パンチの独り言

(2006年1月23日〜1月29日)
(転倒、壊滅、設計、脱線、意識、投資、正直)



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1月29日(日)−正直

 正直者は損をすると書くと、頷く人の方が多いのではないか。人を出し抜くためには少々の嘘はやむを得ないとか、嘘も方便とか、そんな言葉が並びそうである。古今東西、こんな表現が頻繁に使われ、ごく当たり前のことになっているからこそ、宗教において重要な論点となっているのだろう。人に嘘を吐いてもいいが、神や仏にはいけないとか、そんな表現で。
 正直に自分の気持ちを表すといった場合にも、そこには固められた嘘があり、結局の所全てが真っ正直なものではないことが多い。嘘がばれた時にそれに嘘を上塗りするか、はたまた正直に嘘を吐いた気持ちを表すか、どちらにしても、はじめに嘘ありきという事実は消せない。だから結局は、はじめの嘘の程度によって皆の印象は決まり、そこに上乗せされる印象についても正直かどうかではなく、中身で判断されることとなる。このところ、嘘が暴露されて、その後の動向に注目が集まる事件が多発しているが、つい先日起きたホテル改装の話については正直が裏目に出た一例に思えた。申請時と建築完了時の検査では存在していた施設を、その後撤去し、新たな設備に改装したということで、ことは社会的弱者のためのものを対象としていただけに、商売の効率だけを考えたことによるその悪質さが際立つ事件となった。しかし、それだけで済まなくなってしまったことがあり、発覚後の責任者の会見での発言があまりに自己中心的で、配慮に欠けるものになってしまったことに端を発して、批判は改装そのものの悪質さよりも、それを産み出す温床となった非社会的な考えの方に集中することとなった。当たり前のことであり、政治家がよくやることなのだが、あっという間に前言撤回を宣言する所となり、平身低頭の極みといった呈を成しているが、さて企業の印象としてはどうなるのだろう。一責任者としての責任を問うのならば、本人が失職してしまえばそれで済むことだが、それに関わる施設の不備に関しては企業としての責任を何らかの形で取らねばならないだろう。実際には、ここには二つの要素があり、それがほぼ同時に発覚したために一絡げにされている感があるが、それらをきちんと分別して考える必要がある。一つは法律で定められた設備の不備に関するもので、これらは既に改善されつつあるようだが、一方でただ一つの施設だけでなく、その企業が経営する施設のほとんどにそれが及んでいる事実である。これらの不正をどう処分するのかはまだ明らかになっていないが、改善命令程度のことで済んでしまう事自体、何とも不思議な感じのする話である。もう一つの個人的発言の問題については、おそらくすぐに結果が出てくるものと思われるが、まさに経営者の感覚を如実に表したものであり、他の人々にどんな影響を与えるかが肝心なことになるだろう。またか、で終えられる可能性が高いのだが。

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1月28日(土)−投資

 経済活動においては、投資と収益のバランスが大切になる。ただ闇雲に金をつぎ込んでも、何も戻ってこなければ損をするだけ、と書くと当たり前過ぎるが、まさにそれだけのことなのだ。投資に見合う対象かどうかを吟味して、適格となれば行動に移す。たったこれだけのことだが、自らの判断で行っている人は少ない。額の多少に関わらず、基本となる手順のはずだが。
 何かモノを作って、それを売り捌き、商売とする。ごく当たり前の手順で、以前からモノがしっかりしていれば、ちゃんと成り立つものだと言われていた。たとえ人真似だとしても、その製品自体が高品質のものであれば、それなりに売れるものなのだ。先頭を走る人も、その後ろをついていく人も、品質に関しては同じ土俵で勝負しなければならない。ところが、どうもその辺りに怪しさが出始めている感じがある。一度築いた信頼からは、品質管理に対する全面的な信用があるわけで、それが了解事項のように扱われる。その時、買う側に隙ができるのだろう。少々劣悪にしてでも、安いものを売れば、それなりに商売になる。そんなことの繰り返しは、当事者にとっては売っては逃げ、売っては逃げの反復だけで、大きな問題とならないように思えるが、市場の信頼は全体として低下することとなり、どうにも悪い方向に向かうしかなくなる。逃げてばかりの人々にとっては、そうなったら仕方がないが、それまでに儲けておこうという論理が成立するから、こういう事情はどうでもいいことになってしまう。モノを売って儲ける商売に対して、詐欺行為のようにモノを売らずに成立させようとすることもある。先日、話題になっていた振り込め詐欺では、公務員に対して脅迫状が送られ、宛名とされた人物が犯した不正を隠すために口止め料を要求する内容となっていたようだ。実在しない調査会社、本社とは異なる地方都市に開設した振込先、何ともお粗末な手口のようだが、全国の地方公務員、国家公務員宛に送られたらしい。この詐欺行為にも、当然投資額とそれに見合う形での収入といった図式が成り立つわけで、一通当たりの郵送費と文書作成の手間などが100円かかるとしたら、それを回収するだけでどの程度のことが必要か、簡単に計算できるだろう。一つでも回収できればいいという考えもあるが、実は振り込み口座が全て同じであることからして、それが押えられたら何も手に入らないことは確かである。少なくとも、新聞などであれほど話題になってしまったから、正直に振り込む人もいないだろうが、たとえそれをしたとしても口座が当局にばれていたのでは、なんともならない。こういう形の結末を予想できなかったのだとしたら、やはり読みが甘かったというしかないのだろう。収益計算において、正常な経済行為であれば、金勘定だけで済むものだが、違法行為となれば、別の要素が絡んでくる。まあ、そんなことばかり考える人だと、真面目に働く方を選ぶに違いないのだが。

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1月27日(金)−意識

 犯罪を犯して、罰せられるとき、必ず確認されることに、違反していることを意識していたかどうかがある。それによって、罰金刑や懲役刑の重さが変えられるのかどうかは知らないが、必ず訊かれるということから、どうもそんな背景があるのではないかと思える。確かに悪いことという意識を持ってやる悪事と善意で行った結果の悪事とは違うように見えるだろう。
 しかし、実際には犯罪そのものによる影響を考えれば、そこに罪の意識の有無は入り込む余地はないように思える。善意とまで行けば別なのかもしれないが、単に悪いこととは思わなかったというだけで刑が軽くなるとしたら、納得できないものが残るに違いない。しかし、取り調べの経緯や裁判の流れを漏れ聞くと、そういう手順が行われているから、何かしらの意味があるのだろう。そんな背景があるからか、今回のお騒がせのヒルズ族の事件についても、始めのうちはその手の話題で持ち切りだった。何が問題なのか、その核心が掴めない取材陣からすれば、本人に聞けることといえば、何か悪事を働いたのかとか、心当たりはあるのかとか、そんなことしかない。実際に逮捕される段になって、徐々にその容疑の一部が明らかになり、やっと意味を理解したと思ったら、もう既に相手は格子の向こうに行ってしまったわけだ。こうなると、以前の取材で繰り返された遣り取りやもっと昔の傍若無人ぶりを発揮していた映像を流すしかなく、なんとも消化不良、不完全燃焼と言った言葉が当てはまる雰囲気になってしまう。意図的に犯罪を繰り返したかどうかは、これから明らかになるだろうが、違法性を意識していたかどうかを争点にしようとする立場と、そんなものは問題ではなく、実行された違法行為そのものを争点にしようとする立場がぶつかり合うことになるのだろうか。いずれにしても、捕まってしまったからにはこれからの展開は向こう岸での話にしかならない。こちらでは次々に再編が行われ、一気に噴出した悪い印象を払拭することに躍起になっている。しかし、身売り話やら何やら、今までの経緯を考えると、また再び情報操作に入ろうとしているのではないか、という疑いが持たれるのは仕方のないところだろう。そんな中でこれまで振り回され続けてきた人々は逆襲に出ているように思える。しかし、相手が目の前から消えて、初めてそんなことをやろうとする人間達に、どれほどの信頼が生まれるのだろうか。どうにも馬鹿げた、そしてどこかで見たことのある展開を、また再び見せつけられるのだとしたら、やはり無視するほうに向かいたくなるのではないだろうか。今回の事件はその当事者達の常軌を逸した行動と彼らに振り回された人々の演じる茶番劇に注目が集まるだけで、結局そこから何も生まれてこないのではないかと思えてしまうのだが、どうだろうか。

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1月26日(木)−脱線

 問題が起こるたびに、ここに書いているから、また何か書くと、読む方は問題が起きたのだな、と思うに違いない。懲りない人々の相手をするのは全く疲れるだけのことで、できるだけ無視をするのが一番なのだが、あちらからこちらの土俵に土足で踏み込んでこられれば、避けることもできない。今の状況はそんな感じだろうか。
 このところ、組織全体に歪みが目立つようになっている。構造改革などという言葉だけの手当てではなんともならないことは、おそらくどの構成員にもわかっていることだろう。ただ、歪みの原因を探ってみると、そこには一つだけはっきりとわかることがある。以前にも何度か書いたのだが、現在組織の中枢を構成している人々と同じ年齢層にあたる人たちの常軌を逸した行動のことだ。彼らは、どの人間とも同じように、彼らなりの論理で行動している。その点では本質的なところでの間違いがあるだけで、精神的にはごく普通の行動をしているに過ぎない。しかし、本質的な誤りはそれが出発点になっているだけに、最後まで正されることがない。そういった類いのものが表に現れたとき、何が起こるかは容易に想像できる。その原因を分析するのは、あまりにも常軌を逸した動機に基づいたものだけに、非常に難しい。しかし、それによって引き起こされる混乱の様子を目に浮かべるのは難しいことではない。こういう人々は常に正義を志しているから、自らの思い込みで悪と決めつけられるものに対して、次々に行動を起こす。その度に、根本的な間違いを指摘し、お引き取りを願うわけだが、さすがに懲りないと言われるだけあって、学習能力はほとんど無いに等しい。何度も何度も同じことを繰り返し、その度に自分の心の中から沸き上がる正義感という刃を振るい、無実の人々を傷つけたとしても、罪の意識は心の中から生まれてこない。そういう精神構造をとっているからこそ、混乱と破壊を招く行動を反復することに対して、なんの違和感も抱かないのであろう。しかし、そこで展開される論理をまともな考え方しかできない人々が理解するのはほとんど不可能である。昔はそういう人々も社会の一員であるからという扱いで、適当に無視したり、黙らせたりしながら組織運営はなされてきた。しかし、肝心の運営する立場になった人々の中に、そういう人間がのさばる状況になると、運営自体に問題が生じることになりかねないのだ。ある鉄鋼企業が立て直しを図る段階で、ある年齢層の一掃整理を行ったとあったが、まさにそれらの人々が巻き起こした問題を解決するための手法は、こういったやり方しかないのかもしれない。他人事のように振る舞い、彼らが退場するまで根気よく待つ方法もあるが、それまでに蓄積する組織内の疲労は計り知れないものとなるだろう。こういうところにこそ、改革が望まれているはずなのだが、どうもそう簡単にことが進まないのが社会というものだろうか。負の遺産とまで呼ばれ、追放された人々の中には優秀な人材の存在もあったのかもしれないが、十把一絡げで処理することしか解決方法は残っていなかったのかもしれない。それと同じ図式を自分が属している組織に映し出すことはほとんど不可能だろうから、やはり待つしかないということなのだろう。

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1月25日(水)−設計

 人生の計画とはどのようなものだろう。実は、人それぞれというだけでなく、同じ人でも年齢によって変化するものだから、これという絶対的なものがないことが多い。目標にしても、長い期間持ち続けるものもあれば、短期のものもある。また、環境の変化で否応なく変更を迫られることもある。でも、先々のことを見通せるかどうかは大切なのだろう。
 若い頃から人生の設計ができているという人をたまに見かける。周りがそう評するには色々な理由があるのだろうが、人より早いうちから様々なことを始めるのが大きな要因の一つのようだ。結婚、子育てといった事柄から、落ち着く場所を見つけることまで、それに要する時間のかけ方は人によるものだ。それを手早くこなしていけば、計画的であり、先が見通せているように見える。そのこと自体を否定するつもりはないが、計画が予定通りに進むとは限らないから、実際にはそんなに簡単なことではないように思う。突発的な出来事による計画変更はやむを得ないとしても、実は見通しの甘さが原因で起こることも少なくないように思える。たとえとして引き合いに出すのがいいのか悪いのかはっきりしないが、自分の家を所有することもその一つと考えられるのではないだろうか。どんな年齢の時に建てようとしたかにもよるが、子育ての最中に計画が組まれた場合、家族構成に見合う広さの家を購入することになることが多いだろう。快適で広々とした自宅で暮らす喜びはひとしおなのだろうが、さて、その後の展開はどうなっていくだろう。核家族化が叫ばれてから久しいが、子供たちとの同居は彼らが独立するまでということになる。そうなると、一人抜け二人抜けといった具合に人が暮らさない部屋が増えていくことにならないだろうか。そうなったとき、その家は果たして快適な空間を供給してくれるものになるかどうか、人それぞれに感覚は違うのかもしれないが、気になるところだ。もしも、不要な空間の存在が気掛かりになるとしたら、そういう広い家に住むことは快適ではなく不快に繋がるかもしれない。働き盛りの頃に、家族に快適さを味合わせようとした努力は、その時には報われるかもしれないが、後になってそんな思いを抱くようになるのなら、ちょっと考えもののように思える。賃貸住宅に住むことが嫌いな人ならば仕方のないところだが、変化が起きている期間に決定的な選択をすることは避けた方がいい場合もあるだろう。設計、計画、いかにも論理に基づいたもののように見えるが、現実にはそんな形で場当たり的な行動に過ぎないものも多いのではないだろうか。後々考えればいいこと、と思える人々にとっては関係のないことだが、計画性を重視し、それに沿った形での行動を課している人間にとっては、こういう結果は避けたいものである。様々な選択があるからこそ悩むのかもしれないが、こんなことも関係するという話もあるのだ。

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1月24日(火)−壊滅

 なんともはや、といった感じである。人の不幸に出くわした時、自分にそれが降りかかってくるとは思わなかった。このところ、調子の悪かったコンピュータがついに叫び声を上げ始めた感じで、一部のソフトウェアがちゃんと機能しなくなった。プルダウンメニューが表示されず、いかにも重症といった雰囲気になった。
 ソフトを入れ直しても改善されず、原因は他にあることは確かだ。となれば、コンピュータを動かす上で必要不可欠のもの、いわゆるOSがいかれたとしか考えられない。ここでも二つの選択があり、以前何度かOSを入れ直したこともあったが、今回はそちらを選ばなかった。理由はいくつかあるけれども、とにかくこれまでいろいろと障害が起き、問題が山積し始めていたこともあり、 この際きちんと掃除する方を選択した。これは、コンピュータの記憶装置であるハードディスクの記録を全て削除することであり、初期化と呼ばれている作業だ。当然、それまでに溜まりに溜まったデータをどこかに移す必要が生まれ、その作業だけで丸一日以上要することになってしまった。原因はいろいろとあるのだが、結局はそれまでバックアップを取っていなかったこととデータの転送に手間取ったせいだ。単なる丸写しをしてもらえばいいはずなのだが、こういう時に何故だか重複を避ける作業を行おうとするらしく、既に存在するデータの新たな保存を避けることが頻繁に起きた。さらに、悲鳴をあげているからか、その度にコンピュータの機能停止が起き、再起動が繰り返される。最後には諦めるしかなかったわけだが、メールの添付ファイルなど、重要かも知れないものについては躊躇するところもあった。そんなこんなで一日が過ぎ、さらには初期化の済んだまっさら、でもないわけだが、そんな状況のコンピュータに使っていたソフトウェアの再インストールで、さらに一日を無駄にすることになった。こんな状況に陥るとどうしたものかと思えてくるが、こういう不安定な環境にあることは常に意識していなければならず、特に重要なデータを保持する場合には定期的なバックアップ、つまり別の場所への保存を心掛ける必要がある。今回は、突然の停止があったわけでもなく、問題としてはそれほど大きくならなかったのだが、結局はこれほどの手間を費やさねばならない事態となった。一つ前に使っていたコンピュータはまさにその悲劇が起きたものであり、ある日突然ハードディスクが壊れてしまった。頻繁に起きることと言うつもりはないが、こんなことに何度か接すると徐々に注意深くなるものだ。今後はもう少し頻繁にデータ保存を心掛けるようになるだろう。

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1月23日(月)−転倒

 朝焼けが綺麗だと思っていたら、急に暗くなった。白いものが舞い始め、あっという間に一面銀世界となる。短い間に雪が積もったのは、冷え込みが厳しく道路に落ちた雪が融けずに、積もり続けたことによるのだろう。道路状況は悪化するばかりで、出かけてみたもののすぐに引き返すことにした。すぐには回復しそうに思えなかったからだ。
 驚いたのは、雪道に強いはずのスタッドレスタイヤを装着した車も、雪に滑っていたことだ。低温のためか、圧雪のためか、よくわからないが、とにかく過信が事故を招くことを実感させてくれた。同じように、歩いている人々にとっても雪で危険にさらされることがある。雪国でない地域での雪は、車を運転する際にも注意を要するが、道を歩く場合にもかなり注意しないといけない。普段ならばどうということもないところで、事故が起きる可能性があるからだ。その時も、信号待ちの車の間を縫ってスイスイと渡ることができるはずの横断歩道付近で事故が起きた。いつものように小走りに横断していた女性がすってんころりと見事に転倒したのである。運悪く、後頭部を強打したらしく、すぐには態勢を変えることさえできない状況だった。普段通りの靴で普段通りの行動をすれば、冷えた路面に積もった雪が車の通過で押し固められ、氷の帯と化した部分で転倒する危険性は大いに高まる。底のしっかりした靴を履いていれば、防げた事故なのだろうが、そんな認識はおそらく本人に無かったのだろう。外傷はないものの内出血の可能性もあり、更に内側に損傷がある場合も考えられたから、救急車の出動を要請した。本人は突然起きたことに衝撃を受け、様々な思いがよぎるらしく、支離滅裂の状態だったが、結局到着した救急車に積み込まれ、そこで手を離すことになった。その後にも転倒して尻餅をつく人を見かけたから、やはり、こういう環境では様々な危険があることを認識すべきだろう。普段通りの行動が思わぬ事故を招くことを予想できるかどうか、そんなところに違いがあるのではないかと思う。運悪く事故に巻き込まれてしまった場合、すぐに対応することが必要で、今回はたまたま居合わせた人がいたからいいものの、そうでなければ最悪の事態を招いていたかも知れないのだ。当時の女性の言動やら行動やらをみるかぎり、自分自身で冷静に判断することはおろか、連絡先を見つけることさえできないだろう。携帯電話を持っていたとしても、慣れたはずの使い方が思い出せない様子だったし、要領を得ない状況に陥っていたのは確かだからだ。転ばぬ先の杖、などと言ってはみても、結局何の対策も講じない人や心の準備をしない人が多い中では、こんな事故が起こるのは当り前なのかも知れない。ちょっとした歩幅の調節、体重移動に対する気配り、身に付けるものへの配慮など、自分自身でできる予防策は沢山ある。要は、注意するかどうか、危険を察知するかどうかにかかっているのだ。

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