暖冬なのか、厳冬なのか、予想が外れようがどうだろうが関係なく、毎朝寝床から出るのが辛くなっている。こういうことになるとすぐに、温暖化は何処へ、という意見が出てくるが、気象関係の解説ではそんなに簡単に結論を出すべきではないと繰り返されている。温暖化より異常気象といった雰囲気になっていると言うべきだろうか。
寒いのは確かだが、寒くても感じられることがある。太陽の光の暖かさで、有り難いと思う気持ちは、まさに気温の低下から出てくることなのだろう。猛暑だった夏ならば、じりじりと照りつける太陽を忌み嫌う気持ちが出てくるが、体温が奪われるほどの寒さの中ではもっとと思う気持ちが出てくる。これこそ、北風と太陽の話であり、光に含まれる熱エネルギーの凄まじさが感じられる。何しろ日が当たっているところ全てにこれだけの熱が与えられるのだから、一体全体どれほどのものが地球に降り注いでいるのやら、想像もできない。体に感じられる暖かさもあるが、もう一つ、熱を感じさせられることがある。こんなに寒い中でも、洗濯物を干しているとそこから湯気が上がっているのを見る。干したばかりなのに、そこは既に温められ、気温との差から湯気が出るようになったのだろうか。湿度の低さと温度の低さ、こんな組み合わせのせいだろうか、ちょっと不思議なものを見たような気がした。夏でも冬でも何とか洗濯物が自然に乾燥できるのは、こんなところによるからなのかも知れない。太陽の恵み、そんなものを寒い冬に感じられるのは、これまた有り難いことなのかも知れないのだ。それでも盛夏に比べたら、太陽の南中角度はかなり低くなっていて、それだけ受けられるエネルギーも低くなっているはずである。気温が30℃も違うことを考えれば、その低下は確かであり、かなりの量であるように思える。にもかかわらず、暖かさは十分に感じられる。もし、雲が出てきて、太陽が隠されてしまったら、この暖かさを実感することはできない。それだけ大きな違いを産み出していることに、気がつくのはそんな時だろう。洗濯物を暖かい部屋の中に干した方が乾きやすいはずと思う向きもあるだろうが、気温とは違った効果がこんなところにあるのかも知れないのだ。この惑星にこれほど多くの生き物が棲み、それぞれに豊かな生活を送っている。その源泉となっているのはやはり太陽の存在なのだろう。お天道様という表現を使って崇められる存在を実感できる生活は、やはり豊かさがあってこそ、なのではないだろうか。
英雄が一夜にして嘘吐きと呼ばれるようになる、隣の国で起きている事件のことだ。発展途上にあるその国の科学研究の牽引者として期待された英雄は、肝心のデータが捏造されたものと決めつけられ、窮地に追い込まれている。彼の論文を掲載した海の向こうの科学雑誌もその責任を問われており、影響が何処まで広がるか予想もつかない事態となっている。
科学論文の掲載の可否については、その専門性が問われるためpeer review、仲間による審査といった形式で決定される。仲間と言っても、仲間だから大目にみるといったこの国の人々のような感覚ではなく、同程度の実力を持ち、その分野に通じているという意味での仲間である。そんな形式で行われるのに何故不正を見つけられないのかという批判が出ているが、そこには科学に携わる者に意図的な嘘をつく人はいないという思い込みがあるからだろう。当事者にとって、科学の現場での嘘は取り返しのつかないものであり、信頼を失うことは何よりも大きな痛手となる。そんな気持ちが働いている社会で、自らの利益のみを考えて、後先を見ることもなく虚偽を重ねる事が起きても、それ自体に辻褄が合っていれば嘘を見抜くことはできない。これまでにもそんな事件は沢山起きているが、注目を集めるわりには事件そのものの発生率が大きく高まっているわけではない。それよりも、嘘によって躍らされる人々の数が一つ一つの事件に関して急増しており、それに絡む金の問題、権利の問題、地位の問題なども更に大きくなっている。だからこそ、今回のように国家を挙げての支援の末に暴れた捏造がこれほど大きく取り上げられるのだろう。しかし、実際にはこの事件の中心人物だけに責任を押し付けるべきではなく、その周辺で表なのか裏なのかわからないが活躍した人々にも責任の一端はある。そこに利害が絡むだけに、そう簡単に事を終息させてはいけないような気がする。しかし、何故真理を追究するはずの科学の世界にこんなことが起きるのだろうか。おそらく、そこに名声や金などといったものが入り込むようになり、科学そのものよりもそちらに興味を抱く人々が入り込んできたのが最も大きな原因だろう。確かに、金も名誉も手に入れられるものなら欲しいと思う人は世の中に沢山いるのだろうが、それにしてもそれだけの欲求でその世界で頂点に上り詰めることは難しい。どちらかといえば、ある程度のところまでは科学そのものに対する欲求が勝ち、頂上が見え始めたときに悪魔の囁きが心の中に起きてくるのではないだろうか。人の心は弱いもので、一度そんな思いに取り憑かれたら断ち切ることは難しい。だからといって、その他大勢の人々が思いも寄らないことに手を染めることは正当化できるはずもないのだが。以前、ある賞を受賞した人の話の中で、医者である父親から医者になるより工学者になったほうが金が儲かるはずと、工学部への進学を勧められたとあったが、これなぞまさに典型なのではないだろうか。特許で一生食っていけるという親の勧めに乗った子供の話は、受賞者としてはつまらないものだったが、まさに科学をするのが目的でなく、金が目的といった雰囲気が漂っていたからだろう。何とも情けないと思うが、こんな事件が起きるところみるとあの社会にもそんな病気が広がり始めているのかも知れない。
お上の決めたことに従うべし、こんなことが今でも罷り通っている世界がある。そんなことは当り前、と思う人もいるだろうが、改革という言葉しか知らないトップの主張からすれば大きく外れるはずのことで、実は根っこの部分では何も変わっていないのだろうか。決める立場にあるものが常に上、という思い込みが今の混乱の原因であるとは思わぬ人たちだ。
法律、政令、条例、何をとっても、決めるのはお上である。ただし、不条理な規則や国民の不利益を産むものを勝手に決めることは本来許されない。にもかかわらず、様々な取り決めにおいて庶民にとっての無理難題を編み出す。その辺りが、一般常識の通用しない世界に棲む人々の特殊性の現れなのだろう。ずっと前に一度取り上げたことがあるが、この国では人の名前に使用できる漢字に制限があり、それ以外のものは却下される。これはこれである程度納得できる理由があるように見えるが、一方でその読みに関してはまったく制限がない。使用できる漢字でありさえすれば、その人の名前自体はどんなものでもいいわけだ。これは、名前の読みを書き入れる項がないからだが、そのせいか読んでもらえない漢字の名前を持つ人が沢山いる。名前だけでなく、姓についても同じことが通用し、同じ漢字でも人それぞれに読み方が違うものがある。谷を「や」と読むか、「たに」と読むかは地方による違いだが、それ以外にも、田が濁ったり、撥音になったりの変化がある。これらについて制限はなく、おそらく親子で違う読みになったとしても、何のお咎めもないのではないだろうか。歴史的な背景がある以上、そこに異議を唱えるのには無理があるという判断なのだろうが、こういった理解はどうしようもないときにだけ行われるようで、多くの場合は雁字搦めの規則に嵌め込まれる。その例として紹介したのは、旅券に使われる氏名のローマ字表記で、明治時代にヘボンという人が聞こえる音に従って決めたものが唯一の使用可能なものとなっている。無知蒙昧な民にはわからぬこととて、お上が決めるとでも言いたいのか、いまだにこの方式は変わらず、押しつけがましい手続きが実施されている。そこに変化が現れたのは、ある外務大臣が自分の苗字の表記が思い通りにならぬことに腹を立て、文句を言ったときであり、その際に初めての例外が認められた。呆れるのは伏魔殿の人々が、長音の場合にHの使用を例外的に認めると決めたことだ。河野は本来Konoだけが認められていたが、これでKohnoも認められた。しかし、これが矛盾に満ちたものであることは、大野はOnoでもOhnoでもいい、となるが、河野と大野はそこに違いがあることが入力文字を見れば一目瞭然で「こうの」と「おおの」の違いがある。国語教育で決められたものだが、おそらく文化を担当する省庁は自分であると主張し、国外ではCultureの文字を教育文化を担当する省庁名に使わせないところだからこそ、こんな矛盾に満ちたものを例外中の例外として認めてやったとでも言うのだろう。自分たちの決めたことを守り通そうとする気持ちの現れの一つではないかと思う。しかし、元を辿れば、一外国人の決めた表記であり、この国の民が編み出したものではないのだし、更には非常に多くの人々がパソコンと付きあうようになって、入力に必要なローマ字の知識も十分に持ちあわせるようになっている。教育を担当する、産業を担当する、それぞれの省庁の規則とも合致しないものを後生大事に護ろうとする人々に、改革の文字は意味不明のものとしてしか映っていないのではないだろうか。
節目に来ると、色々な数値が発表される。そんなものに一喜一憂していても始まらないが、なるほどと思えるときと、おかしいなと思えるときがあり、現状が数字に現れたり現れなかったりという不思議に首を傾げる。おそらく数字の集計の仕方やどの数字を採用するかによる所が大きいのだろうが、そんな背景を消し去って一人歩きする数字には注意が必要だろう。
国力の象徴として使われる国民総生産も、数字やその範囲の取り方によって様相が一変することがある。実情を表さなくなってしまえば使い物にならなくなるわけだから、何とかその辺を上手く調整する必要が出てくるらしい。この辺りが統計の怪しいところであり、発表する側の思惑が反映される部分でもある。お隣の国の統計について修正が出されたようで、その中で注目されたのが、産業別の数字の移り変わりと数字の処理の問題のようだ。総生産というからには国全体を対象とするものが第一となるが、それを誇示しようとする動きがある一方で、余計な注目を避け、批判の矛先をかわすために、より小さな数字へと処理をする方法がある。今回、あちらの政府が選んだのは巨大化した数字を誇示する道ではなく、自らがある集団の代表であることを殊更強調するための小さな数字の方だったようだ。国力としてみれば既に大国化してしまったのに、一部の富裕層を除けばいまだに低水準の生活を行っていることを表に出し、それこそが国の現状を表すものであるとする意図が露になっている。政治とはそんなものかなと思いつつ、その報道を眺めるわけだが、はてさて本当のところ、何が言いたいのかと思えてくる。全体での自分の立場を明確化し、その集団の代表として表舞台に出れば活躍できるが、同程度の実力のその他大勢と同じ立場になってしまうと、目立つことができなくなる。そんな思惑からだけで、こんな話をするのかどうか、実際のところ真意は見えてこない。一方、もう一つの注目である産業別の話については、第三次産業における生産力の向上が伝えられていた。第一次は国を支えるために重要だが、価値を金に換算してしまうと大した数字にはならない。第二次は工業生産を中心にしたもので、国が豊かになる過程ではその向上が必要不可欠なものとなる。第二次産業がある程度の水準に達したとき、そこから第三次の発展が始まるということなのだが、それが既に始まっていることが伝えられたのは、あちらの国がそういう水準に達したことを表していることになるのだ。逆に言えば、ここから更に第二次産業が伸びるとしても大したものは期待できず、早晩頭打ちになることを表しているのではないだろうか。こう言ってしまうと極端に過ぎるかも知れないが、今回発表された数字はその辺りの状況の変化を表しているように思える。だからどうすべきか、というアイデアには結びつかないが、いまだ発展途上にあるとする一方でそういった状況になりつつあることが明らかになったとすれば、ここからは工場進出も含め、あちらの国との関わりについて更なる注意が必要となるのではないだろうか。
役所の人間って、誰のために働いているのだろう。そんな疑問を抱いた人は多いと思う。国民、市民の税金で雇われている人間だから、当然それらの人々のために働くと思っている人はほとんどおらず、おそらく誰だかわからない人のために働くか、あるいは自分のためだけに働いているのではと思う人が多いのではないだろうか。
何故、そんな風に思えるのか。理由は簡単で、役所に何かの相談に行ったとき、親身に相手をしてくれなかったから、といったところだろう。そうでなくとも、善良な市民が何かをしたくてお願いに行った場合にも、突っ慳貪な対応でまるで相手をしてくれず、逆に邪魔をするような言動が繰り返されると、その存在の意味が本来のものでなくなったような気がしてくる。やってやるといった表現は昔ほど聞かれなくなったが、それでもあからさまに嫌そうな態度をとったり、何か権力を持っているような行動をする。実際には公僕という言葉があり、そういう人々の異称のはずなのだが、どうも死語と化してしまったらしい。先日ある手続きに役所を訪れた際、事前に確認をとったうえで、必要書類を持参したにも関わらず、上司とおぼしき人間が突然現れて、邪魔に精を出してきた。単に国の仕事を代行する形で地方の役所が業務を行っているに過ぎないのだが、どうもその人間は熱心に仕事をしているところを誰かに見せたかったらしい。こちらの書類が不備であると主張し、ついには権利の有無を問題にし始めた。ここでの権利は将来生じるかも知れないことをも含むもので、それを考慮に入れてその手続きを試みているわけで、以前にも同様の手順で何の問題もなく完了した旨を告げても、本人は皆の手前引っ込むわけにも行かない。ああなると悲惨な結果に繋がるわけだが、それは手続きをしにきた市民に災難が降りかかるだけであり、熱心さのあまり他人に迷惑をかけた人間には何も起こらない。このあたりに公的組織の構成員達の横暴さが表れることがあり、それに対して憤慨したことのある人もいるだろう。自分たちはただ文句をつけ、認める権利を突きつけて、こちらの弱みにつけ込むような行為を繰り返す。その結果は本人には何ら影響なく、ただ仕事を熱心に行ったということだけが残るのである。ところが実際にはその行為によって被害を受ける人がいるわけで、明らかに市民の利益を考えるべきところを、担当者の面子とか威厳を保つためだけに思わぬ被害を被ることとなる。これはどこか間違った方向に向っていることであり、どうにかして正しい方に向うような工夫が必要となる。ここで一番大きな問題となるのは、公僕であるべき人が自分の考えに基づいて、自分の意地を通そうとすることであり、それによって善良なる市民が被害を受けるのは明らかに方角が違っていると言わざるを得ない。その場は結局こちらの出した別の情報が功を奏したが、それとて担当者の主張からすれば正しい判断とは言えないものとなる。結局、引っ込みがつかなくなったところに、たまたま目の前に出された別の情報が言い訳の材料となり、本人が救われたのだろうが、周囲の人間から見れば滑稽極まりない茶番だったのではないだろうか。にしても、その相手役を仰せつかった人間には、やはり降って湧いた災難というしかない。
いつの時代でも言われることに、最近の若者は、とか、最近の子供は、とか、昔と今を比較する言い回しがある。実際に厳密に比較した話はほとんどなく、ただ単に目の前にある問題に対する愚痴のようなものが出ている場合が多いが、中には的を射ているものもあるようだ。最近話題になるものに課題解決があるが、これも見方によってはいい所を突いている。
与えられた問題を短時間に効率良く解いていくことを要求するものの一つに入学試験がある。全てがそうであるとは言えないまでも、かなりのものがそういった傾向を持っていることは否定できない。その手の試験を勝ち抜くために訓練された若者たちには、当然のごとく時間と効率という二つの課題を克服することが要求される。そのためには数多くの問題に取り組み、そこにあるきっかけを攫むことが必要で、きっかけさえ上手く引き出せればあとは楽なものとなる。そんな訓練を受けて、その要領を手に入れることで満足する人々には、自分で問題を解決する手段を開発する能力も、何が問題なのかを見つけ出す能力も必要ない。与えられ、既に知られた課題を、いかに滑らかに解決するかが重要となるだけである。このような環境で育った人々が社会に出るようになり、どうも様子が変だと言われるようになってから、既に数十年を経過しているだろう。受験戦争を勝ち抜いた戦士は、規定のものには強いが、予期せぬものには脆さを暴露するといった話が巷に流れるようになり、何処に問題があるのか、教育制度を再検討しようとする動きも出てきた。しかし、その後も何の変化の兆しも現れず、別の手法で教えられた人々では更なる症状の悪化が見られるほどだ。何処に問題があるのか見えないままに、次の課題が生じているようなもので、教育現場にとっては何とも頭の痛い問題になっているのではないだろうか。しかし、あの手この手を尽くしても変化がないのは、受験という制度の存在を認めたうえでしか方策を講じられないからであり、その環境下ではおそらく教育そのものから何らかの妙案が出てくることは期待しにくいのではないだろうか。それ以前の教育、つまり学校ではなく家庭での教えが重視され始めたのはまさにそういった事情があるからなのかも知れない。課題解決能力よりも、課題を見つけ出す能力を、と強調されたとしても、実際にどんなことをすればそれが実現できるのか、わかっている人はいない。自然に身に付いてくるものであればあるほど、それを強制的に身に付ける手法は見つからないものだからだ。そんな仲で、何処に問題があるのかをもう少し考えておく必要がありそうだ。それは、根本から問題を解決することはできないけれども、既に問題となってしまった人々の処し方も重要な問題であり、それを片づけるためにはそんなことが必要となるからだ。一番大きな問題は、課題を見つけられないということより、問題となることかどうかの判断がまったくできない人が増えていることにある。問題は他人から与えられるものといった間違った思い込みがあり、それが心の大きな部分を占めているために、自分から何かをしようとする動機が生まれてこない。そんな状況にある人々に、どんな働きかけをすれば、状況を打開できるのだろうか。ここに喫緊がありそうである。それさえできない人々に課題を見つけろと言っても、実はまったく無駄なのかもしれないのだ。
国が補償できなくなったから、あとは自分でやってくれ、というのが理由でもないだろうが、資産運用の重要性を強調する話が増えている。特に驚かされるのは、こういった感覚を身に付けるのは早ければ早いほうが良いといった動きで、小学生に株の取引や経済のことを教え込もうとする話だ。世の中の規則より、自らの資産の維持が大切というわけでもないだろうが。
モラルとか道徳というものがきちんとした形で伝えられなくなってからずいぶんと時間が経過した。その結果がそろそろ世の中に現れ始め、その存在を基礎とした考え方は古きよき時代のものといった雰囲気さえ漂うようになってきた。どちらが先になるのかわからないが、道徳観の喪失と最近の身の護り方の強調とはどこかに共時的なものがあるように思える。生活を守る方法の一つに、賢い資産運用があるのかも知れないが、それのみを強調する動きには危うさを感じないわけでもない。特に、社会との関わりを形成する途上にある子供たちにとって、遊びの一つと似ているところのある株式投資は、勝つことを第一にする考え方と重なったとき、何とも歪んだものの見方を身に付けさせるのではないかと思える。自分のものを自分で守るという考え方が間違いだとは思わないが、実際に社会全体によって支えられている仕組みの中で、自分の行為がどういった位置づけになるのかを意識しないのはずれを生じさせることになるような気がするのだ。そういったずれが何を呼び込むのかはわからないが、実際にそこにある社会において、明らかにずれた考え方が存在することにもそれに似たところがあるように思える。誤発注の話がいまだに続いており、その中心は証券会社の問題から個人投資家の問題に移りつつある。その過程でおかしなことが起こったことから、この国の市場原理の歪みに首を傾げる向きもあるのではないだろうか。たとえ間違いにしても、成立してしまったものはしたこととするのが売買取引からなる市場の原理であるが、今回はそこに間違いを認識したうえでつけ込んだかどうかを問題にする動きがあった。道徳観、まるでその喪失を憂えるかの如くの発言から、事は始まったようだが、要するに法的に正当な手続きに則ったものでもそこに明らかな過失の存在を認めていたときには、その行為は悪質なものと見なされるといった話なのだろう。まさに、人の道を説く様な話だが、実際にそうなのか怪しいところもある。その解決には思わぬ方向への展開が導入されたわけだが、そうなるとべつの立場の人間はどうなるのか、まさにそういった話題に関心が移りつつあるのではないだろうか。こういった話の時、資産の運用や管理の話をする場合とまったく違った観点での論理が展開されるのはまったくおかしな話であり、どこかに仕組みの未熟さが現れているように思える。過失の元をただし、その失敗を回避できる仕掛けを導入することはもちろんであり、もっぱらそういった方向に進むはずの改善策がまったく違った展開でぶち壊されているように見える。本当に正しいことかどうかはわからないが、株式市場での資産運用を盛んにしたいのであれば、避けるべきことがあるのではないだろうか。この国の人々の性格に合わないことを推し進めようとしているように見えてしまう。