猿や熊が山から下りてきた、猪が町中を闊歩している、鹿が畑を荒らす、そんな調子で野生動物の異常さを書き並べたら、幾つくらい挙げられるだろうか。自然に生きる動物たちだから、異常が現れるのは気候のせいだとする人々もいるようだが、どうにも納得できそうにもない。何故なら、そのほとんどは人間との関わりによるものだからだ。
異常行動だけでなく、異常発生、異常増殖という言葉もよく聞かれるようになった。鯔が川にあふれ、それを追う鵜が川を覆うほどに集まる。群れをなして飛ぶ鳥たちが異常なほどの数街路樹に群がり、ねぐらを確保しようとする鳴き声と糞が周辺住民の叫びを誘う。これら以外にも数えきれないほどの異常さが自然界にあふれ、この世の終末を告げる徴と主張する人が出る始末だ。温暖化の影響とか、住み処を奪ったせいだとか、諸説紛々だが、本当の原因はつかめていない。実際には、それぞれの場合で違った理由があるのだろうし、単なる変動の現れである場合も多い。にもかかわらず、悲観的な話が好きな人々はこういう話にすぐに飛びつき、自説を捲し立てている。そういう人々には、そんな生き方がぴたりと当てはまるのだろうから、受け取り手の方がきっぱり無視してしまえばいいだけなのだが、騒動が好きな人々には格好の材料となるらしい。ある意味平和ボケと呼ばれる人々の典型がこんなところに現れているだけなのだろうが、そんなものが金や資源を無駄に捨てていると考えると、放置するのもどうかと思えてくる。では、どんな対処があるのか。おそらくそういう人種を撲滅することは不可能だろう。その代わりに、別の考えでも出して、彼らの視線を逸らすことくらいしか、できないように思っている。では、どんな考えがありうるのだろうか。野生動物の異常を論じている人々がどの程度自分たちの異常さに気づいているのか、その辺りから質問を始めたらどうだろう。毎日毎日、何処かで猟奇的な事件が起こり、理解不能な行動を繰り返す人々が紙面を賑わす。その異常さは大したことがないのだろうか。まさに動物の代表として、現在異常の数々を繰り出しているのは人間なのである。野生動物の異常発生を論じる人々に、人間の数のことを分析して欲しいと願うのはおかしいだろうか。どの位の勢いで増加しているのか、はっきりしたことはわからないが、とにかく飛んでもない数の人が地球上にいるのは確かだ。それを異常とは見なさず、身の回りで少しだけ増えた動物のことを異常と呼ぶのはどうかと思う。また、行動の異常さにしても、同じ動物の中で理解できないほどの水準にまで高まった生き物はそんなにいないだろう。こんなことを書き並べていくと、何だか恐ろしい事態が進行しているように思えてこないだろうか。まあ、平和を満喫している人々にとっては対岸の火事の方が、裏の納屋の火事よりも気になるということなのかもしれないが。
一時に比べるとずいぶん暖かく感じられるようになってきたが、そうなったらなったで心配が増える人も多いと思う。夏の暑さはさほどでなかったから、花粉の量は少ないという予報が出ていても、既にマスクを装着している人もいて、少ないとはいえやはりといった状況に見える。果たしてどの程度でおさまるのか、過ぎてみなけりゃわからないといったところか。
子供の頃に比べたら、春を待ち遠しいという思いが薄れてしまったと感じる人は多いのではないか。長くて、寒い冬、暗くて、冷たい冬、そんな形容がぴったり来るような土地で暮らしていると、春よ来い、歌いたくなるのもわかる気がする。しかし、その嬉しさと引き換えに、辛い症状がのしかかってくるとなると、おいそれと喜んでいられないというのが実感なのではないだろうか。花粉症は、同じ時期に問題になる風邪やインフルエンザと違って、発熱を伴うわけではないから、辛くて動けないという状態になることはない。それだけに、不快感だけが目立つようになり、その長期化とともに、何とかしたいという気持ちばかりが焦るようになる。生き物の本来の機能が不快な反応を呼び覚ましてしまうわけだから、それ自体を取り除くことには無理があるし、そうすることの代償は計り知れないものとなるだろう。多くの場合、対症療法と言われるものを施すしかないのだろうが、それとて薬の副作用で苦しむ人もいるし、低い効果に悩む人もいるだろう。抗ヒスタミン剤が頻繁に使われているようだが、人それぞれに反応が違い、ある症状を抑えると、別の症状に苦しむという結果になる場合もあるようだ。医者に通う人もいるが、根治は困難で、結局症状を抑制することに終わってしまうと、毎年の恒例行事が増えただけになる。それでも、不快感を催すよりはまし、ということで医者通いに明け暮れるのだろうか。まったく、生き物が生きるために必要不可欠な機能が、自分自身を苦しめることに繋がるとは、どうなっているのだろう。ただ、周囲を見渡してみると、花粉症とはまったく違う病気が、同じような免疫反応の暴走によって起きていることに気がつく。リューマチとか糖尿病の一部には、それを原因とするものがあるそうで、それらと比べたら花粉症なんて、などと言うと、怒られてしまうだろうか。免疫にも、後天性のものと、先天性のものがあるそうで、外からの刺激に対して獲得されるものという昔の知識は通用しないようだ。そんな悠長なことをしていたら、病気に罹ってしまい、死を迎えるという場合には、生まれたときから準備ができているのだそうで、そういうものが次々に見つかっている。生き物の仕組みの不思議を見るような気がするが、それにしても、そんなにまでしなければ生き延びることができない世界に住んでいるのだと思うと、何とも言えない気持ちになる。一方で、それを変えようと努力する人々もいて、抗菌、除菌、さて次は、と思えてくる。でも、そういうことで本来の力の使いどころを奪ってしまうと、これらの強力な武器は別の標的を探すことになるのかもしれない。汚い、危ない環境で病気と闘いながら生きるのが良いのか、それともきれいで、安全な環境で感染しないのに、自己免疫に苦しみながら生きるのが良いのか、どちらも極端を考えれば嫌な世界になってしまうから、やはり中庸を狙うしかないのだろうか。
正当に評価されたいと思わない人はいないだろう。自信満々の人は、自分は常に評価されておらず、不当な扱いを受けていると思っているだろうし、自信のない人でも、少しは評価されたいと願っているに違いない。この現象は別の見方をすれば、自己評価と他人による評価の違いを表していることになる。どちらが正しいのかはそれぞれなのだろうけれど。
自分を自分で評価するという感覚は以前はあまり意識されることがなかった。そんなことをしなくても、周囲がきちんと評価してくれて、何とかなっていたからなのかもしれない。しかし、いつの頃からか、自己評価を重視する風潮が出始めた。おそらく、周囲の扱いに不満を抱く人々が増えたことが原因の一つだろうし、もう一つには自分を理解することの重要性が高まったからだろう。しかし、そんな下地がないところに急に何とかしろと言われても、簡単には対応できないのが人間である。何だか自信過剰な人々だけが目立つようになり、実力の伴わない集団を目にすると、あまりの酷さに呆れるばかりという反応しか出せなくなる。メダルの数を競うはずのものが、あまりに悲惨な結果の連続となり、誰も声が出なくなっているのも、そんなことの典型かもしれない。たまたま駄目だっただけ、という声が当人から出ているのを見ると、やはり困ったものかもしれぬという思いが過る。この傾向はああいう連中に限らず、そういう自己評価世代において目立っているものらしいが、何処に問題があるのか、すぐには思い当たらないものだ。ちょっと考えてみると、そこにありそうなものとして思い浮かぶのは、特殊な人種というより、普段接している若い世代に見られる傾向のことだ。自己評価の一環として、長所短所の指摘があるというのは、そんなに珍しいことではない。評価云々が出る前から、履歴書にそんなものを書く欄はあったし、学校に通っていた時代にも書かされていたからだ。しかし、それに比べて、今の雰囲気はもう少し詳しいところまで書いているようで、できることできないことといった類いのことにまで話が及ぶ。普段からそんな話をしているようで、的確な自己評価のお手本例のような形で、自分の不得意なことや知らないことを披歴するのが肝心という思いがあるようだ。ただ、就職活動の時の面接のように、その場限りのものであれば、それはそれで聞き流せるものなのだが、同じ職場で働く人から同じようなことを何度も聞かされていると、あのねえ、と言いたくなる気持ちを抑えるのに苦労する。自分の欠点を認識することの重要性を強調されて育ったのかもしれないが、そのことの意味はどうも教えてもらえなかったし、自分で思いつくこともなかったようだ。欠点や弱点を認識することは、それを克服するための出発点となるだろうし、別の強みを前面に出すことで補うためのきっかけにもなる。要は、将来の道を決めるために重要な一歩であるわけだ。ところが、ただ認識してみせるだけの人々にはその気はまったくない。そんなものを自慢気に見せられても、どうにもならないということにしかならないわけだ。まったく、困った人々だなあ、という思いで接するわけで、結局は目をそらすことになる。その辺りにも、こんな人がいませんか。
KOBAN、とあったら、どう読むだろう。まさか江戸時代でもあるまいし、今ごろ、猫に小判の小判と読む人は少ない、と思っているのではないか。街角にある交番の入り口にこんな表示がある。何故、KOUBANとしないのかなあ、と思う人は少ないのだろうが、それにしても、気にする人間には、気になるものなのだ。
多くの人は何処かで聞いたことがあるかもしれないが、交番という存在はこの国特有のものと言われる。欧米ではそんな施設があるという話はとんと聞いたことが無く、何かあるたびに騎馬警官が出動するくらいのもので、実際に警官が警戒に当たるのは何かしら大事なことがあるときだけである。それに対して、常に目を光らせておくことの重要性からか、この国では街角に警官が立つという方式を採り入れた。子供の頃は、そこに警官がいることで怖いと思ったこともあるし、逆に安心感が生まれたこともある。しかし、最近の状況を見るととてもそんなことは言えなくなっているようだ。つまり、誰もいない交番がひっそりと存在しているだけで、目を光らせるも何も、ただ単に室内灯が光っているだけなのだから。なんとも情けない状況にあるが、人の数を減らされた現状では、様々な業務を担うことに無理があるというのだろう。どんどん、こういったものが増え続け、空っぽの交番が其処彼処に溢れるようになってきた。これじゃあいけないと言いだす自治体もあるようで、退職した人々に依頼するとか、交代勤務の仕方を変えるとか、色々な工夫をしているようだ。しかし、数が足らないのは絶対的なものらしく、根本的な解決には繋がっていない。さて、そんなことになってしまうと、せっかくの仕組みがまったく機能しないことになる。外国から興味深いやり方と持ち上げられても、こんな現状ではなんともならないわけで、これから先、どう対策を講じていくのか、見守るしかないのだろう。住民との関係を密にする、という意図もどこか空回りし始めているくらいだから、この現状を打開するのはそう簡単なことでもないだろう。交番、ひょっとして、この言葉が消えてしまうことの無いように、住民全体で考えていく必要があるのではないだろうか。他人任せを続けることは、やめておいたほうが良さそうだ。
落語の熊さん、はっつぁんの話でお馴染の、ご隠居さんの存在は大きい。常識を持ち、様々な知識を備えたうえで、的確な判断をする。長老と呼ばれる人々に期待される資質であり、そのお陰で周囲の皆は行き先を間違えたり、戸惑ったりすることが無くなる。まさに水先案内人のようなものだが、ではこういう人には一体どんな能力が必要とされるのだろう。
長く生きてくれば、それとともに身に付く知識の量も増えていく。だからこそ、年寄りは偉いのだ、と思う人はまずいないだろう。周囲を見渡しても、無駄に生きてきたとしか思えない人が沢山いるし、一方で知識は豊かでもそれを持て余しているような人も多い。つまり、自分より未熟と思える人間を捕まえては、その不足を様々な形で批判する。そんな人間とは付き合いたくもないし、自分にとって役に立つとも思えない。的確な批判に耳を傾けるのは当然のことだが、あまりに多数の批判、時にはそれしかない状態では、とても冷静に拝聴する雰囲気は出てこない。知識の豊かさだけでは不十分であることは、こういう人と付き合ってみるとよくわかるのだ。では、何が足らないのだろうか。ご隠居さんは大工や左官を相手に、自分の頭の良さを自慢するわけではなく、相手の知らない部分を補うことに終始しているように見える。そうすることで、間違いを減らしてやり、上手く事を運べるようにするわけだ。そういう気遣いが大切なことは話を聞いているだけでもわかるが、それだけではまだ足らないところがあるように思える。持ち込まれた問題によっては、簡単に解決方法が見つからず、苦労をする場合が多々あるからだ。長屋の住人にとっては難解な問題だったものを、大家さんがさらりと解いてみせる。何処に違いがあるのか、すぐには見当もつかないが、話が進んでくるに連れ、結局のところそこにある問題の本質を攫むことが肝心であるとわかるようになる。こんな話は落語の世界だけでなく、実社会にも転がっており、頻繁にそういう場面に出くわすことがある。本質を見抜くことが大切、という話も其処彼処で流れており、かなりの共通性を持ったものだということはわかるのだが、さて、本質を見抜くとはどんなことかと考えた途端に、頭を抱える人もいるのではないだろうか。表に現れたものを理解するのはさほど難しいことではないが、それとはまったく正反対だったりする、裏に隠されたものを見いだすのは容易なことではない。誰にでもできることではないのだろうが、ある程度のことは必要だから、こういう話を聞くたびにその秘訣は何かが気になる人もいるだろう。何にでも教則本が出回る時代だから、そんなことを書いた本がごまんと出ているに違いないのだが、その割には噂に振り回されて、ろくでもないものを攫まされる人々の数は減らない。結局のところ、本にあるのは秘訣ではないということだろう。何でもかんでも要領がある、方法がある、といったふうに考える人々にとっては、本質を見抜く方法にもそんなものがあるに違いないと思うのだろうが、実際にはそんなことはないようだ。そこにあるものをざっと見渡して、様々な特徴を引っ張り出し、それを組み合わせて、何かを作り上げる。そんなことを積み重ねることが本質が何かを理解するために必要な手順だが、それぞれの段階で違いが大きく、ある人に通じるものが他の人に、と行かないものなのだ。まあ、そんな方法を手っ取り早く教えろなどと言う人間には本質は永遠に見えないものなのだろうが。
歩いていても、車を運転していても、何だか違うぞ、と思うことがある。其処彼処で、道路を掘り返しているのだ。車道を掘り返して、何かを埋め込んでいるところもあれば、歩道に幾何学模様のブロックを埋め込むところもある。ちょっとした移動で、何度も見かけるということは、かなりの頻度に違いない。何処かで見たことのある風景なのだ。
どの位の年齢から、この何処かを思い出せる人が出てくるのだろうか。それ自体に思い浮かぶものはないのだが、その年齢を確実に超えている人間にとっては、いとも簡単に思い出せるものだ。梅が咲き始め、やっと春らしい気候が感じられるようになった頃、その出来事は大々的に展開されていた。この国では、年度という制度が公的部門での予算決算の節目に使われており、それが3月と4月の間にあるわけだ。年度内予算執行を原則としている官庁は、緊急事態に備えるためか、ぎりぎりまで執行を先延ばしし、最後の最後で一気になだれ込む作戦を展開していた。となれば、3月は官庁との関連が深い業界にとって、稼ぎ時となる。物品の売買は表に出にくいものだろうから、市民それぞれがその動きを見ることはほとんど無い。しかし、公共事業の一環としての道路工事などは、普段生活している圏内で行われるし、地上で実施されるものが多いから、その実態を目の当たりにするのは容易である。それほど目立つものであるだけでなく、日々の移動において渋滞に巻き込まれるなど、迷惑を被ることも多いから、当然批判の対象となるわけだ。あまりに極端な集中度に、批判も集中することとなり、その上、工事の必要の有無自体に問題があるとの指摘が出るにいたって、ついにお役人も重い腰を上げねばならないことになった。やっとのこと、なのだが、それで全てが解決したわけではないようだ。不要な工事の件数は確かに減少したのかもしれないが、最初に紹介したようなことが起きていることからして、対策が不十分であったことは確かだろう。つまり、不要工事は減っても、時期的な集中度には依然として課題が残っているということだ。3月にやることは禁止されたから2月に、というのはあまりにも安易な考え方だが、まさにそれを実行しているとしか思えないのが現状である。この状態が生まれた背景には、集中を無くすための対策として考えられた方法に合理性が無かったことがあるのだろうが、それにしても、ああいえば、こうする、とでも言い表せそうな状況である。なんとも情けない話だが、道路工事に限らず、法律で規制されたもののほとんどに、この手の話は当てはまるのである。結局のところ、当事者たちは法の網の目を掻い潜ることに精を出しているだけで、法律による規制の本来の目的は形骸化されただけなのだ。ここで、自分たちの生活を振り返ってみると、同じようなことを日々繰り返していることが見えてくるから、そこで初めて人間の性というものを意識するのかもしれない。どちらにしても、その工事、何とかならないものか。
安定した世の中になってくると、心配する種が少なくなる。この話は本当だろうか。生活には困らない時代になったはずで、それを安定と呼ぶのなら、まさに現代はその真っ只中にあるように思えるが、実際には心配ばかりしている人が沢山いる。それが高じると、精神を病んでしまい、ついには安定した生活を送れなくなるわけで、どうなっているのかと思える。
心配というのは、実際には外からやってくるものではなく、内から滲み出てくるものだという話をよく聞くから、やはり外的要因である生活の安定だけでは、人の心配を減らすことは難しいようだ。それよりも、大波小波がやって来て、それに対処していれば済む不安定な時代の方が、そちらに心が奪われるだけに、内から心配が出てくる余裕も無くなり、かえって精神的な安定は容易に手に入れられるのかもしれない。そうならば、安定を感じているときにも、何かしらの揺動を自分で作りだし、そちらに気持ちを向けるようにすれば、危うい状態に向かうことを防げるのだろう。ほとんどの人々は自分でそういう方法を身に付けていて、何とか均衡のとれる生活を築き上げているのだろうが、どうにもそれができない人々もいるらしい。その一方で、外から不安を煽ることをまるで趣味のように行う人もいて、こちらははっきり言って迷惑千万といった感じがする。その手法の一つに、悩むことの奨めというのがあるのだが、そんなことを思ったことが無いだろうか。人は悩むことによって成長する、という主義主張があるらしく、それを信じている人は他人に向かってこれを推奨する。悩めば悩むほど、色々なことが見えるようになり、先々の見通しができるから、大いに悩みなさい、といった感じなのだろうか。いかにも筋が通っているように見えるが、実はここに大きな落とし穴が開けられている。というのは、悩み始めたらそれを終わらせることが非常に重要で、もしそれに終わりが見えなかったとしたら、心が闇の中に落ち込むことになるからだ。ほとんどの人々は悩んだり、考え込んだりしたときに、そこに答えが見つからないような事態に陥ったことがあるだろう。その時、どう処すかは人それぞれに違うと思うが、多くは答えが出ないということを答えとして処理してしまうのではないだろうか。もう少し進んでみないとわからないだろうし、ひょっとしたらずっとわからないままなのかもしれないと。そんな形で心の揺れを抑えることは、心の安定のためには重要なのだが、悩みを推奨する人に限って、自分はそこまで悩んだ経験が無いから、深みにはまったときの抜け出し方を教えないようだ。これはまったく無責任な話で、考えろ、考えろと、答えの出ないことについて、無理やり考えさせておいて、自分はそんなことは脇に置くのに、言われた方へのその後の助言を忘れてしまう。このやり方の一番重要な点は、言っている本人がそのことを忘れるということだろう。だから、何度でも同じことを繰り返し、多くの犠牲者を出してしまう。本人が本当の悩みを持ったことが無いだけに、被害を受けた人々の状況を理解することもできないのだ。どうも最近こういった行動をする大人が増え、その被害者になる若い世代が急増しているように思える。誰にどんな責任があるのか、はっきりしていると思うのだが、自覚がない人々にはそれさえも見えないのだろう。