パンチの独り言

(2006年2月20日〜2月26日)
(努力、均等、文書、優しさ、期待、速断、余裕)



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2月26日(日)−余裕

 豊かさとはなんだろうか。豊かな生活、豊かな知識、豊かな実り、様々な豊かさがありそうだ。でも、何より大切なのは豊かな心ではないだろうか。と書いてみたものの、さて心の豊かさとは何か、これという何かを思い浮かべることができない。ちょっと書きながら考えていくことにしようか。
 今、恵まれた生活を送っていると自分で思っている人はどのくらいいるのか。豊かさを論じるためには、こういうことも知っておく必要があるのかもしれない。しかし、現実にはそういう思いを持つほどの余裕がなく、日々の生活に追われていると感じている人の方が多いと聞く。こんな状況ではとても豊かさを語ることはできないように思える。でも、これは逆に金銭的な豊かさに気を奪われずに、心の豊かさを論じるためにはいい傾向なのかもしれない。勝ち組負け組などと強調すればするほど、心の貧しさが目立つようになるわけだし、急に金持ちになったからといって、すぐに心に余裕が出てくるわけではないからだ。そんなことが目立つようになって改めて周囲を見渡してみると、意外な人の意外な雰囲気に気づくようになる。ただ普通に振舞っているだけだが、それが余裕に見えてくるのだ。逆に自己主張を激しくする人々には奇妙なほどの焦りが見える。そうなってくると、何が豊かさを産み出し、何がそれを損なうことになるのか、何となくわかってくるような気がする。そんな気持ちになり、自分自身を見つめなおし、そして周りの人を見てみると、なるほどと思えることが浮かび上がってくるのだ。こうなればしめたもの、余裕を持ち、気持ちを豊かにしながら、色々なものを見つめなおせばいい。どうだろう、こういうやり方は可能だろうか。また、こうしてみると、もっと色々なものが見えてこないだろうか。そして、自分自身の評価をし、他の人々のことを考え、目の前のことを観察していけば、もっともっと面白いことが見つかるかもしれない。何かに追われているような気持ちだったときや自信を失ったときには、こんなものの見方をすることはできなかっただろう。しかし、ちょっとしたきっかけで、少しの余裕が芽生えた途端に、急に視界が広がることがある。そんなことが起きるのを期待しながら、落ち込んだり、窮地に追い込まれたときに、それをやり過ごすことが実際には非常に大切なことなのではないだろうか。目の前のことばかりに気持ちを向けるのではなく、少し遠くのほうまで見通して、そこまで行き着くための時間的な余裕を心の中に作り出せたとき、豊かな心が生まれるのではないだろうか。

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2月25日(土)−速断

 過労死とか鬱による自殺とか、働き盛りの人々にかかる重圧を表す話として、一時期盛んに使われたようだが、最近はあまりにも当たり前になりすぎたのだろうか、ほとんど話題に上らなくなった。昔のように、好きでやっていることだからという扱いはなくなったとはいえ、今でも勝手気侭にすればいいとする人々がいて、その一方で起きるしわ寄せなのだが。
 どんな仕事にせよ、迅速にこなしていくことが期待されるのだろうが、山積みになるだけでちっとも片づかない人がいる一方で、次々に放り込まれる仕事を間髪入れずに片づけていく人がいる。何処に違いがあるのかすぐにはわからないが、処理能力という観点からは大きな違いがあるだろう。ほとんどの仕事は複雑で解決が困難というものではなく、右から左へ流してしまえばいいといった類いのものだから、自分の前で留めておくより、次に回したほうが効率が良くなる。滞在時間の長短が結果にどう響くかについても、大した違いがないのではないだろうか。どうしてもじっくりと考えなければならない仕事かどうかを見極めて、それ以外のものをさっさと処理してしまう方針をたてれば、どんな人でもかなりの仕事量をこなすことは可能だろう。簡単であると言ってしまうと、おそらくすぐに反論が返ってきて、その見極めが難しいのだといわれるに違いない。では、逆の言い方をすればいいのだろうか。全てを熟考しなくてもいいものと見なして、処理してしまえばいいとしたら、どうだろうか。そんなことをしたら大きな失敗をやらかす、という意見が出てくるだろうか。たぶん、そんなところが関の山だろう。実際に、大きな失敗を引き起こしているのは、多くの場合じっくり考えねばならないものよりもさっさと処理すべきもので、不注意によるミスが次々に起きた場合なのだ。単純なミスを重ね、それがまったく違った方向に向かった結果として、大きな失敗が出てくるわけで、難しい問題を誤解したために起きるものは少ないだろう。そう考えてみると、基本として滞在時間を短くするようにして、山のように押し寄せてくる仕事を片づけてしまうのが肝要に思えてくる。決定を下す段についても、長く考えたから良い結果を手に入れることができたというより、素早い決断が手遅れにならないうちに出されたときに巧くいく場合の方が多いように思える。場合によって違うことが多いだけに断言できないのだが、確率の高さから言ったらこんな言い方ができるのではないだろうか。さて、そんなことを考えながら、目の前を漂っている懸案に取り組むと、やはり決断の速さが要求されているように思える。じっくり考えてしっかりしたものを作り上げることも大切なのだろうが、その前に方針だけでも素早く決めておくことが全体の形を良いものにするために重要なことに思えるのだ。

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2月24日(金)−期待

 随分と春の訪れが遅れているようだ。急に寒くなった冬が、大雪を伴って猛威を振るい、次には何が起きるのかという不安で一杯になっていたが、結局それ以上には厳しさを増さなかったようだ。それでも、久しぶりの厳冬であることには変わりがなく、予想通り春を告げる便りは延着することになってしまった。
 梅の花も遅れてしまい、早咲きの桜も各地からかなり遅れて開花の便りが届いた。最低気温を記録した時期からある一定期間の後に開花するという話だったように思うが、その時期が長く続くとどうしても反応が遅れてしまうのだろうか。自然の営みについて、まだまだわからないことが沢山あることに改めて気づかされた感じがする。そういえば、この国で人気の料理の材料となる魚の生態についての便りが届いていた。実際には養殖のことしか知らない人も多く、産卵から成魚までの完全養殖が行われていると思っていたようだが、外海の沿岸で幼魚を捕って、それを育てるだけの養殖が実施されている。最近は隣の国の養殖に頼るところが大きく、外国産の種類との違いを問題にするだけでなく、養殖の方法についても不安を抱く人もいるようだ。その上、そちらの養魚の採集地がかなり厳しい状態になっていることも伝えられ、今後の展開として完全養殖を目指す必要性が強調されていた。人工産卵や人工授精も可能となり、その上生まれたばかりの幼魚の餌の問題も解決したと伝えられていたが、手間のかけ方からして実際の産卵場所の特定は大きな課題として意識されていたらしい。徐々にその地域に迫っていた調査がついにその特定に成功したと伝えていたが、以前考えられていたところとは少し違う地域だったようだ。いずれにしても、これで生態が明らかとなったのだから、次への期待がと話が進んでいきそうに思えるけれど、現実はそんなに単純ではない。理解することとそれを実行に移すことでは、大きな違いがある場合があり、この場合もどうなるのか未知数であるとしか言い様がないからだ。研究としての評価と、産業というかそういった応用としての評価が直接結びつかないことが多いのは、こんな事情によるところが大きいのだろうが。とはいえ、やはり期待は大きいと言えるだろう。海外ではこれほどの人気のない魚だし、料理法を見ても特殊な扱いがあるから、国内での期待だけが大きいのかもしれないが、それでもこれほどの大きな扱いがされるという意味はあるのだろう。

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2月23日(木)−優しさ

 画面に悔しがる姿が何度も映っていた。予想外の苦戦が続く4年に一度のお祭りの中の一幕だが、ああいうものを見て思うことは人それぞれに違うのだろう。大会前の大口を叩く姿と重ね合わせる人もいれば、ただ可哀相と同情する人もいる。また頑張ればいいさと慰めようとする人もいて、同世代の人々は優しさで包もうという気持ちが動くのだろうか。
 人と人との関係を築くことが難しいとよく言われるようになってから、随分他人に優しい人が増えてきたように感じる。こんなに色々と厳しい世の中なんだから、そういう気持ちを持って人と接してあげないと、その人が駄目になるからといった感じの理由が聞こえてくるが、どこかずれているような気がしてならない。確かに、衝撃に弱い人が増えているのは事実のようで、身近でも、ニュースの中でも、びっくりするような動機でとんでもない事件を起こす人が増えている。きっかけは外からの何かしらの圧力や刺激であり、その源となった人物にとっては何気ない行動でしかなかったものだ。にもかかわらず、受け止めた側には何か大きな変化が生じ、それがむくむくと増殖する過程でどこか肝心なものが外れてしまったように見える。厳しさが増え続けている世の中ならば理解できないわけでもないのだが、それほどの変化があったようには見えない。にもかかわらず、出てくる反応には極端なものが増えているように伝えられる。この差は何処から来るものなのだろうか。鶏が先か卵が先か、という問題になってしまうのだが、人が弱くなったのが問題なのか、弱い人間の扱い方に問題があるのか、さてどちらなのだろう。同じ世代の人々の気持ちから察するに、弱さを受け入れてくれて、それを温かく見守ってくれることを望んでいるように思えるが、どの程度のことなのだろうか。試練を乗り越えて、人間は大きくなるものだと聞かされてきた世代には、始まりから違った方に走り出すように見えて、躊躇するばかりなのだが、本人たちには今この時の方が大切に思えるらしい。どうも、目先のことばかりに気持ちが向いてしまう人が増えているように思えるのも、同じところに原因があるのかもしれない。将来を考える余裕もないから、今を大切に、というのは、乱れに乱れた世の中ではあり得ることだが、こんなに安定した中でそういう気持ちが出てくるのは、何故だろう。何故、何故と続くばかりで、答えは見つかりそうにもないが、一方で時間はどんどん流れて行く。目の前にいる若者たちがどちらに向かうかは、自分には関係のないことと思えない人間にとって、かなりの難問が立ちはだかっている感じだ。

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2月22日(水)−文書

 どんな仕事をしているのかによるのだろうが、人との連絡方法には色々とある。以前ならば、急ぐ時は電話と決まっていたが、最近はファックスだったり、電子メールだったり、人それぞれのようだ。いまだに取調中の人は、一日千通を超えるメールを処理すると自慢するでも無く語っていたが、どんな内容にせよ全てを読んでいたとは俄に信じ難い。一通10秒で、二時間以上かかる。
 電話は会話だけに記録が残らず、後々問題になることが多いようだが、それに比べるとファックスは記録として役に立つ。はじめから捏造を考えれば、様々な方法が思い当たるが、それはそれとして、どこかに消え去る会話とは大きな違いがある。電子メールもそれとよく似た扱いがされるようで、受信したものをそのまま保存しておくことができるから、何度でも確認可能となるし、一方で消去したいと思えば簡単にできる。手軽さや料金の問題から、最近ではファックスを利用する人はかなり少なくなったようだが、それでも電子化されたものはどこかで蒸発してしまうこともあって、完璧な信頼は得られていないようだ。問題は其処にあるだけでなく、もう一つ大きなものがあるように思う。作為的かどうかは別にして、無いものを作り出すことが可能であることだ。送り手に成り済ますこともウィルスメールの時間から明らかになっているし、そうでなくても内容の改竄は文書作成のできる人なら誰にでもできることだ。記録としてどの程度信用できるかを測る指標として、裁判における証拠採用の可不可があるが、例えばこの国では会話の録音は証拠として認められていない。同様に、電子メールも現在の状況では特殊な手続きをした手紙とは同じように扱われないだろう。そんな状況にあるにもかかわらず、人々の電子メールに対する依存度は高まるばかりで、連絡手段としての地位もそれに従って上がっている。そうなれば、何かある度に事実の証明として使われることが多くなるわけで、巷で話題になっている話もそんな所からでてきたものだと思われる。しかし、印刷した紙切れがどれほどの信頼を得られるものか定かではないし、通信記録が残っていない状況でどこまで確実かを論じるのは難しい。恐らく、どうしても証拠として使いたければ、メールの通信を仲介するサーバと呼ばれる機械の中の記録を調べるしかないのだが、これまた受信時に消去する仕組みを使う人が多いから、役に立ちそうにもない。結局、関係者の証言を引き出すきっかけにしかならないものなのだろうが、さてそれがこれほどの話題を集めていいものだろうか。便利な道具を使うことには抵抗を覚えない人々でも、こういう事件が起こるとさてどうしたものか思い付くことはほとんどない。今後、こういった事例が急増するのに対して、どんな対処法が考えられるか利用者も少しは考えた方がいいのではないだろうか。誰かに見張られているかもしれない、などと思ったこともない人々には無理難題なのだろうが。

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2月21日(火)−均等

 誰だって、自分の努力が無駄になってしまうのは嫌だろう。水の泡になってしまうことだけでなく、何らかの原因で上手く事が運ばなくても、其処での頑張りが何らかの形で評価されることを望むのではないか。順位を決める競技の場合、結果のみが評価されるわけで、其処までの過程を評価することは少ない。だからこそ、自分で自分を褒めることが必要なのかもしれない。
 成果を求められる場合、何の成果も挙げられなければ、それでおしまいということになる。はじめはそれでも何とか成果を挙げていたけれど、段々と難しくなり、結局終わりを迎えることになるという場合も多いだろう。追い求めたものを手に入れられなかった時、どういう形で自分自身を納得させるかが問題となる。成果主義が絶対的な存在である組織ではどう頑張っても何の変化も期待できないが、そんな所はそれほど多いわけでもないだろう。ほとんどの組織で、成績が上がることは歓迎されるが、たまたまの不成績で責任を取らされることはそれほど多くない。しかし、周囲との比較から本人にとってはまるで針の筵のような環境が築かれてしまうことになる。そんな時、頑張りや努力が評価されたらどんなに気が楽になるだろうか、と思うのも仕方のないことかもしれない。確かに、過程を大切にする考え方があれば、そういったものを評価する習慣が出てくるのだろうが、しかし現実を見ると、違った方向に向いてしまった結果の方が圧倒的に多いように感じられる。つまり、頑張りや努力のみを主張するばかりで、的外れな方針決定や明らかに無駄な仕事を繰り返す人が増えてしまうということが頻繁に見られるのだ。正しい方向へ向かっても結果が伴わなかったという所から生まれた考え方の根本の所が歪められてしまい、とんでもない方向に向かっているように思える。これは職場などに限らず、学校や生活の場でも起きている現象のようで、社会全体にそちらに向かっているような気配がする。そんな中で、誰にでも機会を与えるべきという考え方は相変わらず根強いもので、教育の機会に対してもこれを絶対的なものと扱う人が沢山いる。怖いのは彼らの主張に見られる傾向で、生き延びる為の術をきちんと与えるのが公教育であるとか、最も遅れた人間に合わせて進めるのが正しい教育の姿であるというように、何とも理想論のように着飾った机上の空論を声高に述べるのである。騙されない為の知識を学校で教わると思う人がいることに驚くばかりでなく、誰にでも理解させることのできる教育法の存在を信じて疑わない人々には気味悪ささえ感じてしまう。こんな中で育てられた努力評価主義が、現代社会に蔓延り、どうにもならない事態を産んでいることなど、彼らには見えないのだろう。もう少し落ち着いた議論ができるような基盤ができないと難しいこととは思うが、思い込みを少しの間忘れ去って話し合ったらいいのではないかと思う。

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2月20日(月)−努力

 昔読んだ本の中に、海の向こうの国の人々の生活を詳しく書いたものがあった。企業の経営に携わるために海を渡った人が、こんなに近い国なのに、何が違うのだろうかと、素朴な疑問を抱きつつ生活していく過程で、様々なことを学び、認識していったことを記したものだ。本人が持っていた先入観も含め、興味深いものが多々あったように記憶している。
 その中で、最も印象的だったのは、部下の仕事ぶりに関する記述で、徹夜をしてでも報告書を仕上げてくる部分は海の向こうとこっちでまったく変わりはないが、出来栄えに対する気持ちの持ち方に大きな違いがあるとのことだった。上司として言えることは、出来栄えの良し悪しだけであり、それに費やした時間の長短ではないというのが、本人の主張だったのだが、こちらに比べてあちらでは努力の評価が重視されるようで、報告書を提出した本人がそういう期待をもって仕事にあたっていたことを驚きを交えながら書いていた。こちらに住む人間として、同じような感覚を持つことに安心したと同時に、あちらでは何故そんな考え方があるのかと首を傾げた。ところが、その頃にはこちらでもそんな雰囲気は充満し始めていたようで、周囲を見渡すと努力の評価を要求する声が大きくなっていることに気づく。どれだけの時間をかけて報告書を仕上げたとか、何度も通い詰めて新規の客を獲得したとか、そんな話が流れてくるのだ。そういえば、先日の新聞に真面目な大学生が増加しているという話が掲載されていた。そこには、出席の評価を高めて欲しいと要望する学生が増加し、昔は閑散としていた教室が溢れんばかりの学生でごった返すという不思議な現象が起きているそうだ。何処がどう変化したのか、理解できないことばかりだが、彼らの言い分はどれだけ理解したかよりも、どれだけ努力したのかを評価して欲しいということらしい。しかし、何かを学ぶ過程で、理解もできずにそこに座っているだけの人間を評価するなど、あまりにばからしくて呆れてしまうと思わないのだろうか。一部の教員はまさにそういった指摘をしているのだが、学生には理解できない話らしい。努力が空回りであっても、その痕跡ぐらい残しておきたいと思うのだろうが、それが誇りというより恥に繋がることを、考えたことがないのだろうか。まったく、不思議な世の中になったものだ。と思っていたところに、例の本のことが思い浮かんだわけである。そう思って考えると、成果主義が台頭してきたころに、まさにこういった考えが目立つようになってきた。まったく正反対に思える考え方がほぼ同時に勢力を伸ばしていくことになったわけで、そこには何らかの関係があるのではと思いたくもなる。そんなに深く考えたわけでもないが、成果を挙げることに疲れてしまった人々、成果を挙げられない自分に気づいてしまった人々、そんな人々にとっても拠り所は必要なわけで、そんなところから努力賞に関わる感覚が生まれてきたのではないだろうか。あることに対する行き過ぎが、反動を産みだすということなのかもしれない。

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