パンチの独り言

(2006年1月9日〜1月15日)
(適応、再雇用、選択、幻影、公平、闘い、注意)



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1月15日(日)−注意

 子どもたちが危ないという声がある。誘拐に遭ったり、悪戯されたり、最悪の場合殺されることもあるからだ。そんな危険が一杯あるという意見の人々は、子どもたちを守るための方法を考え出し、それを広めようと一生懸命になっている。気になるのは、その多くが何らかの経費を必要とすることで、安全を手に入れるためには仕方がないという声があることだ。
 社会がこれほど荒んでくるものとは想像もしなかったが、実際にどれほどなのか実態をつかんでいる人はいないだろう。何しろ、報道される話はどれも極端な事件ばかりで、何度も同じことが繰り返し流されるから、その頻度を冷静に把握することは難しい。更には、その伝え方に独特の調子があり、送り側の思惑が付け加えられている場合も多いから、すんなりと受け入れることは危険が伴うだろう。それにしても何かが起きてしまえば悲惨な結果に至ることも多く、そんなことが自分の子どもたちに起こらないように心がけるのは親の務めの一つであることだけは確かだ。しかし、世の中でこんなに大騒ぎになっている一方で、そういう空気が全く流れていない世界もあるようだ。子どもが遊んでいても、自分たちの話に夢中になってしまい、全く気にも留めない親の姿は、依然として其処彼処で見られるし、子どもが何かに手を触れても、注意しない親が多い。そういう場合に限って、何か事故が起きてしまうと、管理責任を問う声が親から上がり、自らが子どもたちに対してすべきものは脇に追いやられる。この違いはどこから来ているのか、必要以上とも思えるほどの心配をする親がいる一方で、全く気にも留めない人々がいる。どちらにしても、無事に生き延びれば無事なわけで、其処には何らの違いも生まれない。しかし、何かことが起きてしまうと、全く違った世界が目の前に現れ、起きてしまってから何かを悔やんでみても始まらないこととなる。逆に心配しすぎる親たちの子どもに何も起きないかと言えば、そうでもないからことは単純ではない。起きるか起きないかはおそらく確率的なもので、起きないようにすることはかなり難しい。その代わりに、起きてしまった時にどう対処するかを考えておくことで、被害を小さくすることが重要となるようだ。子どもによることだろうが、何にでも興味を持つ子をそのままにしておくと、何かしらの事故に遭う可能性が高い。火傷や切り傷程度で済めば良いが、火遊びが火事に繋がったり、走る猫を追いかけて交通事故ということもある。ちょっとした注意を促しておくだけで防げることもあるわけだから、親の責任は重いはずで、それをきちんとやることが要求される。しかし、勝手に走り出す子ども、何にでも手を出す子どもを見ていると、何かが足らなかったことが感じられるのだ。口の出し過ぎもいけないだろうが、伸び伸びと育てるという口実だけの放任も困ったものというわけだ。それがそのまま大人になってしまって、実際にはそのツケを周りが払わされるのも困ることだが。

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1月14日(土)−闘い

 景気が良くなっている、と書くと語弊があるだろうか。給料が上がらず、税金だけは上がり、その上様々な経費が嵩むと来れば、好景気など何処の世界の話かと思うしかなくなる。しかし、現実には株価が上昇し、企業の含み益も増し、流れとしては上向きとしか思えない。問題はそれがあるところに反映されないことにあるのだろう。
 既に死語と思われていた春闘という言葉がこの頃巷で踊っている。労働者がそれと共に踊るほどではないにしろ、そんな闘争の様式は死に絶えたのではないかと思われていたことからすれば、この復活はまさに景気の状況を表しているように思える。しかし、この辺りの議論を見るかぎり、どうにも認識の差ばかりが表面に現れ、勝手な人々の身勝手な意見の羅列に至っては、急場をしのぐためとは言え、こういう連中に協力したことを悔やむ人もいるのではないだろうか。悪い時には我慢しろと言い、良い時にはまだまだだと言い、結局上に立つ者たちにとって、安心できるときは永遠に訪れないことがこの辺りの遣り取りからうかがえる。そして、その後に来るのは弱者にとっての選択肢の少なさを実感する瞬間であり、強い者、大きい者たちの持つ特権の横暴さを再認識するわけだ。困ったときには全体のことを考えろと強要し、好転してくると自分たちのことだけ考えるなと言う。闘争の様式からすれば、いかにも道に外れたやり方が横行した時代が長く続き、結局その美味みを味わった人々にはそれが当り前となってしまった。其処に突然復活が謳われたとしても、まずは無視するか反対するかの選択しかないのだろう。横並びの弊害を主張する構えにしても、逆の意味での能力給の弊害をわざわざ論じるつもりなど無い。なぜなら、能力給という名の下に行われた賃金格差の設定ではなく、単純な賃金抑制という経営者側にとって都合のいい制度の問題点を取り上げる必要など無いからだ。横並びはいかにも矛盾に満ちた制度と論じているが、逆に目標設定をすることによる努力の奨励という見方をしていた時代からすれば、そんなことを声高に主張する連中の頭はいかれているとしか見えないだろう。結果がどうなるのかはよくわからないが、とにかく訴える側にとっては楽観できない状態であることには変わりがない。一方、景気が良くなっているのは幻想であり、様々な悪化要因が存在するという主張については、実際に悪くなるときの論法との違いが明らかであり、身勝手というか、自分たちにとって都合のいい論理の展開に相変わらずの様子がうかがえる。これまた上に立つ人間か、それとも逆の立場か、という立場の違いから出てくる話であり、一概に正しい論理とはいえない。将来のことを考えて、という論法を展開するのであれば、今早速の手当てとしての必要性を以前利用したことについて、どういう思いがあるのかと思える。ちょっとした口先だけの論理を使うことに慣れてしまった人々にとっては、こういう状況でも同様の手口を使うのが当り前となる。しかし、これが大いなる矛盾を孕んだものであり、自己矛盾の蓄積が今後大きな障害を産むことになるのは確実なわけだから、もっと精度の高い議論を呼びかけるべきなのではないだろうか。聞く耳持たぬ人々の氾濫は、主義主張を持つ人々という高い評価から身勝手な人々という低い評価への転換を予感させるものだ。

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1月13日(金)−公平

 どういうわけだか、飛んでもなく忙しくなっている。色々なところから仕事が舞い込み、何が何やらわからぬままに、それをこなす必要がでてきているのだ。まあ、適当にやっていてもそれなりの物ができてくるから、問題が生じることはないのだが、それにしても忙しさの方はいい加減なところで抑えて欲しいと思うこと頻りだ。
 人が仕事をこなす量は、人それぞれに決まっているから、需給のバランスからいえば、処理する量が多ければそれだけ入ってくる量も増えてくることになる。それはそれで、全体として調節されていればどうということもないのだが、どんな組織を見ても実際にはそうなっていないことの方が多い。つまり、大量の仕事をこなす人がいる一方で、ほとんど何もしていない人がいるわけだ。こういう不公平はいけないと誰かが指摘したとしても、ではそれを解消する手立てはあるのか、という次の課題が出された途端に話が難しくなる。なぜなら、何もしない人は何もできないからという答えにすぐに行き着くからだ。そんな調子だから、結局こういう歪みを残したまま組織は突っ走るしかない。そんな中で疲れていく人は脱落し、何もしていない人はピンピンして居座るという状況が続いてしまう。まったくどこかが間違っているのだが、何処と指摘できないからそのまま放置するしかないことの方が多い。とにかく、公平性が重要とする人々にとってはいちいち頭に来る状況なのだろうが、元々能力に格差が歴然としてあるのに、そんなことを言っていても始まらないのではないだろうか。一方で、そういう無能な人間を雇わないようにすべきという意見も出るだろうが、それ自体もそんなに簡単に片づけられる問題とは違いそうである。いずれにしても、集まるところにはどんどん集まり、そうでないところはぽっかりと穴が開くというのは、物理現象か何かで話を聞いたことがありそうで、たぶんどこかの学者が経済か何かの分野で取り上げていそうなことである。いずれにしても、そんな分析やら解説やらが提出されたとしても、解決の糸口が見つかるわけでもなく、結局現状に何らの変化も生まれないということになってしまうわけだ。そういう中で、不公平感を前面に出すことは如何にも当然のように思えるが、それが解決に向わない場合には、かえって逆の効果を生じさせ、人々の心の中に歪みを蓄積する結果を導く。結局のところ、そんなことを気にするよりも目の前の山を片づけてすっきりしたほうが、心のためにも体のためにも良いと言うわけだ。わかっていてもそうすることはとても難しい。やはり周囲のことが気になるからだろう。じゃあ、どうすると問いかけてみれば、結局そっちの選択しかないことが明確になる。まあ、そんなもんだと、また山を崩しに取りかかるわけだ。

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1月12日(木)−幻影

 ついに結論が出された。全て捏造だったのだそうだ。と言っても、ずっと昔のことまでは検証されず、何ともはやいい加減な結末のように思える。しかし、科学の英雄とまで評された人の将来はどんなものだろうか。名誉欲に目が眩んだ人間の末路など、誰も気にしないだろうか。国を挙げての活動を展開していたお隣さんの被害は甚大なようだが。
 当事者たちによる検証の結果、最近の成果の全てが捏造であると結論づけられた。それに先だって、TIME誌が取り上げていた彼のグループが発表したというSCIENCE誌の論文に掲載された写真はその誤魔化しの杜撰さに驚かされるものだった。同じ図の中にある複数の写真のうち二つが同一であるというものだったが、そう言われてみれば一目瞭然であり、逆に言えば注意深く確認すれば見つけられるはずのものである。にもかかわらず、論文の審査の段階では見逃され、一大業績として取り上げられる結果となった。科学雑誌としての格を落とす結果となった今回の事件に対して、様々な予防策の必要性を力説する人々がいるが、これはこれでどうも間違った方向に向いかねない話のような気もする。昨年、この国でも同じような不祥事が発覚し、大学の調査と処分の成り行きが注目されたことがある。頂点に立つ大学の有名教授が起こしたデータ捏造事件は、実際には実験ノートにさえ残っていないデータが論文に掲載されていたことで、その悪質さが更に際立つこととなり、其処まで登り詰めた本人の将来の道は断たれたのではないだろうか。以前から疑いの目を向けられていたという話だが、それでも確たる証拠を手に入れることは難しく、多くの場合内部告発に頼るしかないのが実情だ。科学の世界における不祥事は、世間的には余り注目されないから記憶に残らないのだろうが、国内のある製薬会社の研究所の連中が起こした捏造事件も、もう一つの有名科学雑誌に掲載され注目された。ここでは同じように写真の捏造が行われたが、少しだけ手の込んだ偽造が行われたという話だ。つまり一つの写真を二度使うにしても、片方を裏焼きにして一目では気がつかれないようにしたというものだ。それだけ意図的なものであるからして、詐欺行為に等しいと判断され、関係した人々の処分が行われたようだが、こんなことが巷で話題になるわけもなく、すぐに人々の記憶から消し去られるに違いない。しかし、よく考えてみるとそうまでして名誉や名声を手に入れたいと思う人々にとっては、単なる名前だけでなく実際に実益も上がることが約束されているからこその行為であることは確かで、そういう構造になっていること自体に歪みを産み出す原因があると言えるのではないか。一方で、こういう不正行為を防止するための方策が真剣に検討されているところもあると思うが、論文の審査が論理性の検討、実験の妥当性の検討などであることを考えると、ノンフィクションよりもフィクションの方がはるかに矛盾の無いものを作り易いことから、イタチごっこの始まりとしか思えてこない。これは、耐震強度の検査制度とは明らかに違ったものであり、其処の辺りをごっちゃにしながらの話には無責任ささえ感じられるところがある。自分の利益のためには嘘も止むを得ないという件についても、その嘘の質を議論せずに話が進んでしまったのではどうにもならないだろう。やってはいけないことという規定がこのところの実利主義で崩れ始めているという危惧を抱く人には、問題の解決法は見えないかも知れないが、問題の本質は見えているように思う。

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1月11日(水)−選択

 携帯電話を手に話している人を奇異な目で見つめる人の数は激減したようだ。何しろ、町中を歩いてそういう人を見かけない日はない。それほど当り前になり、数が増えてくると、弊害というものも徐々に増えてくる。歩いていて話に夢中になり、赤信号の交差点を渡ろうとしてしまう人がいたり、自転車に乗りながら携帯メールをする人が増えるからだ。
 便利な道具は巧く使えば役に立つものとよく言われるが、携帯電話の場合、果たしてどちらだろうか。道具を使っているのか、道具に使われているのか。一時ほど話題にならなくなったが、メールの交換を始めるとどちらかがやめるまで間髪入れずに返信し続けることになることがあるらしい。会話をするのと違い、何をしていても指を動かし続ければいいのだから、周囲に気づかれることもなく続けられると、本人は思っているのだろうが、実際には異様な雰囲気が広がっている。電話の機能自体が相手の都合を考えずに侵入してくるものといった感じだったのに対して、電子メールはたとえ届いたとしてもすぐに返事をする必要がなく、こちらの都合で動くことができるから有り難いと言われていたのに、こと携帯メールに関しては電話の特質がそのまま乗り移ったようなものになってしまった。流石に、以前のようなことはなくなったようで、少し落ち着いてきたようだが、それでも暇を見ては携帯に手を伸ばす人がいるようだ。こういう人たちは便利な道具に使われている囚われた人々のように見える。携帯電話の便利さは別のところにもあり、メール機能だけでなくインターネットと同じように情報を収集する機能がある。こちらも便利といえば便利だが、何処でも使えること以外には取り立てて特殊な機能が備わっているわけではない。終電の時間を調べたり、宿泊の予約を入れたり、株の取引をしたり、それぞれに便利だとは思えるが、これがないとどうにもならないとは言えない代物である。また、こういう情報提供についても、必ずしも正確なものとは限らず、いまだ発展途上であることが多い。特に気になるのは鉄道を利用するときの乗り換え情報である。たまにしか出かけないから、熟知していない経路を取らざるを得ないことが多く、特に首都圏の移動の場合、経路が複数あることもあって、事前に調べる必要がでる。しかし、時間がなかったり、その場で急な変更がある場合には携帯の情報提供は非常に有り難い存在となる。ところが、実際に調べてみるとどうも怪しげな雰囲気が漂うことが多い。まずは時間に余裕を持たせるためにか、運賃を度外視するような経路の選択を押し付けられることが多く、たとえ間に合う場合にも、割高な経路を推薦される。また、その経路自体が実際には楽な移動を保証したものでなく、徒歩での移動を強いられることも多い。所詮これらの仕組みはそれを設定した人々の考え方によっているわけだから、こんなことは当り前なのだろうが、それにしてももう少しどうにかならないものかと思えてくる。優先順位の付け方や選択肢の決め方などにもう少し融通が利かないものかと思えるが、そんなことにいちいち関わっていては何も始まらないとでも言うのだろう。まさに、便利な道具に振り回されている姿が其処にあるのだ。

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1月10日(火)−再雇用

 人口が減少すれば、就労人口も自ずと減り、国を支える力が弱くなると言われる。巷ではこの論理に対して賛否両論が唱えられているようだが、中枢では専らその通りといった議論がなされているようだ。どちらが正しいのか試してみるわけにもいかないが、いずれにしてもそれに備える動きは既に始まっていると言えるだろう。
 海の向こうではあらゆる考えに基づいた差別は禁止されており、当然ながら年齢による差別もご法度である。だから、定年というものを設けることはできず、別の方式で勇退を願うとしているのだろうが、それでも何とか仕組みは成立しているようだ。こちらにその仕組みをそのまま採り入れることには様々な反対が予想されたからか、別の仕組みが検討されているようだ。労働人口の減少を食い止めるためには、働きたいという意欲のある人間を再雇用すべし、という話はその一例だろうし、一方で年金生活に入るまでの期間だけは再雇用を保証する、という話も年金受給開始年齢と定年との間を埋めるための方策として考えられたとはいえ、労働力の確保という考え方も含まれているように思える。いずれも社会的な必要性から導入された、あるいは導入されようとしている仕組みだが、労働力の確保とその質の維持という立場からは効果が期待されるのに対して、新規の労働力の参入に対する負の効果については、議論の対象とはなっていないように思える。後進に道を譲るという考え方が上辺だけのものとなりつつある今、こういう仕組みを導入することによってどんなことが起きるのか、真面目に検討したほうが良いのではないかと思えてくる。たとえば、雇用者側から言えば、そのままの雇用継続では高賃金の問題が生じるのに対して、再雇用の形式をとれば賃金を低く抑えることが可能となる。場合によっては、新卒者の雇用より安い賃金で高度な技術を保つことができるわけだから、こんなに美味しい話はないということになる。全ての定年退職者が高度な技術を持つわけではないから、一概に話をするのは乱暴だが、それにしても、こういう図式が描けること自体、危うさを包含しているといえないだろうか。社会にとって利益のあることという主張が出されれば、それに対して一部の弱者は沈黙を余儀なくされる。一時的な手当ての重要さを無視するつもりはないが、一方で長期的な視野の欠落は取り返しのつかない負債を将来抱える危険性を高めることに注意を払うべきだろう。自分たちの利益という意味で、雇用者と再雇用される人間の間で了解があれば、この仕組みは歓迎されるに違いない。しかし、供給の途絶えた組織は、いつか荒廃していくものなのではないだろうか。応急手当ばかりに力を注いでいると、この先徐々に沈んでいく可能性が大きい。最も難しいことなのだが、応急と長期とを巧く組み合わせて、その間でバランスをとる仕組みを考えていかないと、再び停滞期がやって来るかも知れない。

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1月9日(月)−適応

 適応力という言葉は良い意味に使われることが多い。如何なる変化に対しても適応する能力、といった雰囲気があるからだろう。確かに変化に対応することで、最良の道を選ぶことができればその方が良いように思える。しかし、本当にそうなのだろうか。一方で、周りの動きに惑わされず我が道を行く人々を評価する動きもあり、正反対に思えるからだ。
 どちらにしても結果良ければそれで良し、という考えが基本となっていることは確かなようだ。対応を間違えたり、意固地になって失敗した場合、どんなことをしたとしても評価は低くなる。動くか動かないか、それで決まるものではなく、いずれにしても的確な判断が必要となることだけは変わりない。ただ、人間得手不得手があるもので、動く人は常に動き、動かない人は常に動かないといった形になる。動くか動かないかの判断を的確にこなす人は少ないのではないだろうか。また、たとえ動く人が動かなかったように見える場合でも、動きを小さくすることで対応した結果であり、二者択一の形式をとっていないことが多い。これらはいずれも能動的なものだが、受動的な選択もあるだろう。変化に任せるという形で表現されるものだが、流れに逆らわず、全体の動きを追従することでその場その場の変化に対応しようとするものだ。変化の流れに乗ることで大きな痛手を避けるという形は、まるで変化に惑わされないようにも見えるが、実際には急激な変化に対して追いつけないこともあり、少し違った意味になると思う。ここまでは、意識とか思惑とか、人間の考えに関する話のように扱ってきたが、これをそのまま生き物の活動そのものに当てはめることも可能だろう。変化を気温の変化とし、それに対する反応を生き物達の活動と見做せば、分かりやすくなるだろうか。変温動物と恒温動物では、体温調節の有無という意味で大きな違いがある。前者は気温の変化に対して体温が大きく変動するために、たとえば適温より低い温度になったときには休眠などの対応を余儀なくされる。それに対して後者は、ある程度の体温調節が可能だから、何とか適応しようとするわけだ。例外は沢山あって、冬眠する動物達の多くは体温調節ができるにも関わらず、無理な活動を避けて休むことを選択するわけだし、渡りをする鳥たちもある意味その場での適応より、別の土地への移動による解決を選んだと言える。いずれにしても、適応力があるから大丈夫というわけでもなく、人間の場合でも、気温そのものはさほど低くもないのに、急激な変化に対する対応が追いつかずに寒さを感じることは多い。変化を無視していたらどうなるのか想像もつかないが、適応が必ずしも快適を産むわけではないことが解る。さらに、これは逆に適応によって最適を選択することによる弊害と言えないだろうか。ある条件での最適を探るための機構が、逆に条件が変わったときに不都合を生じるということだ。気温の低下に対する話を例にしたけれど、実際には人間の経済活動や生産活動においても、当てはまることが沢山あるように思える。適応と同様、最適という言葉も良い意味に使われることが多いが、実際にはこんな見方をすると悪い結果を産みだす原因となることもある。惑わされるかどうかは別にして、変化を追うこと自体は必ずしも良い結果を産むわけではないことを承知しておく必要がありそうだ。

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