パンチの独り言

(2005年12月5日〜12月11日)
(時宜、風邪、障壁、評価、模倣、誤作動、深酒)



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12月11日(日)−深酒

 年の暮れ、何かと気忙しくなるが、それに加えて、夜の会も増えているのではないだろうか。忘年会と称して、何もかも忘れたい気分で騒ぐ人たちもいるが、一方でそんな暇もなく、仕事に追われている人がいる。それでもたまには、ということで出かければ、日頃の憂さを晴らすべく騒ぐことになり、翌日が悲惨になる場合もあるだろう。
 酒を飲んで騒ぐのは何故なのか、騒ぎたいからというほうの理由ではなく、アルコールが入ると総じて騒ぎたくなるのは何故なのか、医学的な分析はどの程度されているのだろう。馬鹿騒ぎをする人がいる一方で、まったく普段と変わらず飲み続ける人がいる。この違いは何処から来るのか、普通は酔う人と酔わない人といった区別に落ち着いてしまうが、実際には何が違うのかよくわからない。血中アルコール濃度の違いを論じたとしても、同じ濃度で同じ反応が起こるわけでもないし、その後の変化も人それぞれ、酔い方の違いは一体何処から来るのかさっぱりわからない。飲んだ翌日、しきりに反省する人がいるが、そんなことをするくらいなら飲まなきゃいいのにというのは無理難題だろうか。とにかく酒というものは、人を多少の違いがあるにせよ変えるもので、それが一般に問題にされるのは車の運転だろう。最近は代行運転なる商売が各地でなされているから、ずいぶん飲酒運転も少なくなっただろうが、未だに減らないものがあるらしい。飲酒運転には違いないのだが、飲むなら乗るな、乗るなら飲むなという標語を正しく守ったつもりの人たちに時々起こる話らしい。そのせいかこの頃ではその問題をも含めて、飲酒に対する考え方を植え付けようと努力する向きがあるらしく、アルコールの分解速度なるものが紹介される。どの位の量がどの位の時間で分解できるか、個人差があるとはいえ、何かしらの指標が必要とのことで、そういう情報が流されている。約8時間と言われる飲酒後の分解時間を意識すると、深酒というより、深夜まで飲むことの危険性を感じることになる。そういえば、以前から朝の通勤で飲酒運転で捕まったという報道があり、何故だろうと思った人もいるだろう。まさに、これがその例であり、本人はまさかと思う場合がほとんどに違いない。その辺りの事情から警告が出されるようになったのだろうが、まだ行き届いていないようだ。先日、仕事で朝の高速道路を走っているとき、目の前に現れた車は蛇行運転を繰り返していた。それ以前に自分を追い抜いていった車がそこにいないことから、何とかすり抜けていったのだろうが、流石に恐ろしくて距離をおいて追従する方を選んだ。前を走るトラックに激突しそうな様子や側壁に向っていく様子を見ると、明らかに異常な状態である。体調不良も考えられるが、そうでなさそうなことは、終点の料金所を通るときにわかった。カード決済のゲートを通り抜けるとき、運転席側の窓が全開になっていたからだ。酔っ払い運転の人がよくやることで、酒の匂いが車内にこもるのを避けていたのだろう。何とも恐ろしい気がしたが、たまたま行き先が違っていたので、それ以降のことはわからない。夜中の道路だけでなく、朝の通勤時間帯にもこんなことが起きることを知っておかないと、危険を避けることはできないのかも知れない。自分の身を護ることは当然だが、深酒が産む危険を知っておくことも重要だろう。

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12月10日(土)−誤作動

 技術の進歩に伴って、身の回りに機械が増えてきた。自動何とかと呼ばれる機械が溢れはじめ、人間のやることは少なくなってきたように思える。そんな中で機械の使い方を間違えて起きる事故も増えてきて、複雑な機能をもったものほど扱いにくい感じがしてくる。説明書は厚くなる一方で、読む気も失せる一方だ。
 機械はあらかじめ決められた機能を正確に果たすように設定されている。だから何か間違いがあるとすれば、操作する側に問題があるとされる。しかし、いかに正確に設定されたものといえ、設定する人間に間違いが無いわけではないから、時には別の原因で問題が生じることとなる。製造ミスとか、設計ミスとか、そんなことが時々話題になるが、これらは機械そのものの問題ではないとはいえ、使う側に責任があるものではない。一方、厳密な制御を可能にし、万全の体制で仕上げられた機械の場合、まず故障もしないし、誤作動も起こさないと言われる。これが以前と大きく違う点で、昔ならば何かおかしなことが起きたとき、人間の判断が優先され、機械は間違いを起こすといった感覚があった。しかし、その立場はいつの間にか逆転しており、たとえば飛行機の緊急事態における判断は操縦士より機械の警告を優先するとなった。これは心理的にはかなり大きな変化であり、人間の判断による間違いの確率の方が、機械の誤作動の確率より大きいという状況が出てきたためである。確かに、厳密に設計され、精密に組み立てられた機械は決められた動作の中では間違いを起こすはずもなく、そうならないような安全装置を備えている場合さえある。こうなってくると、何か間違いを起こしたらそれは人間のせい、ということになるわけだが、ことはそんなに単純ではないかもしれない。というのも、安全装置の設定に関わるのは設計に当たる人間であり、彼らが思いつく間違いに対する対処は装備されることになるが、こんなことはするはずが無いといったものには安全は保証されないからだ。一方、機械自体には問題がなくとも、それを動かすための命令系統にはまた新たな人間の手が入るわけだから、そこでの間違いが生まれる可能性もある。こちらの問題が市場で取り上げられたこともあったが、そこには様々な行き違いがあったようだ。結局人間の手による間違いに行き着くのかもしれないが、こんな状況で大切になるのはその間違いを正す仕組みの導入なのではないだろうか。ここまでやって来ると、間違いは人間によるものという定義がなされているわけで、もしもそうならば、間違いは起こるものという前提の下に、それに対する対処法を準備しておくことが大切なのではないか。正確な動作を繰り返す機械においては、一度実行された間違った操作は間違いとして処理されなかった場合、どんどん先に進められてしまう。特に端末操作によって実行されるものについては、そこでの間違いを警告する仕組みがたとえ働いても、多重の間違いを繰り返す可能性があるわけで、そのまま進んでしまったときに、先で間違いを正す機能が無ければまずいことになる。そんなことが重ねて起きてしまったようで、かなり酷い事態が報告されたが、これとて意図的な操作なのか、間違いによるものなのか、機械には判断できないから、精々警告を出すしかないわけだった。その先、何かの形で修正する仕組みがあればと思うのは、あとからだからなのだが、それにしても、全ての可能性を想定することの難しさを痛感させられる。結局のところ、面倒な手順を導入することで、暴走を防ぐ方法を導入するしかないのかもしれないが、こんなに同じような間違いが繰り返されるところを見ると、本気でそれを考えねばならないのかもしれない。

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12月9日(金)−模倣

 同じような事件が続くのはなぜだろう。飛行機事故が連続するのと同じように、単なる偶然が重なり、それが印象に強く残るだけなのだろうか。ただ、それにしても、様々な事件が次々に起きている中で、被害者の年齢が一致したり、手口の似た事件が起きるのは、単なる偶然とは思えないところがある。いくら記憶のされ方が印象の強さに左右されると言っても。
 最近の事件の傾向として気になることの一つに、類似した事件の連続があり、その理由の一つとして模倣が挙げられるということがある。いくら真似をするのが得意という国民性があるにしても、こんなことまで真似る必要があるのかと呆れるが、実際には手口を思いつく手間を省くために手っ取り早い方法として真似があるのだろう。凶悪事件が起き、それが注目を浴びると、何故だか知らないが真似てみようという気持ちになる人がいるようだ。注目されたい、有名になりたい、ということが犯罪の動機になること自体信じ難いことだが、犯罪が凶悪になればなるほど、また猟奇的になればなるほど、その傾向が強くなるように見える。それまではっきりしない理由にせよ思いとどまされていたものが、別の犯罪の発覚によって、堰を切ったように実行に移される、といったことなのか、潜在意識の中にあったとしか思えないほど短い期間に次の事件が起きる。そんなことがあるのかどうか、またそれほど多くの人々の心が病んでいるのか知る術もないが、状況を見るかぎりそんな傾向があるように思えてならない。最近の傾向というけれども、実際には今始まったことではなく、これに近い状況は昔からあったのかも知れない。このことについても何かしらの裏付けがあるわけではないから、単なる思いつきとしてそんな書き方をしただけのことである。一方、潜在意識という見方からすれば、残虐性を隠し持つ人々がいるとすれば、そんなことが連続的に起きるのは何も不思議なことはなく、それを隠し続けられるような環境を作りだすことだけが、未然に防ぐための手立てということになるかも知れない。そこまで世間の人々が残虐であるとは思いたくもないが、これもまた裏のとりようの無いものなのではないだろうか。そんなことがあるかどうかはここでは論じないとして、どちらの場合にしてもきっかけとなるのは、別の事件の発覚であり、それが伝えられることだろう。大々的に伝えようとすれば新聞、テレビに頼るしかないわけで、そんな考え方に基づけばきっかけの多くはそういった報道にあるのかも知れない。単に表面的なものを伝えるだけでなく、報道の責務として分析することがあるといった姿勢が目立つこの頃では、微に入り細に入り、事件の全貌を明らかにしようとする。ある見方をすれば確かにそういう責務もあるのだろうが、一方でそれが何かを誘っていると言えなくもないのではないだろうか。その辺りを心配する声はあるところで強くなっているのに対し、別の見方として知る権利を主張する人々の声も大きくなっている。どちらが正しいかを論じてみてもただ問題を難しくするだけであり、それよりも受け取り側の感覚をもっと重視したほうが良いように思える。欲望に満ちた人々にとって、それがどんな風に映るのか考えてみたらどうだろう。

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12月8日(木)−評価

 人を評価するのは難しい。特に、それまでの成果を評価するのに比べて、その人の将来性を評価するのは、不確定要素が多すぎて不可能に思える。せいぜい、それまでの実績から、その人の能力に適合した部署をあててみるくらいだろうが、そこには何の保証もなく、また組織によってはそんなに多種多様なものを持ち合わせてないから無理となるかも知れない。
 実績の評価も将来性に比べれば簡単と言ったものの、実際にはこれという絶対的なものがあるわけではない。まったく同じ条件でそれぞれを評価するのであれば、何かしらの指標を用いることもできるだろうが、そんなことはあり得ないからだ。たとえば営業成績についても、同じ地域の同じ顧客を相手にすることは、仮想的なものでもないかぎりできないことである。だから、それらの条件をどこかの尺度に入れつつ評価を下すことになるが、それが正確なものかという保証は何処にもないだろう。おそらく、相対的な評価はそれに比べると少しは信頼できる可能性もあり、たとえば以前の担当と比べて成績が伸びたとか、そんなものを参考にすることもあるだろう。同じ営業所で、昔は棒グラフを掲げていた販売店もあったが、最近はそういうものもあまり見なくなった。おそらくそれを励みにしていた時代は去り、圧力だけに感じる人々が増えたからということもあるだろうし、客に見せることの意味を考え直した結果とも言えるだろう。当然、お互いには成績を知っているわけだから、あえて表示するまでもないというのがこの頃の考え方かも知れない。しかし、こういった弱者をいたわるようなやり方が実際には功を奏していないのではないかと思えることが、色々なところで起きているような気がする。たとえば、評価の一環として適材適所という考え方が導入されているが、常に問題となるのはお荷物社員の存在である。何処に移しても、何の役にも立たないというと言い過ぎになるだろうが、それに近い状況が出てきたとき、この方式は効果を上げない。その代わりとして出てくるのは、そういう人にも何かの仕事をといったいたわりに似た方針で、確かにそれぞれに役立てるためにはそれも一つの方法なのだろうが、どこか歪みを産んでいるように見える。また、弱者が自らの立場を理解するとき、以前ならばそれなりの努力が導きだされていたのだろうが、最近はその立場に満足して、更なる無駄な努力を省くような雰囲気ができている。本当に無駄ならばその人の存在自体が、組織にとって損失になるわけで、その点をもっと重視すべきだと思うが、それよりも人それぞれの能力差などという様々な差を考慮すべきという考え方が主流となっているのではないだろうか。その結果とは言えないかも知れないが、頑張れば頑張るほどボロが出るわけで、それなりの成果をあげている人が正当な評価を受けられない状況ができているようにも見える。流石に昼行灯をそのまま放置するほどの余裕はなくなりつつあるが、それにしてもまだまだ緩い仕組みを維持しているところも多いようだ。厳しいだけが良い結果を産むわけではないとはいえ、もう少し全体の意欲を引き出す努力が必要に思える。

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12月7日(水)−障壁

 社会が豊かになったためか、はたまた落ち着いた時代が長く続いているためか、更には子供の数が少なくなってしまったためか、とにかく、親が子供の希望を叶えてやるのが当り前のような雰囲気がある。邪魔をするのはおかしいと思うが、一方で何でもかんでも叶えてやるという姿勢には異様な感じがしないでもない。努力とか、意欲とかが無い気がする。
 手に入れるための方法が、ただ口に出すだけだとしたら、何かおかしな感じがしないだろうか。玩具を手に入れるとか、そんな話であれば、希望を訴えることは一つの方法だが、たとえば自分の進路を決めるときに、何もせずに希望するだけでは無理であるように思える。実際にそんな感じが以前はしていたのだが、最近はどうもそれさえも努力なしに手に入れることができるようになったのではないかと思えてくる。高校進学は一部の人を除いて当り前のこととなっているし、その先へもそれほど努力しなくても可能な道ができている。もう少しすれば大学全入時代に突入と言われているが、そうなれば希望さえすればどこかの大学に入学することが可能となるのだ。その更に先となるとどうなのか、就職戦線の厳しさが訴えられていたようだが、このところかなり緩んできて、まだまだ厳しさがあるとはいえ、高望みさえしなければどこかに落ち着けると言われるようになってきた。そうなると元々努力する気のない人々も、何とかそういう関門を潜ることができて、いつの間にか世の中に出てくるようになる。飛んでもない新入社員がやって来たという話はどんな時代にもあることで、今に始まったことではないが、どうもその様子さえ最近は大きく変わりつつあるようだ。どこかに関所を設けて欲しいと思う人は多いと思うが、さて自分のところでそれを使用とすると手間がかかりすぎるということになる。結局他に適所を見つけるしかないが、今の状況では何処にもそんなことをする気持ちはないようだ。以前ならば、大学入試はその関門の代表の様なものだったが、全入が予告されている中、どの大学も生き残りをかけるべく様々な工夫を施している。良い学生をとりたいという気持ちも働いているのだろうが、一方でなるべく多種多様な学生をとろうとする努力もある。画一的な試験で済ませていたころに比べると、現在の状況は大きく変貌しており、入試科目の減少だけでなく、小論文や面接だけの入試も目立つようになった。どちらにしても才能のある人間を採用できればそれに越したことはないのだが、実施する側の意図に反して、受ける側はなるべく楽な道を選ぶ傾向が更に強くなっているようだ。親の立場もその動きに敏感に反応しており、どこかに入ってくれれば御の字といった風潮が目立つ。何処にも乗り越えるべき山が無く、ただ平坦な道程を漫然と進んでくるとき、さてそこに何かしらの意欲や気力が出てくるのかと不思議に思えてくる。余計な抑圧はいけないといった考えが、こういうものの背景にあるようにも思えるが、有か無かという分け方ではないものがあるはずで、適度な課題は必要だろう。自分自身がそれを意識できるのなら良いが、そうでない人々には現行の制度は何とも都合がいいが将来に不安を残すものなのではないだろうか。

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12月6日(火)−風邪

 寒気が入ってきて、急に寒くなった。季節の変わり目、体調には気をつけようと言われる。風邪を引きやすくなるからで、確かに人込みに行くとそんな様子がすぐにわかる人が一杯いる。気温の変化などに上手く対応できなくなったとき、体調を崩す人がいて、その中には風邪にかかってしまう人もいるというわけだ。
 単なる風邪ならまだしも、重症化しそうなものにかかると困る、という話が流されていて、新型のインフルエンザが、とある。まだ、できていないから新型なのだが、鳥と人間の間での遣り取りでそんなことが起きる可能性があるから、というのがこういう話の主旨らしい。以前も書いたことだが、ウイルスにかかるかどうかは免疫反応によるものだから、新種であれば誰でも襲われる可能性がある。問題はその先で、それが重症化するかどうかは、単純にウイルスの増殖力によるのではなく、それに襲われた体の抵抗力などの体力によるものが大きい。その点で、豊かな生活を送っている国の人々にとってはまったくとは言わないが、あまり心配しなくてもよいのではないかと思う。非科学的な論理と言われそうな気もするが、はたして、病原体の調子だけで大流行になるかどうかが決まるとも思えないし、特に流行したとしても一部の体力が落ちている人以外には大きな問題とはならないと思えるからだ。季節の変わり目に、体調の管理が必要となるという意味で、もう一つ最近気になるのは、心の風邪についてである。昔は聞いたことの無かった言葉だが、最近は色々なところで紹介される。所謂鬱という心の病気を、その症状やかかり方から風邪との類似を捉え、こういう呼び名を付けた人がいるようだ。まさか、風邪と同じように寒くなると流行するというわけでもないのだろうが、どうも周囲にそういった雰囲気が漂っているような気がする。自分自身も含めて、季節の変わり目には気力が萎えることがあり、仕事の調子が狂うことがある。こんなのは大したことではなく、ただ単に波があるだけだと捉えていたうちは問題にもされなかったが、最近はどんなに小さな変化でも大きな変化の兆しであるという考え方が主流となり、放置しておくのはよくないとされる。風邪が悪化して、肺炎を併発という話にあるように、軽い鬱症状が悪化すれば取り返しのつかないことになると言うのだろうか。どうもその辺りは理解に苦しむところだが、とにかくそんな脅しに似たものを感じる。どうせ風邪との類似性を論じるのなら、たとえばこういう考え方はどうだろうかと思うのは、風邪に打ち勝つためには確かに日頃からの生活上の注意が必要なのは当り前として、たまたまかかってしまったときに、それを乗り越えるのは体力と気力の組み合わせによるところが大きいという点である。これとの類似性を無理矢理結びつけるなら、鬱についても気力体力との力関係と言えるのではないだろうか。周囲で大騒ぎしようが、様々な治療を施そうが、結局のところ、内なる力がそれに打ち勝つかどうかが問題となる。調子の波についても同じことで、ちょっと風邪気味かなと思っても、服装や生活に少し注意するだけで何事もなくやり過ごすことができる。そんなことと同じように、心の風邪についても対処したらどうなのだろうか。これまた非科学的なことと片づけられそうだが、そういう人には、わからないことを科学で論じても無駄なことで、科学が対応できるのは理解できたことだけなのだという点に注意を向けて欲しい。

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12月5日(月)−時宜

 器が人を作ると言われる。無機物と違って、人は変化するものだから、たとえ大きすぎる器に入れられたとしても、徐々にそれに見合うようになっていくという話だ。大抜擢されたとき、必ずと言っていいほどこの話が出るが、実際にその結末がどうなったのか、ちゃんとした調べが行われたことはないのではないか。ただ、印象的なものだけが残るようだ。
 上手くいったことはよく覚えられているが、失敗したことはお互いにさっさと忘れたい。そんな思いがこんなところにも現れているのではないだろうか。創業者が後進に道を譲るとして、将来期待できそうな若者に任せた途端に調子が悪くなり、結局再登場してしまった例もあるようだ。たまたま時期が悪く、誰がやっても同じ結果だったのか、それとも人の選択が悪かったのか、知る術はない。結果のみが語るだけで、やり直しなどできるはずが無いからだ。それにしても、人の能力を見極めることは難しい。その能力に長けている人は管理者として頭角を現す傾向にあり、実戦部隊に属しているうちはあまり芳しくないようだ。そういう人の能力をたまたまにしろ見出せるのは非常に重要な要素であり、その後の展開を考えれば決定的なものになる場合が多い。一方で、誰にも同じだけの能力があり、それは器に入れることで発揮されると考える向きも多く、こちらの方は社会情勢によって結果が大きく異なる。全体として伸びている時期においては、どんな人間が責任ある立場に就こうとも、結果は大して変わらないだろう。しかし、変革の時期にそれが重なると両極端の結果が生まれることになりかねない。時と場合に応じてやり方を変化させられる人はそんなにいるはずもないから、結局のところ時期の良い悪いによってこんな違いが出てきてしまう。要は、誰しも同じだけの能力、才能を持ちあわせているということを幻想と見るか、はたまた事実と見做すかによるのである。企業の経営や組織の運営において、このような見方の違いは結果を大きく左右し、時には存亡の危機に瀕する場合も出てくる。にもかかわらず、そのことが認識されにくいのは、やはり能力の差を表に出して区別することを避けようとする気持ちがどこかで働くからではないだろうか。教育現場でも同じことが行われ、何でもかんでも同じ水準まで到達させることを目標としたとき、何処からともなく崩壊が始まったように思える。実際には、幻想にしか過ぎないことを受ける側が十分に意識しているにも関わらず、送る側はそんな問題を直視することを避ける。そんな遣り取りが水面下で続けられているうちは問題も大きくならないで済むが、表に出た途端にどっと浮上してきたようだ。この見方の違いはかなり深刻なようで、人の成長の歩みがそれぞれに違うにも関わらず、同じ調子を強制する形が実施されている。少し待ったほうが良い場合と、早めに対処したほうが良い場合があるのに、どちらも同じ時期に同じやり方でやろうとするのはまさに典型だろう。器の大小も問題だが、その器を仕上げる時期の違いも大きな問題となる。過ぎたるは及ばざるが如し、という喩えがこれに当てはまるかどうかはわからないが、とにかく人を見て考える必要があり、それにも才能が必要なようだ。

(since 2002/4/3)