パンチの独り言

(2006年1月16日〜1月22日)
(先行、回収、掃除、安全、共同、職能、町内)



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1月22日(日)−町内

 子育てを社会が支える、という言い回しをよく聞くようになった。子供たちが危ないと言われているだけに、彼らを守るためには親だけでは不十分であり、周囲の人々が一緒になって、ということなのだろうか。確かに、ボランティアという形で登下校に付き添ったり、道端に立っていたりという姿が見かけられるようになっているようだ。
 こういった話を聞いたときにどんな印象を持つのだろう。いい話だと思う人もいれば、そんな事態に陥っているのかと心配する人もいるだろう。その事だけを捉えて考える人もいれば、こういう時に親は何をしているのだろうかと訝る人もいるだろう。地域によっては働いていない親が交替で、付き添うところもあるようだが、そうでないところもある。また、働いている親の場合、事情が許さないからということになる場合も多いようだ。できるだけのことをやる、という考えに基づけば、これらのことには何の不思議も浮かばないだろう。しかし、できることが人それぞれに違う事情について、もう少し考えるところがあってもいいのではないか、と思う人もいるのではないだろうか。ボランティアではなく、地域で企画された仕組みである程度の経費を支払うことで、助けてもらうというやり方を採り入れているところもある。参加する人々の例として取り上げられていたのは、若い頃共稼ぎで子育てに苦労した老婦人で、その苦労から少しでも手を貸せればという思いが出てきたそうだ。当時はこんな仕組みは考えられてもおらず、当然の事ながら自分の責任で、周りの人々に助けを乞うしかなかった。その時の苦労が思いだされるだけに、ということなのだろうと想像できる。現在は、様々な取り組みがなされ、その一つを利用する人々がいるわけだが、単純に恩恵に浴すだけではおかしいという意見もあり、何かしらの経費を負担する形式をとっているようだ。それはそれでいいことなのだろうが、ちょっと心配になる部分もある。お金で解決するのが一番、という考えがかなり多くの人々の頭の中にある時代だけに、そのやり方を採用するのが当然なのだが、それにしても、逆の考えは出てこないのだろうかと思えてしまう。支払うべきものを支払ったのだから、という考えといえばいいのだろうか、そんなものはそこには存在していないのだろうか、と。社会が支えるという表現にも、昔風に考えればまったく違った様相が思い浮かぶのだが、今ではそこに金銭的な均衡といったものが登場する。それはそれで当り前のことだからと片づけてしまえばそれまでなのだが、どうにも落ち着かない気がしてくるのだ。社会で支え合うという考えに基づけば、お互い様という図式が浮かぶはずなのだが、そこには何かしら別の取引のようなものの存在がある。必要なものに金を支払うのは当り前、なのだろうが、実際には、必要ないものには支払わないという状況が生まれることを意味しているのではないだろうか。たとえば、比較的小さな社会という意味で町内会という組織があるが、この存続が危ぶまれている地域はかなり多いのではないだろうか。会費を支払うことを拒み、入会する必要なしとする人々が、子育てに社会の支えを必要とするとしたら、何とも矛盾に満ちた話に思える。町内会の意味が理解できないから、という理由があるにしても、そこには会費の使途やら何やらで引っかかる心があるわけだ。そろそろ、この中も含めて全体的な見方をする必要があるように思える。

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1月21日(土)−職能

 就職戦線が厳しい状況にあるとき、手に職をつけることが重要であるとする意見があった。手に職とはどんなことか、一時期そういった感覚が薄れていたために、すぐに理解できない人も多かったようだが、二つの考え方があると思う。どんな職にしても資格など専門知識の習得を示すものの取得という意味と、専門職という意味だ。
 人それぞれに憧れの職があるとすれば、専門職に就くことが手に職という意味としてしまっては無理が出てくる。だからということか、ある時期資格の設定が急激に増加し、その取得に走る人の数が急増した。どんな資格にせよ、皆が取ろうとするということになれば、自分もと思う気持ちになるのは仕方ないだろう。噂が噂を呼び、増加の速度は増すばかりとなる。といっても、限度はあるわけで最近はそういった熱は冷めた雰囲気もあり、少し落ち着いてきたと言えるのではないだろうか。その流れと同調したわけではないのだろうが、景気回復とともに就職戦線も明るい兆しが見えはじめ、手に職といった話もあまり聞かれなくなったように思う。しかし、専門職については依然として必要であるところもあり、相変わらず人気は高いままであるのではないだろうか。但し、職によってはそのために高い能力を要求されることも多いから、誰でも簡単にその道を選べるとは言えない状況にある。高い専門性を身に付けるために必要な能力とはどんなものなのか実ははっきりしていないと思うのだが、現実にはそういう要求がなされているようだ。たとえば、医療活動に携わる場合、医者となるためには国家試験に合格することよりも、そのために行かねばならない大学への進学の方がはるかに難しいと言われている。そういう関門を潜り抜けて来たのだから、専門性についても十分な能力を身に付けられるはずという前提があるのだろうが、目の前に現れる人を見ていると首を傾げることがある。つまり、知識としては十分なのかもしれないが、その仕事をこなすために必要な別の能力に欠陥があるとしか思えない人が多くなったような気がするのだ。それぞれの場合で違う原因があるのだろうが、以前は問題にされなかった大前提に大きな変化が現れたことに問題がある場合が多くなったように思うことがある。患者が医師に抱く不安の多くは、意志疎通における問題にあるようで、こちらの気持ちを察してくれない、あちらの気持ちが伝わってこない、といったところにあるようだ。どこがどう変わってきたのか、別に医療業務に限らず、どんな職業にもそういう傾向が現れてきているのだろうが、会話をはじめとする表現力に問題を抱えている人が増えているようだ。自分を表現する力とともに、相手の表現を受けとる力も減退し、人付き合いに不安を抱く人が増えた。仲間ならばいいが、見知らぬ人は駄目といった具合になれば、職業によっては死活問題となるだろう。これは一方では能力の測り方自体にも問題があることを示しているといえる。前提とは経験によるところが大きいのだが、実際には時代とともに変化することが多い。そういうことに通じておけば、少し違った対処もあったのだろうが、どうもうまくいかなかった時期があったように思えてしまう。そろそろ問題が露になっているから、取り組み姿勢も出ているようで、徐々に変化が出始めているようだ。重要なことだけに、とにかく、良い方向に進めば良いと思う。

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1月20日(金)−共同

 男と女に差があるか。こんな質問を受けたらどう答えるだろうか。一部の思惑を持つ人たちでさえ、この質問に対して完全否定の答えを返すことはないだろう。生き物としての差は歴然とあり、たとえそれを別のものとして排除しようとしても、どこかに新たな矛盾が生じるからだ。だから、男と女には生物的な差異が存在すると答えるしかないだろう。
 ところが、今巷ではその差異を無いものと見做す動きが急である。平等という言い方から始まり、共同という言い方に変わってきたとはいえ、そこにはなるべく格差を無くそうとする思惑がある。生物としての役割の違いはどうしようもないものとして、それ以外のところでは同等の働きができるものとするわけだ。このような社会の動きに対して、反対の声を上げるのはかなりの勇気を要する。だからということなのかどうかはわからないが、兎に角こぞって賛成の声を上げ、社会全体がそちらの方に向って邁進している雰囲気がある。そんな状況もあって、ここでは敢えて異論を唱えることを試みてみようと思う。同等の役割を果たすべき、という考え方自体を否定するつもりはないが、そういう事情が生じた背景がきちんと議論されたかどうかは怪しいと思うことが多い。たとえば、女性の社会進出に関して、その必要性を説く人々の意見の多くは、社会的要求によるものを引き合いに出す。たとえば、就労者人口が減り続けることが予想される中では人口の半分を占める女性の労働力は重要であり、才能を持った人々を重用することで社会にとって大きな利益となるといった話がある。確かに、大切な考え方であり、その必要性もかなり高いものなのだろう。しかし、その一方で個々の例を分析した結果では、実際には夫婦共稼ぎでないと生活が成り立たず、子供を産み育てることもできないという事情を第一に挙げる人々が非常に多い。社会から必要とされている理由と個人の理由とに微妙な違いが見られることに疑問を抱く人はどれほどいるだろう。更に、少子化の問題を解決するための方策として、労働環境を改善させ、子育てを楽にさせることが強調されているが、これについては何かしらの大前提があるように見えて仕方がない。子供を育てながら働くためにとか、子供の教育にかかる資金のためにとか、個人個人それぞれに違う理由はあるのだろうが、どうも職に就くことが前提になっているようだ。問題として取り上げておきたいのは、子育てにおける母親の存在の重要性をどう考えるかといったもので、共稼ぎの家庭と専業主婦のいる家庭との違いをその価値としてどう見做すかがどの程度議論されたのかという話である。乳幼児期の子育てにおいて、母親の存在は非常に大きなものと考えられるが、働くということによって、それに注ぐ力が減るとしたら、それはどれほどの影響を及ぼすのだろうか。金銭的なもので全てを測るのならば、この価値もその中にいれなければならないだろう。しかし、どうも現実にはそうなっていないように見える。そこに大きな問題があるように思えるのだ。欧米でも、国ごとにこの辺りの考え方には大きな差があるが、ある国のことしか目に入らないのが実情のようだ。更に、最近では当り前のように思われている、労働は収入のためにやるものという考え方も、どこかおかしな方向に向っているように思える。働きたいから働くのではなく、生活が苦しいから働くとすれば、その能力の活用はそれほど高くならないように思える。こんな考えを並べていくと、さて共同の意味するところは、という気持ちにならないだろうか。

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1月19日(木)−安全

 会社経営とは利潤を追求するものだ、という人々がいる。会社は誰のためにあるのか、という話題の際にも、株主のためにあり、そのために配当や株価そのものを高める必要があり、そこには利益がなければならないということになる。誠にその通りとしか言い様が無いように見えるが、一方で違う考え方をする経営者もいるようだ。
 利潤追求において、大きな問題を生じる場合がある。おそらく誰もが思いつきそうなものに、安全性があると思うがどうだろうか。このところ話題に上っている耐震強度問題はまさにその例であり、偽装が発覚するまでは関係者全てに利益があるように見えていたが、明らかになった途端に全てが泡と消えてしまった。安全を手に入れるためにはそれに見合った対価が必要であるが、それを最低限に抑えることがより大きな利益をあげるために必要となる。しかし、許容範囲内で成立する話であり、度を越してしまえば逆効果のみが働くことになってしまう。食品の安全性についても、原材料の問題や施設の問題、更には検査体制の問題など、どの位の投資をすることが十分と言えるのか、明確な答えはないだろう。製品の値段に跳ね返る投資であるから、消費者の気持ちに左右されるからだ。安全第一と思う人もいれば、価格第一と思う人もいるからだろう。どんな業界にもこういう縛りがあるかといえば、必ずしもそうとは言えない。製品の安全について、それが前面に出ないところもあるだろう。衣料品はそんなものの一つに挙げられそうに思えるが、たとえば縫製に用いた針の混入が問題になったこともあり、安全という捉え方もできなくはない。必ずしも、と言っておきながら、そうでもない例を引くのもおかしな気がするが、何事も表に現れたことだけで捉えられるものではないという意味だ。先日、あるところで話題に上った話だが、鉄道会社の安全性の問題で、経営者の考え方を批判する声が上がっていた。確かに、安全性を蔑ろにしたことによる事故と捉える向きが多いと思うが、事をそんなに単純に捉えていいものか、首を傾げる人もいるのではないか。経営者として注目され、評価されていた人間が、一つの事故をきっかけに批判の雨にさらされる。何ともおかしな図式と思うが、そんなことが起きたわけだ。評価は経営の立て直しとその原動力となる利潤追求に対するものだったが、それと相反する可能性のあるところに安全性が位置するとしたら、今回の批判は起こるべくして起きたことになる。絶対安全、を手に入れるために莫大な資金が必要ならば、誰も手を付けないが、それがどこか十分と思えるような安全となり、そのための資金がどれだけという話になると、取り組むべき課題となる。しかし、その基準となる点は何処なのか、それが明確に決められているわけではないとしたら、非常に難しい選択を迫られることになるのではないか。事故の確率を論じる場合も、被害に遭った人たちの前では不謹慎となるだろうが、必要不可欠なことであり、外の国々の鉄道と比べてはるかに低い率を誇るだけに、難しさが増しているように思える。そんな中で、こういう事故が起きた後に経営者達の考え方に変化が起きたかどうかを眺めてみることは、全体を考える上で重要なもののように思えるのだ。結果として、業界内での見直しは当り前として、他の業界についてはほとんどそういったことが起きていないようにみえるのは何故だろうか。まさにそのあたりに、経営における利益と安全の均衡の問題があるように思えてならない。基本として安全があれば別の話なのだろうが、そちらが先に立つことで経営がどうなるのか、冷静に分析する必要があるだろう。

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1月18日(水)−掃除

 道行く人の顔に、これといった表情が見られない。表に出さないようにしているのか、それとも無表情という表情を持つ人が増えたのか。上がり下がりの激しい時代を生きる人々にとって、一喜一憂などしていられないというのだろうか。ラジオからは四十年以上昔に人の顔が荒んでいたという話題が流れ、その違いを改めて感じさせられた。
 感情を表さない顔と言っても、不幸とか不安が出ているわけではないから、それほど酷い状況には思えない。結局、毎日の生活は何となく送ることができ、そこへの不安や差し迫るものが無いからこそのことなのかも知れない。しかし、それにしても何故無表情なのか、感情を顕にする性格からは想像ができない。その昔、荒んだ顔つきの人が増えた時代には、経済成長が急でそれについていけない人々の心の中に何とも言えぬ不安が渦巻いていたらしい。そんな中で、成長に対する不安より、人々の心の問題を気にした人がいて、自分でできることは何かと考えたのだそうだ。ある自動車用品販売業を起こした人が考えたものとは、掃除だった。身の回り、会社の中、その周辺と範囲を広げつつ活動を続けていったそうだが、社員に対する強制もなく、ただ黙々と毎日続けていくだけで、他の人々に対する働きかけはなかった。その実行力は経営者として当り前のように思えるが、他に強制しないで続けるという忍耐力は普通には見えない。人は積極的に物事に取り組まないと駄目であるという考え方には賛同するが、こういうやり方でそれを進めることには異議を唱える人も多いのではないだろうか。色々な会社が実施している営業所前の道路の掃除といった簡単なものだけでなく、普段目にしないところや便所の掃除までを手がける人のやり方は徹底していた。以前テレビで取り上げていたが、柄つきのブラシで便器を洗うのではなく、雑巾掛けをするのだ。何とも言えない雰囲気が漂っていたのを覚えている。徹底してやっておけば、毎日の掃除の時間は短くなると話していたが、まさにその通りであり、一方でそれができない自分を振り返えさせられた話だ。これほどの熱意を持った活動だったが、誰も振り向かず、一人での活動が長く続いた。結局十年の間、単独活動が続き、それから参加する人々が増えたのだそうだ。そして、そのまま四十年余り、今では幾つかの企業が同様の活動をし、学校などの参加もあるという。掃除を徹底的にすることで、身の回りをきれいにすれば、その人の心もきれいになるという。荒んだ顔つきの人々が落ち着いて柔らかな顔になり、話し方にも変化が現れる。なるほどと思わされる話だった。もう一つ肝心なことは、経営者としての考え方、能力給は採り入れず、営業成績による評価もせず、全体としての成長を目指す。一部から古くて意味のない考え方という意見がでそうなほど、成長期の企業が持っていた理念を捨てずに大切に守っている。業績状況については取り上げていなかったが、何となく安心させられる言葉の数々だった。

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1月17日(火)−回収

 高速道路上のサービスエリアでガソリンを入れた。割高なのは承知しているが、走行距離からして降りるまでもちそうにもないと判断するからだ。いつものような手続きのあと受け取ったレシートの雰囲気がいつもと違う。何かが印刷されているように見えたのだ。運転中に脇見をするわけにもいかず、次の休憩でチェックして驚いた。
 レシートの裏に印刷されていたのは、ファンヒーターの写真だった。このところ異様な雰囲気で流される宣伝に違和感を覚えている人も多いと思うが、まさにそれだったのである。全国の家庭全てに電話をかけて確認をとると報道されていたようだが、これもまたご苦労なことだと思う。ただ、一方で別の意味の迷惑を招くのではないかとも思うわけだ。人の生活に無理矢理侵入する形の連絡方法である電話を利用しようとする動機はその効果の高さを考えればわからなくもないが、しかし、そこまでするのが適当なのかというとそうでもない気がする。責任を痛感し焦る気持ちもわからなくもないが、それにしてもこれらの対処から別の問題が生まれるのではないかと心配になるのだ。確かに、欠陥商品を売りつけた責任は大きいし、更にはそれを回収して修理した製品が原因で死者が出たという話に至っては、どんな言い逃れも通用しないだろう。そんなことが背景にあって、誠意ある対応を捻り出しているのだろうが、それにしてもどうかと思うことばかりである。初期の対策の不備が招いたものとはいえ、その後の対応も製品の欠陥に匹敵するほど質の低いものになっていたようだ。元々の守備範囲を逸脱するようなところにまで商売の種を見つけ出し、それをきっかけに更なる発展を目指そうとしてきた企業戦略は、こういう壁にぶちあたると一気に萎んでしまうものらしい。このところ、今の経営陣の働きで業績を急激に回復してきたはずのものが、ずっと以前に犯した間違いが元で、一気にその勢いを無くし、業績の面でも収支の面でもかなり大きな痛手を被ったのだろう。業界全体にも悪い印象が残るはずだから、一企業の問題と言えない部分がかなりあるのではないだろうか。それにしても、この企業、十年以上前のことだったと思うが、やはり大きな問題を起こしたことがある。冷蔵庫の不良品を大量に生産したというものだったと思うが、当時責任者は処分されたに違いない。今回の事件については、長期に渡るものだけに責任の所在を明確にすることも難しく、どんな形の終結を迎えるのかわからないが、いずれにしても経済的な損失はかなりのものになるに違いない。同じことを繰り返さないためにも、という言葉もずいぶん言い古されてきたが、まさにそんな感じさえしてくる話なのである。ここまでしなければならないのか、と思う人がこれほど沢山いる中で、いまだにその機械を使っている人がいるとしたら、何処に問題があるとみるべきなのか、難問だろう。

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1月16日(月)−先行

 将来を見越して備えをすることは、如何にも当り前のようだが容易ではない。先行投資という言葉も、投資自体が前もって資金を投入することなのだから当り前のようだが、その場その場の手当てばかりに終始してきた人々にとっては特別に映るようだ。場当たり的な処置でも何とかなったときは良いが、全体が崩れたとき何もかもおかしくなった。
 成長が当然であり、それを前提として全てのことを考えれば良い時には、兎に角手当て中心の方策で済んでいた。しかし、それでは金余りの状態が生じ、それを目先の利益につなげようとした挙げ句、様々な崩壊が起きたために酷い目に遭わされたと感じている人も多いだろう。そういう経験をしたあと、人々は投資行動に不安を抱き、確実な見通しが立つまで手を出すことを控えるようになる。結果として全体の勢いが衰え、減速しているところに更なる制動がかかり、うっかりすると止まってしまったり、逆向きに動き出すことまで起きるだろう。それに近い状態は脱したようだが、いまだに心の底にできた不安の種は消えず、いつ芽を出すかわからない状態が続いているようだ。バブル崩壊の被害を受けた企業の多くは、其処から何かを学び取り、少しだけでも対応の仕方を編み出そうという努力をしているようだ。そのため、不安を解消するよりも先に、少しずつ先行的な動きを始め、回復基調が確かなものになったときにすぐに加速できるように準備をしていた。そういう事は経験した者だけが理解できることなのかも知れないが、それにしてもそういう経済危機とは無縁な存在であったところは、誰かさんの二の舞いを演じようとしているように見える。改革、再編、様々な言葉が乱れ飛び、自分たちの意思とは無関係なところで決められた台本にしたがって、無理矢理舞台に上げられてしまった人々が下手な芝居を演じている。要領を得ないのは仕方ないこととしても、それぞれの組織で決めればいいという大原則に対して、不安がつきまとっているように思える。先を見通して、という話もその一つであり、一つ一つのことがそれまでは上から降ってきただけに、自分でそれを先読みし、それに対する対処法を編み出すことには慣れていないようだ。民営化された組織もそうだろうし、国との直接的な繋がりを絶たれた法人格の組織もそうだろう。今までは何事も決められた通りにしていれば良かったのが、自分たちの思惑で変更可能となったときに、良い悪いは別にして思惑さえもない人々に操られた組織の将来は真っ暗である。入るものに期待し、出すものは削るといった考え方は、じり貧と言われた企業が更に坂道を下るときに何度も見かけたものだが、まさにそれを踏襲するかのごとくの動きがある。そういう事に慣れていない世代という意味では、まったく同じ年代の人々が同じようなことを繰り返しているわけで、同じことが起きることが容易に予想できる。誰かがそれを止めるかどうか、今の体制のままではおそらく無理だろう。なぜなら、そういう謀反のようなことが起きないような仕組みが、緻密に組み立てられているからだ。将来構想には何の緻密さもなく、自らの地位を護るための仕組みに緻密さを採り入れる。何だか、馬鹿げた行為に見えるが、まさにそういう事が全国的に起きているのではないか。

(since 2002/4/3)