パンチの独り言

(2006年2月6日〜2月12日)
(意識、私刑、暴走、噂、浪人、分岐、同憂)



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2月12日(日)−同憂

 ホームページの管理をしていると色々と障害が降りかかってくることがある。といっても、大部分は悪戯目的であり、他愛の無いものが多い。時には営利目的としか思えないものもあり、その多くが詐欺まがいの行為によるものだから、できるだけ素早く対応している。とはいえ、寝る時間も惜しんでそういう行為をする人の相手をするわけにもいかない。
 しばらく前に、ほぼ毎日のように掲示板に書き込んであった偽物時計の宣伝は鳴りを潜めている。理由は簡単なのだが、その程度のことで他人に迷惑をかける人々がいることには憤りを覚える。一方、独り言に対する意見を書き込む掲示板は、依然として毎日のように下品な広告を貼り付けていく人々がいる。こちらは削除するしか対応の方法が無く、相手の特定もできない状況なので、いわゆるイタチごっこにしかならない。それにしても、ああいう行為に耽る人々の気が知れない。金のためなら何でもやるということなのかもしれないが、こういう人々を特定して、何らかの措置をする方法が無いのかと、思ったりもする。ただ、そんなことに貴重な時間を費やしても意味がないことは明らかだから、せいぜい削除するくらいしかないのだろう。人によっては、訪問者の良識に任せ、放置している場合もあるのだろうが、実際に何かの問題が生じれば、管理者責任を問われる場合もあるだろう。そういう意味で、迷惑行為以外の何ものでもないわけだが、やっている本人は何を思っているのやら。振り込め詐欺やら、最近の詐欺行為の手口を見ていると、なんとも幼稚に思えてくる。それでも騙される人々がいるということは、おそらく社会全体が幼稚化している証拠なのではないだろうか。自らの判断で決めることが少ない人々にとって、他の人もやっていますよ、という情報は抗しがたいものだし、怪しげな話でも魅力的な投資話に聞こえてしまうのだろう。そんな世の中だからこそ、他人を騙してでも金を手に入れようとする人間が増えてくるのだろうし、自分さえよければそれでいいと思う人も増えたのだろう。まったくどうなっているのやら、すぐには理解できないところがあるが、結局のところ、自分が騙されるかどうか、それだけが自分の中で判断できることなのではないかと思えてくる。他の人たちが騙されないように、色々と助言をしてやるのも、一つの方法なのかもしれないが、こんなに多種多様な詐欺が横行し、その度に何度も騙される人が出てくるようでは、手の施しようが無いというものだ。自分と自分の家族だけでも、そういう憂き目に遭わないように、というのはまったく身勝手な話かもしれないが、それくらいしかやれることはないのではないだろうか。

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2月11日(土)−分岐

 時代は繰り返されるから、経験がものを言う、と話す人は多い。その一方で、思わぬ出来事から予期せぬ展開となり、何の対策も講じられないままに、流されてしまうことがあるのも事実だ。どちらもある程度に正しいことで、絶対の存在が無いことを表しているのだろうが、いざその渦に巻き込まれてしまうと、経験も何も関係なく、直感で動くしかない。
 経験だけが重視される世の中であれば、経験の長い上の層から、経験の浅い下の層に、指令が伝わるような命令系統があればいいはずだ。トップダウンという言葉が持て囃されたころ、そんな考え方が大勢を占め、とにかく上で考えたことを絶対視して動くことが当たり前となった。ところが、そのうち大変動が起こり始めると同時に、上に立つ者たちが実際には実体験としての経験を積んでいないことが目立ち始め、さてどうにも動かない組織が巷に溢れるようになった。こうなってくると組織を壊すしかないはずだが、その決断もできない人々は没落の流れを目の前に、そこからの逃避のみを考えていたのではないだろうか。結局落ちるところまで落ちてしまったとき、組織全体で考え抜くことの重要性が再認識され、下から上への提案が重用されるようになった。これがボトムアップと呼ばれる仕組みで、民主主義という心地よい響きとともに景気回復に大きな影響を与えた。しかし、それが落ち着いてくるとまた再び上に立つことを好む人々が組織を牛耳ることに精を出し、それに追従するしか能のない人とともにあの手この手の裏工作が横行するようになる。現在この国はこの流れの何処にいるのか、おそらくまさに裏工作が暴露され始めたところにあるのだろうが、さて、これからの展開はまた見通せない時期に来ているらしい。ここが分岐点になるはずで、思い切った組織改革を断行する方を選ぶか、それとも意識改革を先にするか、決断を迫られているところが沢山あると思う。苦い経験を積んだ人々がそろそろ上に立てるようになり、彼らの経験に基づく今後の戦略の練り直しが可能に見えるから、トップダウンこそ次の時代を担うものだと主張する人がいる一方で、荒れた時代に培った経験に基づいても安定した世界は築けないと主張する人々は再びボトムアップを推進しようとする。こんなせめぎ合いの中で、どちらにも属しそうな世代の人々はまさに渾沌の渦に巻き込まれてしまうかもしれない。どっちつかずの立場であり、どちらについても利点がある。さらには、どちらでもそれなりの役割を負うことができるとなれば、惑い彷徨うしかないのかもしれない。しかし、逆の見方をすれば自分が乗った船の行き先を決める舵取りをするべき人々であり、その機会を生かすも殺すも自分次第と言えなくもない。さて、どうするか。単なる徒労に終わりそうなことに首を突っ込むか、はたまた、この先十年ほどのしっかりとした足場を築くことになるか、自分次第と言われれば言われるほど、厳しい選択を迫られているという感覚が出てくるのではないだろうか。

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2月10日(金)−浪人

 大学の出願状況が掲載されていた。それらの数字を見て、一喜一憂する受験生もいるのだろうが、総数が減っているにも関わらず、いつも通り倍以上の人々が狭き門を目指すことになるようだ。これは逆に危機感を抱いている受験産業の人々には朗報なのかもしれない。皆が何の問題もなく、通り過ぎるようになってしまっては、成立しなくなるからだ。
 それにしても、どんな基準で受験する大学を決めているのだろうか。自分の経験からは、実力に見合った場所、というくらいしか思いつかないが、最近は夢を実現できるという面と、実力の面、さらには卒業後の進路にまで思いが及ぶらしい。目的意識を持続していかないと、歩み続けることができないからだろうが、なんとも不思議な組み合わせに思える。いずれにしても、入れるところを見つけないことには何も実現しないわけで、それだけを目標に頑張るのだろう。しかし、実際には夢破れ、受験産業を潤す側に回ってしまう人も多い。これはもっと競争が激烈だったころから変わらない図式であり、そこには何も変化が無いように見える。しかし、最近の若い人々の傾向を見ていると、そこでの経験に大きな差が見られるように思えてくる。昔は、浪人時代の経験を熱く語る人々がいた。受験に失敗したからというわけではないだろうが、とにかく理解度が足らなかったことが大きな要因だったらしく、それを実感する機会として浪人を捉える人が沢山いた。そして、その時代になるほどそうだったのか、と思うことで、理解する喜びを持ち、そこから先に進む意欲を強くしたという経験の持ち主が多かったように思う。当時、予備校は単に受験対策を授けるだけでなく、それぞれの教科の理解を進めるための方法を授けていたからだ。しかし、目的意識が明確になるとともに、その姿は変貌を遂げ、今では単純に何をどうすれば試験に合格できるか、そのための最低限で効率の良い方法を伝授する場になっているように思える。結局、その一年で身に付いたことは、機械的に処理する能力のみであり、本来の教育の場で培われるべき考える力は減退してしまう。結果としてどんな人間が作られるか、考えるだけで暗い気持ちになるが、それがそのまま大学を出て、職場にやって来ると思うと、恐ろしいという気持ちまで出てくる。受験生の減少は、こういうことをやって来た人々に危機感を覚えさせ、浪人だけでなく、いわゆる現役と呼ばれる人々にまで対象を広げようと躍起にさせているようだ。結果は、役立たずの生産拡大に繋がるのだろうか。もし、そうだとしたら、社会全体の没落に向かわないのだろうか。これはあまりにも単純な考え方であり、実は肝心なところが抜け落ちている。それはつまり、選ぶのは大学であり、企業であり、それぞれの組織であるのだ。そこでの選択の方法を少し変えるだけで、馬鹿げたやり方を変えさせることは簡単にできるのである。高校が悪いと大学が言い、大学が悪いと企業が言う、という考え方では、何も変わらないだろう。何が肝心かを自分が示してこそ、先の展望が見えてくるのである。

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2月9日(木)−噂

 人の噂も七十五日、何処かで聞いたことがあるのではないだろうか。よく似た言い方で、善きも悪しきも七十五日というのもあるそうだ。とにかく、噂なんてものは一時的なもので、一気に盛り上がったとしても、すぐに冷めてしまい、さっさと忘れるということなのだろう。古くからある言い回しだろうから、人間の性を巧みに表していると言える。
 噂なんか、気にしても仕方がない、などと言いつつ、ついついそういう話題に引き込まれてしまうことはよくある。そうは言っても、単純に悪事を働いた人間を扱き下ろすとか、成果を挙げた人間を褒めちぎるとか、そんなことをするつもりはない。でも、世の中にはそんなことは沢山あるようで、新聞、雑誌を始めとする報道関係では毎日、毎週、行われているようだ。こうなれば、落とされる人間はとことん地の底まで突き落とされるし、持ち上げられる人間はおそらく空の彼方に打ち上げられてしまうのだろう。その後のことは、報道する側に立つ人間にとっては気にならないから、その場限りのお祭り騒ぎといったものになるのも当たり前なのかもしれない。そんな馬鹿騒ぎの一方で、最近、変化が現れているように見えることが一つある。一方的な流れに異論を唱える人々が出てきたことだ。成果を挙げた人間が高い評価を受けている最中に、それに対する危惧を訴えたり、悪事を働いた人が批判され続けている最中に、その人物の業績を高く評価するわけだ。人間の評価は一面的に捉えては駄目で、多面的な捉え方が重要と言われるから、こんな動きもそんなに不思議なものではないのかもしれないのだが、気になるのはこれが出てきた背景についてである。つまり、一方的な流れがそこに存在し、その横暴さが目立っていたことが、大前提となることなのだ。これは単純に多面的に見たというより、一面で捉えられたものを、その反対側から見たというだけで、たった二面にしかなっていないのである。それを以前からこの社会の抱える問題として取り上げられてきた多面的評価と結びつけてしまうと、とんでもない話に繋がってしまうように思える。単純に、ある意見に対する反対意見を述べ、そこで議論をするという、いわゆるディベートと呼ばれる討論の形になっただけなのである。もしもそうなら、これでは不十分と言うべきだろう。この問題も気になるところだが、もう一つさらに大きな問題と思えるのは、悪事を働いた人間に関する討論で、その人間の評価に入れ込むあまり、悪事自体を正当化する方向に議論を向けてしまう人がいるということだ。仕方なかったとか、ああいうことをしたから良い方向が生まれたとか、結果が良ければ犯罪さえも許されると言わんばかりの主張が飛び交う。こうなってしまうと、他人の評価の仕方に問題ありと言わざるを得ず、彼らの考え方に根本的な誤りがあると思うしかない。噂になるかならないかという問題を抜きにして、それぞれの人々を自分なりに多面的に評価する癖をつけておかないと、こういうときに慌てておかしな主張をするようになってしまう。結局は普段から落ち着いた見方を身に付ける訓練をすることぐらいしか、何とかする方法は無いのだろうが。

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2月8日(水)−暴走

 朝の通勤、ただ漫然と毎日こなしているだろうか。公共交通機関を利用する人々にとっては、この時間にバスに乗り、次に電車で、といった具合に時間が流れるだけで、その時々の変化は少ないだろう。しかし、自分で動かすものに乗る場合、いかに慣れた道とは言え、日々の変化は著しく、思わぬ出来事に巻き込まれることも多いのではないだろうか。
 車を運転する側から見ると、自転車や歩行者の横暴ぶりが目に付くが、これが逆の立場になるとまったく違った見方が出てくる。そういう身勝手な感覚について論じても仕方がないので、ここではいくら何でもと思える話だけに絞ることにする。信号は何のためにあるのか、という質問を小学生にするとおそらく多くの子供は守るために、と答えるのではないだろうか。そして、彼らはその通りの行動をしているのだろう。しかし、同じ質問を高校生や大人たちにするとどうなるだろう。同じ答えが戻ってくると思うのだが、実際の行動は正反対のことをする人が多くなる。何故という質問をぶつければ、答えはすぐに返ってくるのではないだろうか。安全を確かめているのだから良いのだと。では、始めの質問に対する答えは何だったのか。おそらくどうでもいいことなのだろう。こんな調子なんだろうなと思える出来事に出くわしたことは何度もある。高校生の何重にも広がった自転車軍団の行進、狭い道からの自転車の飛び出し、歩行者だって負けてはいない。自分は急いでいるのだからと心に決めて、行動に出ているのだろうが、しかし、結果が最悪になったとして、本人に諦めが付くのだろうか。事故が起きたとき、そういった無謀な行動をとった人々が怪我をしたり、最悪死んでしまったとして、現場の状況から、彼らの無謀行為が原因とされた場合、いわゆる自己責任といった扱いになるだろう。それはそれで仕方ないことだと周囲が認めれば、それでおしまいである。しかし、多くの場合、そういう結末にすんなりと至ることは少ない。まず、強いもの、車を運転している側に責任が覆いかぶさってくる。道路交通法なるものの扱いでも、やはり免許を持つ人々の責任をまず問うことの方が多いのではないだろうか。目撃者を募り、自らの正当性を証明する必要に迫られるとしたら、どちらが被害者なのかわからなくなる。ずっと昔、知り合いが商店街を通り抜けているときに、車の影から急に飛び出した女性をはねて、死亡させてしまった。そのままならかなり厳しい処分が下されるところを、その女性の配偶者も一緒になって動いてくれたお陰で、お咎めなしとなったと聞いた。特異な例として紹介されそうな話だが、そこまでしなければという流れがあったことを物語っているように思う。実際、信号交差点で脇道から飛び出す自転車を目撃することがたびたびある。歩行者が歩道を歩く感覚で、車道を走ってくるわけだから、明らかな信号無視なのだが、本人は何処吹く風といった調子である。ああいう人々を見ていると、そういう感覚を持つ人々はいつか淘汰されるのかな、と思ったりするのだが、その暴走の被害者たちは、一体どうなるのだろうかと同時に思う。交通事故の自己責任、そういえば、何でもかんでも交通事故を喩えにして話す人々がいるのを思い出してしまった。

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2月7日(火)−私刑

 強気の正直者が頭を下げている姿が映し出されていた。信用ならんという声が飛び交い、虐めの構図はいささかも変化なしという様相に見えたが、さてどんなものだろうか。まるで集団リンチのように見える光景に、違和感を覚えた人がどのくらいいたのか、また、反省した様子を見せる人物に対する怒りだけを感じた人がどのくらいいたのか、興味深い。
 何もかも関連づけようとするのは職業上の習性のようなものかもしれないが、この成り行きを見て、もう一つの事件との違いを強く感じることになった。上に書いた人物は刑事事件となっていないから、逮捕などという流れはまだ出てきていない。しかし、もう一つの方は刑事事件の容疑者として逮捕されたから、昔の画像が何度も流されるだけで、その後の経過は誰かの目、耳、口などを通した形でしか伝わってこない。否認を続けるとか、違法行為との認識が無かったとか、そんな話ばかりが伝えられるが、果たしてどんな状況なのかさっぱりわからない。昔は取調室での拷問に近い扱いで、という話がよく引き合いに出されたが、今では誰にも人権があり、たとえ凶悪な犯罪を犯した人間でも、その最低限の権利は守られるということになっているから、拷問などというものは遠い昔のことになっているのだろう。そんな中で自らの主張を曲げず、同じ遣り取りを繰り返しているとしても、少し気の強い人ならできるのかもしれないと思えてしまう。それに対して、事件発覚後の経過が逐次報告され、あることないことを自分にも見える形で報道される方は、そんなに安定な心理状態を保つことは難しい。何しろ、一種の拷問を公然とやり続ける人々がいるのである。果たして人権というものは其処に存在しているのだろうかと思えるほどの徹底した仕事に、同調する人ばかりとなり、戦慄を覚えるのは一度でもその憂き目に遭った人だけなのだろうか。そんなことを考えると、どちらが楽なのか、などと思えてきてしまうのである。どちらにしても、悪いことをやったということで、みんながそれを糾弾しているだけのことだ。しかし、その扱い方に違いはないのだろうか。今の流れを見ていると、逮捕して隔離するよりも、野に放ったままに、集団リンチの対象とさせた方がよほど厳しい状態に追い込まれるのではないかと思える。そんな社会の情勢について、どのくらいの人々が意識しているのか、心配になる。自分たちの行為をどう解釈しているのか、其処での判断は正しいものと言えるのか、数え上げればきりがないほどだ。しかし、当事者たちの心にそんな考えが過ることはないのかもしれない。ただ、目の前にある敵に向かって罵声を浴びせ、正義の味方を演じることが何よりも重要なことに違いないからだろう。すぐに忘れてしまうさ、という声がどこかから聞こえてくる。確かに、攻撃の対象を次々に変え、他人を叩くことを続ければ、自分の立場は守れるのだろうから。

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2月6日(月)−意識

 群れたがる、最近よく耳にする言葉である。仲間で一緒にいると安心できる、ということから繋がる話だが、一方で勝ち組負け組などのように区別をすることによって仲間を作り、その中に自分がいるということで安心感を得ようとするという意味にもなる。群集心理なのかもしれないが、群集にいることだけを大事と思う心が働いているのだろう。
 こういう意識に変化が出てきたのはいつ頃からだろうか。以前なら、全体の中の平均、中庸といったものがその意識の対象だったと思うが、今や区別をすることで何処にでもそれを置くことができる。つまり、群れを形成する場所、位置を自在に変えることができるわけだ。そんなことがあるからだろうか、長い間維持されてきた中流意識が崩れ始め、最近では下流に属すると意識する人の数が増えているという。貧しくても気高い心をもって、という感覚ならば心配する必要もないだろうが、どうも下流に属するとする気持ちの中には単純な仲間意識しかなく、そこに別の感覚が生まれていないように思える。豊かと貧しいという対比の代わりに、尊いと卑しいという対比が使われる場面も出てきたが、前者が物質的な指標であるのに対して、後者は本来は人間を地位によって区別するための指標であって、そちらの意味ではあまり使われなくなっている。しかし、その代わりに精神的な指標として使われる場面が多く出てきており、心が貧しいともいうが、心が卑しいとか、卑しい心を持つとかいう表現をよく見かけるようになった。物質的な指標と精神的な指標を併せて使うことで、その人間の人となりを正確に表現しようとするものなのだろう。ここで気になるのは、下流意識を持つ人々がどんな心をもって、そのことを表現しているのか、ということだ。下流とか貧しいとか、自分のことを表現するのに、自嘲気味に主張するのならば、と思うのはこちらの考え方がずれているのかもしれないが、話を聞くかぎりそんな意識は微塵も感じられない。それよりも、そうなった原因を外に求め、自分たちの正当性を主張することばかりに心を奪われているような人が多いように見える。それとは別の集団では、そんなことはまったく感じることもなく、貧しいことにも豊かなことにも関心が無いという状況のようだ。これらは、こちらの理解の仕方や受取り方に問題があるのかもしれないが、生活が貧しく、心が卑しい人々を見ているようで、何とも言えない憤りを感じる。感覚的なものは、誤解やら無理解やらから生まれているのかもしれないが、この辺り、下流と意識する人たちがどんな気持ちを持っているのか、確かめてみたいところだ。

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