。おかしいと言うと語弊があるかも知れないし、こんな表現で十把一絡げのように言われたくないと思う人も多いだろう。しかし、そんな反発を露にする人がいる一方で、何も感じない、というか、そういう言われ方に対してまで何の反応を示さない人がいるのは、やはりどこかに異常さがある証拠のように思える。無理矢理証明しても、其処にいる人々の存在を否定できるわけでもないし、彼らを根本から変えることも出来ない。それより、自分たちの中から意識するようになって、別の方向に進むことを積極的に考えるようになってくれる方がおそらくいい結果を産みそうだ。しかし、どうすればそれが可能となるのか、という問題を意識すると、全く手立てがないように思えてくる。自分たちの中から出てくるということは、其処に関わるのは本人だけであり、もし何らかの関与があったとしても、ほんのちょっとしたきっかけを与えるのが精々だからだ。こういう事情そのものに何かしら変な雰囲気を感じる人もいると思うが、まさに其処に今若い世代が抱えている問題があるように思える。つまり、自分たちの中から何かを産み出す気配が感じられないのである。自分のやっていること、やりたいこと、そんなものを、自分なりに見つめて評価し、次に繋げていくという作業は無意識に繰り返されるものだと思っていたが、最近の傾向は明らかに違う。其処には、評価する側と評価される側が存在し、その区別がはっきりしている。その為、される側は常にする側の動向を見つめ、その動きに反応すればいいだけとなる。そうなれば、自分たちの行為の善悪を自ら判断することはなく、誰かが注意してくれるまで何の評価もなくやり続けることになる。注意すれば素直に従うという傾向はまさにそれが表面化したものであり、いかにもいい子と思えることが実際には本質的な善悪の区別の出来ない子供たちが育っていることを示している。それが少し大きくなり、成人となる頃にまでその傾向が継続すれば、そろそろ問題が大きくなり始める。そんな人々が社会に出てきて、右も左もわからないまま、其処に居続けることになれば、組織は大きな歪みを抱えることになるだろう。右も左もわからないのは、初めてのことなら仕方のないことだが、いつまで経ってもそういう状況が続くのは、わかるという感覚が彼らの中に存在しないからなのだ。そんな自己判断の出来ない人々を作り出しているとしたら、それはかなり危険なことであり、社会の暴走を招くことになる。もし、そうなってしまったら大変なのだが、果たしていい子を演じられる若者たちを見て、問題意識を持つことの出来る大人はどれほどいるのだろうか。
何かやりたいことがあるのは素晴らしい、という話をよく聞く。何も目標がなく、何の目的もなく人生を歩んでいる人より、何かしらの生き甲斐があるほうがいいというのだろう。確かに、人生の最後において、はて自分は何をしてきたのだろうかと考えるのはどうかなと思えるが、その途中のどこかでまだ決まっていなくてもいいのではないだろうか。
この先頑張ったとしてもせいぜいこのくらい、という話をする人がいる。それはそれで正しいことなのだろうが、それを言ったからといってどうということもない。先のことを読めたからといって大層な違いが出るかといえば、そんなでもないのではなかろうか。そんなことより、日々の蓄積を地道にして、そこから生まれるかも知れない新たな可能性に期待したほうが余程ましなのではないだろうか。人生設計を早いうちからしておくことが重要などという話もあるが、はたしてそうなのだろうか。人それぞれに考えがまとまるまでの時間は違うだろうし、自分自身のものの見方だって年齢とともに変化するだろう。そんな中で早くしろというのは無茶な話だし、かえっておかしな結果を産むことがある。そう考えれば、無理をせず、それぞれの人にあった年相応でうまく切り抜けていったほうがいい結果をもたらすのではないだろうか。誰かは若いときにこんな決断をすることで成功したとか、あの人はこんな年齢で自分の将来を見据えていたとか、とにかくそういった話が多いのだが、実際に自分にそれが当てはまるかどうかとなると、あまりにも不確かなことが多すぎる。そんな状況であるにも関わらず、外からの圧力は増すばかりで、何かといえば、将来を考えろと言ってくる。これでは潰されても仕方ないのではないかと思えるほどだが、圧力をかけるほうから見ればそれほどでもなく、結局決められない人間が悪いことになる。決められない人の割合は昔からほとんど変わっていないのではないかと思えるのは、明治期に書かれた小説に登場する若者の姿について読んだときだが、早くできる人とそうでない人がいるのは今も昔も変わらないことのようだ。だったら、もっとゆっくり待ってやればいいのに、と思うのだが、そうならない親や周囲の大人がいて、結局外圧で本人を潰すことになったりする。何とも悲惨な雰囲気だが、当事者の大人たちから見れば、本人のためにも早く、厳密に決めておくことの方が重要らしい。実際に自分が辿ってきた道筋を思い起こせば、そうでもないことは明白なはずなのだが、そういう過去は全て忘れ去るのが常のようで、まったく参考にしないようだ。待ち続けるのにも限界はあるのだが、一方で急ぎすぎて、急かすのもどうかと思う。適当な距離を置きながら、本人の思いを少しずつ引きだし、そこから徐々に生まれる考えにちょっとした助言を加えるくらいの心構えの方が、実際には気楽なものだろうし、失敗も少ないように思える。しかし、これは文章にすると簡単に見えるが、実際に実行しようとすると不確定要素ばかりで簡単ではない。まあ、そんなこんなで、面倒で、複雑で、難しい関わりを経て、何とか独り立ちしていくようにできれば、十分なのではないだろうか。上を見ればきりがないし、下に落ちるのは何とか避けたいから。
資格の時代と言われ始めたのはいつのことだったか。手に職を、というのもそれに似た話のように扱われるが、実際には明らかな違いがある。技術を身に付けることと、その技術に関わる資格を身に付けることは必ずしも同義ではないからだ。特に、資格偏重が目立つようになってから、実際の能力と見かけの能力の見分けが肝心となっているように見える。
元々資格を持たないとある業務ができない、という場合に限って、資格が重視された。というより、それが無ければ何もできず、もし無いまま業務を行えば違法行為となる。そんな背景から、特殊な業務、たとえば医師、薬剤師、弁護士などなどについては、その資格を取得することが仕事を始める前に必要となった。一方で、同じ業界にいても、上位資格を持つかどうかで業務内容が異なる仕組みもあり、人によるだろうが、徐々に階段を上っていく様な形式をとる。この場合は、その過程で業務内容に精通していくわけだから、資格に則した能力が身に付いている可能性は高くなるだろう。どちらにしても、能力という点では資格そのものが全てを保証するわけではなく、最低限の保証でしかないことは明らかで、その中で自分自身を磨くことでより高い技術を身に付けていくことが期待されている。本来の姿はこんなものだったはずだが、資格の時代となり、一人で色々な資格を取得することが目的となってしまうと、そこに技術や能力の裏付けは期待しにくくなる。結果として、資格を持っているが、能力はさっぱりという人間が出来上がり、うわべだけのものとなる。これは本人にとっても実際不幸を招くことになるし、そういう人間を雇う人間にとっては更なる問題を生じる場合も出てくる。資格、資格と繰り返されるたびに、そんなことを思ってしまうのは、まさにそんな人間を見てきたからなのかも知れない。一方、能力的には十分なものでも所詮は人間のやることだから、そこに人間性の問題が存在しないはずもなく、資格を持つ人間ということで与えられた特権をよからぬことに使う人々が出てきても不思議はない。その度に問題視されようとも、それは結局ほんの一部の問題だからと片づけられ、何の対策も練られないまま、多方面に事件が頻発しているように見える。これは資格自体の問題ではなく、人間形成そのものの問題だから、別の方向からの働きかけが必要なのだが、一方で、資格の取得にそういう要素が入れられていないがために起きている問題と言えなくもない。しっかりとした人格が形成されたうえに築かれる技術に対して資格が与えられるのなら良いのだが、資格そのものは単に試験だけで判断されることがほとんどだから、こういう問題を生じたとしても不思議はないのだ。これはおそらく資格重視という風潮から出てきたものであり、本来身に付けておかねばならないことを気にしないほうが目標への早道のような考え方によるものに思える。患者相手に暴言を吐く医師やら、被告相手に非常識な言動を繰り返す裁判官など、その度に問題にされるが、大元の原因は何か考えるべきだろう。時代劇で出てくる印籠のように資格が扱われるような時代が来てしまう前に、その印籠が持ち主の証明にだけ用いられていることに気づかねばならない。
警察の取り調べでもないから、本当のことを言う必要はない、とでも思っているのか、他の例と変わらず、自分勝手な発言を繰り返したと伝えられていた。事件の核心に迫るために必要な資質を質問側が持っているか疑わしく、結局儀式が行われているのを当事者たちはどんな気持ちで眺めていたのだろう。所詮そんなものと思うしかないのかも知れぬ。
それにしても、この顛末はどうなるのだろうか。詐欺行為に関する刑事責任を問うにしても、設計における偽装工作がどれほどの罪になるのかさっぱりわからない。一方で、被害を受けたといわれる人々については金銭的な解決を図らねばならず、その原資を何処に求めるかが既に問題視されている。実際には、違法行為が自らの財産を失うことに繋がることが一種の制裁と考えられていたのだが、このような場合には犯罪者より被害を受けた側の方が厳しい制裁を下される結果となるからどこかが狂っているとしか言えない。そのための方策を講じる一環としての証人喚問なるものなのだろうが、勝手気侭な言動を繰り返す一種狂人のような人々を相手に劇を演じたとしても、何の意味もないだろう。今回の遣り取りで明らかになったことの一つに当事者たちの自己中心的な考え方があり、そういった社会状況下で機能しない監視機構の構造欠陥が暴露された。おそらくこれから次々に明らかになってくるだろうが、こういった仕組みの導入において議論された効率化は絵に描いた餅に過ぎず、あの頃盛んに話しに出された税金の無駄遣いを減らすためという企てはこれまた何のことやらわからぬ夢物語となりつつあるのではないだろうか。どんな選択肢が選ばれるのかまだわからない状況だが、被害を受けたといわれる人々を救済するために何らかの措置が必要であると言われている。そのためには、関係各企業では力不足であり、国を挙げて何かをせねばならないとされている。この場合、はじめに思いつくのは国からの何らかの援助であり、それによって企業も潰さず、被害者救済も行えるとする考えである。しかし、起きてしまったことだから仕方がないにしても、これは本来の制度改革における目的と正反対の対応となり、まったくの無駄が出てくることになりかねない。その上、不正を行った企業は事情により潰せないという何とも不思議な論理により、保護されることになりかねないのだ。変なことが起きたからといって、基盤となる考えに欠陥があったとは言えないという反論が出るだろうが、実際には不正行為の種を蒔くことになったのは否定できない。このまま進めばまたぞろ税金投入などという馬鹿げた話が出てくるわけで、これまでの大改革と自画自賛する話の多くがそんな結果を頻出させていることを、もっと厳しく追求したほうがいいのではないだろうか。言葉遊びに過ぎないものに基づく企てが次々に提案され、それが実施されたあとに、どうにもならない欠陥が明らかになるとしたら、今後もそれが続く怖れは十分にある。始めてしまったことは止められないという彼らの主張を何とかする必要がでているようだ。
何もかも忘れてしまってはいけないが、時には忘れることも大切である。嫌な思い出、悪いことなどを覚えておいて役に立つこともあるが、そればかりが頭の中を巡っているようでは困る。良いことばかりを覚えておけばという人もいるだろうが、それとて大して役には立たないだろう。記憶することと同じくらい、忘れることは人々にとって重要なのかも知れない。
昔のことは忘れた、水に流そう、そんなことを言うと総スカンをくらうというのが今の時代ではないだろうか。覚えている人々にとって、躊躇いもなく忘れたと言われるほど腹立たしいものはないだろうし、それ自体がまるで犯罪を犯しているように見えるようだ。しかし、忘れる事柄を厳密に選ぶことはできないから、意図的でない人も中に入るだろうから、そんなことを攻撃しても始まらないのかも知れない。ただ、気が収まらないというだけで糾弾していると、逆にそちらの方が犯罪的になってしまうから気をつけたほうがいいだろう。忘れられてしまうことを恐れる人々は様々な機会を捉えて人々の記憶を呼び覚まそうとする。その例の一つが記念事業のようなもので、その事が起きてから丁度いい切り目の時を狙って何かをするという企画である。十年ごと、二十五年ごと、などという区切りの年の度に、何かしらの社会活動をすれば、忘れてしまったことを思い出させたり、忘れ去られようとしていることをそうならないようにしたりすることができる。そうは言っても、そんなに簡単なことではなく、結局徐々に覚えている事柄は少なくなり、人それぞれの最低線に落ち着くものなのだが。そんな中で戦後60年を迎え、様々な企画が色々な方面から出されるようになった。番組の企画はその代表的なものであり、これまでと少し違ったように見えるのは、加害者としての番組より被害者としての企画が増えたということだろうか。それも社会全体のことより、個人個人の思い出を語らせるものが増え、そこに人の姿が浮かび上がるようになったことが大きな違いのように見える。その一方で書籍に関しても、区切りの時を迎えたことがはっきりとわかる企画が出されるようになった。その多くは、新たな発見といった言葉が踊るもので、既に何度も取り上げられたものにしろ、それまではほとんど注目されなかった事柄にしろ、戦争にまつわる事件や人に関しての新発見が綴られているように謳っている。中にはそんなものが少しだけ含まれているものもあるが、ほとんどは看板倒れで、ただ新しい資料が見つかったというだけに過ぎない。新しいものが見つかってもそこに新事実が記されていなければ、何も新しいことは言えない。こんな明白なことがあるにも関わらず、何とか売ろうという気持ちがあるせいか、誤解を招く表現を用いて宣伝をする。読後感は何とも言えぬ味の悪いものであり、そこには単なる商売の匂いがするだけである。関係者が生きているうちは書けない、秘密事項が公開されるまでに時間がかかる、などなど、理由はいくらでも挙げられるが、だからと言っていい加減な売り言葉を発することが正当化されるわけではない。史実を語るのは、ずっと後の時代になり、誰も文句を言えぬようになって初めてできる。などと言っていては、不確かな情報に基づく話が次々に登場するだけである。生き証人がいる間に何故できなかったのか、その理由がはっきりしている以上、これ以上何かをほじくり出したとしても大したことはないのかも知れない。
なんだかんだと言っているうちにあっという間に一週間が経過する。毎日書いているのだから、それがどうこうという訳ではないが、どうにも早すぎていけない。感覚の問題だから、これといった理由は見つからないのだが、速度の変化は気になるところだ。ただ漫然と過ごすことのできた時期はよかったが、目の前を肝心なものが通り過ぎていく感覚はよくない。
時間の感覚は年齢によって異なるようだという話を昔書いたことがある。一年の重みが年齢を重ねるとともに少なくなっていくという法則の話だ。単純に時間のことだけを考えてもそんな調子なのだが、その上に目の前を過ぎていく、あるいは頭の上を通って行くものの数は逆に年齢とともに増える傾向にあるから、一つ一つのものを注視する時間感覚は更に短くなる。身の回りのことでさえそんな調子なのに、社会で起きている事件についても興味を持つことや必要に迫られて注目せねばならないことが増えて、ずんずん増加する感じがしてくる。逆に言えば、それぞれに対して費やす精神的な時間は少なくなるわけで、なるべく簡単に済ませていかないと目の前の課題の山は高くなるばかりとなる。その代わりと言っては語弊があるかも知れないが、周囲の人間に頼む事柄も年齢とともに増加するから、それを利用することで何とか折り合いをつけているということだろう。そういう仕組みが社会で出来上がっているはずと思うのだが、最近の事件を見るかぎり、その仕組みが崩壊しているようにしか思えない。任せない人が増えたと言われるが、その一方で任せてもどうにもならない人が増えていると言われる。任す、任されるという関係で言えば、両方向の関わりが無いと成立しない仕組みだが、どちらが先に崩れ始めたのかわからぬままに、かなり酷い状況に至っているように見える。これが社会全体に蔓延してしまうと、年齢とともに増え続けるであろう仕事を片付ける手段を別に考えなければならなくなるだろう。できれば手遅れにならないうちに、信頼関係とか、支え合う関係をうまく成立させられるような取り組み方を考えた方がよさそうに思える。しかし、心の問題である部分が大きく、それぞれに違った感覚を持つ人たちが同じ尺度でものを考えるようになるためには、かなり極端な手法をとらないといけないのかも知れない。本来は、心の形成期に様々な働きかけを双方向にすることが最良の手法のはずだが、そこら辺りが特に酷く崩れてしまっており、本人たちの気持ちが変わらぬかぎり、変えていくことは中々難しいように思える。結局、社会に出る直前から直後にかけてが最後の機会に思えるが、今のところこれという切り札はないようだ。と言うより、まだまだ問題の深刻さに気づかぬ人も多く、その辺りからして既に危うい状況と言わざるを得ない。しかし、自分がその立場になればわかるだろうが、支える側から支えられる側に移ったとき、この事態に愕然とするもので、何とかしたいと願うものだ。実際には個人と個人の関係のみならず、社会全体としてこれに似たことが目立ち始めているわけで、そのことが事態の深刻さを物語っているような気がする。