パンチの独り言

(2006年1月2日〜1月8日)
(幻惑、交替、普通、利、無理、投稿、躾)



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1月8日(日)−躾

 小さい頃、同級生が訪ねてくると、帰ってから母親から言われたことが何度かある。あの子は挨拶がちゃんとできるねえ、それにしても大人びた挨拶だったと。その後の展開は想像に任せるにして、挨拶ができるかどうかはまるでその家の躾ができているかどうかを測る指標になっていたように思う。今は、どうなのだろうか。
 ある掲示板で、人間に本能はあるか、という飛んでもない質問が投げかけられ、かなり長い期間存在している。こういった考えを持つ人々にとって、本能とは野蛮なものあるいは程度の低いものであり、高度な知能をもつ動物にとっては不要なものと思っているのではないだろうか。あまりにも馬鹿げた考えに呆れるばかりだが、別の形でこういったことを考えている人が世の中にいるように思える。つまり、人間は元々高度な知能を持ちあわせ、あらゆることを自然に身に付けていくと思っている人がいるように見えるのだ。教育とは教え育むと書くように、何事につけ、教えることが必要である。本能だけに走っていたら、何もできないだろうし、教えられた範囲でしか物事ができなくなるという考え方がずっと昔からあったのに、どうも最近はそれに異論を唱えるかのごとくの行動をとる人がいる。ダーウィンも進化を考えるときに、人間を対象としての展開を考えたことがあったそうだ。その理由は、ビーグル号での航海の時に訪れた島の住民を本国に連れ帰ったあとでの、彼らの変貌に対する素直な驚きにあったとされる。原住民達は能力がないのではなく、その機会が与えられなかっただけなのだと。其処から想像できるのは、子供たちを巧く導くことの重要性であり、それを怠ることは自分自身にとっても、子供たちにとっても大きな傷を残すことになるということである。躾とはまさにその一つの形であり、社会生活を送るうえで最低限の要素を身に付けさせる機会なのである。その機会を、自由とか奔放とかいう言葉で覆い隠すことで、失わせ、将来の芽を摘み取っているとしたら、これは躾の押し付けよりも大きな害を及ぼすことになる。本能の有無を論じるほど無知な人々にこんな話は無用だろうが、それよりは少しまともな人々には何かの役に立つのかも知れない。乳幼児期の親との関わりの重要性が最近かなり強調されるようになってきたが、一方で子育ての基本である躾より、知識を重視する動きは依然として強いままである。頭でっかちで素直そうに見える子供たちが、実際には自分で何かを自由に考えることが苦手なのは、躾という束縛を経験せず、勝手気侭な自由を与えられてきたからなのではないかと思える。家の外での行動、他人への挨拶、それらを大人と同じように行うことを要求するのはどうかと思うが、少なくとも他人との関わり方を教え込むことは本能に走りがちな子供たちに必要であると思う。それとは別のことかも知れないが、礼儀正しくという言葉にどんな意味があるのか、成人式を迎える人々に是非聞いてみたいものだ。

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1月7日(土)−投稿

 気がついている人もいるだろうが、このサイトにも阿呆な人々がやって来る。ここ数ヶ月の間に、ほぼ毎日のように自分たちのサイトの宣伝を掲示板に貼り付けていく輩だ。下手くそな英語とともに、同じことの繰り返しをする人々に呆れるばかりだが、これはまさにネットの弊害というしかない下劣な行為だと思う。何も考えられない人のする。
 グローバル化などという言葉がどんな意味で使われているのか、国内はさておき、果たして海外ではどんな目的で使われているのだろうと思うことがしばしばある。全体が繋がり、全体を一つとして何事にも取り組む姿勢は、ある場合には評価できるのだろうが、実際に今巷で起きていることにはそんな雰囲気は微塵も感じられない。とにかく、塵芥が増えただけとしか思えないのだ。塵芥としか思えない情報、塵芥としか思えない品物、そして塵芥人間である。これらの全ては結局人間が作り出すものだから、塵芥が局地的なものから世界的になったことにより、被害を受ける人間の数が増すわけで、馬鹿らしいとしか思えない話である。さらには、経済的に豊かになることが命題のように扱われる現代社会では、心の豊かさを犠牲にしてまで、馬鹿げた行状に精を出す輩が多数発生する。便利というものは一方で不便を産みだすものだと言ってしまえばまさにその通りだが、しかし、そういうことを承知したうえで普及に努め、其処から生まれる弊害には目をつむるという人々には呆れるばかりである。当然、そういった二面性が存在するのは仕方のないことなのだが、一方で悪い面を被うための措置も考えずに、ただ自らの利益を追求するような姿勢には賛同しがたい。これまでに、米国、デンマーク、スウェーデン、オーストラリアなどの国からの投稿として、稚拙な貼り付けをしていった人間はおそらくそれらの国の中継サイトを利用したのだろう。それによって、自らの足跡を残さないようにすることで、自らの正体が露見しないようにしていたに違いない。それこそ違法行為を行う人間の卑劣な考え方の現れであり、一方で現在の仕組みの抱える問題となっているものである。最近の侵入はマレーシアの大学からのものであり、それが発信源になっているのかも知れない。ここまで来ると貧しい人間の行為に憤りを覚えるだけでなく、そういう人間がこの国だけでなく世界中何処にでもいることに驚くばかりだ。独り言のご意見板に下品な宣伝を貼り付けていく馬鹿な人間にも呆れるが、これがヒトという生き物が持つ性質の一つであることに落胆するばかりだ。自由経済が産みだした弊害というと語弊があるかも知れないが、根っこにはそんなものがあるように思えてならない。

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1月6日(金)−無理

 自由と責任、最近一緒に論じられることの多い言葉だ。自由を望むのなら、其処に責任が生じる、という繋がりで話されることが多く、無責任な自由を主張する人々に警告を発している。確かに、勝手気侭にやった挙げ句、何の責任もとらないというのでは、あまりに酷すぎる。そんなことが度々行われると、こういう文句を言いたくもなるわけだ。
 若い人たちは何でも勝手にやっているといった苦言を年寄りが吐くことは多い。しかし、逆のことも沢山あることに気づく人がどれくらいいるのだろうか。親が子供の面倒をみるのはいつ頃までか、という調査が行われ、大学を卒業するまでが精々といった結果が出たそうだ。高度成長期には無理をしてでも大学まで行かせてという親もいたが、不況になりそんなことに構っていられなくなったという話をよく聞く。子供の面倒を大学卒業までみると言っても、一部を負担するだけで学費と生活費を全て負担する親は減っているということだ。自分たちは親に面倒をみてもらったのに、子供の面倒は先立つものが無いから、ということなのだろうが、ここに勝手が罷り通っているようにも思える。家を建て、その借金で苦労するからと言い訳をする人もいるようだが、子供たちが他所に行った後、広々とした家の意味は何処かに行ってしまわないのだろうか。投資するものがどこかずれていないのだろうか。そうではなく、持ち家もないけれど、生活が苦しいのだ、という声も聞えてきそうだが、果たしてどの程度のものなのか、はっきりとしない。これに似ているが別の勝手と思えそうなものに、学費の補助制度がある。自治体によってはかなりの割合の人々が利用しているそうで、困った人を助けるのだから、困っている自分たちはそれを受けて当り前、という意見が聞えてきそうだ。しかし、それぞれの人々の生活はどの程度困窮しているのだろうか。制度があるのだから、利用できる可能性のある人は全て利用すべき、というのだろうが、各家庭の困窮度がどの程度ものか、収入だけで測れない部分も含め、もう少しデータが欲しいところだ。こういうものの利用を勝手で片づけてしまっては、本当に困っている人々のことを無視することになるから、それはそれでいけないとは思うが、これほどの増加を見ると其処に何かしら別の要素が入っているように思えてならない。それなりの生活をするために、制度を利用する人々がいたとしても不思議でないのだ。元に戻して、自由と責任とこの話との繋がりだが、子供に向って、好きにしろ、と言っておいて、だから、子供の面倒をみる必要はないとする親が増えているような気がしている。押しつけられた自由の責任をとらされる子供にとっては大迷惑な話であり、こんな無茶なことはないと思う。しかし、それを当然と思う人々がいて、あれもこれもと勝手をする。果たして、こういう人々を社会が支える必要があるのか、大いに疑問が残るのだ。

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1月5日(木)−利

 世の中皆が休みたいときでも、電波に乗って流れるものは休むわけにも行かない。ずっと昔なら毎日誰かが犠牲にならねばならなかっただろうが、今では便利なことに録音、録画がその代わりを果たしてくれる。これは生番組だろうか、などと考えながら観たり聴いたりしなければならないのは何とも不思議だが、惑わされるものも多くなった。
 自分たちは休みをとっているのに、画面に現れる人間はその時出演しているべきと考える人もいるだろうが、まったく勝手なものである。ニュース番組を除けばほとんどのものは前もって録っておいたものを使うのが当り前なのに、そう思いたくないところもあるのだろう。確かに、わざとらしく着飾って時期にあわせているのが、良い印象を引き出すとは思えないが、まあその位大目に見てやればいいのにと思える。テレビだけでなくラジオもそういったものが多く、街頭中継は流石にそのはずもないだろうが、多くの企画番組は生放送ではなく録音のものが多い。特に有識者が出演するとなれば、彼らとて皆が休むときには休みたいだろうから、事前に録音し、編集したものが流されるのも止むを得ないだろう。これとは別に、以前流されたものをそのままもう一度流す場合もあり、良く言えば、注文に応えてということなのだろう。中には面白いものもあり、流石に選ばれたものだなあと思ったりもする。そんな中で、男と女どちらが得か、といった内容のシリーズが流されていた。ジェンダーの研究者が意見を出す役として登場したものだが、なるほどと思えることあり、おかしいなと思えることあり、といった具合で、全面的に賛成できる話ではなかった。ある意味、当り前のことだと思うが、男女の性差をどう扱うかによって、この中の話はまったく正反対の結論が導かれる。性差があることを当然と扱うのは当り前のことだが、それを別の差に結びつけるかどうかがこういった議論の核をなす問題なのだろう。それにしても、家事、子育てをある程度楽しむことができた男性の研究者が男女が何事にも均等に力を合わせるべきとする話は、それはそれで大変結構なことなのだろうが、ずっとでは困るという本音は果たしてどう受け取られるのか。また、少子化を招いているのは企業の間違った考えに基づくという話も、ちょっとどうかと思えた。特に、次世代を産み育てるのは女であり、男はその役割を果たせないのに、企業が偏向した雇用を実行している話に至っては、極論にしか思えない。男女を運命共同体と見做すかどうかが根本的な違いを産んでいるのだろうが、産むことを考えればその大前提が必要である。となれば、次世代を産みだすかどうかは、男女の組み合わせの問題であり、女と男の違いから来るものではないはずだ。経済活動の歪みに対する不満をそういった形で批判するのはどうかと思う。さらには、男と女、どちらが損かという話題については、損得勘定で動く今の若い世代の代表のように思えた。有利不利、これらは見方によってまったく反対の意見が出るし、それから生まれる損得に至っては簡単に断定できるはずもないだろう。なのに、そういうことに白黒をはっきりさせようとする。そのあたりに歪みを感じる人も少なくないだろう。元々、自分に得になることは歓迎だが、損は嫌だという考えで動く人間が、不利とか損とかを論じているのには抵抗を覚える。だったら、何事にも損も得もないことにせねばとすべきだ。有利不利についても同じことで、こんなことを性差の議論に持ち込むこと自体、どうにも的外れに思えた。

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1月4日(水)−普通

 世も末、という表現がぴたりと当てはまりそうなほど、荒んだ世の中になり始めているように見える。と言っても、実際にはほんの一部のことであり、それを大袈裟に取り上げ、伝える情報伝達機構の問題なのだろうが、それにしてもかなり増えたように思える。本当に世も末なのかどうかは明らかでないにしても、歪みがあることだけは確かなようだ。
 車を運転していても、道を歩いていても、子供を学校に通わせていても、他者との接点が生まれる所にある程度の信頼の存在を無意識に期待しているのではないだろうか。もし、その信頼が大きく揺らぐことがあれば、社会との関わり、他人との接触、全てにおいて、根本的に考え方を変える必要が出てくる。他人を信じることが出来ないのであれば、疑いを基本として全ての行動をとる必要が出てくるわけで、そういった見方からすると、現代社会に住む人々にそこまでの覚悟が出来ているとは思えない。心の準備ができていない所へ、様々な凶悪事件や悪質な詐欺行為の報道がなされると、世も末という思いがする以外には、何も方策が思い浮かばない状況に陥るのではないだろうか。悪質な行為を繰り返す人々をもっと重罪にして、厳しい罰を下し、反省を促すべきという意見も聞こえるが、実際には反省自体が起こるという期待の下に出された考えだけに、ある種の人々には全く効果を発揮できない。更に重く、更に厳しく、と言っても、そこに更生の道を残すことが大前提になっている以上、その隙をついてくる人々には無力な仕組みとなってしまうわけだ。人間は全て本来は善人であり、それがあるきっかけによって悪人になっただけ、と考えれば、こういう手法は正当なものとなるが、実際に最近の動きの幾つかを見てみると、果たしてこれが正しいのかと考え込んでしまう。たまたま魔がさして悪事を働いただけ、ということであれば、場合によっては何とかなるのだろうが、心の底からその行為を信じて行い、悪事を悪事と思えない人々には通用しないものなのだろう。では、どうすれば良いのか、簡単に答えが出せるものではないが、一つだけ言えそうなことは悪くなってからの更生を基本として考えてきたことに対する見直しが必要だろうということだ。ごく最近までは人は全て善人に生まれ、そのまま普通に育てれば善人になるはずという考えがあったのだろうが、そこに綻びが出ているように思える。普通とは何か、普通に育てるとは、という部分にかなりの幅が出てきたことによるものだろう。普通になるようにということと、普通に育てることは、明らかに違うはずなのに、同じに扱われているように見える。このまま行けば、無理矢理普通にされた子供たちがその歪みの力によって捩じ曲げられた心のおもむくままに、非道な行為を繰り返すことになるのではないだろうか。そこの部分だけは少し考えるだけで何かが出来そうに思える。但し、多くの人々がこれを問題として捉えない限り、何も起きないだろう。

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1月3日(火)−交替

 この国の生産力を高めたものは何か、後先考えずただ働くことに没頭した世代のお陰、という声が聞かれる。どの世代をさすことなのかはさておき、数の問題からすると戦後間もなく生まれてきた世代、いわゆる団塊と呼ばれる人々がかなりの寄与をしてきたことは事実のようだ。
 今、その世代が退職の年齢にあり、属する組織にもよるが、既に職場を去った人がいる一方で、これからその年代に向かう人たちもいる。このところ就職戦線の厳しさが企業の勢いの衰えとともに激化して、学校を卒業してくる人々の行き場所が無くなっていたが、この時期に一気にその間口が広がると言われている。それに加えて企業成績の伸びが始まり、その上乗せもあって一時のお祭りのような雰囲気は無いものの、今後も求人の数が伸びると予想されている。そうなってくると、別の見方としてこれから辞めていかねばならない世代を引き止めるという話題が出される。新人を採るよりも、経験者を安い賃金で働かせた方がいい、という考えが基になっているのだろうが、さてこういった考えはどう受け取られるのだろうか。実際に、経験者を残すということはそれだけ新規採用者を減らすことに繋がり、果たして将来の状況がどうなるのか、はっきりとした見方が出来ていないと危ないように思える。このところ続いてきたその場しのぎのやり方を、少し景気が落ち着いてきた時点でも続けようとするのは、あまりに安直な考え方なのだと思うが、一度こういうやり方に慣れてしまった人々は他の手法に手を付ける気にはなれないようだ。実際には、様々な形で方針を変えてきて、対処するような態度で実は間違った方向に導いていた人々が、今あるいは少し前に辞めていった世代に多かったのだと思うが、それらの人々を経験があるからという理由で残すのはかなりの危険を伴うように見える。技術者に限って言えば、このやり方は歓迎されるだろうが、経営に携わった人々に関して言えば、やめておいた方が良さそうな気がする。そんなことより、次代を担う世代の人々をしっかりと育てていく方針をたてた方が、長期的には良い結果を産むだろう。しかし、実際には近視眼的な見方の方が優先され、短期的な数字にばかり目を奪われた時期が長かったからか、どうもそういう方向に目を向ける人々が少なくなっているように思える。更には、最後まで自分たちのやり方を押し通したがる人々がこの期に及んで活躍の場を探しているから、色々な所で問題が複雑化しているように思える。潔く身を引いてくれ、と言われてもなお、残ることを希望する人々の心に何があるのか想像もつかないが、輪廻、循環、順番、何でもいいけれど、回さないと回らないことは確かなのだ。

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1月2日(月)−幻惑

 数字は正直なものである。そのときの状況をそのままに伝えるものだからだ。ただし、状況把握の仕方、結果の解釈などに関しては、数字がそのまま伝えられるものは少ない。そこに、人為的なものが入り込み、誰が見ても同じということにはならないからだ。同じ数字なのに、と思うこともしばしばある。
 このところ、話題に上っている数字と言えば、人口の増減だろうか。自然減少という、何ともつかみようのない表現で表されているが、とにかく死ぬ人より生まれる人の数が少なくなったということだ。出生率という数字も実際には何を表しているのかはっきりしないものだが、とにかくその低下が問題視されるようになってからずいぶん時間が経過したが、改善の兆しも見られず、ついに人口減少が数字として現れてきた。子育て支援なる施策が検討され、環境整備は進んだと言われているが、現実にはある程度の歯止めにはなるものの、逆方向へ働く力とまでは行かないらしい。こうなってくると、環境だけで事を片付けるのにも無理があり、結局は心理的なものの根本に迫る必要が出てくるのではないだろうか。人は皆身勝手なものなのに、何故だか子供を育てる気持ちになる。前半部分に反論する人がいたとしても、後半の疑問に対する答えを用意できる人は少ない。本当は理由など存在しないのかもしれず、理屈をこねているうちは悪化する勢いを止める事ができないのかもしれないのだ。そういう意味で、数字の扱い方を考えてみたり、その解釈に時間を費やす事は得策ではないのかもしれない。もう一つ、家族を考える上での数字として注目され始めたのは、離婚率の低下なのではないだろうか。熟年離婚という何ともへんてこりんな言葉が流行し、やっと解放されたという声が伝えられて、首を傾げる向きもあったのではないかと思うが、その数値がこのところ低下してきたという。これに対して、解釈を加える人々がおり、またかと思う気持ちを持ちながら、彼らの講釈を聴いてみた。要は、年金の扱いの仕組みが変わる事による、一時的な減少に過ぎず、改正後に一気に上昇するとの事。何ともはやという思いがした。確かに、そういう金の事だけを考える人が増えているのは事実だし、こういう意見を出す人々の多くはまさにそういう世代を構成する訳だから、一番理解できていると思うのも無理はない。しかし、そんな仕組みに本当に左右されるのだろうか。老後の生活を考えれば当たり前である、という考えを持つのであれば、期待したほどでもない額の年金を奪い合ったとして、何の意味があるというのだろう。これは、まさに年金制度が抱える問題から目を逸らせるための戦略なのではないかと思えてくる。本質とは違う問題にすり替え、自分たちの都合のいい方向に向かわせるというのは、今の政策の根本を成す戦略であり、これに惑わされる人々の多いことに驚くばかりなのだ。一種根も葉もない噂のようなものを、まるで本物のごとく扱う人々の話に耳を傾けても仕方ないのではないだろうか。数字にまつわる話にはこんなものが多いことに、そろそろ気づくべき時期が来ているように思う。

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