パンチの独り言

(2005年12月12日〜12月18日)
(異常、対策、察知、搦手、求人、会話、準備)



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12月18日(日)−準備

 盆暮れという言葉が最近聞かれなくなった。何とか行事といった言葉もあまり聞かれず、どうも季節を感じさせてくれる遣り取りが少なくなったような気がする。気が向いたら出かけるといった話を聞くと、逆に気が向かなければ盆だろうが暮れだろうがどこにも出かけないといった気持ちなのかなと思ってしまう。
 故郷を懐かしく思う人は沢山いると思うが、一方でその故郷に帰ろうという気にならない人も多い。親に会うのも面倒、たまにしか会わない親戚となればなおさら、といった気分なのだろうか。それとも、そんな時間があったらもっと楽しいものがある観光地に出かけた方がいいと思うからだろうか。懐かしいと思う対象であっても、それは心の中にあるからこそであり、現実は目にしたくない。どうせ目にするなら、楽しめるものを、といったところかもしれない。それと直接関係あるかどうかはわからないが、季節感が至る所で無くなりつつあるように感じる。その典型はスーパーの野菜売り場、いつでも何でも揃います、といった売り言葉が聞こえてきそうなほど、一年中あらゆるものが揃えられている。好きなものを好きな時に、という感覚はどうも食事から始まったのではないかと思うが、その反動として人の心に季節を感じる回路が無くなりつつあるのかもしれない。スーパーと比べて街の八百屋は様子が少し違う。確かに同じような品が並んでいるのだが、その中に干し柿用の渋柿があったり、漬け物用の干し大根があったりする。こんなものを自分の手で作る人がどのくらいいるのかと思ったりもするが、売っているということは買って帰る人がいるわけで、まさか干し大根をそのまま食べる人もいないだろう。切り干し大根の料理を見ることも少なくなったが、大根の漬け物の自家製を食べる人も少なくなった。この時期、大根を寒風にさらして干して、それを漬け物にするのは冬の風物詩のようなものだったが、自宅で干しているところもとんと見なくなった。風の強い地方では櫓を組んでそこに大根を干す光景が見られたものだが、最近は取り上げられることも少ない。自家製漬け物は更に少なくなっているだろうから、干し大根を売っているのを見た時少し驚いたものだ。そういえば、もう30年ほど前だったか、母が大根と白菜の漬け物を漬けていた。大根は塀にぶら下げて軽く干し、白菜は半分に切って、それぞれ樽の中に漬け込んでいた。新しい年を迎える準備として、そんなことがあったような気がする。冷え込んだ日に行うだけに、体に堪える作業だったはずだが、黙々と動いていたのを覚えている。それに比べたら、今では漬け物は何でも売っているし、正月料理は注文で済む。何でも手に入る時代になり、そういった感覚が失われてしまった時、何かついでに忘れてしまったものがある様な気がしてならない。

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12月17日(土)−会話

 人は大きく二つに分けられる。他人に話を聞かせる側と他人の話を聴く側である。話し上手と聞き上手、両方とも上手くこなす人もいるが、どちらかと言えばと分けることができそうだ。但し、同じ人でも齢を重ねる毎に変わる場合もあり、以前はもっぱら聞く側だったのに話す側に回る人もいる。どこが変わるとそれが変わるのかははっきりしない。
 どちらにしても、会話を通じて他の人々と連絡を取り合っているわけで、手紙を交換する習慣が少なくなってからは、もっぱらこういうやり方を使っていた。しかし、最近は情勢が変わりつつあるようだ。携帯電話の登場で、よりいっそう会話の機会が増えたのだが、その流れが携帯を用いるメールが導入されてから大きく変化し始めた。声という媒体を通すのではなく、文字という媒体を通した会話が復活してきたからだ。手紙との大きな違いはそれに要する時間であり、飛脚の時代から郵便制度までは一日という単位が基本になっていたのが、数分から場合によっては数秒の単位で文字を使った会話が成立するようになった。話し上手、聞き上手といった人の存在はそこにはあまりなく、お互いに自分の思ったことを一方的に話し、その交換で会話を成立させるという形式と言えるのだろう。文字に戻ったことを喜ぶ人も一部にはいるようだが、実際に交換されている文章を見て喜ぶ人は少ない。ほんのちょっとした挨拶のみのもので、一言二言の交換が延々と続くわけだから、どうも従来の手紙を連想する人間にとっては違和感を催す。逆に見ると、以前の手紙では会話といった雰囲気が感じられなかったのに、最近の携帯メールではまるで会話をするようにといった感じが窺える。だからこそ、こんなに流行したのだという意見を持つ人もいるだろうが、何故電話による会話ではなく、文字の交換による会話を選んだのかという疑問に答えるのは難しそうだ。声を出せない場面でも使えるからとか、顔文字などの道具が使えるとか、そんな意見も出るだろうが、それだけとも思えないところがある。何かしら、今までとは違った会話の道具といった受け取り方があり、それを活用するのが楽しいといった動機もありそうだ。この辺りの事情は使っていない人間には想像がつかないし、おそらく多くの人はそんなものの必要性を感じないだろう。単に人との意見交換というだけで、色々な媒体が使えるようになり、それぞれに特長を持つ。その中でどれを選ぶのかは人それぞれの自由だし、相手との合致を見れば、会話もすんなり進むことになるだろう。こうなってきて、一番減っている会話の機会とは、おそらく最も大切な直接相手を前にしての会話、本来の会話なのではないだろうか。自分の顔の表情を読まれたくないとか、相手のペースに巻き込まれたくないとか、色々な理由があるだろうが、人と人が彼らの肉声を通して意見交換をする機会が減って行くことには一抹の不安を感じる。効率を考えたらそれもあり、という意見も出てくるだろうが、果たして効率だけが重要なのだろうか。また、好きな媒体を通すという考えが中心になれば、更に仲間意識が強くなり、それ以外を対象とした会話は避けられてしまうことになる。これもまた何だかへんてこりんな感じのするものであり、自分の考えを広めて行くことには繋がりそうにもない。わざわざそういうことを避けるのは、好きなことをやる為に必要なことという考え方があるかもしれないが、さてそんなに重要なことなのだろうか。

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12月16日(金)−求人

 景気がよくなったせいか、はたまた人にとられる前にということか、就職活動がさらに早まっているように思える。求人の対象はほとんど大学の卒業生に限られているのだろうが、彼らの場合3年の半ばに活動を始めているようだ。自分たちの時代に比べてあまりの早さに驚いているのは、時代の移り変わりを感じ取れない証拠なのかもしれない。
 それにしても、田植え前の田んぼを買っているようで、なんとも不思議な感じがする。大学での勉学を考えた場合、卒業の年の大部分は、理系の場合には実験に、文系の場合にはゼミに使われる。だから、大学に入ってから習うことの多くははじめの三年間に出てくると言えるだろう。その総仕上げの時期に、就職活動を始めるということは何となく無駄なことをしているようにも見える。さすがに職を得たいと思う人間からすれば、無駄だろうがなんだろうが、より重要なものに力を注ぎたくなるわけで、そういう考えに基づけば選択の余地はないのだろう。そんな考え方をする学生たちを相手に、早めの活動を促すように企業の説明会が続き、すでに訪問や試験を始めているところもある。少し前なら、ある業種に限られていた求人が最近は全業種に広がってしまったようで、昔のような制限もないから解禁とかいった感覚は存在しない。これ以上早くなるかどうかわからないが、そうなってしまうとどんな資質を持った学生を集めようとしているのか、予測することが難しくなりそうだ。もう一つ気になることは、活動の期間の長さである。始まる時期は早くなったけど、決まる時期はあまり変わらないといった傾向があり、そこから想像できるのは全体の期間が長くなったということである。人を集める側からすれば、より良い人材を望むわけで、少しくらい時間を掛けてでもいい人を見つけようとするのだろう。確かに、より多くの人を選別にかければ、いい人も増えていきそうな気がする。ただ、元になる集団の質がそれほどでもなければ結局はあまり変化がないのかもしれない。この考え方も人気のある企業ならば通用するが、それ以外の企業には当てはまらないということだ。にもかかわらず、横並び的に同じようなことをしようとするから、その対象となる学生たちにはいい迷惑なのではないだろうか。逆の見方をすれば、採用される側から見ても選択肢が増えるだろうから歓迎すべきとなるのかもしれないが、はたして本当にそうなのかどうか怪しいところもありそうだ。ただただ時間を掛け、疲弊した学生たちが就職活動に精を出すというのは、どうもおかしな具合に思える。それでも、その騒ぎから逃げることができないのは一種の群集心理のようなものなのかもしれない。この辺りの流れはどこにでも現れてくる人間の性のようなものだろうが、だからといって仕方がないと片付けてしまっていいものかどうか、もう少しちゃんと考えたほうがいいように思う。どちらが強い立場なのか、景気によって変化するように思われているが、実際には一定の側に主導権があるような気がしてならないからだ。

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12月15日(木)−搦手

 思い通りに事が進まないとき、幼児は泣き叫び、少し大きくなると地団駄踏んだりする。更に知恵がついてくると、何とか思い通りにするために様々な方策を講じ始める。方策にも二つの方向があって、真っ正直に正面から取り組もうとするものと、ちょっと脇に外れて搦手から攻めようとするものがある。どちらも何とか実現させたいという気持ちから出る。
 同じ思いを抱いていても、この二つには大きな違いが現れてくる。実現するまで、正面から攻めたものはかなりの障害が立ちはだかるが、実現してしまえば、そのまますんなりと事が進む。しかし、搦手から攻めて落としたものは、その時講じた方策の矛盾点が露になり、後々障害を産む場合が多い。同じことを思い通りに進めたとしても、始めにそれなりの労力を注ぎ込んだものの方が、あとで楽になると言ってしまうと言い過ぎになるだろうか。子供たちが自分の望みを叶えたいと願った場合には、その望みが叶い、次に起きるかも知れない障害については、自分で何とかしなければならないのだが、大人になり、社会の中で同じようなことをする場合には、そうならないことが多い。実現するまで携わっていた人が、その後も継続して関与するとは限らないからだ。こういう場合には、始めに苦労してちゃんとした手順を踏んだものについては、問題を生じないだろうが、何とかあの手この手で誤魔化したうえで実現されたものについては、あとを継ぐ者たちには大変な作業が積み上げられてしまうことがある。世の中の人々のどれくらいがこういったことに関心があるのかわからないが、達成のみを目標として生きる人々にはこんな違いはどうでもいいことなのかも知れない。何事も始まらなければ駄目であるという意見を出す人にも同じように二つの形があり、そのためには手段を選ばずといった人と関わってしまうと苦労することが多い。全てを嘘で固めるようなやり方を実行する人は少ないと思うが、このくらいならと思いつつ、進めていく人はかなりいるのではないだろうか。その過程では対したことはないと思われた虚偽も実際に事が実現して、それを推進する段になってみると大きな障害を産む種となることもある。そうなってから取り除こうとしても、場合によっては成立前の段階に戻らないかぎり、修正できないこともあるから厄介だ。本来は計画を進める段階から、それが実現し、更には実際に動くまでの時間全てに関わるような形で、人々が望みを叶えていけるようにするのが一番良いのだろうが、組織によってはそれが難しい。そうなれば、各人が基本として、搦手を多用しない、あるいは正面からしか攻めないという気持ちを持つようにしなければならないだろう。それが簡単かどうかは、実は組織の問題というより、個人の問題のほうが大きく影響するので、社会全体として考えていかねばならない課題になるのだと思う。

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12月14日(水)−察知

 運転をしていると危ない目に遭うこともある。但し、こちらが危ないことより、車という一種の凶器を扱っていることもあって、周囲に対する危険といったものである。自転車や歩行者がどんな行動をするのか、こちらが安全運転をしていたとしても、危険が無くなるわけではないから注意しなければならない。そんな中で気になることが時々起きる。
 自動車が走れる場所は限られている。また、走らせ方も細々と指示されている場合が多く、その制限の中で安全に、効率よく走らせている人が多いのではないだろうか。これは運転が免許制度によるものであり、規則を守ることのできる人だけが許可されたものだからだ。一方、自転車については場所によっては免許に近い制度を導入しているところもあるようだが、ほとんどのところでは野放しとなっている。乗るためにある程度の訓練を必要とするが、ちゃんと走らせることができるようになったら、どんな道もスイスイと行けると思っている人が多い。しかし、少なくとも信号は守らねばならないし、走る場所も限られている場合がある。ただ、それを学ぶ場が無いために、知らないままになってしまう人がいるのだろう。本来は、常識的なことが多く、それで理解できるはずと思うのだが、これは車の免許を持っている人間の思うことであり、そういうものに馴染みのない人々にとっては規則なんて目に入らないのかも知れない。歩行者となると更にそれに輪をかけた状態になる。歩きたいところを歩くのが当り前であり、車はそれを避けて通るべきといった考え方を持つ人もいるだろう。権利意識なのか、そんな意識もない単なる習慣なのか、よくわからないが、とにかくこういった人が世の中にはいるようだ。弱者は保護されるべきという考えがあるのかも知れないが、お互い様といったことを思えば、少しは違った表現の仕方がありそうに思える。少なくとも、車を降りたあとの行動を思いだすと、周囲の車や自転車に気を配り、自ら危険を誘い込むことのないように注意している。そこでは、道を譲ることもあるし、歩道を歩かないかぎり横並びにはならないし、自転車は縦に並んで走るように意識する。そんな意識を持つ人間からみると、そういった配慮をしない、あるいはできない人々の意識は理解できない。危険を察知し、それを避けることが大切だと色々な場面で言われているが、まさにそれができない人が沢山いるわけだ。車との関係がその代表という訳でもないだろうが、危険なものの一つという考え方はできるだろう。それに対して何の配慮もしない、何も感じないという行動は、結局その他の様々な危険に対しても同じようにすることを意味しているのではないだろうか。世の中には危険が一杯あると強調されるたびに、その割りにはそれを感じ取る感覚が鈍くなっているように思うのは、まさにそれを表しているような気がする。道幅一杯に広がって通学する中学生を見ると、この子達の将来はどんなものになるのかと心配になる。また、そんなことをしている子供を見ても、何も感じない親達に対しても心配と呆れが引き起こされる。平和ボケという一言では済ませられないことが、そこにあるのではないだろうか。

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12月13日(火)−対策

 子供が危険にさらされている。何とも物騒な警告が流され、それを実感する人の数も増えているらしい。事件が起きるたびに報道されるわけだから、それだけ人々の目に触れる機会も多くなり、まるで日常的に危険な目に遭わされていると思われてしまう。ただ、そこまで酷くなっていなくてもあるのは事実であり、今のうちに対処した方が良いという考え方もある。
 こういう事件が起こるたびに話題になり、そこで対処が話し合われているが、いつの間にか忘れ去られる。そして再び事件が起こり、また同じような対策を講じる話が伝えられる。実際にはこんな流れがあったのではないかと思うが、どうもその辺りのことを分析する話はほとんど聞こえてこない。ブザーを持たせる、ランドセルに発信機をつける、などといった話が大々的に取り上げられ、これで犯罪を未然に防ぐことができるかのごとくの物語が語られる。しかし、犯罪の数は期待したほど減っていないように思える。確かに、どんな取り組みでも導入された地域は安全性が増しているのだろうが、何が功を奏しているのかといった解析はなされていないように思える。最近も、電車通学をする子供たち向けにその動向を親に知らせる仕組みの導入を発表した鉄道会社があったが、これで安心するという親の気持ちは理解できない。どこか他人任せにしている気がして、本当に子供のことを心配しているのかとか、心配するにしても取り組み方を間違えていないかとか、そんな雰囲気があるのだ。任せるとか託すとか、親が学校に期待してきたことが、この頃揺らいでいるように思える。口を出さないといった雰囲気は薄れ、とにかく自分の希望を押し付けようとする。任せるという言葉の意味をどこか取り違えているような気がしてならないのだ。その一方で、子供たちが危険にさらされているかも知れないという事態にも、地域の援助などを期待するようでは、何とも情けない状態と言いたくなる。企業が学校の経営を行うことが可能となり、ある地域に設置の計画が出てきたとき、一部の親とはいえ、全寮制で預けられるから安心などといった意見が聞かれたことに首を傾げてしまう。はたして、任せるつもりがあるのか、その一方で、放り出すこととの違いは何か、疑問が残るからだ。安全だと信じられて来た国でこういった事件が連続して起きたとしても、人々にそれに対する処し方が身に付いていないのは仕方ないことかも知れない。危険が当り前という海の向こうの国では、学校への送り迎えを親の義務にするところも多く、そこまで手をかけねば子供の命を守ることはできないという意識が根づいている。これに近い状況が、以前誘拐され殺された女子児童が通っていた学校で行われているようだが、そこまで極端ではないといった考え方があるのだろうか。後追いの対策が次々に出され、その実効性は後々になっても検証されず、事件が起こるたびに付け焼き刃的な意見が出される。実際には、どんな対策を講じようとも起きてしまう事件があるわけで、社会が抱える問題についての別の取り組み方が必要なのだろう。人間を信用できない社会ができていくと、この先何が起きるのか、想像できないし、想像したくもない。しかし、その社会に生きているかぎり、何かしらの対応が全ての人々に迫られているのは事実であり、他人任せにするのでなく何か自分にできることを考えるべきなのだろう。

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12月12日(月)−異常

 悲惨な事件が続くものだ。人の生き死にに関するものもそうだし、生活の基盤を揺るがすものも結局は同じことだと思う。何故、どうして、という話が大々的に取り上げられ、分析をしようとしているようだが、どうも的外れに思えて仕方がない。表に現れたことを分析して、何が起きたのかを知れば満足するといった雰囲気が漂っているからなのだろうか。
 個々の事例を分析して、それを一般化し、対策が必要ならば実施する、といった考え方がこういうやり方の背景にあると思う。それはそれで重要なことだと思うが、皆が全てそうしても応急手当に似たものしか出てこないような気がするからだ。こんなときに感じられるのは集団心理であり、ある意見が出たらそこに全てが流れ込むといった様相が見られる。全力を尽くすために必要ならば仕方のないことかも知れないが、全ての知恵を振り絞ってといった感じには思えない。何とも不思議な感じのする動きなのだが、当事者たちには当然の事に思えるようだ。殺人事件が起こる度に、動機の分析、あるいはそれに付随した犯罪心理の分析が試みられる。それはそれで興味本位的に見れば重要なものであり、また人を裁く場面でも重視されるから必要不可欠なものなのだろう。しかし、誰もがそこにばかり目を奪われ、怒りとか恨みとかそんな心理の動きに結論が導かれれば安心するのは、どうにも変な気がしてくる。確かに、人を殺める行為にはかなり強い心理的な作用が必要なのだろうが、猟奇的な事件の場合、殺める行為に必要とされる力とは別の方向への力が働いているように見えるし、単純に見える殺人についてもそこに別の様相が見えることもある。こういう状況では多種多様な見方、考え方が必要となるはずなのに、全体として同じ方向に動こう、あるいは動かそうとする力が働くことには一抹の不安を抱くのだ。たとえば、昔起きた小学生の同級生殺人の場合、刃物を用意して事に及んだと報道されていたが、力関係からして弱いものが強いものに立ち向かう場合の常と思える部分があった。行為自体の異常さは理解できないまでも、そういった準備をしようとする心理はある程度理解できる部分があった。では、大人が子供を殺める事件の場合はどうだろうか。力関係は明らかだから、その場の怒りやら突発的な成り行きで、事を起こしてしまう場合が多い。だから、武器となるものもたまたま近くにあったものだったり、素手でということの方が多いように思う。そんなつもりでいたら、用意した刃物でという事件が起きた。動機やら人間関係やらに話題が集中している中で、何故そんなものを用意する必要があったのかという話はほとんど取り上げられていない。殺人に至る心理を分析することが重要なことを否定するつもりはないが、何故刃物を用意する必要があったのか、圧倒的な力の差があるにも関わらずどうしてかと分析することも重要なのではないだろうか。それで事件が解決するわけではないし、また将来起きるかも知れない事件を防ぐことはできないのだろうが、しかし、一人ひとりの心理における異常さを分析するのであれば、そういった見方も含めるべきだろうとおもう。所詮は一部の例外的な異常によるものなのだろうが、もしそんなものが自分の中にもあるとしたら、ぞっとしてくるし、何とかせねばならないだろうから。

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