パンチの独り言

(2006年1月30日〜2月5日)
(倫理、手順、泡沫、的、補償、変曲点、甘言)



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2月5日(日)−甘言

 今、これを読んでいる人に尋ねるのもおかしな話だが、他人の書いたものを読むときどんなことを考えるのだろう。何が言いたいのか、何を伝えたいのか、そんな直接的なところで留まる人から、もう少し深いところまで踏み込もうとする人もいるだろう。自分が書き手になったつもりで考えながら読むと、この辺りの気持ちがよくわかるのではないだろうか。
 そんな文章を読んでもよくわからないことがある。理解できない理由にも幾つかあって、たとえば見たことも聞いたこともない、つまり知らないことが書かれていた場合にはまったく理解できないことがある。これはそれを知ったあとでもう一度読んでみれば解決する話で、それほど重大な問題とはならないだろう。それに比べると、かなりの知識を持ってしても、そこにある書き手の意図が見えてこない場合は、ちょっと深刻なのかもしれない。特に、他の人々から反響があると、どうして自分にはという不安が過るのではないか。ある掲示板での遣り取りの際に、そんなことを経験した。自分がわからないのではなく、相手が理解不能に陥ったのだ。その時感じたことは、おそらくそういう人々の心の中には、言葉をそのまま受け容れようとする感情より、その裏側や向こう側に隠された書き手の考え、思惑といったものを探そうと焦る気持ちが存在するということである。そんなものかと思う人がいるかもしれないが、こういう動きをする人々にはある特徴がある。それは自分たちが書き手に回ったときに、そこに思惑を込めたり、遠回しの表現で相手を惑わそうとする意図を含めたりすることだ。普段の行動がそうなっている以上、相手も同様のことをするに違いないという思い込みは、そんなものが含まれていないものを相手にしたとき、理解の妨げになるだけなのである。結局、書き方が悪いという表現で返答するのだろうが、実際には読み方が悪いだけであり、下司の勘繰りをしているのである。こういう人々はおそらく肯定否定を明確にした文章でさえ、その裏を探ろうとするから、どうにも不自由を感じるに違いない。このことは書かれたものに言えるだけでなく、話している内容についても通じるところがある。思惑や謀略に精を出す人々にとって、言葉通りに話を進めていく人の意図は、想像できないものとなる。あんなに素直に主張するはずが無いとか、裏があるに違いないとか、そんなことばかり考えていて、相手の意図をくみ取ることは不可能なのだ。最近、そんなことを強く感じる場面に頻繁に出くわす。おそらく接する人間の層に変化があり、思惑だけに走ってきた人々を相手にすることが多くなったのだろう。そんな甘言に騙されるものか、という表情を顕にしながら、疑いの眼を向けている人々に邪魔をする以外のことはできそうにもないだろう。思惑の本来の意味とは違う自分に都合のいい方向へ向けることという思いを第一にしている人たちに、組織にとっていい方向は見えるはずもなく、また見たくもないものなのだろうから。

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2月4日(土)−変曲点

 白木蓮の蕾が膨らみ始めた。春の訪れを告げる花の一つである。春といえば桜の花を思い浮かべる人が多く、春の日差しを浴びて薄桃色に輝く様には暖かさを感じる。暖かいから咲くと思う人もいるだろうが、寒暖の差がなく暖かい日ばかりが続いては、こういう花は咲くことができない。季節の変化が花の営みに重要な影響を与えるからだ。
 白木蓮も、桜も、時期はずれているが、暖かくなってくると咲く花である。ぐっと冷え込んだ日を迎えるとそれがきっかけで起動し、花を咲かせる準備に入る。だから、冬の間じっと眠っているわけではないのである。自然の生き物たちはこんなふうに季節の変化を感じ取り、次への準備を整える。それに比べると、環境を変化させ、快適な暮らしを常に保とうとする人間は、どうも変化に対応するより、それについていくことさえ覚束ないようだ。季節の移り変わりを大切にしてきたこの辺りの国々の人々は、それぞれを特定の言葉で呼んで、それを楽しんできた。今でも二十四節気と呼ばれるものなどは、節目節目で引き合いに出され、季節感を深める助けに使われている。しかし、その一方で自らの感覚のずれを、古くさい表現の間違いのように受け取る人々が増え、送り手と受け手の意識の差は広がるばかりのようだ。その典型とも言えるのは、立春、立秋なのではないだろうか。春の訪れ、秋の訪れを表す言葉とあるが、その日が来るたびに必ずといっていいほど言われるのは、春なのにまだ寒い、秋というのにこの暑さ、といったことで、それぞれの人々が持つ、春や秋に対する認識との乖離を強調する。しかし、少し考えれば、この話の矛盾に気づくことができるはずだ。つまり、春の始まり、秋の始まりとは、冬の終わり、夏の終わりであり、気温の変化から言えば、ここから暖かくなる、あるいは涼しくなるという意味なのだ。向きが変わる時期ということは、立春はまさに気温が一番低い時期であり、立秋は一番高いころということになる。ただ、そこから徐々に上がり下がりはあるものの暖かくなったり、涼しくなったりするということだ。言葉の一部だけを捉えて勝手な解釈をする人々が急増しているといわれるが、これもその一例なのかもしれない。確かにその日の後も急に気温が変化し、寒の戻りとか残暑とか言われることがある。しかし、それは一時的なものであり、全体の変化はいつも通りに続いているのである。どうも、何でも思い通りになると思う人々は、環境を変化させ、快適さを産み出すことによって、一方で大切なものを失いつつあるように思える。自然に対する感覚のずれが生じるだけでなく、言葉に対するものまでも失ってしまうのでは、感性そのものが危うい状態にあるということなのではないだろうか。急いでいる足を止めて、ちょっと周りの生き物たちの営みの変化に目を向けてみるのも、いいかもしれない。何か大切なものを失う前に。

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2月3日(金)−補償

 交通事故よりも確率が低い。責任者の発言として伝えられているものだ。交通戦争と呼ばれた時代なら海を越えて反論が飛ばされたのかもしれないが、交通事故死者の数が減り続けている時代にはそうならないらしい。確率の計算などされてもいないのに、科学的根拠を盾に反論を続ける人にはごく当たり前の論法だったのだろう。
 しかし、この発言には裏の意味が隠されていたのでは、と勘ぐりたくなるような続報が飛び込んできた。交通事故で被害者が怪我をした場合、加害者がその治療費を補償しなければならない。それを補うために保険があるが、その際治療費の補償だけで済むかどうかは過失の程度によるようだ。そこで、治療費だけでなく慰謝料なるものが請求される。後遺症の問題だけでなく、業務への影響などが対象となるわけだが、この辺りの扱いが海の向こうとこちらでは大きく違うのだ。それが原因で昇進が遅れる可能性を対象としたり、精神的な痛手を対象としたり、形に表せないものまでを次々に盛り込み、治療額の数桁上の額が慰謝料として計上される。危害を加えたものは全ての責任を負うべきであるという点を疑問視するつもりはないが、これをきっかけに本人の生涯賃金を遥かに上回る金額がはじき出されることには抵抗を覚える。この辺の流れが裏の意味として存在していたのではないか、と思えたのだ。続報ではこの騒ぎの中で、輸入業者が売れなくなったものを向こうが買い取る要求を出したとされている。単に被害を被ったものの補償を求めただけのことで、これはこちらのやり方としてごく普通のものに見える。たとえ、検査体制の不備による瑕疵から生じた問題とは言え、それについては今後の関係を考慮して深く追及しないといった慣習があるからだ。それに対して、あちら側は難色を示さず、対応する姿勢を示したとあった。この話を聞いて、おそらく、なんだそれだけで良いのか、とほっと胸をなで下ろしたのではないかと思ったが、どうだろう。あちらの慣習からしたら、単純に広告や流通にかかった経費を上乗せして請求するだけでなく、その他諸々の将来に渡っての被害を積み込み、数桁上の額を関係各所に対して要求することが容易に想像できるからだ。交通事故との絡みはここに来て、なるほどと思えてきたのである。それにしても何の思慮もなく今回の出来事に関わった人の数の多いことには驚かされたし、その後の展開をみても依然として能天気な発言を繰り返す人々がいることにびっくりする。こんな状況であれほど重大と思われた決断がなされたことに、海図も羅針盤も無しに航海する船との類似を思うのは心配しすぎだろうか。そろそろ船を降りると言い出している最高責任者には、果たしてその後の航海の行く末など、気にするつもりもないのだろうか。

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2月2日(木)−的

 組織の中で自分の立場を守るための効果的な手段はあるだろうか。学校で虐めが問題となり始めたころ、その対象にならないことが最も有効な方法と言われ、始めのうちはいじめっ子の相手をしないという意味だったのが、いつの間にか虐める側に回るのが手っ取り早いことになってしまった。別の言い方をすると、標的になる前に標的を探すことが重要ということだ。
 そのままの意味で受け取ればなるほどと思うかもしれないが、実際にはこれを繰り返すことで次々に犠牲者が現れ、組織自体が大混乱に陥ることになる。学校のように一年ごとにある程度の組織変更が行われる場合には、その極みに至ることは少ないのだろうが、企業などのある程度固定化された組織ではそんな期待は持てない。犠牲者探しに躍起になり、何とか自分を守ろうとする人が出てくるのは仕方のないこととなる。こういう諦めの空気が流れていた時期もあったようだが、最近はそれほどでもないようだ。たぶん、結末が見通せるようなところまで行き着いて、やっと気づいた人が多かったのだろうが、兎に角どこかで制動がかかった。しかし、実際には自分を守るという行動は今でも一部の人々の中で続いている。彼らが行っているのは虐めの対象を見つけるのと同じ手法で、批判の対象を定めることによって、自らが批判の的にならないように努めるわけだ。逆に言えば、明らかに仕事の程度も、人間関係も、周囲の人々から見て落ちると思える人たちが、そのことから目が逸れるように働き掛けることであり、実際には批判ばかりする人と見られていることが多い。そういう意味では、攻撃は最大の防御、を実践していると言えるだろう。もう一つ、彼らの特徴は、本業に対する認識の甘さで、自分は何をすべきかという考えが、何処にも見られないことだ。タイタニックの話を当てはめるのはどうかと思うが、ある企業はまさにそんな具合に順風満帆な航海から突然の衝突となり、沈没しそうだと見られている。そんな突発事故の中で、船長始め航海員たちの多くがいなくなり、これまた青天の霹靂のように思われる人材が船長代理として担ぎ出された。企業戦略といっても、せいぜいこれまでの経営の歪みを修正するということしか言えないのだろうが、報道関係は船長の不正や復帰の問題を取り上げてばかりいる。批判することに慣れている人にとって、いなくなった者の批判は気楽なものだが、亡霊のごとくの再来を訊ねられたのでは、なんとも答えようが無いはずだ。にもかかわらず、そのことへの回答に終始する態度には、この船の行く末に対する期待が崩れていくしかないように思える。そんな質問に、再建計画で応じるくらいの覚悟が無いまま、船の舵取りに乗り出したのだとしたら、無謀極まりないからだ。企業が株式で成立していることをそのまま素直に考えれば、今でも保有している人の力は小さくはない。それを戻ってくるはずはないと断言したとしても、それは虚勢を張っていることになるだけだろう。実際に投資家の多くが待ち望んでいるのはそんなことではないはずだ。それも把握できないまま、この騒ぎの渦の中に巻き込まれているのであれば、やはりそのまま沈んでいく運命しか見えてこない。批判に耐えるものを作り出す力がなければ、当然のことなのだろうが。

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2月1日(水)−泡沫

 此処を読みに来る人々はどんな年齢層なんだろう。常連さんは別にして、一度きりの訪問者が沢山いるようである。その一方で、時々思い出したように覗く人もいて、いつものように足跡は残っていないから何処の誰ともわからない。ただ、書いている方からすると、おそらく年齢によって受け取り方がかなり違うのではないかと思える。
 最近の若者は、と書き始めれば、当然批判的なことが連なると予想できるだろう。また、特定の世代を表す言葉を使って書き始めれば、どんな話題なのだろうかと注目する人々がいる。若者の批判は、受け手によって印象が様々であり、頷きが出る場合もあれば、嫌な思いをする人もいるだろう。いずれにしても、そういった話を批判だろうが、褒め言葉だろうが、どう受け取るかは人によるのだと思う。書く側はそれなりの気持ちを持って書いているわけだが、受け手が全く違った形にしてしまうことも多い。そういう誤解を招かぬように書いた方がいい、という意見もあるだろうが、人々に考えるきっかけを与えたいという意図が書き手にあるとしたら、これという固定した考えを送り付ける必要もないだろう。特に書いてあるものの場合、さらりと一度しか読まない人もいれば、何度も噛み砕くように読んで、そこにある意図を読み取ろうとする人もいる。こういう場であれば、どちらの立場でも問題なく、それぞれに何かを得る人もいれば、逆に不快な気分になるだけで立ち去る人もいるだろう。ただ、書き手にとっては、そういう読み手の気分の変化を予想することは大いにあるけれども、その方向性、つまり好印象か悪印象かという違いにはあまり気配りをする必要はないと思う。もともと、考えるきっかけという意味ではどちらに動くにしても、その意図は伝わったわけであり、それによってどんな気分の変化が現れたとしても、意図だけ考えれば大した問題ではないからだ。何と勝手なこと、と思う人もいるだろうが、所詮はそんなものと思っておいたほうが、気楽に書けるものだと思う。一部の人々は、読み手にぎゃふんと言わせようとか、読み手を説得しようとか、そんな気持ちを持ちながら書こうとするようだが、そうしていたら長続きはしないだろう。なぜなら、ぎゃふんの声も、説得された雰囲気も、こういう場では戻ってこないことが多いからだ。かといって、ただ漫然と自分の不平不満を書き連ねているだけだとしたら、果たして受け手はどんな印象を持つだろう。今、巷ではブログが流行しており、誰でも何かを書き残すことが可能となっている。しかし、それを読みに来る人々がどれくらいいるのか、平均してしまえば大した数にはならないようだ。一部に注目されるものがあり、順位が上がればさらに注目されるような仕組みになっているから、それで一時的に訪問者が増えることもある。しかし、それとて流行り病のようなもので、あっという間に忘れ去られてしまうようだ。ブログが現れる前に、自らのホームページに思いを綴っていた人々も沢山いたが、さてそのうちどのくらいが生き残っているのだろうか。うたかた、泡沫、まさに、そんな感じだろうか。

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1月31日(火)−手順

 このところ話題になっている事件の多くに共通することがある。自分勝手で、違法で、無反省で、などと書き並べるつもりはないが、そういう当たり前のことをわざわざ書くつもりはない。かといって、誰も思いつかない共通点を見つけ出したと騒ぐつもりもない。兎に角、気になることがあり、それに注目したら、皆同じに見えてしまったというだけなのだ。
 勿体ぶって、何処までも先送りしていたら、こんな書き物はあっという間に終わってしまうから、さっさと出すことにするが、気になったのは手続きとか手順とかそんな言い方がされるもののことだ。違法行為として取り上げられたことの大部分は、その手続きにおける違法性が問題視されたもので、証券取引やら建築やら、どれにしても、手続きの不備や欠陥を巧く利用して潜り抜けようとしたものだ。もう一つ、手順として挙げられそうなのは、営業許可を得てから施設の改装を行ったもので、本来とは逆の手順をとり、許可されないはずの設備をおくこととなった話だ。手続き、手順ともに、正しいことをやっていては商売にならないとでもいうのだろう。そう考えてみると、多くの人々が大なり小なりの違法行為を行う際に、自分が正しいと思うことでその間違いに蓋をするような考えを持つのではないだろうかと思えてくる。要は、結果として正しければいいのだ、とするわけだ。法治国家として成立しないような考えが、このような形で罷り通っているとすれば、どこかがおかしいわけで、法律が間違っているのか、人々の考えが間違っているのか、どちらかにした方がよさそうである。しかし、後者を正すことはほとんど不可能に近い。法律を遵守する気持ちの無い所から、何が生まれるのか、さっぱりわからないが、現状はまさにそんな雰囲気である。手続きや手順が間違っていても、結果が正しければ、という考えが横行するようになったのはいつごろなのか、思い出すことはできないが、多くの場合、ある人々にとって正しい結果でも他の人々には間違ったものとなり、やはりそこに自己完結のようなものがある気がする。ただ、こういう事件の多くが個人の範囲で行われてきたのに対して、肉の輸入に関する問題は国家という組織が自ら行ったことに驚くばかりである。これまでの行状からして予期できたこととする向きもあろうが、それにしてもここまで箍が外れているのだとしたら、さて次に起きることはと考えるのも恐ろしくなる。手続きは完ぺきに仕上げられ、その通りに実行されれば問題の起こる可能性は無いとまで宣った人々は、どんな気持ちでいるのか。実行できるものかどうかの最終点検を怠っておいて、今更違法性を引き合いに出しても仕方のないところだろう。肝心なことは、嘘を吐いたことであり、そこにあるべき信頼性を粉々に打ち砕いたことなのだ。この先、どんな展開があるのか考える気にもならないが、この事件の顛末でわかったことは、自らの検査組織の信頼性の高さとともに、自らの政府組織の信頼性の低さなのだろう。

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1月30日(月)−倫理

 科学者の捏造事件が多発している。学者という人種はあるものに打ち込み、汚れのない世界に生きているものという印象が、いまだに通用するものかどうかはわからないが、とにかくそんな風に見られていた世界にまで、汚染が広がっていることに危惧を訴える人々がいる。そして、その世界での汚染の浄化を目指すべく対策が練られているのだそうだ。
 こんな話を聞いて首を傾げる人はあまりいないかもしれない。とにかく汚染は明らかであり、これ以上の悪化は食い止めなければならないとする提案に、反対する理由が見当たらないからだ。しかし、ここでちょっと考えたいのは、汚染悪化の防止への対策そのものについての話ではなく、実はもっと根深い問題についてである。科学技術の分野での深刻な問題を取り上げ、議論をしている番組があったのだが、その中で面白い話がでていた。これを面白いと感じるかどうかは、人によると思うので、少し考えながら読んで欲しい。科学分野での捏造事件が多発するに及んで、まずはこういった捏造が以前から何度か話題になっていたことが紹介された。つまり、これは今に始まったことではなく、歴史的に見てもよく知られていたことなのだ。しかし、それが最近話題になった原因には、科学分野での活躍に対する注目度と報道の取り上げ方があるという。これはつまり社会的な注目度が向上したことによるという意味だろう。そちらが上がってきたために、一方で抑止力として働くはずの倫理感を上回る結果となり、現状が生まれたという。確かにそうかもしれず、もしそうならば倫理観をきちんと身につけさせることが重要となる。そんな所から、考え出されたのが倫理教育なるものらしく、その時紹介されていたのは法科大学院での倫理教育の重要性だった。それ以外にも、技術者の倫理を教育する工業系の大学が急増しており、そちらの事件の多発と共に注目されるようになっている。これらと同じことを科学者たちにも施すべき、という考えが出演者の一人から出されていた。これをなるほどと思うかどうかが、人によるという話なのだ。ここでは、法律家の倫理、技術者の倫理、科学者の倫理、などなど、次々に出される専門性の高い人々の倫理なるものが話題になっているが、そこに大きな穴があるような気がしてならない。つまり、これらの多くは専門性によって生じる倫理ではなく、単に人間としての倫理、本来の倫理そのものに関わることなのではないかということだ。人格形成が問題視されている一方で、こういう議論の方向に向かってしまう人々に、危うさを感じる人はどれくらいいるのだろう。人間の倫理を教えることなく、成長させられてきた人々に一々専門性と共にその倫理を教えるのはまさに矛盾していることなのではないか。積み重ねるべく基盤のない人々に何を教えようとするのか。こんな提案が出る事自体に違和感を覚えるのである。

(since 2002/4/3)