パンチの独り言

(2005年12月26日〜2006年1月1日)
(自己、誤用、聞え、先取、予想、お節、初日)



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1月1日(日)−初日

 初日の出、見られただろうか。夜中に初詣に出かけた人たちの多くは、臨時運転の電車に乗って帰り、やっと寝息を立て始めた頃だろうから、そんな時間に外を眺めることもなかっただろう。一方、初日の出を眺めに出かけた人はどうだったろう。天気が良くて何とかなった人、逆に曇っていて何ともならなかった人、どっちだっただろう。
 今年の初日の出は、全国的に拝むのは難しいと言われていた。直前の予報でも北と南の一部でしか無理だろうという話だったが、実際にはそうでもなかったらしい。確かめたわけではないから、正確なことは言えないが、本来曇りであったはずの所が夜半過ぎても晴れていたから、何とか見られたのではないだろうか。初日の出にこだわる人々はおそらく深夜に車を走らせて、山の中腹や海岸に出るのではないだろうか。東側に視界を遮るものがなければいいわけで、どこでないといけないというものでもないだろう。確かに、別のこだわりを持ち、夫婦岩とともにとか、岬の灯台からといったことを条件に入れてしまうと、行き先が決まってしまうから、こんな予報が出た時には諦めが先に立つのかもしれない。しかし、予報はあくまでも先を読むことであり、常に確実なことが言えるわけでもない。直前まで迷った挙句、出かけて正解だった人もいれば、逆に行き先を誤った人もいるだろう。しかし、出かける事自体を諦めた人がいたとしたら、残念な結果に終わった場合もあるのではないだろうか。予報に従って行動を決めるのは方法の一つだが、外れた時にどんな気持ちになるのか、人それぞれに違いない。予報と言っても、行動を決めるのは自分自身であり、その最終責任は自分にあるという考え方をする人がいる一方で、そんな外れる予報を出す機関が悪いと、責任の所在を他人とする人もいる。どちらにしても、自分にとって不利なことが起きたわけだから、それ自体を変えることも出来ず、どんな諦め方をするかだけの違いなのだが、どうも後味が違ってくるようだ。他方、予報の精度が向上しているから、どうしてもそちらに頼りたくなる気分もあり、それが結局他人任せの様な雰囲気を引き出しているのかもしれない。しかし、予報自体はそれまでのデータ、経験による所が依然として多く、予想外とか突発的な変化には弱いものである。また、同じような経過を辿ったものが急激な変化を起こす場合もあり、データだけでは何ともならない部分も多い。ずいぶん改善されたとはいえ、今回のようなことも起こり、その度に腹を立てていても仕方がない気もする。予報は所詮は確率的なものと思っていれば、少しは気持ちも納まるだろうから、実際にはそんな気持ちで対応を練った方が良さそうである。言うほど簡単なことではないのだが、これが。

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12月31日(土)−お節

 移動の車中でラジオからお節料理の話題が流れてきた。そんな時期と思うより、ここまで迫ってからやっとなのかなと思ったのが正直な所だが、昔のことを思い出してみると毎年同じように追い立てられるようにしていたから、おそらく何処も同じといった感じなのだろう。その時の話題はお重への詰め方だった。
 正月に訪ねてくる客のために、何種類もの料理を徹夜で作り、元日の朝にやっとのことで詰め終わるということが何十年も続いていた。最近配られている出来合いのお節料理の写真や内容を見ると、自分の家とのあまりの違いに驚くが、伝統に基づく祝い料理とただ日持ちのする料理との違いだったのだろう。結局、子供たちにとっては、毎日続く同じ料理の中に、少しでも好きなものを見つけて、そちらに逃げることが出来たのは幸いだった。おそらく20を超えていただろう種類の料理を並行して進めていた母親は、ある時期までは全て一人でこなしていた。そのうち、大きくなった子供たちが芋類、慈姑などの皮むきを手伝い、人参の飾り切りをするようになって、少しは楽になっていたのか、でも年寄りになるに連れ大変さは増していたように思う。焜炉の傍で居眠りしながら料理を続ける姿には、何とも言えない温かさがあったが、その一方で何故そんなにしてまでという気持ちがなかったわけではない。とにかく、そんな年末の重労働の末に出来上がったお節料理を、お重にどう詰めるかは確かに大きな問題である。目で愉しむことが食べることの一大要素であるこの国の料理では、詰め方一つで美味しさが変わることもあるからだ。多人数の客を相手にするから、写真に載るような詰め方はできない。それぞれの品について数倍の量を詰めなければならないからだ。重箱も三段重ねのものを三組くらい用意し、彩りを考えながら詰めていく。味付けも問題で、酢で味付けたものと醤油味のものを一緒にするのはおかしいだろう。てな調子で、詰めているとその種類の多さに改めて驚かされる。子供にとっては苦手な苦みのあるものが結構多く、そういうものには興味を抱かないから、そんなことが起きるのだろう。そういえば、それぞれに祝い料理としてどんな意味が込められているかなんて、気にしたこともなかった。そこも、伝統とは違う所に端を発していたからだろうか。今懐かしく思い出すものもあれば、あれはどうやって作るのかと失われてしまった伝統を惜しむ気持ちになるものもある。こんな感覚は社会全体としてはそろそろ失われつつあるのではないか。お店で売っているものの方が美味しいとか、そんな面倒なことやりたくないとか、ついにはお節は嫌いだという声まで聞こえてくる。人それぞれと言ってしまえばまさにそうなのだが、それでは伝統は守れないことになる。

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12月30日(金)−予想

 市場が活況を取り戻し、経済の回復の度合を上回るほどの賑わいを見せている。これが本物かどうか、まだ疑いをもって見守る人もいるようだが、たとえ空騒ぎにしても、新規参入者が増えているところをみると、それなりの勢いが出てきたことが感じられる。但し、これが長続きするものかどうか、もう少し様子を見ないといけないことだけは確からしい。
 以前の小さなバブルの時に、参加した人の多くはかなり酷い目に遭ったようだ。その後、かなり長い期間低迷が続いて、興味も失われたように思えたが、実際にはいつの間にか回復してきたようだ。となり、再び興味が沸き起こり、そろそろ新しい人たちが入り込んできたのではないだろうか。今のところ、上向き基調は変わっていないから、大きな損を抱える人はあまり多くないのだろうが、それにしてもいつ頃までこの調子が続くのか、はっきりしない。このところの勢いが続けばかなりの上昇が期待できるのだが、一方でいつまで続くのだろうという不安も残る。勢いに乗った形での投資であるからこそ、全体の勢いが無くなったとき、どうにもならなくなる。しかし、上昇しているときに何を言っても聞く耳を持たない人はいつの時代でもいるものだ。この先どうなるのか、誰がどんな予測をするにしても、投資する人間にとっては自分自身の判断の良し悪しが全てである。そう考えると躊躇するところもあると思うが、さてどうだろう。ここ一年の伸び率だけ見れば、この国の市場はまさに活気に満ちたものだった。最近のように、良きにつけ悪しきにつけグローバルと叫ばれている世の中では、勢いが出たところは更に伸び、失われたところは衰退することになるが、その継続期間については何の保証もない。逆向きに進み始めたら、あっという間に転換してしまうわけだから、油断するわけにも行かないだろう。こんなときに、こんなことを言っても始まらないし、勢いに乗っている人にとってはまったく関係のないことに違いない。しかし、これまで同様、歴史は繰り返されるわけで、それがいつ、どういう形で起きるのか、正確に予測することは難しい。だからこそ、予想というものがこれほど多様な形で出てくるわけだし、ある意味無責任に行われるのだろう。数日後には、関係者の予測が紙面や画面を賑やかすことになると思うが、はたしてどんな調子になるのか。いけいけドンドンを選ぶか、慎重な態度をとるか、それぞれに異なる判断材料を持ち寄って、正月料理のごとく賑やかなものが出回ることだろう。でも、結局は、自分のことが一番大事、失うものが少なくなるように、注意したいものだ。

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12月29日(木)−先取

 伝統工芸の世界で後継者不足が深刻だったのはいつ頃だろうか。当時、世襲的なものは嫌われ、職人と称号を蔑視するように使う雰囲気があったが、最近はそうでもないようだ。この国の伝統から言えば、職人を大事にするところがあったはずなのに、何処からかそれを嗤うかの如くの考え方が入り込み、冷遇されていた時代があった。
 この頃はそういった見方に揺れ戻しが起こり、ずいぶん多くの若者たちが世襲も含めて参加するようになったと聞く。そんな中で昔と違うと思えるのは、親方の教え方だろうか。背中を見て育つは昔の親に関する話だが、技は盗むものとよく言われた。こうしてああしてなどと教える姿は当時は見られなかったが、最近は懇切丁寧にという人も出ているようだ。教える側の変化か教えられる側の変化か、おそらく両方の関わり合いから来ているものだろうが、伝統の伝え方が大きく変貌したのかと思える。伝統工芸に比べると、機械の部品加工に携わる職人の方は明るい兆しが見えないようで、職人技が途絶えていく様が伝えられる。工作機械の性能向上もあるが、そこにはまだ技の存在が大きく、それが途絶えることの影響は大きいはずである。しかし、これも系統立てて伝えていく手法は確立されておらず、どうしても盗みに頼る部分が大きいのが現状のようだ。そうなると、新人には大きな壁が立ちはだかることになる。技を盗むという言葉には、詳しい手順は含まれておらず、結局、自分の目で見て感じたものを再現するという言い方しかできない。重要となるのは自分の目で見て感じることであり、以前はその能力のない者は技術を継承できなかった。ある時期からそんな贅沢を言える状況でなくなり、手取り足取り教えてでも伝統を守るしかないある意味悲惨な状況が続いた。それから時が経過して、今、周囲を見渡してみると、まるでその頃の職人の境遇と同じものが様々なところにあることに気づく。職場の新人、学校の生徒、近所の子供、どれをとっても、何か物足りない部分があることに気がつくのだ。新しいことを学ぶ時、新しい技術を身に付ける時、それまでの経験を基に上に積み上げていく工程をとるのが当り前だったのに、最近はそれぞれにいちいち、一から十まで教える羽目になる。これとあれはよく似たものだから、応用できるだろうという期待は裏切られてしまうわけだ。現状がそうなれば、当然作業が滞るわけで、全てを懇切丁寧にという手法をとらざるを得ない。しかし、そんなことが続くわけもなく、そうやって懇切丁寧で育ったものが次の世代に何かを伝えるときに、一部を欠いたものしか伝わらなくなる。教えられた後に自ら編み出す工夫が入ることもなく、徐々に剥げ落ちていく技術の将来は暗いものと言わざるを得ない。一から十まで教えられ、それを忠実に再現することだけが大切とされた世代には、期待できるものはないということだ。では、こんな状況を打開するにはどうしたら良いのか。実際には、職場や学校に期待しても無駄なのだと思う。そんなことが始まる前の時期、つまり親と子が触れ合っている時に、そのきっかけを与える必要があるのだろう。だから、育て方の教室が必要であると考えるのは大きな間違いであり、実は、逆のことを考えるべきときに来ているのだと思う。親が子供に賢い生き方を教えるなどというのは以ての外であり、失敗を重ねて身に付けていく過程を暖かく見守ることが大切なのだ。一から十までは実は家庭から始まったことであり、それが子供たちの将来を決めてしまっていることに、それぞれの親が気づくことが大切なのである。

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12月28日(水)−聞え

 クリスマスが近づいていた頃、ある場所でクリスマスソングが流されていた。ファーストノエル、とても有名な曲の一つだが、日本語のものは聴いたことが無い。その時も原曲のような雰囲気で流れていたのだが、はて何を言っているのかさっぱりわからない。近くにいた友人曰く、あれは日本人だよ、だって発音出鱈目だもの。なるほどと思った。
 もう何年も続いている深夜番組で、外国の曲がまるでこちらの言葉を喋っているように聞こえるというコーナーがある。英語のものもあれば、何処の国の言葉かわからないものまであり、その聞こえの意外さもあるが、映像を加えることで内容を伝えやすくしてあり面白い。これはおそらく番組の司会者が昔ビートルズの曲を覚えるときに、詩を読むのではなく耳から聞こえたものをそのまま真似をするというやり方をしたことをきっかけとしているのではないだろうか。そういえば、元祖三人娘、と呼んだかどうか忘れたが、戦後しばらくしてから活躍した女性歌手達が、英語の曲を歌うのにほとんど誰かの真似をしていたと聞いたことがある。その方が自然に聞こえて、詩にある言葉を自己流で発音しては駄目だと言われる。その言語を母国語とする人々との違いは歴然であり、かえって意味など考えずに真似たほうがちゃんと聞こえるという。逆に言えば、彼女達の耳の確かさを証明しているわけであり、言語を習得するために最も重要と言われるものを備えていたからだろう。一方で、先日聞こえてきたものの悲惨さはかなりのもので、本人の意気込みとは裏腹に有名な曲であるがために更に酷い結果を産んでいたのではないだろうか。一方、同じ英語を喋る人々の中にも、どうも聞き取りやすいものとそうでないものがあって、それはそれで不思議な感覚を抱く。そんなに色々と聴いたわけではないが、今までで一番わかりやすいと思ったのは、カーペンターズのカレン・カーペンターである。彼女の美しい声を懐かしく思う人々は多いが、実はあの発音の聞き取りやすさに気づいた人もいるのではないだろうか。楽譜を見ながら曲を聴いてみるとなるほどと思えてくる。曲の作り方も影響しているには違いないのだが、一つ一つの音を大切にしている感じが伝わってきて、感心させられてしまうのだ。母国語なのだから当り前、と思う人がいるのなら、是非他の人たちが歌っているものと比べて欲しい。また、この国の歌手の歌ったものと比べるとその違いが明らかで、なるほどと思えてくる。そういえば、単純に会話を交わしているときでも、分かり易い人と分かりにくい人があり、母国語でも困る時があるくらいだから、外国語となれば尚更である。地方ごとの違いによるものもあれば、個人による違いもあり、こちらの耳の問題だけとは言えないような気がしている。いずれにせよ、曲として聴く場合に、歌の場合には詩の聞こえ方が大切だということなのだろう。

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12月27日(火)−誤用

 言葉は時代の移り変わりとともに変化すると言われる。ここでも何度か取り上げてきたが、以前とは異なる用法やまったく新しい言葉など、ほんの一時的な流行から定着するものまで様々である。ただ、新しい古いを論じる場合や、正しい間違っているを区別する場合には、何が本来のもので何処が違うのかを知っておく必要があるだろう。
 ラジオやテレビではそんな番組が時々流れている。言葉おじさんと呼ばれる人が出てくるラジオの番組では、新旧取り混ぜて言葉の用法を紹介したり、誤用を戒める意見が紹介される。一方テレビでは、ずっと昔に自分の芸名を競りにかけてしまった芸人が、今の芸名をもじった大辞典を使って若い芸人に言葉を教えている。これらを聴いたり、眺めたりしていると意味を正しく伝えるために言葉の使い方に注意すべし、という戒めが聞こえてくるように感じる。逆に見れば、それだけ言葉に乱れが生じていて、お互いの理解の妨げになりかねない状況にあることを表していることになる。そんなに酷いものかと思う人もいるだろうが、相手が何を考えているかつかめないまま話を続けることは難しいし、自分の思いを相手に伝えることができなければ話にならないわけだ。だから、共通理解としてある言葉がどんな意味にとられるかを知っておく必要があるということになる。ちょっと不思議なのは、元々言葉には本来の意味が備わっているはずなのに、共通理解などを論じることで、伝達手段としての言葉がいかにはっきりしないものかということなのだろう。テレビの方で以前取り上げられた話で、結構皆の印象に残っているように思えるのは、「あげる」と「やる」の使い方の違いについてである。花に水をあげるとか、犬に餌をあげるとか、そんな言い回しを聞いたことがあると思うが、これがおかしいと指摘したものだ。先生に水をあげるのと、花に水をあげるのは、同じことと思う人には、「あげる」の前にさしを付けて、「差し上げる」としたときにどんな印象を持つかで決めるとよいとするものだった。巧い教え方だなあと感心していたが、一方で巷に溢れる「あげる」に辟易していることに気がついた。子供に教えてあげるとか、器具に付属品を付けてあげるとか、其処に別の尊敬すべき存在があるならわかるが、物や目下の人間に差し上げるのは何事ぞ、と思えるわけだ。こういうところは、流石、天下の放送協会と思っていたが、協会内にまで病気が蔓延しているからこそだったのかも知れない。水位の異なる水路を繋ぐ通舟堀と呼ばれる施設を子供たちに説明する人々の話を伝える中で、話をしている人が「子供たちに教えてやる」と言っているにも関わらず、字幕では「子供たちに教えてあげる」とあった。おやおや、こんなことでは困りますねと感じた人がどのくらいいたのやら。まあ、そんなことを疑問にも思わない人が増えているからこそ、それを憂える番組が作られるのだろうが。

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12月26日(月)−自己

 自分が良ければいい、自分が幸せになれるのならそれで良い、そんな意見を言う人が増えているような気がする。それをまた、つましいものと受け取ったり、遠慮深いものと受け取る風潮があり、どこかが大きくずれているような気持ちになる。自らのことをまず考えることに異論を挟むつもりはないが、ここで出る自分には何か別のものが含まれそうだから。
 たとえば、自分のあとに「だけ」という言葉を付けたらどうだろう。雰囲気ががらりと変わるだろうか、それともまったく変わらないと思えるだろうか。後者だとすると、この話は読んでも首を傾げるばかりになるだろう。何故そんなことを考えねばならないのか、その何処がおかしいというのか、といった印象を持つだろうから。しかし、前者の立場に立つ人の中には、その言葉が付いても付かなくても、其処に何かしら異様な雰囲気を感じる人がいるのではないか。自分という言葉にはその個人のことだけが含まれ、血の繋がった家族だろうが、同じ職場の人間だろうが、仲間的なものの存在は排除される。全てがそういうことに繋がるとは言えないのかも知れないが、最近耳にする自分にはそんな意味が込められているように思えるのだ。自分さえ良ければ、他人はどうなっても構わない、と言ってしまうと、あまりにも極端な意見に聞こえるが、文脈からはそんな意味さえ込められているのではないかと思えることも多い。何故そんなことを考えるのだろうかと訝るが、それを発した本人にはそれほどの深慮はないようだ。それが当り前のことだと思えるからこその発言だが、それが周囲の人々に与える影響については理解が及ばないということだろう。自分が一番大切であることを否定するつもりはないが、それを最優先にすることで結果的に逆の目が出ることにまで思いが及ばないといったところに不安がよぎるのである。いかにも正当な主張のように見えて、実際には飛んでもない意見となるものにはこんな話が多く、本人が気づかないだけに手の施しようがない場合がある。おそらく、本当の競争が存在しない世界で、仮想的な競争の中に身を置き、そこで勝手な結論を導くことに力を尽くした結果なのだろうが、その状況の何処に誤りがあったのか、そろそろ真剣に考えたほうがいいように思える。努力をしなくてもそれなりの生活が送れるような社会になり、真の意味での競争が無くなってきて、無駄と思える努力をする必要もなくなった。これは子供たちが育っていく過程においても当てはまり、本来根本的なものが育まれるはずの家族関係さえ、そんな形をとるものが増えてしまった。自分のことさえ考えていればいい、という言い方もあるだろうが、一方で、自分のことを考えるので精一杯という見方もある。そういう環境で育った人々が、自分が、自分がと言うことには何の問題もないと見るべきなのかも知れない。しかし、社会を考えたときに、はたしてそれで良いのか。こちらの議論をしないままで良いのかどうか、さてどうだろう。自分も他の人も、というのが欲張りな考えだとするならば、社会というものは成立しない。社会が既に存在するものとして、こういうことを議論するのも間違いである。様々な部分で崩壊が始まっていると言われている大元はこの辺りの歪みにあるように思えるのだが、どうなのだろうか。

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